Home > 小説『神々の黄昏』 > 第一章:黒き悪夢の呪縛 > 第二十七話:霊子力炉
炎をまとった蛇が大口を開けて牙をさらし、目の前に立ちはだかっていた。正確には蛇などではない。伝説のドラゴンにも似た固いウロコに全身を覆われた長細い身体に、コウモリのようなしっとりとした羽をもち、汚らしい毒液を吐き散らさんばかりの醜悪な顔。それは人の顔にもよく似ていて、見る者を嫌悪させる。そいつは今一度狂ったような雄叫びをあげると、まっすぐに自分を睨み付けている術者に突進してきた。
「フライス!!」
茂みの脇で見ていたサーシェスが叫ぶ。だが、黒髪の術者は平然とその動きを見届けているだけだ。
炎の化け蛇は鎌首をもたげ、そして悪臭を放つその口から火の玉を吐き出した。おそらくはレベル5程度の術法。並の術者にそれを防ぐのはやっかいだ。
フライスはいつものように、腹立たしいくらいの冷静さで小さく両手で水の法印を結びながら、小声で呪文を詠唱している。その平然とした態度から見れば、まるで術の訓練でも行っているような余裕さがうかがえた。化け物の吐き出した燃えさかる炎の玉は、轟音をたててフライスに襲いかかるが、彼の目の前でそれはあっけないほどに四散した。いつもながらフライスの魔法防御は鉄壁だとサーシェスは思った。
そのすぐ後ろでアスターシャが悲鳴をあげた。金髪の姫君はフライスにかばわれるような形で守られているにもかかわらず、派手に悲鳴をあげたので、サーシェスにはフライスの後ろ姿が少し怒っているようにも見えた。だがそれも一瞬のことで、黒髪の修行僧は攻撃術法の印を完了した両手を差しのべ、水の呪文詠唱を完結した。
「悪しき者どもを殲滅せよ!」
上級術法の発動。無数の巨大な氷の刃が、炎のウロコに覆われた化け物の身体を突き抜けていく。氷の刃は化け物の炎を無効にするばかりか、皮膚を突き破り、その体内を絶対零度にも近い温度で凍てつかせているに違いなかった。
苦悶にのたうち回りながら、やがて化け蛇は断末魔の叫びをあげ、そして霧散していった。彼らモンスターの死体はこの世界にとどまることは少ない。偉大なる一族《イーシュ・ラミナ》の結界のほころびを見つけて実質化したものの、力が弱いためにほとんどが結界の向こうでひっそりと消滅しているのだという。おかげでラインハット寺院の中庭は、いつもの静かな庭園の姿を取り戻すことができた。騒ぎを聞きつけた寺院の下男たちが、大声で何か連絡を取り合いながらバタバタと駆け寄ってくるのが見えた。
「最近炎の属性を持ったモンスターばかりがやけに暴れているが……」
フライスはそうつぶやくと、何事もなかったかのように少しだけ乱れた黒髪を掻き上げ、そして化け物の消え去った後を見つめる。
「……暗黒の炎の結界もそろそろ危ないのかもしれん……」
サーシェスはフライスの言葉を聞いて背筋が寒くなるような気がした。
暗黒の炎。かつて、イーシュ・ラミナは自然界を構成するさまざまな要素に属性を割り当て、しかもそれを人為的にコントロールすることができたというが、それらのなかには暗黒の属性を持つものも少なくない。その最たるものが「火」の属性で、伝説の火竜フレイムタイラントは暗黒の炎の属性を持つ史上最強の神獣だったといえる。世界を焼き尽くそうとしたフレイムタイラントほか、暗黒の属性を持つ炎の化け物はすべて、ほかの属性を持つモンスターもろとも大戦後には再び聖賢五大守護神《ファイブ・ガーディアンズ》に封じられたが、果たして二百年後の今日、さまざまなモンスターが結界のほころびを見つけてこちらで実体化している。結界自体が寿命なのか、あるいは意図的に何者かが結界を解こうとしているのか。
コホンと小さく咳払いがしたのでふたりが我に返ると、フライスの後ろでさきほどまで派手に悲鳴をあげ、足腰が立たないために座り込んでいたアスターシャ王女が、フライスとサーシェスを睨み付けていた。彼女なりの抗議のつもりなのだろう。アスターシャはもったいつけたようにフライスに自分の手を差し出した。
「お怪我はありませんか。姫」
フライスはアスターシャの手を取り、彼女の身体を引っ張り上げてやる。そんなしぐさまでもが優雅で、サーシェスはいつも、フライスはわかっていてそういうふるまいをしているのではなかろうかと思う。もちろん、彼にそういう計算づくなところなどありはしないのだが。
「さすがフライス様だわ。あれほどのモンスターも一撃でお倒しになるなんて」
フライスの優雅なしぐさに満足でもしたのか、アスターシャはにっこりを微笑んで頷き返した。ついでにちらりと横にいるサーシェスに目配せする。その勝ち誇ったような表情にサーシェスは驚くが、フライスはそんなことを知る由もない。
「ロクラン城までお送りしましょう。ただいま馬車の手配をいたしますからどうぞこちらへ」
フライスはアスターシャをうながし、そのまま寺院の中へと入っていってしまった。
「なによ、あれ」
まるでサーシェスなど目にも入らないといったフライスの行動に、サーシェスは内心ひどく腹を立てながらふたりの背中を見送った。小声で小さく悪態をつき、それから仕方なく自分の部屋へと向かう。
なんだか気分が悪い。
アスターシャがサーシェスのところへ遊びに来るのは、半分はフライスがお目当てだということも知っている。今日もフライスを見るためにサーシェスを引っ張り回し、寺院内をかけずり回っていたところだ。だが、そこにさきほどの炎の化け蛇が突如姿を現し、間一髪のところで次期大僧正候補の超絶カタブツ男フライスが間に合ったのだった。
アスターシャはかわいいと思う。自分のように表情や本心を隠したりすることがない。自分の前でももちろんかわいいが、フライスの前ではもっとかわいい。素直に「あなたが好きなのよ、私」と声で、身体で、目つきで、全身を使ってアピールできる彼女がうらやましい。私にはできない。サーシェスは思った。多分アスターシャの攻撃もフライスには通用しないが、もし自分がそんなことをしたら、熱でも出たのかと気味悪がられてしまうだろう。
サーシェスは自室に戻ると、本棚から一冊の古びた本を取りだした。ぼろぼろの味気ない表紙。隠すように本棚に閉まっておいたそれは、先日骨董品店のジョーイから買った、汎大陸戦争前のものだという雑誌である。小さなしおりを挟んだそのページには、黒い甲冑を身にまとった剣士。
最近サーシェスは、一日に何度となくこのページを開いてこの剣士に見入ってしまう。姿格好がフライスによく似ているのに、フライスとはまったく違う。フライスが氷のような雰囲気をまとっているとすれば、この剣士はさながら太陽の光。同じ顔をしているのに、この剣士は見ている者の心を安らげる力を持っているのではないかと思ってしまう。
安らげる? 私は何を考えているのだろう。フライスは安らぎを与えてくれないとでも?
サーシェスは首を振り、丁寧に雑誌を閉じる。そしてまた隠すように本棚に立てかけると、小さくため息をついて窓の外を眺めた。
子どもの泣き叫ぶ声が聞こえる。あたりは真っ暗闇で、ああ、またこれは夢の中なんだと、いい加減私にも判断がつくようになってきた。
三〜四歳くらいの子どもが火のついたように泣き叫ぶのを、膝に抱えたままうずくまっている女の人がいる。
後ろから声をかけられて、女の人はその子を抱きかかえたまま振り向く。彼女の目の前にはフライスにそっくりの、あの黒い甲冑の騎士が立っていた。心配そうな顔をして。
彼女は冷たい表情のまま、足下に横たわるなにかに視線を落とす。私は思わず凍りついた。それは胸から大量の血を流し、悲痛な叫びを顔に張り付けたまま息を引き取った女性の死体だった。無惨なその姿に女の人も目をひそめる。おそらく、泣いているこの子の母親だったに違いない。
彼女は低い声で何かをつぶやいた。怒りに震え、憤りをあらわにした声だった。
黒い甲冑の騎士は、彼女の胸で泣き叫んでいる子どもを引き取り、そして、死んだ母親の死体のそばに腰を下ろし、見開いたまぶたをそっと閉じてやる女性の姿を見つめていた。
戦場のど真ん中なのだろうか。騎士と女性のすぐそばで激しい爆音が轟き、煙の合間からは、はるか上空をものすごい勢いで飛んでいく巨大な鳥のようなものが見え隠れしていた。
突然あたりが明るくなる。いや、明るくなるというのは正確ではなかった。するどい閃光とともに爆発音がし、赤々と燃えさかる炎が女性の姿を照らし出す。
私はその瞬間に息を飲む。照らされたのは長い銀の髪。爆風にさらされ、赤い炎の光に照らされながらも、その髪は銀の光を失うことはなかった。そう、あれは確かに!
そして彼女は黒い甲冑の騎士を振り返る。再び爆音がして、赤い炎が彼女の顔を照らした。まぎれもなくそれは。
サーシェス……! 私の顔。
「……これが正義か……?」
激しい怒りに震え、顔面蒼白の彼女=私は、誰に言うとなく激しい口調で叫ぶ。拳を握りしめ、立ち上がった彼女の手のひらから一筋の血が伝っていく。私の手にも鋭い痛みが伝わってくるようだった。
「だとすればなんのための正義だ!? それならば私は」
「サーシェス」
誰かが肩に触れる気配を感じて、サーシェスは大袈裟なくらいに驚き、目を覚ました。どうやら部屋でうたた寝をしてしまっていたらしい。眠気まなこをこすりながら声の主を仰ぎ見ると、心配そうな顔をしたフライスが覗き込んでいた。
あわててサーシェスは身体を起こす。先ほどふてくされて机で本を読んでいたときに、そのまま眠ってしまったのだろう。ほおづえをついていたので、首も頬も腕もしびれて痛かった。
「何の用?」
さっきのアスターシャとの一件を思い出し、なるべく険悪に聞こえるように冷たく言い放つ。フライスは小さくため息を付いたような顔をして、
「いや、別に」
と、いつものぶっきらぼうな言いぐさで返事をした。
「用もないのに、勝手に女性の部屋に入り込まないでよ」
サーシェスはさらに冷たい言葉でたたみかけながら、読んでいた本を書棚に戻す。
「……なにをそんなにプリプリしてるんだ」
「プリプリなんかしてないわよ」
「……そうか」
フライスは肩をすくめて答えた。その言いぐさが妙に腹立たしかったので、サーシェスは振り返って黒髪の文書館長を睨み付ける。
「用がないならとっとと出ていってよ。私、忙しいの!」
にべもない言葉に、フライスは再び肩をすくめ、部屋を出ていった。サーシェスは大袈裟にため息をつき、そして手近にあった本をベッドに投げつける。
なぜあんな態度をとってしまったのか、自分でもわからない。なにが気に入らないんだろう。どうしてこんなに動揺しているんだろう。
そう思いながら、サーシェスは再び本棚に隠すようにしまった冊子に手を伸ばす。薄汚れたページをめくれば、黒い甲冑の騎士は、変わらず自分を見つめている。
「……ねぇ……あなたは一体誰なの?」
サーシェスはそう言って口をつぐんだ。なぜだか涙があふれてきた。しっかりと冊子を胸に抱き、サーシェスは声もなく泣きだした。
窓の外では、もうじき日が暮れようとしているところだった。ロクランの夕日は中央エルメネス大陸の中でも最も美しいと言われているが、いまのサーシェスにはどうでもいいことだった。
明日はロクラン王宮にて、汎大陸戦争終結二百年を祝う二百年祭の前夜祭が開催されるというのに。
「いてぇ〜〜……」
セテはそう言って少女の額にうかんだ玉の汗をぬぐってやりながら、自分も汗をぬぐい、大きくため息をついた。散々暴れられたために、セテの両腕や顔には少女の爪でできたひっかきキズができていた。そして少女の腕にも、痛々しい青い痣がくっきりと浮かんでいた。
かれこれ一時間近く少女は暴れ、叫び続けた。銀髪の女性の不思議な力で身体を戒められていたので、放っておけばいいものを。セテは自分の人のよさに苦笑する。
「……だからって放っておけるかよ。なぁ?」
セテは銀髪の女神に、暴れる彼女の拘束を解除させた。当然、少女は狂ったように暴れ回るが、セテは彼女に馬乗りになり、彼女の両腕を押さえつけた。自分にできることはなにひとつないと、台座の女性にぴしゃりと言われたにもかかわらず、どうにかしてこの少女の支えになってやりたいと思った。救いを得るために自分を殺してくれと懇願した彼女を、放っておくことなどできなかった。
舌を噛まないよう、戦闘服の切れ端を彼女の口に突っ込み、渾身の力を込めて彼女の両腕を押さえつける。膝で蹴られ、ときたま両腕の戒めが離れてセテの横っ面にヒットすることもあったが、辛抱強く、セテは彼女が己のうちで戦うのを見守った。そして。
ずっとこわばっていた少女の身体から力が抜け落ちた。セテは気を失った少女の身体を抱え起こし、涙の後を拭ってやった。自分の胸に抱き寄せるようにして少女を抱えると、その小柄さにあらためて驚いたのだった。
女の子がこんなに小さいなんて思わなかった。そういえばサーシェスを思わず抱きしめたときは、もうなにがなんだかわけがわからなかったのでそんなことを意識したつもりもなかったが。
正直言って女の子というのはもっとやわらかいものだと思っていた。サーシェスも剣の鍛錬をしていたが、もっとやわらかかったような気がする。この少女は相当鍛えていたに違いない。支える肩や腕に、細いながらもしっかりとした筋肉がついていて、正直ちょっとゴツゴツした感じがする。色気がないといってしまえばそれまでなのだが、なんだか不思議な気分だった。
しばらくすると、少女がうっすらと目を開けた。エメラルドグリーンではなく、彼女自身の茶色い瞳が姿を現した。目の下に隈ができてひどい顔であったにもかかわらず、その瞳には生気があふれているのが見て取れた。もう大丈夫に違いない。
「……あたし……?」
少女は震える唇でそうつぶやいた。
「もうだいじょうぶだ。勝ったんだよ、コルネリオに。もう君は自由だ」
セテの言葉に、少女は大きな瞳をさらに見開いた。そのうち、みるみる涙があふれてきて、少女はセテにしがみつき、大きな声を上げて泣きだした。
信じられなかった。自分を殺そうとやっきになっていた勝ち気な少女が、アジェンタス騎士団や中央特務執行庁の精鋭部隊を一瞬で斬り殺した恐ろしい殺人鬼が、こんなふうに女の子みたいに、それも子どもみたいに大きな声で泣くなんて。セテはそんなことを思いながら、少女の小さな身体を抱きしめ、その赤毛の頭をそっとなでてやった。
いや、これがこの少女の本当の姿に違いない。おそらく十代の後半くらいの年齢だろう。ふつうなら青春を謳歌するいちばん楽しい時期なのに、彼女は血にまみれ、殺し殺される恐怖と戦い、毎日を生きてきた傭兵なのだ。それしか生きる術が見つからなかったから。
散々泣いたあと、少女はセテの顔を見上げた。それからすぐにうつむき、鼻をすすっているところを見ると、意外に恥ずかしがり屋なのかもしれない。
「あの……名前、教えてくれる? トスキ……なんていうの? それともトスキは苗字?」
「トスキは苗字だよ。名前はセテ。そういえば俺、君の名前もしらないんだけど」
「セテ? セテっていうの?」
少女は真っ赤に腫れ上がったまぶたを上げてセテを見つめた。驚いたようなうれしそうな表情で。
「知ってる? セテってね、イーシュ・ラミナの言葉で『勇気』って意味なんですって! すごい!」
『勇気』。そういえば浮遊大陸でレオンハルトも同じことを言っていた。「古い言葉」とはイーシュ・ラミナの言葉だったんだ。あのときと同じことを、こんなところで言われるなんて思っても見なかった。
「あたしはね、ピアージュ、ピアージュ・ランカスター。あの……ありがとう……セテ、あたし……」
ピアージュは大きな目でセテを見つめた。はにかんだような少女らしい表情をしているのを見て、心なしかセテは動揺してしまう。吸い込まれそうなほどの大きなアーモンド型の瞳は、サーシェスとはまた違った魔力が込められているのかも知れないと、遠く離れたロクランの少女を思い出しながら。
しかし、ふたりの見つめ合う時間も、すぐに台座の女性の冷たい声によって中断されてしまった。
「緊急事態です。あと三十秒後に戦闘態勢に入ります」
「おい! あの、あんた、えっと、その、助かったよ、本当に。でもあんたいったい……」
セテが尋ねる間もなく、女性の瞳は固く閉じられてしまった。ほどなくして、部屋中の機械類が急に大きな音をたて始めた。緑色の輝きが、これまでの倍にも増す。
突然、部屋の空間に数枚の平面図が浮かび上がった。なんの支えもない空間に浮かぶそれらには、風景画が映し出されていた。セテはそれを見上げ、息を飲む。アジェンタス総督府をはじめとする、首都アジェンタシミルの各地を移しだしたものであった。しかも、リアルタイムに更新されていくのを見ると、それらはどうやら現地のいまの状況を映し出しているに違いなかった。
「霊子力レベル百三十パーセント。これより霊子力砲の準備に入ります」
瞳を固く閉じたままの女性が、冷たい声で言い放つ。その傍らで、別の平面図に赤い光が点滅し、アジェンタスの言葉ではない文字が浮かび上がる。読むことはできないが、それが警告を促すものであることは、セテにも十分理解することができた。
「座標二八〇・一三五・一六八より霊子力砲飛来! 着弾予想地点は座標〇・〇・〇。霊子力シールドにて防御」
淡々とした女性の声は、まるで戦況を報告する兵士のようだ。すぐさま中央の平面図がアジェンタス総督府のガラハド公邸に切り替わった。そして部屋の中の機械がひときわ大きなうねりをあげると、ガラハド公邸の周りには緑色の絶対物理障壁が築かれていたのだった。
激しい衝撃音。平面図をぽかんと見つめていたセテとピアージュの身体が大きく揺れる。平面図の中では、やはり同じように緑色の光がガラハド公邸を襲ったが、その直前ではじき返されたのが映し出されていた。
「着弾した霊子力砲は百パーセント防御。続いて第二波、第三波、第四波、飛来!」
再び激しい衝撃が部屋を遅う。これだけの衝撃が伝わるということは、もしかしたらここはガラハド公邸の真下に位置するのだろうか。
ふと、セテは思い出す。そういえばアジェンタスの街の地下には、網の目のように下水道が走っている。だが、それももとから下水道であったわけではなく、地下で発見された大昔に作られた小道を、汎大陸戦争以後、改良して下水道に使用するようになったのだ。数時間前、無限とも思える距離を走り回りながらコルネリオの追っ手から逃げていたときは気がつかなかったが、そのときはまさに地下道をはいずり回っていたのだ。とすれば、ここがガラハド公邸の真下にあったとしても不思議ではない。
みたび激しい衝撃。今度のは最初の一撃よりひどく、ピアージュとセテは床にひざをついた。耳障りな警告音が鳴り響いている横で、台座の女性は小さな声で絶対物理障壁用の呪文を高速に詠唱し続けている。
「悪しき剣より守る盾となり給え!!」
女性の呪文詠唱が完結する。平面上に映し出されたガラハド公邸前には、緑色の光が飛来し、そして激しく障壁に激突しながら消えていく様子が映し出されていた。だが、次の瞬間、台座の女性は小さな悲鳴をあげた。
なんということか。最初に見たときには彼女の下半身がなく、そしてさきほど再会したときには左腕がなかった。そしていま、セテとピアージュの目の前で、彼女の右腕がまるで霧の中に埋もれていくかのごとく、消えていったのだ。
「おい! あんた! だいじょうぶなのかよ!!」
セテが台座に駆け寄ろうとするも、またもや女性の周りに張り巡らされている障壁によって遮られてしまう。セテは悪態をつきながら、台座の女性の様子をうかがった。瞳を閉じたまま苦悶の表情をうかべ、なおも高速言語で呪文を詠唱する姿は、まさに戦いの女神を彷彿させる。
「聖なる御方の御名において命ずる! 裁きの光よ! 悪しき者どもを殲滅せよ!」
女性の身体が緑色に輝き、そしてその光は身体に刺さったチューブを逆流して壁の機械群に吸い込まれていく。一度吸収されたその光は、次第に白熱しながら台座の上に備え付けられた球体に集められ、そして飽和状態になったとたんに一気に天井を突き抜けていった。ものすごい衝撃が部屋中を襲った。そしてついに、女性の周りに張り巡らされていた物理障壁が粉みじんにはじけ飛ぶ。
セテはピアージュをかばうように飛び退き、その様を見守った。ガラスのようにはじけたかとおもった物理障壁は、次の瞬間には霧のようにかき消えていた。そして、両腕のない台座の女性の身体から緑色の光が次第に薄れていく。
「目標は完全に沈黙しました。霊子力残量二十パーセント。これより通常防御に切り替えます」
再び女性は沈黙し、部屋に静けさが舞い戻ってきた。
セテはいまだ体力の回復しないピアージュを抱えながら、銀色の女神の姿を見つめる。両腕と下半身、人間にあるべきものを失った女性の姿。彼女と同じ銀色の髪、グリーンの瞳を持つロクランの少女を思いだし、もし彼女がこんな目に遭わされたらと思うだけで、いいようのない嫌悪感と怒りがこみ上げてくる。つい先ほど起こったことを思い返すにも、さまざまな言葉の奔流が脳を直撃してとても正気ではいられなくなってくる。あれはなんだ。いったいなにが起こったんだ。なぜ? どうして? なんのために?
「トスキ!!」
聞き慣れた声に、セテは振り返る。スナイプスとガラハド、そしてラファエラが息せき切ってこの部屋に駆け込んできたのだった。
「無事か!? だいじょうぶなのか!」
熊のような図体を揺らして、スナイプスがセテに駆け寄る。セテはかろうじて「ええ」と答えると、傍らに立つガラハド提督の顔を見つめた。その横では、台座の女性に気づいたラファエラが、小さく息を飲んで言葉を失っているようだった。
ガラハドはセテの視線に気付き、そして一瞬すまなそうに目を伏せた。物理障壁を失った女性の足下に近寄り、その姿を見ながら小さく眉をひそめる。それから厳しい表情で全員を振り返り、重い口を開いた。
「諸君、これがわがアジェンタスの強さの秘密だ。最強にして最後の守り、霊子力装置だ」
「霊……子力……?」
「そうだ。偉大なる一族《イーシュ・ラミナ》の禁じられた魔法を応用したもので、人間の生体エネルギーを物理的な攻撃力、防御力に変換する装置だ。汎大陸戦争以後二百年間、時の騎士団長以外には知らされることのなかった悪夢のひとつ。イーシュ・ラミナの血を引く人間の生体エネルギーによって、我々のアジェンタスはずっと守られてきたのだ」
「……なん……だって……?」
セテはつぶやく。全身から血の気が引いていくのが即座に分かった。それが驚愕によるものなのか、嫌悪によるものなのかは理解できなかった。
「汎大陸戦争の際、救世主《メシア》が神獣フレイムタイラントに施した封印は、いわば『要石《かなめいし》』として世界各地に点在する。そのひとつがここアジェンタスの地下に眠る。要石からは、いまも生きながらえているフレイムタイラントの膨大なエネルギーを吸い出すことができるため、要石の上に築かれた都市は必ず大きな発展を遂げる。この霊子力装置は、人間の生体エネルギーだけでなく、その要石からのエネルギーを利用して作られたもの。生体エネルギー、つまり霊子力と要石からのエネルギーを利用することによって、鉄壁の防御を築くことができる。ゆえに、アジェンタスはアートハルクの侵攻を防ぐことができたし、これまで最強の軍事国家として名を連ねることができた」
「じゃあ……さっき総督府を防御していたのは」
「この霊子力炉だ。コルネリオが人間の魂を集めていたのは、ここと同じ霊子力炉に生体エネルギーを集めるためだ。まさかこのアジェンタスにもうひとつ霊子力炉が存在するとは思っても見なかった。だが、要石に直結しているおかげで、さっきのコルネリオ側の霊子力砲の攻撃も見事に粉砕できた。しかし……」
ガラハドは、青い顔をして呼吸も忘れるほどに固まっているセテを見つめ、そして小さく息を吐き出す。
「……もっと早く気づくべきだった。コルネリオのねらいは……」
「俺がいいたいのはそんなことじゃない!」
セテは激しい口調で叫んだ。
「人間を……こんなふうに道具みたいに扱うなんて……! あなたは何とも思わないんですか! こんなのは……人間の尊厳に対する……神々に対する冒涜以外のなにものでもない!!」
そのとき、突然部屋全体を衝撃波が襲った。中央の台座近くにいたガラハド提督をはじめ、セテたちは全員壁に叩きつけられた。反射的に剣を抜いたセテとスナイプスは、台座にたたずむ人影を見て息を飲んだ。
カート・コルネリオ。元アジェンタス騎士団長候補で、ガラハドの盟友でもあった男。アジェンタスの悪夢の元凶が、いま目の前にたちはだかっていた。
コルネリオはセテに斬られた右腕をかばいながら、小さく呪文を詠唱した。見る間に台座の女性に接続されていたチューブがはじけとび、支えを失ったその身体はコルネリオの腕に倒れ込む。コルネリオは銀色の女神を腕に抱き、そして愛おしげにその頬をなでた。
「……返してもらうぞ、ガラハド」
コルネリオはガラハドに冷たい一瞥をくれると、再び衝撃波とともに姿を消した。セテとスナイプスが駆け寄ろうとする前の一瞬のできごとであった。
「くそ!」
残された台座のチューブめがけてセテは剣をなぎはらう。いやな音とともにチューブがちぎれ、残っていた緑色の液体があふれて床にこぼれた。
「やつのアジトは?」
怒りに震える声でセテはスナイプスを振り返る。
「アジェンタスがアリの巣の上に立っているのは貴様も知っているな。この地下道は迷路のようになっていながら、それぞれの道につながっている。やつがこの地下道にアジトを持っているのはわかっているんだが、正確な場所までは……」
「あたしが……!」
黙って様子を見ていたピアージュが声を上げた。
「あたしがアジトの座標を知ってるよ。ふたりくらいまでなら一緒に転移できる」
「……この少女が?」
警戒したような表情のガラハドとラファエラ。ついさきほどまでアジェンタスを蹂躙していた殺人鬼なのだから当然だ。ましてやガラハドは、この少女に一度暗殺されかけたことがあったのだ。
「……彼女を信用してもらってだいじょうぶです。俺が保障しますから」
セテがそう言うと、ピアージュは少しうれしそうな表情をした。それに気づく者もいなかったが。
「わかった。俺と隊長を転移してくれないか。君は……」
「あたしも一緒に行く! あたしだってやつに……!」
「だめだ! ここから先は俺たちの本領だ。気持ちはわかるがそういうわけにはいかない」
ぴしゃりとセテに言われて黙るピアージュ。だが、ピアージュ自身、つい先日までの自分だったら絶対に承伏しないところなのに、どうしたものかと不思議に思ってはいた。
「トスキの言うとおりです。あなたの身柄は我々が一時的に拘束します。それがどういうことか、おわかりですね?」
ラファエラは丁寧な口調だが、有無を言わさぬ威厳を持ってピアージュにそう言った。ピアージュは渋々頷いた。
「我々はいったん総督府に戻り、すぐに援軍をそちらに送る。到着後は援軍を待て」
「了解」
ガラハドの命令に、セテは特使らしい冷たい口調で答えた。
セテの表情がこわばっていることに、スナイプスが気づかないわけはなかった。乱れた装備を整え直しているセテの腕を掴むと、セテが驚いて振り返った。
「貴様は大丈夫なんだな?」
「……なにが?」
いつもの不遜な態度で返事をするセテ。だが、スナイプスにはその表情に見覚えがあった。まぎれもなく、十数年前、友の弔い合戦に挑んだときの、まだ若かった自分たちの表情だ。
「その……薬の影響とか……突然暴れ出すなんてことは……」
スナイプスの言葉に、セテは鼻を鳴らす。馬鹿なことを、とても言いたげに。いつものことだった。この金髪の青年が、一度だって自分の言うことを聞いた試しがないことはわかっていた。だが……。
貴様は知らない。初めて人を斬ったあと、俺がどうなったかなんてな。
だから聞いているんだ。お前は「大丈夫」か、と。
全身血塗れになって、人を斬る快感に身を任せたとき、貴様は「大丈夫」なんて言えやしないんだ。
「頼む、ピアージュ」
セテはすぐに興味を失ったようで、スナイプスに背を向け、ピアージュを振り返る。ピアージュは震える手でセテの手を掴む。じっとその手を見つめ、それからセテの青い瞳を覗き込むような仕草で頷き、
「気を付けて」
それしか言えなかった。セテは大袈裟なくらいに微笑むと、スナイプスの腕を掴んでピアージュに目で合図を送る。ふたりの身体がゆらめいたかと思うと、一瞬にして視界から消え去っていた。