Home > 小説『神々の黄昏』 > 第一章:黒き悪夢の呪縛 > 第二十九話:懺悔
そのあとのことは、俺はあまり覚えていない。ピアージュを連れて部屋の外に出たとき、スナイプス統括隊長は血塗れの俺を見るなり駆け寄ってきた。そして、何も言わずに俺を抱きしめてくれた。大柄な統括隊長は何度も何度も「バカヤロウが!」と悪態をついたが、泣いている俺を見てもらい泣きでもしたのか、そのあと声も出さずに涙を流し、ずっと俺を抱きしめたままだった。
たぶん俺はそのまま、スナイプス統括隊長の腕の中で気を失ったんだと思う。
担架で運ばれていく間のことは少しだけ覚えている。薄れていく意識の中で、隊長とピアージュがずっと側にいたこと。隊長がずっと俺に話しかけてくれていたこと。いまではもう、何を話しかけられていたのか、まったく覚えていないけれども。
何もかもが終わったと思った。少なくとも、アジェンタスでの事件はこれで解決したんだ。
でも──。
「ガラハド提督が辞任したよ」
報告にいく途中の道すがら、セテの顔を見るなりスナイプスがそう言った。セテは驚いてスナイプスの顔を見返した。
「いや、正確には辞任する意志を表明して、辞任届が受理されたってだけの話だがな」
「……そうですか……」
セテは落胆したようにため息をはき、そしておそらくはこれが最後の報告になるのだろうと思いながら、ガラハドの執務室へと足早に歩いていった。そのあとを、スナイプスも無言でついてきた。
術法で貫かれた右肩の傷を、セテはまた術医を脅して無理矢理治療させた。ラファエラがうるさいので三角巾で腕を吊ってもらったが、もうふつうに剣を振るうことができるので、実際には形ばかりのけが人だった。
長い長い、ふつうでは考えられないほどの量の報告書を書きながら、セテは今回の事件についていろいろ考えたつもりだった。だが、考えれば考えるほど、あのときの悪夢の光景がフラッシュバックしてしまい、非常に気分が悪くなる。ただでさえ、今回は彼にとって初めてのことが多すぎた。
初めて親友を目の前で亡くし、初めて人を憎み、初めて人に憎まれ、そして初めて、人を殺した。
ガラハドの執務室には、直属の上司である「鉄の淑女」ラファエラ・フォリスター・イ・ワルトハイム将軍と、かつての上司、ガラハド提督がセテを待ちかまえていた。ワルトハイム将軍はいつか見たときと同じような真っ赤なスーツを着て、とても華やかな感じがした。ガラハドはいつものえんじ色のアジェンタスの制服を着用していたが、彼がこの後、この制服を脱いでいったいどうなるのだろうと思うと気が気ではなかった。
セテはふたりの上司に敬礼をし、そして分厚い報告書のファイルを手渡した。
形ばかりの報告と、形ばかりの相づちが続き、セテは内心うんざりしながらも注意深くガラハドの様子をうかがっていた。だが、彼は動じた様子もなく、いつもの威厳にあふれる姿勢のまま、セテの報告にひとつひとつ頷いているだけだった。
「以上です。それでは失礼いたします」
再びセテが敬礼をし、部屋を出ようとしたとき、ガラハドがその背に声をかけた。セテは胃のあたりがきゅっと痛くなるような感覚を覚えながら返事をし、振り返った。しかし、そのときのガラハドの表情はとてもすがすがしく、なにか憑き物が落ちたような感じさえ受けた。
「今回の件で、お前の働きはとても見事だったぞ、トスキ」
「ありがとうございます」
セテは感情のこもっていない声で返事をした。ガラハドは少し困惑したような表情になって、セテをいっそう不安にさせた。
「……私を軽蔑しているだろうな」
「いえ、閣下。そんなことはありません。俺は、あ、いや、私は閣下のご判断はとてもすばらしかったと思います」
「世辞はいい」
ガラハドは苦笑しながらセテの言葉を遮った。隣でラファエラが、古い友人を温かく見守っているのがなによりの救いとセテには思えた。
「私は辞任することにしたよ」
ガラハドのひとことに、セテは知ってはいたが、驚いた素振りだけをして見せた。
「霊子力炉の件に関しては、すべて、ラファエラとその調査チームに引き継ぐことにした。すべての真実が明らかにされるのはそう遠くないだろう。私も、これで肩の荷が下りた。私なりに思うところがあってね、実は古い知り合いにイーシュ・ラミナの遺跡やなんかを研究しているのがいるんだが、そいつとともに研究をしようと思うのだ。こう見えても、私はもともと学者肌の人間なのだよ。しかるべき償いをしたのちには、世界のためになることでもしようかなと思っている」
セテはなにも言えなかった。騎士団の制服を脱いだガラハド提督など、見たくもなかったし、考えたくもなかった。だが、おそらくそれが彼の償いの証なのだろう。償い……。誰のために? コルネリオのため? その妹のハルナのため? それとも、アジェンタスのため?
例えば、サーシェスがもしハルナと同じ目に遭ったからといって、自分はアジェンタスの人間すべてを憎むことができるか。たぶんそこまですることはなかっただろう。きっとどこかに怒りのはけ口を見いだして、法に任せていたに違いない。
法に……? では、コルネリオはどこにその怒りをぶつければよかったのだろう。誰に復讐すればよかったのだろう。
時のグレイン提督にか。それを容認してアジェンタス騎士団長を引き継いだガラハド提督にか。なにもしらないアジェンタスの人間にか、吐き気がするほど恐ろしい装置を編み出したイーシュ・ラミナにか。
たぶん、憶測でしかないのだけれど……。
コルネリオは、「人間」そのものを憎んでいたのではないだろうか。そしてつまり、自分をも殺してしまいたいほどに嫌悪していたに違いない。彼が言ったように、自分が狂っているのだと認識できるくらいに……。
「お前の処遇なのだが……」
話が急に自分に振られたので、セテは驚いて再び敬礼をする。横でラファエラがくすくすと笑っている。
「この七月にアジェンタス騎士団に出向という形になっていたが、それは建前だ。もともとラファエラはお前を手放す気などさらさらなかったようだし、お前をアジェンタスへよこしたのも、もともとは特使としてのアジェンタスにおける作戦の一環だったわけだからな。アジェンタスでのお前の行動については私がラファエラから全権を委任されていた。お前は最初から名実ともに、中央特務執行庁の人間だ。今後もラファエラの指示に従ってほしい」
一杯食わされたらしい。ラファエラを仰ぎ見ると、これまたうれしそうにくすくすと笑っているので、セテは鉄の淑女に顔をしかめてみせた。
「あなたは中央特使として初の任務を、十分に果たすことができました。例え上司の命令を無視しても、単独行動で突っ走っても、上司の忠告を鼻であしらっても」
次々とあげつらわれるセテの悪行の数々に、後ろで聞いていたスナイプスが吹き出した。
「とてもすばらしかったわ。おめでとう。あなたはこれでやっと、十分に我々の作戦をこなすことができる一人前の特使として認められました。一週間の特別休暇ののち、ロクランでの任務に就いてもらいます。異存は?」
ロクラン。一年待たなければ帰れないと思ったロクランに、こんなにすぐに帰れるとは。セテの顔はほころんだが、すぐにその顔が沈んだのを見て、ラファエラが心配そうに首を傾げた。
「異存はありません。ですが、私のほうからもいくつかご提案とお願いがあります」
「言ってご覧なさい」
ラファエラはセテを促した。セテはまず、ポケットの中に手を突っ込み、手応えがあったのを確認すると、手のひらにそれを載せてふたりの上司に差し出した。透明な四角いケースが姿を現した。
「なんです? それは」
「……いまわの際に、コルネリオが私に手渡したものです。よくわかりませんが、確か『神の黙示録』の一部だとかなんとか……」
「『神の黙示録』!?」
ラファエラとガラハドは同時に声を荒げた。ガラハドはラファエラの顔を不安そうに見つめ、それを受けてラファエラがセテの顔をじっと見つめた。
「なぜこれをあなたに? いえ、なぜコルネリオがこんなものを……」
「わかりません。それはおふたりにお預けいたします。今後の研究にお役立てください」
そうセテに言われ、ラファエラはガラハドを見つめてため息を吐いた。
「……確かに、中央諸世界連合の管轄ではありますけど……これをあのこまっしゃくれたハートマンの坊やに渡すのは納得がいかないわ。ガラハド、しばらくこれをあなたに預けておくことにするわ。あなたのご友人なら、あのハートマンのくそガキよりも研究成果が出そうだし、もっと有用に使うことを考えるでしょうからね」
くそガキという言葉を口にしたラファエラは、言い終わった後に「しまった」というような顔をしたが、セテは内心ホッとしていた。それからセテは再び顔を引き締め、最後のお願いとやらを口に出す覚悟をする。
「それからお願いですが……ふたつあります。まずは十七年前に起こったという、今回の事件に非常に酷似した事件についてのファイルを見せていただけませんか」
言われて、ガラハドの表情がこわばったのをセテは見逃さなかった。それをフォローするかのように、ラファエラが口を挟む。
「その事件については、あまり記録が残されていないのですよ。残念ながら。ただし、中央諸世界連合に帰れば、何らかの報告書が残されているはずです。この件に関しては私から追って連絡をします。それでいいですね」
有無を言わさぬラファエラの口調。なにか引っかかるものが感じられたが、彼女の口調はそれ以上の詮索を許さないものだった。セテはしかたなく頷き、もうひとつの要望を出した。
「最後のお願いは……私は一週間の特別休暇をいただいている間に、ある人物を探そうと思っています。もしご存じでしたらその人物の行方を教えていただきたいのです」
「誰だね、それは」
ガラハドが興味深そうに尋ねた。
「聖騎士《パラディン》レイザーク殿です」
「レイザークですって!?」
鉄の淑女が頓狂な声をあげたので、セテもガラハドも、後ろで見ていたスナイプスも大いに驚いた。
「あの、あなた、レイザークに会って何をするつもりなのです」
ワルトハイム将軍がおかしさをこらえきれないといった状態で尋ねるのに対し、セテは内心ムッとしながら答えた。
「その件に関してはお答えする義務はないと思いますが……」
まさかと思うが、中央特務執行庁まで俺がレイザークに負けたことが噂になっているのではないかと、いささか被害妄想的な発想でセテは上司を見つめた。ラファエラはひとしきり笑ったあと、目尻からこぼれ落ちる涙を拭い、こう言った。
「レイザークはね、私の死んだ夫のいちばん下の弟ですよ。つまり、私の義弟」
「はぁ!?」
いやな予感はあたった。鉄の淑女は、俺がレイザークに負けたのを知っているに違いない。恥ずかしさのあまり、セテの顔が瞬時に赤くなった。
「でも残念。あれは風来坊ですからね、つい最近まではロクランでウロウロしていたんですが、いまはどこで何をやっているかは私も知らないのですよ」
「はぁ……」
風来坊か。そう言われてみればそんな感じのする男だ。果たして一週間の休暇だけであの男を捜すことができるのだろうか。
アジェンタス騎士団に入る前までは、絶対にレイザークに再戦を挑み、恨みを晴らすつもりでいた。それはつい先日まで変わらなかった。だが、いまは戦うことを抜きにして、あの聖騎士に会ってみたい。それは、十七年前の事件の真相を本人から聞きたいというのもあったが、もっと違う意味で、単に聖騎士であるレイザークの素顔を見てみたいとも思ったからだ。
「あの……それから閣下」
「なんだね」
セテはおそるおそるガラハドの顔色をうかがいながら尋ねる。
「あの少女の……ピアージュ・ランカスターの処遇についてはどうなさるおつもりですか」
「ふむ……」
ガラハドは小さくため息をつき、セテの顔を見つめた。
「あの少女には『記憶改変の儀』を受けてもらう。例え操られていたとはいえ、あれだけのことをしでかしたんだ。本人もひどく反省しているし、忌まわしい記憶を捨て、まったく新しい人生を歩むほうが彼女にとってもいいだろう」
セテが心配そうにしているのを見て、ラファエラが付け足す。
「心配はありません。前頭葉をいじってどうのこうのという、シュトロハイムみたいな非人道的な処置をするわけではありません。この事件に関するすべての記憶を、術法を使って消去するだけです。彼女は年頃の娘として、青春を謳歌しながら生きる権利があるのですよ」
「そうですね。寛大な処置、ありがとうございます」
セテはふたりに頭をさげ、執務室を後にした。
セテは歩きながら中央特使の黒い制服の詰め襟をゆるめ、それから廊下の窓を少しだけ開けて、上空に見える偉大なるアジェンタス山脈を見上げた。山々から吹き下ろしてくる少し冷えた風が、肌に心地よかった。
「俺のことも……忘れちまうんだろうな……」
生きてさえいればそれでいい。それでも、セテは自分のことを忘れられるのが途方もなく寂しかった。
親愛なるサーシェスへ
サーシェス、お元気ですか。
以前に手紙をもらってから、もうずいぶん返事を出していなかったので、とても心配しているだろうと思います。俺は大丈夫、なんとか無事に過ごしています。
アジェンタスに来てから、俺は生き方も考え方も変わった。それくらい、いろいろなことがあって、サーシェスに話したいことが……聞いてもらいたいことがたくさんあるんだ。
俺自身、あまりうまく伝えられないんだけど……最後までできるだけ気をしっかり持って読んでほしい。
レトが死んだ。俺のせいで。
初めて人を殺した。人の血が、こんなに嫌な臭いがして洗っても落ちないものだなんて知らなかった。
人を殺したとき、一瞬その快感に身を任せた自分がいた。
それから、初めて人を憎んで、初めて人の心の醜さに触れた。
どれもすごくショックだった。
俺はこれから一週間の特別休暇をもらった後、すぐにロクランに帰れる。とてもうれしいんだけど、こんな気持ちのままロクランに帰って、君に話をすることなんてできないような気がする。
作戦が終了して、やっと夜ぐっすり眠れるようになったと思ったら、ひどい悪夢に毎晩うなされるようになった。
たぶん、俺の中の罪悪感がそういうふうに見せているんだと思う。だから……俺は救いを、赦しを求めたいんだ。
お前が人を殺したのは、正義のためだったのだと、それは正しい行い、正しい選択だったのだと、誰かに言ってほしいんだ。
サーシェス、俺は君にそう言ってもらいたい。ウソでもいいから、俺は自分のやってきたことが正しいものだったと信じたいんだ。
珍しくセテは制服を脱ぎ、普段着でアジェンタスの首都アジェンタシミルの繁華街にある居酒屋に顔を出した。高級さも上品さも縁のない、いたってふつうの飲み屋なのだが、ここは鬼の統括隊長スナイプスのお気に入りの場所だという。
「おーい、セテ! こっちだ、こっち!」
アジェンタス騎士団の同僚や先輩たちが、入り口から入ってくるセテを見つけて手を振った。自分のために集まってくれたアジェンタス騎士団の面々と、ラファエラ、そしてスナイプス統括隊長を見て、セテの顔は自然とほころんだ。
およそ一時間ほど遅れての主賓の登場だった。すでにできあがっているメンツを見て、セテは苦笑した。ラファエラは若者に囲まれてうれしいらしく、いつもの話術も酒に乗って絶好調のようだ。その姉御的な口調が若者には刺激的なのか、いささかシスターコンプレックス気味の連中がラファエラを囲んでいたのには笑えた。また、スナイプスの隣の席、いわば彼の利き腕のある右側が空いていたのには吹き出しそうになった。先輩や同僚の話によると、スナイプスは酔うと必ず飲み比べをしたがり、そうでなくても自分の右隣に座ったやつをバンバン叩く癖があるのだという。
セテは進んでスナイプスの右隣の空いている席に腰掛け、そしてウェイターにアジェンタスの地ビールを注文した。
「それでは、晴れて中央特使に返り咲きとなった、わがアジェンタスの英雄、セテ・トスキ君の栄誉を祝いまして!」
お調子者で有名な同僚のひとりが杯を掲げ、派手な乾杯が行われた。セテは久しぶりに口にする酒がうれしくて、つい一杯目のビールを一気にあおってしまう。それを見た先輩連中がはやし立て、セテは二杯、三杯とビールを一気飲みさせられるハメとなった。
そういえばレトがいたころは、休みの前の夜はずっとこんな調子だったなあと思いながら、セテは新しいビールに口を付けた。
「どうだ、晴れて中央特務執行庁の人間に戻った気分は?」
横にいたスナイプスが尋ねた。少し前なら嫌みともとれた言いぐさだったが、セテはその言葉の裏に隠された気遣いがうれしかった。
「ええ、まあ、あまり実感はわきませんよ。これまでとたいしてやることが変わるわけじゃありませんし」
「そう言うだろうと思ったがな」
スナイプスはそう笑うと、大皿に乗った鶏肉を掴み、豪快に口に運んで食いちぎってみせた。
「特使になったからって、俺の教え込んだことを忘れるんじゃねぇぞ」
「はい」
「上官の命令は絶対だ。命令違反は厳重に処罰されるからな」
「はい」
「単独行動で目立つことばかり考えるんじゃねぇぞ」
「はい」
「それから……酒はほどほどにしとけよ」
「はい」
セテはスナイプスのひとことひとことに笑いながら返事をした。珍しくスナイプスは上機嫌だった。ふたりは同時に酒をあおり、そして顔を見合わせて笑う。スナイプスはもう一度鶏肉にかぶりつき、酒でそれを流し込むと、これまた豪快なげっぷをしてセテを驚かせた。「失敬」とスナイプスは笑ったが、それからしばらく考え込むような表情をして手元の杯を睨んでいた。
「……貴様は……大丈夫なんだな? トスキ」
「……なにが?」
スナイプスの言いたいことは分かっていた。だがあえて、セテは分からないフリをした。
認めたくなかった。一瞬でも人を斬る快感を覚えたこと、狂戦士《ベルセルク》と化した自分の狂気と殺意に歯止めが利かなくなったことなど……! あの血の海を、死体の山を、あのときの情景を、思い出しただけでも気が狂いそうになる。
「……貴様が大丈夫ならそれでいい……」
スナイプスはセテの顔を見、それから目を細めて遠くを見るような表情をしてみせた。
「……親父さんのこと、知りたがっていたな……。教えてやろうか」
セテは顔を上げ、スナイプスを見つめ返した。顔も知らない父親。母ですら、その話をしてくれなかったというのに。
「と言っても、ほんの少しだけだ。俺の口から詳しいことは言えないからな。お袋さんから聞け。いや、彼女が話す気になったらの話だが……」
セテは震える手で杯を掴む。なにかを触っていなければ気が済まないような気分だった。ただ、目だけはスナイプスをひたと見つめた。
「……貴様の親父さんはな、聖騎士《パラディン》だったんだよ」
「な……!」
セテの手から杯が離れる。ガチャンと大きな音をたててグラスが割れ、一瞬宴会の騒ぎがぴたりと収まった。セテは「すまん」と取り繕い、店の者が割れたグラスを片づけた後、震える手でまた新しい杯に手を伸ばした。
「ああ、立派な聖騎士だった。たぶん、いま生きていればレオンハルトクラスのものすごい実力を持った騎士だろうな。あ、レオンハルトももう死んじまってるな。ま、いっか、とにかく貴様の使っているその剣はな、親父さん自慢のすばらしい剣だ。大事にしろよ」
飛影《とびかげ》。父親の、聖騎士だった父親の形見。それなのに俺は、その刃がぼろぼろになるまで人を斬り続け、そして……。
「俺が言えるのはここまでだ。とにかく、これからがんばれよ。調子に乗りやがるからあんまり言いたくないが……貴様は……親父さんから預かった大切な息子だ」
セテはそこで思い出した。気を失った自分が担架で運ばれるとき、スナイプスがなんと言っていたかを。
「貴様は俺の……息子みたいなモンなんだからな」
涙が出てきた。それを認めるのが悔しくて、セテはうつむいたまま杯に口を付け、そしてそっぽを向いてビールをあおった。横でスナイプスが照れ隠しに鶏肉にかぶりついて、見えないフリをしてくれているのが無性にうれしかった。
だが……あの老婆は最後になんと言った。お前の父親は生きている……! 確かにそう言ったはず……!
「おーーい、セテ〜! な〜に深刻な話しちゃってるんだよ〜」
ベロンベロンに酔っぱらった同僚がスナイプスとの間に入ってきて、空いたセテの杯におぼつかない手つきでビールをついだ。スナイプスがその部下を軽くつつくと、足取りもおぼつかなかったその青年は派手に転げたため、同じくベロンベロンに酔っぱらった宴会の席で激しい笑いが起こった。
「よぉ〜〜し、貴様らに喝をいれてやる! 俺と飲み比べして勝ったヤツは、明日から年俸を倍にしてやるぞ!」
スナイプスの飲み比べが始まった。宴会の席は盛り上がり、我こそはという部下がこぞって集まってきた。まずはセテと仲のよい先輩が参戦表明をした。店でいちばん強い酒が運ばれてきて、スナイプスと青年の飲み比べが始まったのだが、ものの数分もしないうちに青年がダウン。それから次々と先輩たちや同僚がスナイプスに挑んだが、見事に負かされてしまった。
「もっと骨のあるヤツはいないのか? 貴様ら、だらしないぞ!」
スナイプスはげらげらと笑い、床にダウンする部下たちを指さす。
「俺が」
セテはスナイプスの横に座り、宴会の席はいっそう沸いた。新しい杯が運ばれてきて、まずはセテが一杯。恐ろしくアルコール度数の高い酒なのに、セテは顔色ひとつ変えずにそれを飲み干し、杯を逆さに向けて卓においた。アジェンタス騎士団だけでなく、ほかの客からも声援や野次が飛ぶ。それを見たスナイプスは不敵な笑みを浮かべながら、杯に手を伸ばす。こちらも難なく杯を空け、二杯目がふたりの目の前に運ばれてきた。
三杯、四杯、五杯と、ものすごいスピードで飲み比べは続いた。しかし、セテは顔色ひとつ変えないのに対し、どんどんスナイプスのスピードはさがり、負け惜しみに近い台詞も飛び出してくる。それも呂律が回らなくなってきた。
「勝負はついたな」
セテがにやりと笑い、席を立つ。
「待て、逃げるのか!? まだ勝負はついておらんぞ!」
スナイプスがセテを追いかけて席を立ち上がったそのとき、彼の身体は大きく傾いで、そのままテーブルの上に派手に倒れた。店の中は大喝采だった。
あれほど強い酒を飲んでも、俺は満足に眠れやしない。夜ひとりになるのが恐ろしくて明かりを消さずにおき、眠れぬまま朝を迎えることがほとんどだ。
目をつぶれば、赤い液体につかった内臓やら肉の塊やらがまぶたの裏に浮かんできて、恨めしそうに俺ににじり寄ってくる。そこで俺は悲鳴をあげて、浅い眠りから解放される。起きていれば、暗闇のなかに誰かが潜んでいるような感覚に囚われ、その気配が消えるまで部屋のなかのものをひっかきまわす。
俺はあれから気が狂ってしまったのではないかと思う。
コルネリオはいまわの際、きっと俺に最強の呪いをかけたに違いない。俺はガキみたいに闇の中で震え、そして、罪の深さにひとりでバカみたいに泣いていることしかできないんだ。
これが俺の罪の証なのか。
コルネリオの言った、呪われた人生の始まりなのだろうか。
頼むから誰かに懺悔を聞いてほしい。そして許しを乞いたい。
この悪夢の呪縛から、俺を救い出してほしい──!