第二十九話:絆の延長線

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 甘美な快楽にも似たその感覚には覚えがあった。
 腹の底からわき上がってくる怒りとともに脳から分泌される、罪悪感を伴った快楽への甘い渇望。手足から急速に血の気が引いて、指先やつま先の感覚がじわじわと失せていく。自分ではない何者かが自分の脳と身体を支配して、抑えていたはずの衝動を外に押しやろうとほくそ笑んでいる。
 いつか盗賊相手に剣を振り上げたときのように。大僧正様を死に至らしめたときのように。
 そう、中空で放り出された私の身体は大地にたたきつけられるべく、真っ逆さまに超高速で落下していく。走馬燈のように現れては消えていくこれまでの過去の記憶も、私の意識をはっきりと呼び戻すことはできなかった。
 呼吸ができなくて、苦しくて苦しくて、私の頭の中は真っ白になる。意識を失うその直前にレオンハルトが見えたような気がしたけれども、直後、何者かが私の身体すべてを支配することに成功する。

 ああ、私が消えていく。
 私が私でなくなってしまう……!

 そう思った矢先に、脳の中で誰かとすれ違う気配がする。
「あとは私にまかせろ」
 そう言って、「誰か」は私の意識を外に押しやった。意識が完全に途切れたのではなく、主観から客観にまわったような、そんな不思議な感覚。そうして私の身体は「私」の意志ではない「誰か」の完全な支配下に置かれて奇跡を起こしていた。
 私の身体は強烈な白い光に包まれ、その光は天を貫くかのようにまっすぐ上空に昇ってゆく。その光の柱に吸い上げられるようにして私の身体は中に舞い上がり、紫色のもやをなぎ払う。突如、激しい轟音とともに衝撃波が空気中の何もかもを揺るがしていた。
「私」は気を失ったマハおばさんを抱きかかえ、両足に力を込めて空を蹴った。加速が突いたように私の身体は一気に空を駆けめぐり、身体にまとわりつくような白い光は見たこともない複雑な神聖語を形作って身体を保護するように明滅していた。そうして「私」は〈風の一族〉が見守る星見の塔まで一気に転移をし、駆け寄ってきた若者にマハおばさんを預けた。
「この者を頼むぞ」
 傲慢な口調で若者にそう告げると、再び私は目の前で咆吼する風の化け物に向かって転移をした。
 転移? そんな高度な術法を即座に、しかも連続で易々と展開するなんて。
 恐ろしげな口を開き、目の前に現れた邪魔者を威嚇するかのように、白く輝く風の化け物は金切り声を挙げた。この世の者とは思えないほどの奇怪で巨大なモンスターの姿に臆することなく、「私」は叫んだ。
「ふん。我らが下僕の分際で、勝手気ままに暴れおって。いい面構えだ! たたきつぶしてくれるわ!」
 ……我らが下僕ですって? この化け物が?
 それから「私」は片手を差しだし、その指先に力を込めた。暗黒と呼ぶにはあまりにも暗くよどんだ稲光が炸裂し、すさまじい衝撃波とともに風の化身を包み込む。驚くべき威力、その雷撃は風の化け物の巨体を押さえつけ、苦悶の叫びを挙げさせたのだ。
「ははははは! どうだ! 我が暗黒の術法を食らった感想は! たかが下僕が身の程を知るがいい!」
 なんという恐ろしい台詞だろう。いつだったか見た夢でガートルードと対峙したときや、ロクランで〈記憶開封の儀〉にかけられたときと同じように、乱暴な口調で「私」は叫び、高らかに笑う。
 明滅し、輪郭が定かでなくなっていく鳥の化け物の中で、苦悶に叫び頭を抱えてうずくまるナギサの悲鳴が聞こえた。風の化身に同調して引きずられることによって、化け物本体への攻撃は即座にナギサの身体に影響を与えているに違いなかった。だが「私」はそんなことにはおかまいなく、風の化身を葬り去ろうとさらに術に力を込める。
「待ってくれ! お嬢さん! ナギサが! ナギサの身体がもたぬ!」
 背後に〈風の一族〉の長老が姿を現し、そう叫んだ。私は彼を憤怒の形相で振り返ると、
「ジャマだ。下がっておれ。巻き添えを食いたくないのならな」
「待ってくれ! 頼む! 風の化身と同化したナギサがひきずられておる! 化け物が滅べば、ナギサもただではすまぬ!」
「うるさい!! 邪魔だてするな! これがすんだら次はおいぼれ、貴様を血祭りにあげてやるからそこでおとなしくしておれ!!」
 なんと恐ろしい台詞を揚々とはき出すのだろうか。
 いやだ。こんなの私じゃない。
 私の中にいるのはいったい誰?
 私の中から出ていって!
 私を返して!
 その瞬間。今度は違う誰かが私の中をすり抜け、先ほどまで私の身体すべてを支配していた何者かを連れ去っていくのがはっきりと分かった。
 一瞬だけ私が私の身体に戻る。知らぬ間に私は叫んでいた。
「早く! 私がまだ正気を保っていられる間に! 戻って集落と居住区の防御壁を再構築して!!」
 勝機はなかった。そうすればすべてが解決できるとも思わなかった。だけど、私ははっきりとした確信を持って長老にそう告げていた。
 その瞬間、また私の意識はすり抜けていったはずの「誰か」に取って代わられる。先ほどまでの乱暴で好戦的なだけではない、激しさの中に恐るべき力を秘めながらも深い包容力で人を包み込むような、母のような存在が私の中にいた。
 彼女に取って代わられた私はまたなすすべもなく身体を支配され、迷うことなく風の化け物の中心に向かって身を投げる。頭の中には、見たこともない長い長い数式が駆けめぐり、バラバラだったそれは次第にひとつとなって光の奔流となる。細かく分かれていた数列は徐々にあるひとつの公式に向かって答えをはじき出しているようだった。まるでこれが正解であると、これですべてが解決するのだといわんばかりにまっすぐに伸びて、螺旋のように回転する数字の配列を形作っていこうとする。
 私は声にならない恐怖の叫び声をあげながらその中心、光る核の中にうずくまるナギサの姿を見つめていた。
 それからのことは覚えていない。覚えていないというのは事実ではなかったが、おぼろげに、遠くの舞台で女優が演じているのをぼんやりと眺めているような、そんな雰囲気で。
 そう、私がどこにもいない。
 私であって私じゃない。
 私のこの身体は、私のこの心は私のものであるはずなのに、違う誰かが勝手に私の中に入れ替わり立ち替わりやってきて、私を押しやってしまう。

 ──私の〈アヴァターラ〉のいくつかが混乱に乗じて暴走したことを詫びたい。我らが不始末、許せ──

 私は私じゃないの? 私は本当は誰なの? 本当は「私」という人間はこの世に存在しなくて、私の身体はその「誰か」のものなの?
 分からない。誰か助けて。私はいったい何者なの!?
 そしてまた、私の目の前で激しく光が明滅し、爆発する……!!




「おい! 大丈夫か!」
 腕を捕まれ、身体を揺さぶられ、サーシェスはまどろみの淵から引き戻された。
 目の前には、騎士団のような制服に身を包んだ剣士が心配そうに覗き込んでいる。
「……私……!?」
 サーシェスは呆けたように騎士の顔を見つめ、それから身体を起こそうと力を込める。だが、打ち身でもしたようなだるさが全身をつかんで離さない。うまく身体が動かないのだ。
 見れば、周りの地面は自分を中心にえぐれたようになっており、赤茶けた土の色が剥き出しになっている。辺りを見渡せば、円状に広がったえぐれの先で、いまだブスブスと白煙をあげてきな臭い香りを放つ瓦礫の山。街道の両脇にあった建物だったであろうに、無惨に崩れて跡形もないのだ。
「よかった、気がついたか。大丈夫か、お嬢さん。さ、立てるかい?」
 騎士はサーシェスの背に身体を回し、彼女が立ち上がろうとするのを手伝ってやる。身体を起こせば、崩れた木片のかけらが身体からバラバラと落ちてくる。足下を見れば、馬車のドアやら座席やらの面影を残した木の板が、縦に裂けたような姿で転がっていた。
「なに? いったい何が……?」
 サーシェスは抱きかかえられた騎士の腕の中でそうつぶやいた。
 確か〈風の一族〉の一件のあと集落の人々の計らいで、光都の方面へ向かう乗り合い馬車を手配してもらい、それに乗り込んだはず。ようやくロクラン国境を越えた最初の集落にまでやってきたはずだったのに。馬車の中でまどろんでいたのでさっぱり状況が飲み込めないのだが、爆発にでも巻き込まれたようなこの有様はいったい何が起こったあとなのか。
「もう大丈夫だ。安心しなさい。君の乗っていた馬車は原因不明の爆発に巻き込まれて木っ端みじんだ」
「爆発……?」
 そうつぶやいた後、サーシェスは数メートル先で白い布をかぶせられた担架がいくつか横たえられているのを見つけた。その布の間から黒こげて血にまみれた腕が出ているのを見てサーシェスはうめき、顔をそらした。吐き気がこみあげてくるのをかろうじて我慢し、思い切りよく唾を飲み込む。
「残念だが君と同じ馬車に乗っていた御者は即死だったようだ。だがよかった。君は運がよかった」
「即……死……!」
 サーシェスはあえいだ。固く目を閉じたその瞬間、頭の中で光が炸裂する。
 直前まで眠っていたあのとき、なにか夢を見ていたはずだ。誰かが自分の中に入ってくる夢、自分がまた自分でなくなってしまう感覚。そして炸裂する光。
 ああ、そうだ。私の身体はまるで寝返りを打つかのように大きく震え、その瞬間、身体から無数の光の矢が飛び出していく感覚。その不吉な感覚には身に覚えがあった。
 その光はやがて馬車を包み、激しく外に膨れあがっていった。その結果が──これなのか──!?
「……私じゃない……!」
 サーシェスは騎士の腕の中で震える声でそうつぶやいた。
「なにを言ってる、君は」
 騎士が混乱している少女を抱きかかえながらその頭をなでてやる。だがサーシェスは騎士の言葉は聞かず、数メートル先で話し込んでいる騎士たちの言葉を聞き逃すまいと耳を澄ませた。
 どうやらこの集落の周りで生き延びた者なのだろう。爆風でぼろぼろになった服の上に毛布を掛けられた男が、二、三人の騎士に向かって何かを話している。目撃者のようだった。
 彼らが一斉にこちらを向いた。
 ──私は見たんです。馬車がワーッと光って、それからすぐに爆発したんです。
 あの少女です。ええ、確かに見ました。あの娘の身体が宙に浮いて、光に包まれながら周囲を巻き込んでいくのを──。
 騎士たちは互いの顔を見合わせながら首をひねっていたが、やがてサーシェスのほうを向き直って足を踏み出した。乾いた土の音が固いブーツの裏に踏みつけられ、ゆっくりとこちらに向かってくる。
 サーシェスは自分を抱きかかえていた騎士から身体を引きはがし、こちらにやってくる騎士たちを見つめた。
 身体がすくむ。無言で自分を叱責しているような、彼らの鋭い視線に身体が震えた。
「違う……私じゃない……」
 血液の流れがこれまでにないほど早く脈打ち、逆流していく。その流れに合わせて、耳の奥でいやな金属音が鳴り始めていた。鈍重な金属音が次第に大きくなってくると、それは今まで感じたことのない不快な耳鳴りと化して全身をさいなむ。
「お嬢さん、ちょっと話を聞かせてくれないかな」
「……いやよ、私じゃない……」
「手間は取らせないよ。ちょっとだけ聞きたいことがあるんでこちらへ……」
 騎士はサーシェスに手を伸ばし、彼女の身体に触れようとする。
「私じゃない! 私じゃないわ!!」
 そう叫んだ瞬間だった。
 目の前で手を差し出していた騎士の身体が大きく膨れあがる。はじける間もなくその身体は蒸発、のみならず、サーシェスを中心とした辺りから光が炸裂し、周囲の土砂を巻き込んで爆発した。
 攻撃術法の炸裂であることは、術法が空気を揺るがすその気配で察知できた。だが、サーシェスは悲鳴をあげ、溶けていく周囲の光景に目を覆った。自分の身体から強力な術法があふれ出しているのだということだけは、絶対に認めたくなかった。
「いや、いやだ! いやぁ!!!」
 叫べば叫ぶほど術法は激しさを増し、さらに遠くの建物までをも巻き込んでいくようだった。自分の中で大きく膨れあがり、抑えきれなくなる感覚にめまいがする。暴れ狂う攻撃術法は土砂を巻き上げ、街道沿いの建物を続々となぎ倒していく。
 サーシェスはその場にうずくまり、声の続く限りに許しを請うた。自分の意志に反して荒れ狂う術法を止められないことに、身をよじるような恐怖を感じながら。
 光が徐々に収束し始めていくと、うずくまるサーシェスを中心に土埃が徐々に晴れていく。そのサーシェスを見守るかのように、上空にひとりの男を乗せた〈ドラゴンフライ〉が旋回していた。燃え上がるような赤と漆黒の黒に縁取られた、裾の長い戦闘服が風を切って翻る。
 惨劇の上空で男は、数キロ先まで倒壊する建物の群を眺めながら満足そうに鼻を鳴らした。目撃者すべてをなぎ倒し、いまこの惨状を生きて見つめる者がいないことにも満足しているようだった。
「首尾は上々。さて、あのお嬢さんにはもう少し踊ってもらわないと」
 そう言って、〈ドラゴンフライ〉に乗った男は操縦桿をぐいと引き上げた。風に乗った機体は大きく円を描きながら舞い上がる。
「自分の意志でどうにもできない力の恐怖ってモンを、いいカンジに味わってもらえたかねえ。今回はちょっとだけ力を貸してあげたが、ちとありゃあやりすぎだったか」
 男は小さく肩をすくめ、悪びれもせずに鼻を鳴らした。
「〈風の封印〉に触れた今、彼女の中では激しい力が噴出しようとしているはず。このまま街を離れてもらって、あのカタブツの文書館長と合流してもらわないと……ね」
 仲間とおぼしき〈ドラゴンフライ〉が数台近寄ってきたので、男はそれを振り返り、目で合図をする。男の部下なのであろう、恭しげに敬礼を返す赤と黒の軍服を着た男たちに、長衣の男は手招きのように腕を動かして指示を与えているようだった。
「さ〜て。後はあのお嬢さんが壊れちゃわない程度に追い立てるとしますか。火焔帝は彼女を『社会的に抹殺せよ』とおおせだからな」
 男の言葉に部下たちは無言で頷き、〈ドラゴンフライ〉を駆って身を翻していった。






 黄金の柔らかな巻き毛をかきあげ、大きくため息をついた王女の顔は確かに憔悴し切っていたが、アスターシャは自分の身体にむち打ち、最後まで話を続けることをやめなかった。途中、彼女の身体を気遣ったベゼルが何度か彼女に水の入ったコップを差しだしたり、辛そうな表情をする王女にもう休むよう勧めたのだったが、王女はそれを断り、レイザークとセテの顔を交互に見ながらこれまで起こったできごとの一部始終を話し続けた。
 二百年祭で交代するはずだった水の巫女がアートハルクの新しい皇帝その人であったこと、その式典の混乱に乗じて、再建を果たしたアートハルク軍はすでにロクラン国内に進入しており、即座に武装解除されて高官たちを人質にとられて占領されたこと。現在ロクランを占領している帝国軍の指揮官は、少女の姿をしたネフレテリという名の巫女であること。そしてそんな中、彼女がかつての支配者たちによる失われた英知の詰まった研究室にあった門《ゲート》を使って、いかなる大脱出を試みたのか──。
 王女はそこまで話すと身体をベッドに横たえ、大きなため息をついた。ベゼルが寄ってきて彼女の身体に毛布をかけ直してやる。
 レイザークとセテは王女を気遣って静かに扉を開け、いったん廊下に出る。熊のような図体の聖騎士は、その太い腕を組みながらため息混じりにうめいた。大柄な聖騎士の表情はいつになく険しく見えた。
「……アートハルク帝国皇帝、火焔帝ガートルード……か……」
 レイザークはうめくようにそうつぶやき、憤怒のため息をはき出した。横で見ていたセテはレイザークを振り返るのだが、レイザークはセテがぼんやりしているのが気に入らなかったらしく鼻を鳴らした。
「まさかと思うが、お前」
「いちいちうるさいな。俺だってそれくらい知ってる」
 セテはレイザークを睨みつけてそう返した。
「聖賢五大守護神《ファイブ・ガーディアンズ》のひとりで水の宮廷魔導師のガートルード。あの伝説の聖騎士の……レオンハルトの実の妹……だろ」
「おお、お利口さんなこったな。そのとおりだ」
 レイザークはからかうようにそう言ったが、険しい表情を崩すことはなかった。
「ガートルードなんて名の女ならいくらでもいるがな。ふん。わざわざ『ひ弱な水の魔導師ではない、アートハルク帝国皇帝のガートルードだ』なんて自己紹介するなんざ、ずいぶん芝居がかったことしがやる。よほど中央に自分の名を知らしめたいんだろうな」
 レイザークが鼻を鳴らしてそう言ったので、セテも隣で頷く。
 レオンハルトの実の妹で、兄と同様に銀嶺王ダフニスに仕えていた美貌の魔導師。傷ついた人々の身体と心を癒す水の術法を得意としていたのは有名な話だったが、アートハルク戦争末期、王城消失の際にダフニスとレオンハルトと一緒に死亡、少なくとも行方不明と中央では報告されていたはずだ。アートハルク戦争から五年、その間にいったい何があったのか。
「ロクランを占拠しておいて、他の要石を抑えていたヘルディヴァとアジェンタスを攻撃か。ふん、見事に踊らされたな。本気で中央を相手に喧嘩を売る気でいやがる。しかもその指揮を執っているってのがレオンハルトの妹だと? クーデター騒ぎのあの混乱の中で生きてたってのも奇跡に近いが、それにしてもなんだかうさんくさい話だ」
 セテの表情も曇る。聖騎士でアートハルクの守護剣士だったはずのレオンハルトが、ダフニスの暴走を止めずに戦争に導いたという事実は消えない。しかも今度はその妹がアートハルクの皇帝に収まっているなどと、ますますレオンハルトの立場は悪くなるいっぽうだ。
 レオンハルトとガートルード兄妹の関係は、実は一般にはあまり知られていない。妹も兄に負けず謙虚で物静かだったし、汎大陸戦争後、各地の混乱を鎮圧するために奔走した兄に比べ、ガートルードは決して表に出ることはなかった。また一説によれば、レオンハルトもガートルードも、汎大陸戦争以前は落ちぶれたさる貴族の出身であると言われているが、彼らがどういう環境で育ってきたのか、どういう兄妹であったのかなど、個人的な過去に関しては中央にすらデータが存在しないのだという。十年ほど前にレオンハルト本人と会話を交わしたセテであったが、その場にいなかった妹については伝聞による想像の域を出ないのだ。
「そのガートルードという女が本当にあのガートルードなのか、証明する術はない。しかも黒髪だという。わざわざ金髪を黒髪に染めるなんてのもふつうでは考えられん。ダフニスが死んで戦争終結後も、確かに残党どもはずっと局地的なテロ行為を続けてきたが、それらをまとめあげる力がたかが魔導師の女ひとりにあるとも思えんし……」
 人望に篤かったダフニス自身はもとより、その摂政の地位にいたレオンハルトなら考えられるが、影のように付き添っていた妹のガートルードに、各地に散らばった残党をまとめ、アートハルク帝国を再建して再び中央に反旗を翻す、そんなことが可能なのだろうか。
「とにかく、姫はしばらくこちらで養生してもらうのがいいだろう」
「どうするんだ、レイザーク」
 背を向けたレイザークに、セテが不安そうに声をかける。レイザークは戸口の脇に立てかけたデュランダルを担ぎ上げると、
「いったん光都に向かわねばなるまい。聖騎士団の上は決断が遅くてな、直接評議会に報告をせねば。ちょうどいまごろ、お前の大好きな鉄の淑女が光都に到着したころだろう。話が早い」
「俺はどうすればいい?」
 不安そうに言う青年に対して、レイザークは含み笑いを返す。
「とりあえずお前は王女の護衛だ。俺はちょいと情報を仕入れてくる。すぐ戻るからお姫さんをしっかりお守りするんだぞ」
「まさか、いまから光都へ?」
 そこでレイザークは肩をすくめ、
「聖騎士の情報網をなめるなよ。光都なんぞに行かなくとも十分だ」
 そう言うと、レイザークはとっとと外を出ていってしまい、後に残されたのはセテと、気遣わしげにレイザークを見送るベゼルだけとなった。
 仕方なくセテは王女の部屋に戻り、現状だけを伝えることにした。ベゼルも後からちょこちょことついてきたので、少しだけほっとする。
 扉を開けた瞬間から気まずい空気が流れるのだけはしっかりと伝わってきた。王女が自分に対してときおり投げかけてきた敵意に満ちた瞳がどうにも辛いので、セテは早々にこの部屋から立ち去ろうと思っていた。
 とりあえずレイザークが外出したことと、しばらくここで体力が回復するまで養生してもらうことを伝えようとしたのだったが、
「あなた、特使になってどれくらい経つの?」
 そう王女が声をかけてきたので、セテは面食らう。
「……まだ半年も経っておりません」
「本当に半人前なのね」
 とげのある口調でそう言われ、セテは内心肩をすくめた。見かけに寄らずずいぶん底意地の悪い姫だと、セテは舌を巻く。
「ということは、大学を出てすぐに特使になったの? それとも就職浪人でもなさったのかしら。卒業からずいぶん経ってるんじゃなくて?」
 言いづらい質問をするものだとセテは思いながら、努めて平静を装うことにした。
「ロクランの王立中央騎士大学を卒業した後は、すぐにアジェンタス騎士団に出向で出戻ることになりました。それからいくつか事件に携わって出向解除になりましたので」
 大学名を言うことで少しはひるむだろうと思い、セテはわざとそういう言い方をしてみた。だが、
「中央騎士大学、ふーん」
 そう返され、セテは再び心の中で肩をすくめた。だが。
「ねえあなた。さっき聞いたかもしれないけど、名前は?」
 やっぱり人の話を聞いてないんだなと、セテは内心ため息をついた。
「セテ・トスキです」
「セテ……トスキ……」
 王女はセテの名をかみしめるようにつぶやき、目を閉じた。それからセテをもう一度見つめると、
「私の友だちが、中央騎士大学出身の知り合いと仲が良かったらしいんだけど、あなたご存じ?」
 そこでセテは息を飲んだ。心臓が高鳴る。意識を失っている間、王女はうなされながらであったが確かにある少女の名前を呼んでいた。もしやその彼女の友だちというのは。
「姫、あなたがここに運ばれてきたとき、あなたは私の知り合いの少女の名を呼んでいらっしゃいました。もしや……サーシェスのことを?」
 セテがそう尋ねると、王女の瞳はこれまで見たこともないほど大きく見開かれた。
「サーシェスを知ってるの?」
「ええ、私は在学中、彼女に剣を教えていました」
「あなたが……!」
 王女は不自由な体を跳ね起こし、セテの顔をまじまじと見つめた。セテは王女に向かって少し微笑み、静かに頷き返してやった。
「サーシェスは、ときどき話してくれたわ。アジェンタスに帰った友人が、聖騎士を目指していまもがんばっているんだって。自分は確かに彼と約束したから、彼が帰ってくる一年後には絶対に水の巫女になってやるんだって。そう、あなただったのね……」
 その言葉でセテの胸が熱くなる。ロクランのあの銀髪の少女が、どんなふうに王女に自分のことを話したのかが容易に想像できた。あの大きなグリーンの瞳を輝かせながらうれしそうに話したに違いない。守護神廟の前でふたりで誓った約束を、いつでも胸に抱いて、それを誇りに思いながら。
 そういえば彼女の手紙にも、新しい友だちができたという報告がなされていたはずだ。セテは先ほどまでこわばっていた表情を崩し、王女に優しく頷くと、
「私も、彼女の手紙にはずいぶん励まされました。そういえばずいぶん前の手紙に、女の子の友だちができたのだということが書いてありました。話したらびっくりするだろうと、彼女はロクランの王女様なのだと楽しげに」
 それを聞いたアスターシャ王女は殊勝にも顔をうつむかせ、しばし声を震わせた。
「よかった……こんなところでサーシェスにつながりのある人に会えるなんて思ってもみなかった……!」
 それだけ言うとアスターシャは顔を両手で覆い、声を殺して泣き始めたのだったが、そのうちにこれまでの緊張がほぐれたのだろう、大声で泣き、しゃくりあげたのだった。
 後ろにいたベゼルがセテの足をこづいたので、セテが少女を振り返る。ベゼルは仕草で彼女を慰めるように指図をしたのだが、セテはおたおたとベッドの前で二の足を踏んでいることしかできない。そのうちに王女が泣きやんだので、ベゼルはセテにたいして呆れたと言わんばかりに大げさに肩をすくめてみせてやるのだった。
「ごめんなさい、ホントに、みっともないところを……」
 王女は鼻をすすり、ベゼルに渡された手ぬぐいで涙を拭いながらセテとベゼルに頭を下げた。取り乱したことを詫びる王女は、少女であっても威厳と気品だけは忘れないようだった。セテとベゼルは気遣い無用であることを仕草で示した。
 自分とサーシェスを結びつけている絆の延長線上にいるもうひとつの絆、アスターシャ王女に出会えたことで、セテは運命が自分に味方をしているのではと思い、心の中で名も知れぬ神々に密かに感謝の祈りを捧げた。一刻も早くあの少女に会いたい。彼女は無事なのだろうか。
「ところで姫、サーシェスは無事なのでしょうか」
 セテがそう尋ねると、アスターシャは静かに首を振り、目を伏せた。
「……ごめんなさい。私、彼女を見捨ててきたの。たったひとり、ロクランを抜け出してきたんだもの……」
 アスターシャを責めることはできない。あの状況ではひとりで抜け出すのだって必死の計画だったはずだ。
「でも、彼女の行き先なら知ってるわ。たぶん彼女はいまロクランにはいない」
「ロクランにいない、ですって?」
「私がロクランを抜け出した翌日、彼女は光都オレリア・ルアーノに護送されることになっていたわ」
「光都へ護送!? なぜ……」
「驚かないで聞いてほしいの。彼女は危険な術者ということで、父の判断のもと、ロクランの騎士たちと一緒に馬車で光都へ護送されることになったの。なぜかはおわかりよね。父の話によれば、彼女とガートルードに何か過去に関わりがあったと考えられて、それで記憶を無理矢理こじあけるために〈記憶開封の儀〉にかけられたそうよ。中央特使に無理矢理引きずられてね。そこで──」
 彼女の記憶は戻らなかったが、その身に封じられていたと思われる術法が暴発したのだという。儀式に何か不審な動きがないかを監視するために立ち会っていたアートハルク兵士を焼き殺し、王城を破壊しようと暴れ回ったのだと。止めに入った大僧正はそれが元で帰らぬ人となり、そして彼女は反逆者として塔の牢獄につながれることになった。そして──なぜかは分からないが、占領者であるアートハルクの許可を得た馬車は、サーシェスとロクランの兵士を乗せ、光都へと旅立っていったのだ。
 この王女が特使である自分に対して敵意のような感情を抱いているのはもっともなことだと、セテはようやく理解できたのだった。だが。
 セテはごくりとのどを鳴らした。あの銀髪の快活な少女が術法を暴発させ、破壊活動を行ったなど、ましてや彼女が火焔帝と関わりがあるなど、信じられるわけがなかった。
「フライスは……。あ、その、ラインハット寺院の文書館長フライス殿は……」
 あの黒髪の文書館長がついていながらなんということだ。セテはやるせない怒りに身体を震わせた。
「フライス様も行方不明よ。ロクランが占領された直後、単身で結界を突破して行かれたとか。サーシェスが〈記憶開封の儀〉のために身柄を拘束されたのはその後で、私の力でも彼女を守ることはできなかった……」
「なんで彼女を置いていきやがったんだ! あのクソバカ野郎が! 何のために俺が……!」
 セテが王女の前でもかまわず激しく毒づいたのでアスターシャは驚いたようだった。それに気付いたセテは無礼を詫びるために再び膝をついた。だがアスターシャはセテを立たせると、
「サーシェスを愛してたのね、あなた」
 言われて、セテの顔が耳まで赤くなる。
「いや、あの、お、俺、いや私は」
 愛していた、というのとは少し違う。セテはそう思った。もっと奥深い精神のつながりだけが自分と彼女をつないでいたのだと信じていたかった。肉体的にはかなわなかったことでも、そのつながりがあることでずっと彼女を身近に感じられた。精神のつながりを得た代償として、フライスに彼女の肉体を預けたのだと思っていた。だが、いまはサーシェスを見捨てていったフライスに激しい恨み言をぶつけてしまいたい気持ちでいっぱいだ。あの男に負けたうえに裏切られた、そんな気分にしかなれなかった。
 そんなセテの様子を見て、アスターシャは目を細め、わずかに眉をひそめて笑った。
「サーシェスは……本当に幸せ者だわ。私と違って、フライス様にも、あなたにも大切に思われて。ホント、うらやましい……」
 アスターシャは年頃の少女のような艶っぽいため息をつき、窓の外を見つめた。この王女がフライスに少なからぬ好意を寄せていたことくらい、セテにもすぐに分かる仕草であった。
「親友だと言っておきながら、私は彼女を見捨ててたったひとりでロクランを飛び出して来てしまった。いま彼女がどこで何をしているのか、無事なのかすら私には分からない。私は本当になんてひどいことを……」
 そう言って、アスターシャはもう一度両手で顔を覆った。ひとりでロクランの包囲網を突破してきたことを、ロクランの国民や父王、そして大切な親友への裏切りだと思っているのだ。誇り高いロクラン王家の血筋を引く王女であっても、その重責に堪えられるほど強い少女ではないのだろう。
「そんなに自分をお責めになることはありません。あなたが包囲網を突破したことで、中央はかなりの有利な情報を得ることができます。それに、あなたが大切に思っているサーシェスも、きっと生きている」
「どうしてそう言い切れるの!? あなたに何が分かるってのよ!
 アスターシャは癇癪を起こした子どものように、泣きながらそうセテに食ってかかる。セテは自分の右手の平を上にし、それを王女に差し出す。窓から差し込んできた太陽の光が、手のひらにわずかに残る銀色の傷跡を照らす。驚いた王女の美しい黄金の巻き毛が揺れて、銀の傷跡を優しくなでた。
「アジェンタス騎士団領がアートハルクに攻撃された際、私の母も友人たちも……大切な人までも奪われました。でも、この傷跡があったから私は生き延びようと思ったんです」
「これは……サーシェスと同じ……?」
 セテの手のひらを見ながら、アスターシャがつぶやく。セテは無言で頷き、
「彼女と私を結びつけている絆、私はそう思っています。これがある限り、彼女は絶対無事に生きている。生きていれば絶対にまた会えると、そう信じています」
 力強くそう言うセテに、アスターシャはしだいに表情をほころばせ、弱々しくではあったが微笑んだ。そしてセテの右手の平の傷跡をそっと指でなぞる。
「絆……」
 そう独り言のようにつぶやくと、アスターシャはセテの手を取り、それを自分の頬に当てた。きめ細かい王女の頬は、とても暖かくて柔らかかった。セテは驚いて少しだけ身を震わせたのだったが、王女はセテの手をしっかりつかんで離さなかった。
 目を閉じ、頬に自分の手を押し当てるアスターシャの表情は、たとえ一時であっても幸せそうに見える。アスターシャはその傷跡を通して、遠く離れたサーシェスに思いをはせているに違いない。セテには心なしか、右手の平の傷跡が熱くうずき始めているような気がし始めていた。サーシェスがどこかで、自分とアスターシャ王女が出会ったことを喜んでいるに違いないとセテは思った。
 それが伝わったのだろうか。見る間に王女のまつげの端から、大粒の涙があふれてきた。セテの手にも王女の暖かい涙が伝う。そのうちに王女はセテの胸に顔を預け、再び少女のように大声で泣き出したのだった。セテは今度は迷わず、王女の肩を優しく抱き寄せて、やつれてはいても柔らかく華奢なその身体を抱きしめていた。






 落ち着いた王女が眠りにつくのを待って、セテは部屋を後にした。部屋にはいつの間にかベゼルの姿がなかったのでどこへ行ったのだろうと思ったのだが、扉を開けた廊下のすぐ脇で、ベゼルが不満そうに立ってセテを恨めしげに見つめていたのだった。
「なんだよ」
 セテがじっとりと睨むベゼルに声をかけると、
「ずいぶん前向きなこと言ってたじゃないのさ。珍しく」
「心身ともに疲れているんだから、ああやって励ましてやるのが筋ってモンだろ?」
「よっく言うよ。ついこの間まではあんなにウジウジ悩んでたくせにさ〜あ? まったく、美人のお姫さん相手だとずいぶん態度が違うじゃないさ。呑気に鼻の下のばしちゃってさ」
「ナニ言ってんだよベゼル。お前なんかおかしいぞ?」
「べっつにぃ〜?」
 そう言うなり、ベゼルは口をとがらせ、不満そうな表情をさらに険悪な表情にして居間に引っ込んでいった。その後ろでセテは大きなため息をつき、緊張でこっていたらしい肩を回しながら少女の後を追って居間に向かった。

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