第三十一話：火焔帝・襲来

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　銀色の少女の髪をなでながら、フライスはいまだ無防備に眠り続ける恋人の顔をじっくりと堪能していた。カーテンから差し込む朝の柔らかい日差しが、まだあどけなさの残るサーシェスの顔を照らす。彼女の長いまつげまでもが銀色に見えた。
　自分よりもはるかに年下の少女を抱いてしまったことにある種の背徳感を感じてはいたが、ときたま彼女が見せる驚くほど妖艶な表情に、フライスはひどくとまどいながらも触発されたのだった。
　ふと、彼女の左手のひらの傷跡に目がいく。最初に気が付いたときにけがをしたのかと思い、治療しようとしたが、サーシェスがかたくなに拒んだのがとても腹立たしかった。銀色に光る不思議なその傷跡が彼女にとって何を意味するのか、それはわからない。だが、フライスは実のところあの騎士見習いの青年が関与しているのではないかと踏んでおり、内心穏やかではなかった。
　一抹の不安が心をよぎる。彼女は本当に、身も心も自分のものになったのだろうか──と。
　そっと傷跡を指でなぞり、それからサーシェスの額に軽くキスをして、フライスは静かにベッドから身体を起こそうとする。その拍子にサーシェスが小さく呻き、目を覚ましてしまった。
「すまん。起こしてしまったか」
　フライスは小声でそう言い、まだ寝ぼけ眼のサーシェスの髪を掻き上げてやる。その瞬間に、カタブツな黒髪の文書館長をも魅了したグリーンの大きな瞳が見つめ返した。
「私は式典の準備があるので部屋に戻るよ。それに、大僧正様に見つかったら何を言われるかわかったもんじゃない」
　冗談交じりにフライスがそう言うと、サーシェスは殊勝にも顔を真っ赤にしてみせた。フライスが身体を起こそうとしたのでサーシェスもつられて起きようとしたが、それを制し、彼女にシーツをかぶせてやる。
「まだ朝も早いから寝ていなさい。朝食の前には誰かを迎えにやるから」
　フライスは法衣を手早く身につけ、ほつれた黒髪を掻き上げた。長い巻き毛が揺れたが、すぐにいつものリボンできゅっとひとつに縛ってしまう。
「髪……縛らないほうがいいのに。絶対下ろしてるほうが似合うのに……」
　サーシェスがぼんやりとつぶやいた。フライスはそんな彼女を振り返り、苦笑した。彼女がそんなことをいうなんてとても珍しいことであった。見ると、サーシェスは再び眠ってしまったようだった。
　それからフライスはもう一度ベッドの中のサーシェスに口づけ、静かに部屋を出ようとした。そのとき、本棚からなにかが落ちたような音がしたので振り返ると、ぼろぼろのあじけない表紙の冊子が床に横たわっていた。なにげなくそれを拾い、フライスはパラパラとページをめくる。中身は中央標準語ではない、見たことのない文字がびっしりと印刷されているが、それに混じってさまざまな絵が挿入されている。確か二十年くらい前に使われなくなってしまった、写真という技術であることはしっていたが、これはまたずいぶんと古いものだった。
　しおりが挟んであるのに気付き、フライスはそのページをめくってみた。そして驚愕のあまりその手が止まる。そこには、黒い甲冑を身につけ、こちらを見据える騎士の姿があった。驚くべきことに、彼は髪の色を覗けば自分にそっくりであった。
　色も付いていないのではっきりとはわからないが、おそらく金か銀のような薄い色の髪をしているのだろう。知らない者が見れば、絶対に自分と見間違えるに違いない。
　何者だ。この男は。なぜサーシェスがこんなものを持っているのか。
　震える手でフライスは冊子を本棚に戻し、そのまま部屋を出た。まだ誰も起き出していない寺院の静まり返った廊下を、どこからか吹き込んでくる風が駆け抜けていった。二百年祭を祝う式典までには、まだずいぶんと時間がある。大僧正が野暮なことを言い出す前には、部屋に戻ってシャワーを浴びることもできるだろう。
　フライスはそっと自分の胸に手を当てた。サーシェスのぬくもりを逃がさないようにか、それとも少しだけ不安な心を落ち着けるためにか、わずかに心がうずくのを感じながら。






　汎大陸戦争が終結したのは、いまからおよそ二百年前のことである。世界のほとんどを海に沈め、旧世界《ロイギル》を焼き尽くしたフレイムタイラントと呼ばれる神獣と、それに果敢に立ち向かった聖賢五大守護神《ファイブ・ガーディアンズ》、そして救世主《メシア》の激しい戦いが幕を閉じ、再びこの世界に平和が訪れて二百年が経つ。それはそのまま、ロクラン王国建国二百年を意味してもいた。聖騎士レオンハルトを中心とした勇士の力で、無秩序の中からさまざまな国家が誕生したが、ロクランはそのなかでも最も古い歴史ある国となる。やがて中央諸世界連合が誕生し、それまでバラバラだった国家同士を結びつける重要な機関が整うと、ロクランは中央諸世界連合の本拠地である光都オレリア・ルアーノと並ぶ行政・経済の中心地として発展していった。
　百年前に催された百年祭のときも盛大な式典が催されたというが、二百年祭はそれをはるかに上回る規模で催されることになった。式典の日をはさんだ一週間は、城下町でお祭り騒ぎが続き、昨夜の前夜祭、そして今日の式典ではそれが最高潮に達する。本日催される式典は大戦終結二百年とロクラン建国二百周年を記念するばかりでなく、ロクランの象徴、水の巫女の交代式が催されるのだった。
　元来水の巫女は一年交代で、その交代の儀式は夏に催されるのだが、今年はめでたい二百年祭に合わせて式典が引き延ばされた。水の巫女は豊かな水で潤うロクランを祝福する、名も知れぬ神々の使い。豊饒と平和を願う人々の代わりに神々の声を聞くという重要な役割を担う。実際には、「神々の黄昏」時代のいまとなっては、もう神々の声を人間が聞くことなどできないのではあるが、巫女が生命をはぐくむことのできる女性であるということと、水の術法を使う術者の頂点に立つということだけでも、人々の信仰を集めるための重要な意味を持つのである。
　当然巫女に選ばれる女性は、術者としての厳しい審査を受けなければならない。とくに高レベルな水属性の癒し系の術法を修得していることが条件であった。ロクラン国内だけでなく、各国から女性の術者がやってくるのだが、サーシェスが納得できないことのひとつに、候補の女性が容姿に長けているという条件が付いていることであった。これは女好きな大僧正の趣味なのかも知れない。
　式典が始まるロクラン王宮の大広間には、各国の大使やハイ・ファミリーを中心とした賓客が詰めており、式典が始まるのを今か今かと待ちかまえていた。サーシェスはその席に座り、ロイギル風にしつらえられた壇上のアンドレ王の隣にいるアスターシャを見つめた。アスターシャは今日もかわいらしく着飾っていたが、サーシェスの顔を見つけて小さく手を振った。サーシェスも恥ずかしそうに手を振り返す。大僧正は王の横に座っていたが、フライスの姿は見えなかった。おそらく準備が終わったあと、こういった式典を嫌って庭園でも散歩しているに違いなかった。
　不思議な一夜だったとサーシェスは思う。あの黒髪の青年に昨夜抱かれたことが、まるで夢のようにも思えた。いつも冷静さを失わない文書館長の、熱く激しい愛撫に身も心も溶かされてしまいそうだった。サーシェスはまだ彼のぬくもりが身体に残るような気がして、両腕を回して自分を抱きしめた。
　恥ずかしくはなかったし、フライスの優しい抱擁と気遣いが涙が出るほどうれしくて、何度も何度も身体を合わせた。だが──それでもまだどこか満たされないような気持ちになるのはなぜだろうか。
　派手なファンファーレが鳴り響いたので、サーシェスは我に返った。周りの賓客たちがそわそわと背筋を伸ばし、前方を覗くように身体を動かしていた。芝居がかった大袈裟な身振りで王が合図をすると、黒髪の美しい水の巫女がしずしずと姿を現した。そのとき、広間からいっせいにため息が漏れる。
　薄ものの淡いブルーのベールからのぞく漆黒の髪は艶やかに輝き、白磁の肌に赤い唇が不釣り合いなほど映えている。王の前で小さく礼をして背筋を伸ばすと、巫女はとても長身であることがわかる。均整のとれた完璧なプロポーションとでもいうのだろうか。恐ろしさまで感じざるを得ないほどの整った彫りの深い顔立ちは、大昔のロイギルの彫刻によく見られる女神を思わせるし、とにかく非の打ち所がない美しさを持っているこの巫女を賞賛しない者などいるはずがない。壇上のアスターシャまでもがポカンと口を開けて、その美しい巫女の姿に見とれているようだった。
　しかし、再びサーシェスは先日沿道で見た水の巫女に対する不吉な予感に身体を震わせる。あの巫女の周りで、どす黒い暗黒の気が渦巻いているような気がしてならないのだ。心臓を鷲掴みにされるような感覚に、サーシェスは小さく息を吐き出した。間接が白くなるほど指を握りしめる。気のせいかも知れないが、セテとかわした誓いの傷跡が少しずつ痛みを発しているような感じがする。
　──危険、危険だ、あの女性はなにか悪意を秘めているはずだ──！　サーシェスの頭の中でなにかが警告を発する。
　王に促され、大僧正が巫女の前に歩み寄る。大僧正が巫女の頭上に手を広げると、彼女は少しだけ身をかがめ、目を閉じた。大僧正は神聖語で祝福を与える長い呪文を詠唱し、巫女の頭上にかざした手は大きく中空に救世主を表す紋章を描き出す。サーシェスはまだ神聖語をすべてマスターしたわけではなかったが、それが姿を隠した名も知れぬ神々におうかがいをたて、今日この日に新しい水の巫女を迎える栄光を感謝するものであるということは知っていた。だが、どくどくと早まっていく心臓の鼓動にかき消され、よく通るはずの大僧正の声がはるか遠くで聞こえるざわめきにしか聞こえない。ああ、大僧正様、あなたにはわからないのですか。その女性はとても危険なのに……！
　ふと、大僧正の呪文の詠唱が止んだ。長い長い呪文なので、こんなところで終わるはずはない。見ると、大僧正はひざまずく巫女を見下ろしたまま目を見開いていた。大僧正の様子がおかしいのに気づいた前方の人々がざわめきはじめ、そしてそのざわめきはしだいに広まっていった。
　ひざまずいた巫女がゆっくりと瞳を開き、顔を上げた。深いエメラルドグリーンの瞳が大僧正を見つめていたが、その冷たさに大僧正は息を飲んだ。そして、声を絞り出すようにして呻く。
「ま……まさか、お前は……！？」
　巫女は不敵な笑みを唇に浮かべ、大僧正を見つめる瞳を少しだけ細めた。うれしそうに笑ったわけではないことは、大僧正はすでにわかっていた。大僧正は身体を引き、小さく呪文を詠唱しはじめた。それが防御術法を発動する高速呪文であることに、サーシェスは即座に気がついた。
　突然巫女の身体が赤い光に包まれ、それはまるで炎のように吹き上がると、壇上にいた大僧正を襲う。大僧正の張り巡らした障壁に弾かれ、それは派手に四散して広間内の壁に激突し、爆炎をあげた。この異常事態に気づいた人々はいっせいに悲鳴をあげ、我先にと争って逃げはじめる。式典が催されるはずの大広間は、大混乱に見舞われることとなったのだ。
「まさか生きていたとはな……水の魔導師ガートルードよ」
　大僧正は王と王女を守る障壁の中で法印を結びながら、不敵に笑ったまま冷ややかに自分を見つめる水の巫女を苦々しげに見返し、そう言った。水の巫女は黒髪を覆うベールをはずし、その見事な濡れ羽色の髪を掻き上げた。そのとき、顔の右半分を覆っていた前髪が揺れ、ちらりとその下に隠されていた右目が顔を出す。その瞳の色は真紅。イーシュ・ラミナの証であるエメラルドグリーンの左目とは対照的な、怒り狂う炎の色。
「その黒髪……その瞳の色……いったいどうしたというのだ。それにこれはいったい何のマネじゃ！？」
　聖賢五大守護神《ファイブ・ガーディアンズ》でもあり、伝説の聖騎士レオンハルトの妹としても名高い心優しき水の魔導師ガートルード。兄と同じ、美しい黄金の髪を持つ容姿が人々の賞賛を集めていたはずなのに、この闇よりも暗い黒髪はどうしたというのか。そしてこのすべてを否定するような凍てついた瞳は──！
「私はもう昔のひ弱な水の魔導師ではない。私はアートハルク帝国皇帝、火焔帝ガートルードだ！」
　ガートルードは乱暴に水の色をした装束をはぎ取り、叫んだ。ふわりと中空に舞う装束の下から、炎の色をした甲冑が姿を現した。それとほぼ同時に、再び広間から大勢の悲鳴が聞こえた。なんということか。広間の四方は、いつのまにかアートハルクの紋章のついた甲冑を身につけた戦士たちに囲まれていた。そしてその外側には、同じくアートハルクの紋章の入った装束を身につけた術者の軍団。
　逃げようとした人々は武装した戦士に剣で脅され、再び広間の中央に押し戻された。王の近衛兵が強行突破をしようとアートハルク軍の戦士に斬りかかったが、逆に斬り殺され、突然の流血沙汰にまたもや人々の間から悲鳴が上がった。もはや完全に包囲された広間からは、猫一匹入るどころか、何者も退場することはかなわない。
「いつのまに……いや、なぜいまさらアートハルク帝国が！？」
　アンドレ王はアスターシャをかばいながら問う。それに、ガートルードは再び黒髪を掻き上げて冷たい視線を投げかける。
「アンドレ・ルパート・ロクラン。あなたはご自分で思ってらっしゃるほど利口ではないということを自覚なさるべきだ」
　そしてガートルードは広間を包囲する配下を眺め、
「お祭り騒ぎに乗じて城に入り込むことなどたやすい。それとも二百年続いた平和のおかげで危機管理能力も鈍ったのか。我々は長い年月をかけて準備をしてきたのだ。今日この日、中央諸世界連合に反旗を翻すためにな！」
　再び爆炎があがり、大僧正は王と王女をかばいながら魔法障壁で防御する。黒い炎が障壁にぶつかり、悲鳴をあげた。だがガートルードの放つ術法に圧倒され、じりじりと大僧正の身体は後退していく。
「どうした、大僧正リムトダール。老いぼれたか。その程度では暗黒の炎など防げぬぞ」
　ガートルードは鼻で笑うと、法印を結んだ両腕を差し出した。瞬間的に術の威力が増幅され、魔法障壁がはじけ飛ぶと同時に大僧正の身体は宙を舞い、祭壇ごと壁に激突する。頭を打ち、意識を失って昏倒する大僧正を見届けると、ガートルードは王に向き直り、その細く長い指を突きつけた。
「それでは我々の要求を聞いていただこう。アンドレ・ルパート・ロクラン」ガートルードは王に指を突きつけたまま冷ややかに言い放つ。
「本日より我々アートハルク帝国は中央諸世界連合に反旗を翻す。要求は三つ。中央諸世界連合および中央を構成する国家をただちに解体すること」
「そんな馬鹿なこと、できるわけがあるまい」
　アンドレ王は低い声で唸るが、ガートルードはそれを鼻で笑う。
「確かにばかげている。五年前に廃墟となったはずの帝国の亡霊のたわごとなど、中央は本気にするまい。だからこそ、我々はわざわざこの派手なパフォーマンスを披露したのだ。本日より、中央行政の中心のひとつであるここロクランを、我々の占拠下に置く。フォリスター・イ・ワルトハイム将軍も、自分の直轄地が占拠されれば黙ってはおるまいからな」
「中央諸世界連合を甘く見ないほうがよいぞ、ガートルード。ロクランとの連絡が途絶えれば、ラファエラは即座に動く。お前たち過去の亡霊を瞬時に抹殺することなど、中央にとってはたやすいことだ」
　アンドレ王の威嚇を聞いたガートルードは、おかしくてたまらないといったように高らかに笑い声をあげた。
「それはこちらの台詞だ、ルパート・ロクラン。すでに我々は中央諸世界連合を離反したデリフィウス、レイアムラントをはじめとする辺境の国家群を抱き込み、連合軍を結成している。取るに足らない小さな国家ばかりではあるが、辺境に存在する部族の数と中央に対する恨みを考慮すれば、その戦力は中央のわずかな列強の比ではないことはおわかりだろうがな」
　そう言いながら冷たく笑うガートルードには、もはや伝説に残る水の魔導師のおもかげなどかけらも残されていないようだった。
「……辺境は中央への恨み言を盾に戦争をするつもりか、愚かな！」
「何とでも言うがいい。中央諸世界連合さえ解体できれば辺境の民は満足する。では第二の要求だ。三つに分かたれた『神の黙示録』の第二章を探していただきたい」
「なんだと！？」
　ロクラン王は声を荒げたが、ガートルードの冷たいエメラルドグリーンの瞳に睨まれ、身を固くする。ガートルードはロクラン王から視線をはずし、床に倒れたままの大僧正を見つめ、
「詳しくは大僧正リムトダールに聞くがよかろう。兄の親友だった男だ。五年前、アートハルク前皇帝ダフニス・デラ・アートハルクはイーシュ・ラミナの遺産の研究途中に偶然発見した『神の黙示録』第三章の解読に成功した。そしてそれはいまも我が手にある。そして行方の分からない第一章、第二章のどちらかは、おそらくリムトダールが持っているか、ありかを知っているはず。失われた神々の叡知のすべてが隠された貴重な文献だ。お前たち中央諸世界連合には手に余ろう」
「なにが目的だ。『神の黙示録』を手に入れて、失われた神々をこの世界に取り戻すとでも？」
　アンドレ王の嘲笑を無視し、ガートルードは続ける。
「最後の要求だ。二百年前に救世主《メシア》と我々聖賢五大守護神《ファイブ・ガーディアンズ》が施した、フレイムタイラントを封じる要石《かなめいし》を解放せよ」
「ばかな！？　第二の汎大陸戦争でも引き起こすつもりか！」
　アンドレはアスターシャをかばいながら叫ぶ。神々の叡知を記した『神の黙示録』とフレイムタイラント、このふたつを手に入れれば世界を掌握するどころか、再び人類を滅亡させることも可能だ。
「汎大陸戦争は終わっていない。少なくとも、『神の黙示録』が存在する限り」
　意味ありげにガートルードはつぶやくと、もう一度王に指を突きつけた。
「三日以内に我々の軍隊はアジェンタス騎士団領に進軍する。その次にはヘルディヴァ公国へ、そしてその次には光都オレリア・ルアーノ、中央の本部を掌握する予定だ。ここまでご丁寧に我々のスケジュールをお話ししているんだ、その意味がわからないわけはあるまい？　我々の要求はいま告げた三つだ。即座に会議を招集して中央へ打信しろ」
「ふざけるな！　そんな要求をのむわけにはいかん！」
　強情にはねのけるロクラン王の態度に舌打ちすると、ガートルードはその後ろにいるアスターシャ王女を見やる。冷たいエメラルドグリーンの瞳に見つめられ、アスターシャの顔から即座に血の気が引いていく。
「ルパート・ロクラン、私をいらつかせるのはやめておいたほうがいい。要求を通すまではお前は殺さない。だが、お前の娘には何の価値も見いだせないのでな」
　ガートルードの指が小さくうごめき、指先からあふれ出た黒い炎が膨れ上がる。王はアスターシャを抱きしめ身を翻すが、迫り来る暗黒の炎の術法を前に目を伏せた。そのとき、
「心正しき者の盾となり給え！！」
　甲高い呪文の詠唱が響き渡り、王の身体寸前で絶対魔法障壁が築かれた。暗黒の炎はそこで四散し、見事に砕け散る。ガートルードのすぐ後ろで、法印を結んだ両手を差し出しているサーシェスの姿があった。間一髪、サーシェスの放った絶対魔法防御が間に合ったのだった。
「遅れてごめん！」
「遅いわよ！！」
　アスターシャの安堵の叫びに、ガートルードは苦々しげに術者の姿を確認すべく振り返る。そして銀色の髪をした少女の姿を確認すると、ガートルードの瞳は大きく見開かれた。
「見つけたぞ！　サーシェス！！」
　ガートルードの叫びに呼応するかのようなすさまじい風圧が広間をなぎ払う。賓客たちはイスもろとも吹き飛ばされ、悲鳴が広間を支配する。サーシェスはやっとのことで防いだ未熟な魔法障壁でなんとか踏みとどまってはいたが、目の前に立ちはだかる邪悪な黒髪の女性に身体がすくんで動けなかった。
「見つけたぞ、サーシェス。どれほどお前を捜し続けたことか！」
　サーシェスの心を縛るほどの威力を持ち得る力強いガートルードの声。それに乗って、悪夢のイメージがサーシェスの頭の中を高速に駆けめぐる。黒い炎の中で自分に向けられた、憎しみにあふれた炎のような赤い瞳。手足が震え、指の先から急速に力が失われていく。
「なにを言っているの。私はあなたなんか知らないわ」
　嘘だ。自分はこの女性を知っている。何度となく夢に登場した、凍りつくほどの冷たい赤い瞳を忘れるわけなどなかった。
「……愚かな……また何もかも失ったというのか……！　記憶も、その身に宿る力も」
　憤慨したような声でガートルードが呻いた。しかし、語調に反して瞳は悲しげにゆがむ。サーシェスはその目に宿る苦悩と嘆きの色に驚愕せざるを得なかった。悲しんでいるのか。記憶のない自分を知っているから。「また何もかも」というのは、以前にもこんなことがあったのか。
　この女性は私を捜していると言った。身よりのない自分を、記憶のない自分を捜してくれていたのだ。恐ろしかったが、とても懐かしく、そしてうれしかった。まさか、心のどこかで彼女と会えたことを喜んでいる自分がいるなんて！？
「まあよい。すぐに記憶を開封してやる。来い、サーシェス、私とともに」
　ガートルードがサーシェスにゆっくりと手を差しのべた。細く白い指には、赤く染まった形のよい爪がよく映えていた。それを見たサーシェスの身体がびくりと震える。差し出されたその手とガートルードの顔を交互に身ながら、サーシェスは小さく首を振ることしかできない。
「……私が恐ろしいか。無理もない。だが、私とともに来れば失われた記憶も思い出すことができるぞ。そしてすべてをお前に話そう」
　ガートルードが目を細めながらそう言った。険しい表情からはうかがい知ることも困難かも知れないが、サーシェスにはその瞳の奥に隠された不思議な優しさが見えるような気がした。記憶を取り戻せる。過去のない自分を捨て、これまで生きてきた証を得ることができる。孤独に泣くことも、不安にさいなまれて過ごす夜も、これでもうなくなる。サーシェスはガートルードの手を取るべく、ゆるゆると手を差し出そうとした。そのとき、
「だめ！　サーシェス！！」
　アスターシャの甲高い声。金色の柔らかい髪と淡いスカイブルーの瞳が自分を見つめているのに気づいたサーシェスは、その手をはたと止めた。
「なんでよ！　私じゃだめなの！？　私じゃ役不足だっていうの！？」
　怒ったような、だだをこねる子どものようなアスターシャの叫び声。腹の立つような言動で人を傷つけるのが得意だった彼女が、記憶のない自分に友達になってくれと懇願した信じられないようなあの日のできごとを思い出す。ああ、神様、彼女は私の心の友なのです。彼女をひとりにしようとした私をお許しください──！　サーシェスは目を閉じ、名も知れぬ神々に許しを乞う。
「いや……私は行かない……！」
　サーシェスは首を振り、手を引っ込めた。アスターシャが安堵のため息をつくのが見えた。ガートルードは舌打ちしたが、その隙を狙ってアンドレ王が腰の剣を抜いてガートルードに斬りかかろうとしていた。
「引っ込んでおれ！　ルパート・ロクラン！」
　ガートルードが叫ぶと、衝撃波が王に襲いかかり、王は後ろにいた王女もろとも壁に激突した。サーシェスは驚いてふたりに駆け寄ろうとしたが、そのとき、自分の身体がまるで金縛りにでもあったかのように動けないのに気が付いた。ガートルードがそれを冷ややかに見下ろし、そして愉快そうに口元をゆがめた。ガートルードによる戒めの術法に違いなかった。
「愚かな……！　ただの人間ごときの情にほだされるとは……！　来い、サーシェス。なにがなんでもお前を我が元へ連れ帰るぞ」
「いやよ！　私は行かない！」
　ガートルードの術法により、動けなくなったサーシェスの身体の戒めがさらに強められた。息苦しさにサーシェスは小さくあえいだ。自分の意志に反して足が動き出し、ガートルードの元へと導かれるのに気づいたサーシェスは、渾身の力をもってそれに対抗すべく、歯を食いしばった。
「無理だ。術法に逆らえば身体が裂けるぞ。ほら」
　踏みとどまろうとする足の皮が裂け、血が噴き出した。サーシェスは小さく悲鳴をあげたが、ガートルードを睨むその瞳だけは力強く抵抗の意志を示していた。再びガートルードが舌打ちをし、
「強情な！　死にたいのか！」
　いらだつガートルードはサーシェスの腕を掴もうとしたが、そのときすさまじい雷撃が彼女を襲った。サーシェスの腕を放し、ガートルードは魔法障壁でそれを防ぐが、その瞬間にサーシェスは黒髪の文書館長の腕に抱き寄せられていた。
「フライス！？」
　サーシェスが抗議の声をあげた。フライスはサーシェスを自分の後ろにかばうと、背後から迫り来るアートハルクの兵士たちを術法ではじき飛ばす。
「すまない。外で立ち回りをしていたのでね」
　悪びれた様子もなく、フライスは乱れた黒髪を掻き上げて目の前に立ちはだかる火焔帝を睨み付けた。だが、そのときガートルードは黒髪の文書館長を放心したように見つめていた。大きく見開かれるガートルードのエメラルドグリーンの瞳。フライスを見つめたまま、その唇が小さく動いた。
「……レオンハルト……！？」
「なに？」
　フライスが聞き返すと、火焔帝は我に返ったように首を振る。なにかを振り切るような仕草にも見えた。サーシェスはフライスとガートルードのふたりの顔を交互に見つめ、フライス自身も不思議そうな顔をしてサーシェスを振り返った。
　ガートルードはフライスの身につけている法衣にラインハット寺院の紋章が描かれているのを確認すると、小さく鼻で笑う。
「ラインハット寺院の修行僧か！　この私に勝てるとでも思っているのか？」
「自信過剰は身の破滅を招くぞ、火焔帝ガートルード」
　珍しく挑発的なフライスの台詞を合図に、ふたりの間で術法が火花を散らした。フライスは魔法障壁でサーシェスをかばいながら、サーシェスに後ろに下がるように合図した。サーシェスはそれを受けて壁に打ち付けられて倒れているアンドレとアスターシャに駆け寄り、その身体を抱え起こした。
　ガートルードの放つ暗黒の炎は、やがて伝説に名高い双頭のドラゴンを形作り、フライスに襲いかかる。フライスはそれを余裕の構えで見届けると、両手で大きく円を描き、水の魔法障壁を作りだした。炎の竜はフライスの魔法障壁に激突すると苦悶の叫びをあげ、水の術法が作り出す氷の刃に触れて四散した。フライスが即座に魔法障壁を解くと、巨大な氷のヤリが姿を現した。切っ先の鋭い無数のヤリが、火焔帝目がけて襲いかかった。しかし、炎の魔法障壁がそれを阻み、捕らえられたヤリは吹き上げる暗黒の炎に巻かれて小さく悲鳴をあげながら四散した。
　サーシェスは目の前で展開される術法戦に目を見張っていた。伝説に語られる聖賢五大守護神《ファイブ・ガーディアンズ》のひとりでもあるガートルードの力のすごさを理解していたつもりだったが、それと同等に戦うフライスの実力に声も出せずにいた。術法に関する講義の中で、かつてフライスが言ったことがある。術法は感情のコントロールをはかるために、基本的に呪文の詠唱を伴う。救世主《メシア》をはじめとする優れた術者の中には、呪文の詠唱なしに術法をふるうことができる者もいるというが、いまサーシェスの目の前で戦っているふたりは、呪文を詠唱せずに高度な術法を展開している。高速に呪文を展開するための高速言語を使用することもなく。信じられない光景であった。
　大きな爆炎があがり、ふたりの術者が煙の中で対峙し、いったん体勢を整えているのが見えた。ふたりは息を荒くげることもなく、お互いを睨み付けていた。
「さすがだ。修行僧の身分でありながら、この私と同等の力をふるうことができるとはな」
　ガートルードが自嘲気味にそう言った。フライスは彼女の世辞を無視し、小さく円を描いた。間髪入れずに術法を展開するつもりなのだろう。
「待て」
　ガートルードがそれを制した。フライスは冷ややかに彼女を見つめ、いったん手を止めたが、いつでも術法を発動できる体勢を崩そうとはしなかった。ガートルードはそれを見ると、ぴたりとフライスに指を突きつけた。
「貴様、それだけの力を持ちながら、なぜ中央に媚びを売るようなマネをしている」
「なに？」
「知らないわけはあるまい。術者がもてはやされ、ありがたがられているのは、中央諸世界連合の中。中央でも高い地位にいる一部の者だけだということをな。辺境では、お前のような術者が石持て追われるがごとく迫害を受けているというのに、貴様はなぜこんなところで貧民層の上にあぐらをかいてその地位に甘んじている！？」
　フライスは一瞬身を固くした。滅多に表情に表さない冷静な文書館長であったが、珍しく動揺したような色が見えた。それを好機と見たか、ガートルードがたたみかけた。
「そう、わからないわけはあるまい。毎日どれだけの同胞が辺境で苦しんでいるか。お前も辺境の出身であろう。それとも中央に来てすべて忘れたつもりでいたのか」
「違う！　私が中央に来たのは、苦しんでいる辺境の民を救うための力を得るためだ」
　フライスの言葉に、ガートルードは狂ったような笑い声をあげた。ヒステリックな笑いに、サーシェスは小さく身を震わせた。
「きれい事を言うな。それこそ中央にいる者の欺瞞というやつだ。富める者が貧しい者を救いたい、それは持てる者が自分を満足させるために持たざる者に施しを与える自己満足に過ぎないのだということになぜ気づかない！？　お前の言っていることは、偽善以外のなにものでもないのに！」
「ふざけるな！」
　殊勝にも激したようなフライスの叫び。あの冷静な文書館長がこんなふうに叫ぶのは、サーシェスもはじめてだった。
「ではお前たちアートハルク帝国が辺境の肩を持つのはなぜだ。それこそ持てる者の欺瞞ではないのか！？」
　フライスの言葉に、ガートルードは険しい表情のまま、まるで自分に言い聞かせるかのように口を開いた。
「欺瞞などではない。私たちが本来あるべき姿を取り戻すためだ」それからガートルードは気を失ったアスターシャ王女を抱きかかえているサーシェスを振り返り、
「ではお前たちに聞こう。人間に等しく与えられるものとはなんだ？　金や名誉ではないということはわかっている。では生きる権利か？　違う。生きることも許されない人間が、辺境には数えられないほどいるからな」
　ガートルードに見つめられ、サーシェスはアスターシャを抱えたまま後ずさりする。自分の問いに答えられないのがわかっていたのか、ガートルードは小さく鼻で笑うと、
「『死』だ。すべての人間に等しく訪れるものは死以外にありえないのだよ。私なら新たな救世主として、すべての人々に死を平等に与えることができる。必要であればいつでも」
「狂ってる……！」
　サーシェスが小さく呻いた。ガートルードはそれを聞き届けると再び愉快そうに笑い声をあげた。
「狂ってる、だと！？　この私が！？　お前も私も、呪われた生を受けたということでは等しく同じだというのに！」
　ガートルードと自分が、呪われた生を受けた！？　サーシェスはガートルードの言葉に愕然とする。彼女は自分の何を知っているのか、彼女と自分のなにが呪われているというのだ。なぜ呪われなければいけないのか。
「おしゃべりはここまでだ。サーシェスは私が連れていく。邪魔はしないでいただきたい、修行僧殿」
　ガートルードは再びサーシェスに歩み寄る。それをフライスが術法を発動して阻止しようとする。迫り来る氷の刃を余裕ではじき返すと、ガートルードは右目にかかる前髪を掻き上げた。赤い炎の色をした瞳が顔を出した。フライスはその目に見つめられ、心の中を覗かれるような感覚に身をよじった。
「その身に中央への疑問と激しい怒りをいくつも秘めながら、なぜだ。貴様がこれまで見てきた光景が、いつかなくなると本当に思っているのなら、貴様は相当におめでたい奴だと思わざるを得ないな」
　フライスは赤い瞳にしばられたかのようにその場を動けなくなっていた。戒めの術法ではなかった。そんなものはフライスにとっては何の妨げにもならない。奥底に激しい憎しみをたたえたその赤い瞳が、自分の心の中を縦横無尽に走査しているような感覚に身動きがとれないのだ。
「ほう……そうか、サーシェスを愛しているのか。だが、どうかな。彼女は貴様の手に負える娘ではない」
　蛇に睨まれたカエルのごとく、身動きのとれないフライスの額を冷や汗が流れ落ちる。ガートルードはそれを愉快そうに眺めると、怯えるサーシェスを振り返る。サーシェスはアスターシャを強く抱き寄せ、火焔帝を睨み付けた。その様子にも満足したのか、ガートルードはひとり頷くように首を振ると、
「サーシェス、お前にも思い出させてやろう。中央がひた隠しにする辺境のありのままをな」
　次の瞬間、サーシェスの目の前でまばゆいばかりの光が炸裂し、彼女はとっさに目を伏せた。やがてゆっくりと目を開けると、目の前には闇よりも黒い闇が広がっていた。

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