Home > 小説『神々の黄昏』 > 第一章:黒き悪夢の呪縛 > 第三十二話:あやまち
中央諸世界連合を構成する国家の管轄から少しでも離れると、そこは中央とはまったく違う世界が広がっていた。荒れ地や雪原、そして延々と続く山岳地帯。住み心地のいい中央エルメネス大陸を遠く離れたこれらの地や、海を越えた小さな列島は「辺境」と呼ばれ、極寒であったり灼熱地獄であったりと、居住するにはあまりにも厳しい環境であることがほとんどであった。
それでもそこには人々が生活していた。汎大陸戦争で大陸が沈んだために海で寸断され、取り残されたり、大陸をえぐる深いクレバスに阻まれて住み心地のいい中央に移住することができなかった人々。そして中には中央から追放された人々もいた。
辺境から中央に行くことが困難であれば、中央から辺境へ行くのも困難である。つまり、汎大陸戦争後、レオンハルトを中心とした中央評議会が結成され、中央諸世界連合が設立されても、辺境には中央の庇護が届くことはほとんどなかった。
極寒の地で暮らす私たち辺境の民はとても貧しかったが、家族をはじめとする部族の絆は深く、そして幸せに暮らすことができた。だがそれも、五体満足で生まれてくればの話だった。
大昔、汎大陸戦争よりずっと以前には生まれつき手足が足りなかったり、不自由だったりする者が大勢いたという。いまでは少なくなったが、それでもたまに生まれてくる彼らは、辺境の地の厳しい環境の下ではほとんど生活していくことができないため、生まれてすぐ人知れず闇に葬られることもあった。辺境では、ひとりでなんでもできなければ生きていけなかったからだ。
目が生まれつき多少不自由であっただけで、歩くことも話すこともできた私は、そんな厳しい辺境に生まれても幸せだった。極端な弱視であったが、物心つくころまでは母親の顔も父親の顔も、祖父の顔も友人たちの顔も見えたし、何より両親は、目の不自由な私を大切に扱ってくれ、惜しみない愛情を注いでくれた。
そう、私は幸せだったのだ。たとえ、辺境の言葉で「神々の目」を意味する私の名前が、皮肉でしかなかったとしても。
「何をするつもりだ。火焔帝ガートルード」
上も下もわからないような暗闇の中に放り込まれたフライスは、傍らで怯えるサーシェスを抱き寄せながら、同じく何もない空間に浮かぶように立つガートルードを睨み付けた。彼ら三人だけが通常の空間から切り離されたのか、ふわふわと暗黒の中を漂っている。これが噂に聞く古代の禁呪なのだろうかとフライスは内心驚きを隠せなかった。
ガートルードは、フライスのブルーグレイの瞳に睨まれても動じることなく、闇の中であってもさらに黒く輝きを放つ髪をなびかせながら小さく微笑んだ。そしてフライスの足下を指さす。
見ると、フライスの足下から小さな光が染み出し、それはやがて大きくなっていく。違う。大きくなっているのではなく、遠くから近づいてくるのだった。その光の中で、人影がうごめいた。フライスは小さく息を飲み、それを食い入るように見つめた。
「お前のせいよ!!」
光の中の人影はヒステリックに叫ぶ。三十代後半といった感じの女性であった。ゆるいウェーブのかかった黒髪に端正な顔立ちは、辺境の極寒の地に多い人種的特徴だ。若いころは美しかったに違いない。だが、いまはその顔も怒りに支配され、恐ろしいまでに歪んでいた。
「お前のせいであの人は出ていったんだ! お前の目が見えさえすれば、あの人は出ていくことなんかなかったのに!」
怒りにまかせ、女性は足下にうずくまる小さな人影をなじり、そして何度も平手で叩きつける。彼女の足下にひれ伏しているのは、おそらくまだ十歳くらいの子どもであろうか。うずくまっているために顔は見えないが、女性と同じゆるいウェーブのかかった黒髪が叩かれるたびに揺れ、そして小さな声で許しを乞う。
「ごめんなさい! ごめんなさい! お母さん! 僕を許して……!」
泣きながら母の許しを乞う少年の声。それでも収まらず、母親は力任せに少年を殴り、罵倒し続けた。その哀れな少年と同様にフライスは反射的に身を固くし、そして空気を求めるかのごとくあえいだ。
私の視力はどんどん低下し続け、そして完全な盲目となるのにさほど時間は必要なかった。そして同じころ、父親が家にあまり帰ってこなくなった。幼かった私にはわからなかったが、外に女ができたのだ。母親はせめてもの慰みにと盲目の身となった私にさらに愛情を注いでくれたが、それも長続きしなかった。彼女はしだいに私が疎ましくなったのだ。何か気に入らないことがあればすぐに私をなじり、父親が家を出ていった後は、彼がいなくなったのは私の目が見えなくなったせいだと言っては、頻繁に折檻するようになった。
私は幼かったからそんな母親でも愛していた。どんなに罵倒され、折檻されても、私には母親しかいかなったのだ。
──お母さんが僕を殴るから、僕は目が見えるようになりたい。
──いつも笑っているお母さんの顔だけを見ていたい。
「よせ、心理攻撃のつもりなら私には通用しない」
フライスが冷たくそう言い放つと、足下に広がっていた光の輪が消え、あたりは再び暗闇に閉ざされた。ガートルードを見やると、彼女は意味ありげに笑い、今度はフライスの右手を指さした。再び小さな光の輪が近づいてきて、やがてそれは大きくなる。今度は、老人が膝の上に黒髪の少年を乗せ、優しく頭をなでているのが見えた。フライスは彼の後ろに隠れるようにして震えるサーシェスの肩を抱きしめながら、再びその光の輪を睨み付けた。
「それは本当かい?」
老人は優しい声で膝の上の少年に尋ねた。
「本当だよ。さっきのおじいちゃんの古い機械だって、僕、どこが壊れているのかすぐにわかったよ」
「中も開けずにかい?」
「うん。一生懸命見ようと思ったら見えたんだ。そうだ、おじいちゃんの顔も見えるよ、薄ぼんやりとだけどね」
少年はうれしそうに言いながら、彼の祖父の顔を指さした。だが、老人の表情は驚き、そしてその次には悲嘆の色を浮かべた。
「よくお聞き。そういうことはあまり人に言っちゃいけないよ」
「どうして!?」
「どうしてもだよ。お前の目が見えるようになったかもしれないなら、こんなにうれしいことはないよ。だけど……中にはそういうことを気味悪がる人だっているんだ。とくにお前のお母さんは……」
老人は言ったが、そこで固く口を閉ざした。悲しそうに少年を見下ろし、そしてそっと抱き寄せる。
「いいかね。おじいちゃんと約束しておくれ。なにか見えたとしても、決して口には出さないと」
「あの子は化け物よ!」
老人と少年の姿がすぐに消えたと思うと、今度は闇の中から再び甲高いヒステリックな叫び声が聞こえた。フライスは足下に広がる闇に目を凝らし、そして目の前で余裕の構えで腕を組んでいるガートルードの顔を睨み付けた。ガートルードは涼しげな顔でラインハット寺院の修行僧を見つめ、足下の暗闇に目を移した。
「なんて気味が悪いの! 人の死をぴたりと言い当てるなんて! あの子は悪魔だわ! あんな気味の悪い子、そばになんかおけるものですか!」
「よさないか、ファビオラ!」
祖父と母親の言い争う声。少年には聞き慣れた母親の怒鳴り声であった。祖父がたしなめるが、母親はさらに叫び、部屋の隅で縮こまっている少年を指さした。
「化け物だわ! 人の心を読んだり、人の死を予言したりして、そのうち私たちを殺す気なんだわ!!」
母親は少年の襟首を掴み、そしていつものように力任せに殴りつけた。
──悪魔の子! お前なんか産まなきゃよかった! 死んでしまえばいいのに──!!
ごめんなさい。お母さん。僕は悪い子です。もうしません。もうしません。もうしません。もう……!
バタンと乱暴にドアの開く音。外は猛吹雪で、その中を雪まみれになりながら歩いてきたのだろう、武装した三人の逞しい剣士がドアの前に立ち、そして不躾な様子で部屋の中を見渡した。
「なんだね。君たちは?」
祖父がいぶかしげに尋ねる。少年も気づいたらしく、部屋の奥から少しだけ顔を出して様子をうかがおうとした。だがそのとき、祖父は彼らが即座に自分たちの腰に下げた剣の鞘に手をかけるのを見、少年に部屋から一歩も出ないように注意を促した。しかしそれも時すでに遅く、叫んだ瞬間、老人はあっという間に剣で貫かれ、声を出す間もなく床にひれ伏していた。
血に塗れた剣の切っ先を満足そうに見つめると、男たちは部屋の前で放心したように立つ少年を捕らえようと歩を進める。少年ははじかれたように身を翻し、部屋に駆け込むとがっちりと鍵をかけ、ドアを塞ごうと必死になって部屋の中のものを引っかき回した。
「無駄だ! 小僧」
男のひとりが少年の部屋のドアを乱暴に蹴破り、少年はベッドの脇まで吹き飛ばされる。入ってきた三人の男たちは少年の姿を認めると、彼をベッドの上に抑えつけ、その首筋に剣の切っ先をあてがった。
「悪く思うなよ。これも仕事でな」
男が口の端にまぎれもなく笑みを浮かべながら少年を見下ろしていた。少年は首筋にあてがわれた手を剣を交互に見やりながら、震えることしかできない。
「恨むならお袋さんを恨むんだな。まだ小さいお前に言ったってわかりゃしないだろうがな、お前のお袋さんには男ができたんだとよ」
ぎりぎりと食い込む指に顔を歪ませながら、少年は男の腕に爪を立て、思い切り引っ掻いた。男は痛みに小さく呻き、さらに少年の首にあてがった指に力を込めた。
「お前のお袋もたいしたタマだぜ。口うるさい舅と薄気味悪いガキを始末してくれってな、たいそうな金をおいてってくれたぜ。男のために自分の息子と父親を殺してくれなんてな、ありゃ狂ってるとしかいえねぇ。ま、俺らには関係ないがな」
ウソだ! お母さんが僕を殺してくれだなんて!? そんなのウソだ! ウソに決まってる!
少年は手近にあった目覚まし時計を掴み、それを男の頭上に振りかぶった。鈍い音とともに男は悲鳴をあげ、そして押さえた額からは鮮血が吹き出していた。
「このクソガキ〜〜〜!!!」
男は逆上して少年の頬を何度も何度も拳で殴りつけた。少年がぐったりとなったところで彼は少年の衣服を力任せに引き裂き、その小さな身体に馬乗りになった。
「あ〜あ、あいつの悪いクセが出ちまったな」
その後ろでふたりの剣士が肩をすくめ、笑いながらため息をつくのが聞こえた。少年はわけのわからない恐怖にさらされながら、せいいっぱい悲鳴をあげた。だが、辺境の猛吹雪の中、助けに来る者など誰ひとりとしているはずはなかった。
悲鳴は絶えることはなかった。何度も何度も襲いくる肉体を引き裂かれるような痛み。激しく肉のぶつかり合う音。荒々しい男の息づかい。小さなベッドが激しくきしみ、それに乗って少年のか細い悲鳴とすすり泣きが響き渡る。
辺境では珍しいことではなかった。生きていくためという大義名分のための殺人や強盗は黙認されていたし、強姦も日常茶飯事であった。襲われるのは女性ばかりではない。何の力も持たないまだあどけなさの残る少女や、はては少年までもが薄汚い欲望の餌食にされていた。
まだ幼かった私にはそれがどういう意味を持つ行為かは知らなかったが、すさまじい恐怖と肉体的苦痛、生理的嫌悪感から、なんとなくではあるが自分がどういうことをされているのかくらいは理解できた。
男は欲望のすべてを吐きだした後、後ろで見ていたふたりに目で合図をし、それから今度は別の男が少年に馬乗りになる。それが終われば今度は三人目の男が。男たちは入れ替わりで少年を犯したあと、満足そうに自分の衣服を整え、そして泣き声すら枯れた哀れな少年を見下ろした。
「悪くなかっただろ、へへへ」
それから男はもう一度剣を握り直し、うずくまるようにベッドに伏せている少年の頭上に剣を振り立てた。
「恨むなよ。これも仕事なんでな」
少年はその声に振り向いたが、次の瞬間には少年の脳天に剣が振り下ろされていた。
飛び散る血しぶき。返り血を浴びてもなお、薄笑いを浮かべたままの男。少年は声もあげずにそのまま身体をのけぞらせ、そして目を見開いたまま絶命した。絶命したかのように見えた。だが。
びりびりと家全体が揺るがされるような振動。猛吹雪の影響かとも思われるが、極寒のこの地では吹雪で揺るぐほどのやわな建築物などあり得ない。やがて部屋の中のものが激しい音をたてて揺れはじめ、本棚や戸棚からどさどさとものが落下していく。
「なんだ!? 地震か!?」
男たちはあたりを見回したが、地が揺れているのではなく、この部屋の壁自身がゆれているのだと気づくのにそう時間はかからなかった。
突然、少年に剣を振り立てた男の腕が膨れ上がったかと思うと、それはまるで風船のようにはじけた。男は最初なにが起きたのか分からずに呆然としていたが、柄を握ったままの自分の手首が床にごろりと転がると、ようやく痛みを覚えたのかすさまじい悲鳴をあげた。
そのうち彼らの周りで火花が散りはじめ、それが男の身体にまとわりつくようになるとすぐに、男の身体は鋭利な刃物で裂いたかのごとく見事にスライスされていた。大量の血を吹き出して倒れる肉の塊は、さながら三枚に下ろされた魚の切り身。表皮をそがれ、骨と内臓だけになった中身が、びしゃびしゃと嫌な音をたてて床に散らばった。
突然の見せ物に、残りのふたりがいっせいに悲鳴をあげた。そして、たったいま絶命したと思っていた少年がゆっくりとベッドから身を起こすのを確認すると、再びそろって絶叫する。
「ば、化け物!!」
男たちは身を翻し、ドアのノブに手を差し出す。が、ノブを回すいとまもなく彼らの周りで火花が激しく散り、残りのふたりも即座に哀れな肉塊となって床に崩れ落ちることとなった。
少年は血塗れの顔をあげ、そして床に散らばる肉の破片をゆっくりと指でなぞると、そのなま暖かさに悲鳴をあげた。途端にドアが激しく開き、今度は甲高い女性の悲鳴が響き渡った。
「化け物!!」
厚手のコートを羽織ったままの母親の姿がそこにあった。おそらく男たちの仕事の成果を確認するために戻ってきたのだろう。母親は血塗れの床とそこに散らばる肉の塊を見て悲鳴をあげたのではなく、頭上に剣を受け、血まみれの顔でこちらを見据える少年の姿に恐怖したのだった。
「……おかあ……さん……」
少年は弱々しく母親に手を差し出す。だが、数メートルも離れているにも関わらず、母親は大袈裟なくらいに飛び退き、そして腰の短剣に手をかけた。
──よせ──
──やめろ──!
──もうこれ以上──!!
「この……化け物! お前なんか! お前なんか!」
「お母さん……!」
女は少年の頭上に剣を振り上げた。少年の心の目にはそれがすべて緩慢な動作になって映し出される。
いやだ! お母さん、僕を殺さないで! 殺さないで!!
視界が白く光る。その次の瞬間、母親の身体はふたつに裂け、そして少年の身体からあふれ出た光はいっそう強く光を放ちながらまわりのすべてを巻き込んでいた。
部屋といわず、家全体を瞬時に吹き飛ばす大爆発。そして少年はそのすさまじい爆発音の中で母親の名を呼ぶ。
お母さん。
僕は聞きたかったんだ。
お母さんは本当に僕のことを愛していたのかどうか──。
「よせ……! 私の心に踏み込むのはやめろ!!!」
一瞬にして黒の世界はガラスのようにはじける。それは氷の結晶が砕けるかのごとく粉みじんに吹き飛び、火焔帝ガートルードを襲うブリザードとなった。ガートルードはその黒髪を優雅に掻き上げるような仕草でそれを払いのける。
黒髪の流れに沿って氷の破片が流れ、それが見えなくなったときには、フライスとサーシェスは元のロクラン王宮の広間壇上に立っていた。
肩で荒く息を吐きながら、サーシェスに支えられるように立っているフライスの額からは滝のような汗が流れ落ち、そしてその瞳からはおそらく誰も見たことがないであろう涙が一筋流れ落ちていた。
火焔帝はそれを冷ややかに見つめながら、口元に薄笑いを浮かべている。
「どうだ。貴様が忘れていた過去とやらは思い出せたか」
「ひどい……!」
サーシェスもまた、フライスの肩を支えながら声を押し殺して泣いていた。フライスの言っていた「取り返しのつかない過去」が、これほどの悲しみに満ちたものであったとは。
フライスは涙を拭おうともせずに火焔帝を睨み付けていた。その表情は、サーシェスが初めてフライスと出会ったとき以上に暗く、かたくなであった。ガートルードはふいと目をそらし、小さくため息をつく。
「そう、いま貴様の心の中ではいくつもの葛藤が駆けめぐっているはず。より多くの疑問を持つがいい。そして真実がいずこにあるかを探すがいい」
「……ふざけるな……」
「真の敵が何かを見極めるがいい。お望みならば私の手の内にある『神の黙示録』第三章をお見せしよう。すべては……『神の黙示録』と『神々の黄昏』の中に帰る」
「ふざけるな!! 火焔帝ガートルード、私は絶対に貴様を……!」
そう言いかけてフライスはがっくりと膝をついた。崩れるようにサーシェスの肩に寄りかかったフライスは、極度のストレスにさらされたためかそのまま気を失っていた。サーシェスはあわててフライスを抱え起こすが、目の前の火焔帝を睨み付ける目だけは逸らすことはしなかった。
「安心しろ。優秀な術者だ。廃人になるようなことにはなるまい。それに今見たその男の過去は、お前とそやつにしか見せていないのでな」
ガートルードはそう言うと、右目を黒髪で覆う。禍々しい赤い光を放っていた瞳が隠れただけで、周囲の雰囲気が和らいだようにも感じられた。
「我が兄レオンハルトは辺境のありさまに心を砕いていた。私も、そしてサーシェス、お前もだ。だがまあいい。今は忘れていても、お前はすぐにその目で辺境の有様を、自分の過去を思い出すのだから。そのとき、お前は自分の意志で私の元にくるはずだ」
予言者のような口振りでガートルードは言った。これから起こるであろうことを、知っているのだとばかりに。
気を失っていた大僧正とアンドレ王が正気に返ると、ガートルードは再び征服者の威厳を持って彼らを見下ろす。大僧正はサーシェスの肩に寄りかかっているフライスを見ると小さくうめき、そして目の前に立ちはだかるかつての親友の妹を見つめ返した。
「決断は早ければ早いほどいいぞ、アンドレ・ルパート。私の解き放った暗黒の炎の結界は、ロクランを中心にどんどん広がっていくであろうからな」
「やはり、暗黒の炎を解いたのはお前だったのだな。火焔帝とはよく言ったものじゃ」
大僧正が言うとガートルードは不敵に笑い、
「無駄な血を流したくなければ従うことだ。一時間後に大臣連中を集めよ。できるな」
そう言い残すと、ガートルードは長い黒髪を翻し、壇上を降りた。途中、サーシェスの横を過ぎるときは彼女をちらりと見たが、勝ち誇った笑みを浮かべるだけで何も言わず、何もせずに。
少年の弱々しい泣き声。燃え上がる炎の中で、母親の死体に寄り添って泣きじゃくる黒髪の少年。
冷たく横たわる母の死体の横で、彼は何度も何度も母親の名を呼ぶ。だがその声はやがて吹雪にかき消され、少年の身体も雪の中に溶けていく。
「かわいそうにのう」
慈愛にあふれた優しい声。泣きじゃくるその頭をなでながら、老人が泣きやむ気配のない少年を優しくなだめている。
「もう大丈夫じゃ。もう何も心配はいらない。これからはわしと一緒に暮らそうな、フライス」
ああ、大僧正様。あなたがいなかったら私は──!
気が付くとベッドの上だった。フライスは大儀そうにまぶたを開き、そして自分を心配そうに覗き込んでいるサーシェスの顔に気づいて小さく息を飲んだ。
「よかった。気が付いて……!」
緑色の瞳に安堵の色が見えた。フライスは即座に跳ね起き、そしてサーシェスの肩を掴む。
「私は……!? 火焔帝ガートルードは……!」
問われて、サーシェスの顔がすぐに沈んだ。
「いまロクラン王や閣僚たちの緊急会議が開かれているわ。アートハルク軍は王宮を包囲したまま……」
夢ではなかった。神聖なる水の巫女継承式にアートハルクが攻め込んできたのは。そして自分は火焔帝と術を交え──!!
フライスは口元に手を当て、顔を背ける。吐き気がする。自分の過去を暴かれ、ガートルードだけでなく、サーシェスまでもがそれを知った。サーシェスは私を軽蔑するに違いない。母を殺し、男たちの慰み者になった私を。
「フライス!?」
サーシェス。君までも私をそんなふうに見るのか。哀れみとさげすみの入り交じったそんな顔をして私を見ないでくれ。知られたくなかった。私の、汚れた過ちなど!
「頼む、ひとりにしてくれ」
「でも……!」
「頼むから! ひとりになりたいんだ!!」
突然フライスが叫んだので、サーシェスはひどく驚いた。その瞳にうっすらと涙が浮かぶ。サーシェスはゆっくりと立ち上がると、背を向けたままのフライスを見つめ、そしてそっと部屋を出ていった。出ていくときに彼女が涙を拭っているのを知ってはいたが、フライスには自分の冷たい態度を戒めるだけの余裕もなかった。
ロクラン王宮は、アートハルク帝国軍によって完全に包囲されていた。もはや城から出ることも、入り込むことも許されはしないという状態であった。
水の巫女の継承式に参列していた賓客たちのうち、ハイ・ファミリーなどの貴族階級は人質として王宮内に拘束されることとなったが、しかし火焔帝ガートルードはいわゆる一般市民は即座に解放していた。同じように、参列していたロクラン政府の高官たちは会議室に缶詰にされており、彼らを守る近衛兵やロクラン騎士団は武装解除され、騎士団長の身柄も拘束されていた。
帝国軍には辺境の弱小国家の兵も混じっており、多国籍軍といった状態である。さらに兵士だけでなく、多数の術者も混じっている。王宮内では、五年前のアートハルク戦争において大活躍した術者軍団が蘇ったようだともささやかれていたが、あながちそれも誇張ではない。目には見えないが、ロクラン全体を強力な術者たちが結束して作った結界が覆っており、侵入する者、脱出する者をことごとく排除するに違いなかった。
宮廷内でのちょっとした流血沙汰以外、ほとんど無血革命に近い状態で短時間のうちにロクランを制圧したアートハルク帝国軍。中央に恨みを抱いているであろうに、一般市民には彼らは決して手を出そうとしなかった。
もちろん即座にラインハット寺院も包囲され、強力な術者たちによる結界に塞がれた今とあっては、少しでも術法に覚えのある修行僧たちでも抵抗することはできなかった。
大僧正を残し、気を失ったフライスとサーシェスはラインハット寺院に戻ることがガートルード直々に許されたのであったが、いまだ解放されない大僧正を気遣って、サーシェスは寺院のあちこちをせわしなく歩き回っていた。その途中、恐怖で泣きじゃくる幼少部の子どもたちや、いきがってばかをしでかそしそうな中・高等部の少年たちをなだめすかすのに苦労をしていた。そしてフライスは、目が覚めた後でもサーシェスの前に姿を現すことはなかった。
フライスは大僧正の書斎にいた。なにかに操られているように、なぜか足が向いてしまったのであった。
フライスにとって、物心付いたときには大僧正が保護者役であった。能力をコントロールすることも、本を読む喜びも、人を癒す優しさも、すべて大僧正から教わったことだった。年老いた今でも人をおちょくるような明るさと茶目っ気を持ち合わせた大僧正が、真の彼の父親、家族でもあった。ここへ来た当初は、大僧正ばかりに頼っていた。大人になった今では大僧正のほうが自分に頼ることが多くなってきたが、今は大僧正にすがりたい。そんな気持ちでこの書斎に足が向いてしまったのだった。
文書館の一部をそのまま持ってきたような書斎。古いものから新しいものまで、さまざまな種類の本が所狭しと並び、書斎の上のほうには数センチにおよぶほこりがかぶっている。フライスは自分がここに来た少年時代、よく大僧正がほこりの積もった上の書棚から分厚い書物を取り出して読んで聞かせてくれたことを思い出し、ひそかにあのときを懐かしんだ。
忘れたつもりだった。生きるために人を殺し、自分の母親までも殺した自分。人を憎み、自分を哀れみ、かたくなに他人を拒絶してきた幼年時代。極度の女性嫌悪は幼いころの母親の裏切りからくるトラウマだとも、後に心理学の本で読んで理解していた。それでもあれから二十年近く経って、すべて忘れていたはずだった。サーシェスと出会って自分は生まれ変われるとも思った。自分はそれでも幸せだったのだ。それなのに。
フライスは何気なく使い込まれた大僧正の机をながめる。質のいい木材で作られてはいるが、歳月の流れには勝てずに黒ずみ、キズだらけである。何冊か読みかけの書物や書類が束ねられていたが、ふと、フライスはその中に古ぼけた冊子が混ざっていることに気づいて手を伸ばした。
色あせた表紙になぜか心臓が高鳴る。フライスは指が震えるのを抑えつつ、おそるおそるページをめくった。そしてそこに現れたものに大きく息を飲み込んだ。
サーシェスの部屋で見た古い冊子と同じ、黒い甲冑に身を包んだ自分そっくりの騎士と、若き日の大僧正リムトダールが互いに握手を交わす古い写真。そのページの余白には、大僧正の字でこう書かれていた。
「我が古き戦友、我が英雄、我が生涯の友、レオンハルト」と。
フライスはしばらく放心していたが、やがて小さく鼻で笑い、それは自虐的な笑いへと変わっていった。
「は……はは……は……そうか、そういうことか……!」
突然ドアが開き、その向こうでは大僧正が驚愕の眼でフライスを見つめていた。会議が終わって寺院に戻ることが許されたのだろう。だが、フライスにとってその会議でどんなことが決定したか、そんなことはどうでもいいことであった。
フライスは硬い表情のまま大僧正を振り返ると、わざと見せつけるかのように黒い甲冑の騎士のページを大僧正に突きつけた。大僧正はフライスが手にしている冊子に目を留めると、何か言いたそうに口を開きかけた。だが、それはフライスの先制でままならなかった。
「大僧正様。私は本当にあなたのそばで学べることを感謝していました。あなたが私を本当の息子のようにかわいがってくれたこと、いまの私があるのはあなたのおかげです」
「なにをいまさら……」
狼狽したような大僧正の声。フライスは怒りに震える声を抑えるのに注力し、言葉を続ける。
「だが、あなたが成長した私を他の寺院に預けず自分の側においたのは、私を哀れんでくださったわけでも私の才能を買ってくださったからでもない。あなたは私を必要としていたのではない。私の影に見える、亡くなった親友の面影を追い続けていたからだ」
「なにを……なにを言っておるのじゃ、フライス!」
「ご自分でも分かっておいででしょう。あなたは私にレオンハルトの幻影を見ていたのだ。私自身ではなく、私にうりふたつなこの男のね」
瞬時に大僧正の顔が曇る。知っていた。大僧正がどれほど親友のレオンハルトを大切に思っていたかを。五年前のアートハルク戦争のあと、レオンハルトが死んだときにはひどく落ち込み、悲しみに打ちひしがれていた。だからこそ許せないのだ。そしてサーシェスも……!
彼女もそうだ。最初に彼女と会ったとき、彼女は自分の顔を不思議そうな顔をして見ていた。そしてしばらくしてから彼女は言った。「あなたによく似ている人を知っているかもしれない」と。そうだ。彼女も私ではなく、私の影にレオンハルトの面影を追っていたのだ。なんと愚かなことだったか。自分は「代わり」でしかなかったというのに。
「それは違う、フライス、聞い……」
「とんだひとり芝居だった。私は……私は誰にも必要とされていないというのに……!」
「待ちなさい! フライス!!」
大僧正が止めるいとまもなく、フライスは身を翻して部屋を飛び出していった。乱暴にドアが開いたときにサーシェスがその向こうに立っていたが、彼女の姿に目を留めることもなく。
「サーシェス! まさか今のを……!?」
「いえ、ですがなにかあったのですか!? フライスが……」
「わしのせいじゃ! わしの……!」
そう言うと、大僧正は顔を覆い、そして声を殺して泣いているようだった。サーシェスは飛び出していったフライスが気に掛かってはいたが、大僧正のそばに駆け寄り、その肩を抱いてやる。
「わしが愚かであった……! わしがいつまでも過去の幻影に縛られておるからじゃ……! あやつを傷つけるつもりなぞなかったというに……! わしはあやつに何も声をかけてやることができなかった……! 幻影などよりもずっと、そなたを心から愛しているのだと言うことさえできずに……!」
顔を覆ったまま、大僧正は何度も何度も自分を叱責している。こんなに取り乱した大僧正を見るのは初めてであった。ただごとではないと察知するのは容易であった。
「頼む、サーシェス! あやつを……フライスを止めてくれぬか!」
懇願するような大僧正の声にサーシェスはすぐに返事をし、部屋を出ていこうとした。だがそのとき、黒い制服を着た数人の剣士が書斎の入り口に立ちはだかってサーシェスの行く手を塞いでいた。