第二十二話:追跡

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 次期騎士団長候補、カート・コルネリオ。レトが言ったように、ガラハドの執務室に一度でも足を運んだ人間なら、誰でもその顔は見たことがあるはずだった。なぜなら、ガラハド提督の同期で親友でもあったコルネリオと一緒に並んだふたりの写真が、いつも机の上に誇らしげに飾ってあったからだ。
 いまから六年前、時のグレイン提督が引退する前、その後継者に選ばれたのがガラハドとコルネリオのふたりだった。ふたりの実力は甲乙つけ難く、どちらも非常に優秀な騎士であったと聞く。特にガラハドは剣技に長け、そしてコルネリオは戦略に長けていた。ふたりはお互いの足りないところを補うことのできるよきパートナーだったので、このふたりがひとつになればおそらく歴代のなかで最も優れた騎士団長、そして提督となるはずだった。しかしどちらかを選ばなければならない。ふたりは最後までお互いを推薦しあい、騎士団長の地位を譲り合っていたのだという。
 ところが、ある日突然コルネリオが姿を消した。ガラハドが騎士団長となったが、なぜ彼が姿を消したのか、ガラハドすらもその理由を知らなかった。彼がなぜ騎士団を憎むのかすら、誰にもわからない。だが今、彼は騎士団領になんらかの復讐をすべく、その恐るべき知能でアジェンタス騎士団に挑戦しているのだ。点々と配置されたそれぞれの事件の手がかりを、わざとあけ広げて。
 そもそもの発端は、ドゥセリーでの集団自殺。セテがアジェンタス騎士団に出向させられてはじめての任務で、腐った死体と格闘したときのことだ。次は、セテの幼なじみのクルトが戦死し、セテをあざ笑うかのように目の前で二百人もの人間が首を掻き切ったレクストン郊外での事件。「神々の黄昏」思想にかぶれた教祖アンドレイ・ポルナレフ──レクストン郊外の事件でセテの目の前で首を掻ききった老人──が率いる集団自殺をしでかしたこの狂信的集団は、邪悪な儀式に救世主の紋章を使っていた。彼らは救世主の名の下に何人もの人間を生け贄に捧げており、自殺者も含めると死者は五百人を越えている。そしてレトの事件。こんどは集団自殺ではなく、レト自身が狂戦士となって引き起こした凄惨な連続殺人だった。
 レトが起こしたアルダスの事件は、先のふたつの事件とまったく異なるものと考えられていた。しかし、死んだレトの衣服のポケットから救世主の紋章を描いたこの紙切れが見つかり、同じく自殺したオラリーの部屋から同じ紙切れが何枚も見つかったうえ、それらが集団自殺した例のカルト的宗教集団のトレードマークであり、勧誘のチラシであったことが分かったのだった。
 さらに調査を進めていくと、この狂信的集団の教祖はカート・コルネリオを名乗る人物に幾度となく接触しているばかりか、コルネリオから多額の献金を受け取って教団を維持していたことも判明した。押収された教団の帳簿にははっきりとコルネリオの名が残っていたし、そして教祖ポルナレフが完全に正気を失ったここ最近は、教団の実権を握っていたのがコルネリオ本人であったことも記録に残されている。つまり、教祖が死んだからといって、この狂信的宗教集団が壊滅したわけではない。いつでもアジェンタス騎士団に対抗できる予備戦力として蓄えられているということも考えられるのだ。
 本来ならそこまで足が着くようなマネをするはずがない──犯罪の常識を遙かに逸脱した行為の数々。それは狂気にも似た恐るべき執着心と、狡猾な謀略で織り上げた蜘蛛の巣。復讐という名の極上のワインの香りを楽しみながら、巧妙に仕掛けたその罠に、騎士団の人間が翻弄されているのを肴にしてほくそ笑むために。
 だが、 集められた人の魂はどこへ行くのか。人々の魂を集めてどうするつもりなのか。なんのために狂戦士《ベルセルク》を作り出しているのか。
 その復讐とはなんだ?





 セテとスナイプスの再訪を待っていたかのように、アルダスを叩きつけていた激しい雨は止んだ。夜になると騒がしくなる繁華街も昼間は閑散としているが、数時間前に起きた凄惨な連続殺人のおかげで住民たちが引きこもってしまっているために、いっそう静まり返っている。まるでゴーストタウンのようだ。
 ほんの数時間前にレトと対峙した現場は、アジェンタス騎士団と中央から派遣されてきた騎士たちによって厳重に封鎖されていた。壁に飛び散ったどす黒い血も雨だけでは落ちなかったらしく、下っ端の騎士がふぅふぅ言いながらデッキブラシでごしごしとこすっているのが見えた。セテが叩きつけられた壁も、えぐられたような生々しい傷跡を残している。
 セテはその現場に到着するずいぶん前からかなり気分が悪かったようで、ずっと手を口に当てていた。吐き気を我慢しているのか、たまに生唾を大げさに飲み込むようなそぶりをしている。それが現場に到着してからさらにひどくなったようだ。
「大丈夫か、トスキ」
 隣で青い顔をしているセテを心配して、スナイプスが声をかけた。セテは何か言おうとしたが、口を利くのもつらいのか、無言で首を振った。その後すぐに、貧血でも起こしたのか彼の体がふらりと体が傾いだ。スナイプスはセテの腕を掴んで抱え起こすと、
「無理もない、肋骨にひびが入ってたんだからな、やっぱり引き返して少し休んだほうが……」
 セテは憤慨したような顔をしてスナイプスの腕を乱暴に振り払い、「大丈夫です」とぶっきらぼうに言い放った。スナイプスはあきれたようにため息をつき、後の判断は本人にまかせることにした。
 セテにはわかっていた。これは疲れや骨折による吐き気ではない。数時間前にアルダスに初めて入ったときも、ひどい嫌悪感を感じた。それがいま、吐き気を催すほどのすさまじい毒気に変わっている。セテは、いわばその毒気に当てられたような状態であった。
 アジェンタス騎士団の面々はスナイプスをみとめると敬礼し、道を空けた。セテはもう一度生唾を飲み込み、背筋を伸ばして彼らの間をすり抜けた。セテが中央特使の黒い戦闘服を着ているのを見て、彼らは驚いたように息を飲み、無言で歩いていく彼の後ろ姿を見送っていた。
 さきほどセテがレトと剣を交えた場所は、黒い血のしみがこびりついていた。セテはそれを横目で見やり、それから最後にレトが息を引き取った壁際に近づいていった。
 レトの遺体は、すぐに中央諸世界連合評議会直下の研究チームに引き取られた。解剖の結果が出るまでは肉親のもとに返されることはないという。一時的に超人になったレトの能力を、細胞レベルで解明するのだとかなんとか、眼鏡をかけたあのこまっしゃくれたフィリップ・ハートマン臨時顧問官が説明してくれたが、セテは憤りを感じる一方で、自分がその原因を知りたいという誘惑にかられていたのを認めていた。
 人間の能力を瞬時に高めるなんてことが可能なのだろうか。腕力やスピードが極限値にまで達し、熟練した術士が呪文の詠唱なしに術を発動するように、いきなり術法を使えるようになるなんて。それがイーシュ・ラミナの遺産だとすれば、彼らはなんと恐ろしい一族だったことだろう。
 セテは腰を下ろして壁際の黒いしみに無言の祈りを捧げた。もう涙は出てこなかった。泣いている暇があったら、レトの仇をうってやりたい。それだけだった。
 アルダスの通りはあいかわらず汚物が平気で流れ落ちてくるので、ひどい悪臭がする。道の両側は中途半端な下水溝からあふれてきたゴミがたまり、その脇をネズミやらの薄汚い小動物が我が物顔にちょこまかと蠢いている。
 ふとセテは、そのゴミの砦の中に泥にまみれた一片の紙切れが埋まっているのを見つけた。何気なくそれに手を伸ばし、汚れを指ではらう。二つ折りにされているそれは雨と汚水でふやけ、その内側に印刷されたインクが浮き出ていた。なぜだかそれがとても重要なもののように感じたセテは、きれいに合わさっているそれを爪の先で用心深く剥がし始める。中から現れたのは、濡れてにじんではいるが、金色に印刷された救世主の紋章だった。
「ちくしょう!」
 セテはそれを見るなり指で引きちぎり、元あったごみためのなかに叩きつけた。濡れた紙切れはゴミの山の上にぴしゃりといやな音を立てた。
「どうした!?」
 スナイプスが驚いて紙切れの破片を拾い上げた。そしてそこに描かれているものを見て眉をひそめる。セテは口汚い罵り声をあげながらゴミの山を蹴り崩し、硬いブーツで壁を蹴りつけた。
「野郎、どこまで俺たちを小馬鹿にすれば気が済むんだ! やつは俺たちの一挙手一投足を予測してやがる。俺が再びここへ来て、こいつを見つけたときになんて悪態をつくかまでお見通しに違いないんだ!」
「熱くなったら負けだぞ。相手がどれだけ狡猾な人間かわかっているはずだ。少し冷静になって、作戦を立て直したほうがいい」
 怒りに肩を震わせるセテを、スナイプスの氷のような声がたしなめる。セテは深呼吸をするように息を荒々しく吐いては吸って、体内に無理矢理酸素を送り込む努力をした。
「最初からこの紋章は俺たちへの挑戦状だったんだ。わざと俺たちが後を追いかけやすいように手がかりを残していきやがる。あのクソ野郎! なめやがって!」
「……トスキ、やはり我々だけではどうにもならん。いったん本部へ引き上げて、ワルトハイム将軍からの指令を待つか応援を……」
 いつになく弱気のスナイプスの発言に、セテはこれみよがしに唾を吐き、くるりを背を向けてひとり歩き始める。スナイプスはため息をつくと、その後ろ姿に声をかけた。
「命令違反だぞ!」
 そう言ったスナイプスの言葉には、まったく怒気は含まれていなかった。彼は諦めたように肩をすくめ、仕方なくセテの後を追って歩き出した。






 通りを歩いていくと、その先は貧しく薄汚いアパートメントの壁にぶつかる袋小路であった。割れたアパートの窓から人影が覗いているが、セテとスナイプスと目が合うなりすぐに部屋の中に引っ込んでしまう。ここにすむ大半の人間が中央標準語を話せないし、こんなふうにあからさまに避けられたのでは話を聞くどころではない。
「文字どおり袋小路……だな」
 スナイプスが低い声でそう言った。セテはそれを無視し、あたりの壁を見回す。レトやオラリーが持っていた金色の救世主の紋章が描かれた紙切れに記されていた住所は、確かにこのあたりだったと考えながら。
「……ここも散々部下たちが調べて回ったが……もう一度しらみつぶしに……」
 スナイプスがそう言い終わるか終わらないかのうちに、セテがうめき声をあげて膝をついた。スナイプスが驚いてその肩を抱き上げようとしたが、セテは上司の手を払いのけた。地面に着いた右手の平の銀色の傷跡が、うずくどころがものすごい痛みを発し、吐き気も最高潮に達していたにもかかわらず。見ると、痛みに震えるセテの右手が銀色に輝きだしていた。手のひらを伝って不思議な銀色の光が地面にあふれ出し、やがてそれは直系2メートルほどの円を描きだしていた。銀色の光の輪が急に強い光を放つ。ふたりが目を伏せ、そして再び目を開いた次の瞬間には、地面に救世主の紋章を組み合わせた魔法陣が姿を現していた。
 憑き物が落ちたようにセテの吐き気が消えた。そして、自分の胸騒ぎ、いや、右手の銀色の絆が示そうとしていたのが、強力な目くらましで隠されていたこの魔法陣であることにようやく気がついたのだ。
「隠し陣……! こんなところに術を隠してやがったのか!」
 セテはにやりと笑い、そして右手の銀色の傷跡に軽く口づけをする。それを見ていたスナイプスは、まるで優秀な術者でも見るような顔つきでセテを覗き込んだ。
「おい、いったいどうなってやがるんだ。貴様が手を触れた途端に隠し陣が浮かび上がるなんて、その……」
「俺には強力な守護神がついてるんですよ。それもとびきり美人の女神がふたりもね」
 たまにはこんなふうに上司を驚かすのも悪くないものだと思いながら、セテは狼狽するスナイプスに右手の傷跡を見せて笑った。そのとき、頭上に鋭い視線を感じたふたりは、ほとんど同時に空を仰ぎ見た。おそらく常人ならばその場で失神したかも知れない。ふたりのすぐ頭上では、巨大な一つ目、まさに月ほどもある人間の瞳がふたりを見下ろしていたのだった。
 反射的にふたりは剣を抜き、構えた。だが、その巨大な目玉は攻撃をしかけてくるでもなく、ふたりを見下ろすだけだ。ふいにその瞳が満足そうに細められた。セテとスナイプスがその隠し陣を見つけたことを当然の行動であるといった具合に。
「野郎! なめるな!」
 セテが一声吼え、鞘鳴りの音と同時に愛刀・飛影《とびかげ》が唸った。再び剣が鞘に戻ったときには、巨大な瞳は脳天──もしそれ自体が生き物で脳天があるならばの話だが──からまっぷたつに切り裂かれていた。
「おおかたこうなることも予測していたんだろう? どうだ、俺たちの行動に満足したか? よく聞けよ。どこに隠れていようと、俺は絶対貴様を見つけだしてぶった切ってやる!」
 セテはそう叫び、苦悶に歪む瞳に向かって中指を立てて見せた。巨大な一つ目の輪郭がたわみ、まるで砂絵を書き散らすようにゆっくりと粒状に四散していく。やがて断末魔の叫び声を上げるでもなく、それはそのまま空気に溶けたかのごとく見えなくなっていった。
 セテはおもしろくなさそうに鼻を鳴らし、さきほど膝をついたときについた泥をパンパンと払う。
「なんなんだ、いまの化け物は?」
 スナイプスはさらに狼狽したような声で尋ねた。ここにあっては新入りのセテのほうがよっぽど落ち着いている。セテは肩をすくめてみせると、
「いまさらあんな化け物のひとつやふたつ、驚くまでもないですよ。それに、説明しようにも俺にだってわけがわからない」
「よくそんな呑気なことが言ってられるな、貴様は。肝が据わっているのか、あるいは単に鈍感なのか」
「たぶんその両方ですよ」
 軽口をかわすふたりの目の前で、突然魔法陣が強烈な光を放ち始めた。円柱状にのびた青白い光は、セテには見覚えのあるものであった。
「今度はなんだ!」
 もうわけがわからないと言わんばかりに、スナイプスが声をあげた。セテはその光を見つめながら、十年前アジェンタス山の頂上で見た青い宝石を埋め込まれた魔法陣のことを思い出した。
「……門《ゲート》だ」
「なに?」
「偉大なる一族《イーシュ・ラミナ》がよく使っていた瞬間移動装置ですよ。ここを通れば遙か彼方の地にも一瞬で移動することができる」
「つまりなにか、やつらはご褒美として俺たちに道しるべを与えているってわけか」
 スナイプスが腹立たしげにうめいた。門《ゲート》がいきなり作動した理由はひとつ。自分たちがやつらに招待されているということか。
 セテは頷き、そして無言でその魔法陣の中央に歩み入った。それを見たスナイプスが驚いて叫ぶ。
「おい! まさか貴様、やつらの誘いに乗るつもりか!?」
「当然」
 セテは青白い光の中で振り向き、不敵な笑みを浮かべて言った。
 その一言にスナイプスはあきれたように肩をすくめ、渋々セテの後に続いて魔法陣の中央に立った。
「度胸があるだけじゃなくて物知りなんだな、トスキ。いまなら単細胞という肩書きだけは返上させてやる」
 魔法陣がいっそう強く輝きだした。視界が一瞬揺らめき、やがて身を引きちぎられるようなすさまじい圧力がふたりの体にかけられた。スナイプスの嫌みな一言もすぐに光にかき消され、やがてふたりの姿は光の柱に吸い尽くされるかのように溶けて見えなくなっていった。






 首都アジェンタシミルのはずれにある慈善病院は、天気のよい午後になると患者たちを外に出し、形ばかりの日光浴をさせる。その間、風呂に入るのをいやがる患者の不潔な病室を消毒したり、手の空いた者から軽い休憩を取っているようだった。なにしろ正気の患者が少ないため、看護人たちはまるで赤子をあやすような調子で手取り足取り、世話をしなければならなかったのだ。
 白髪だらけの巻き毛をきれいに刈りあげてもらってさっぱりした様子の女が車椅子に乗せられ、看護人に押してもらって広い庭を散歩していた。日差しが強いので、女は片手に日傘を差していた。
「どうですか? 剣士様もたまには日を浴びるのも気持ちいいでしょう?」
 看護人が車椅子に乗った患者の顔を覗き込むように尋ねた。女は自分を「剣士様」と呼んでもらったことにご満悦のようで、滅多に見せない笑みを浮かべて頷いた。
 哀れな患者だ。看護士の男は心の中でつぶやいた。重度のアルコール中毒のために、こうして車椅子に座らせてもらわなければ満足に自分で歩くこともできない。栄養失調もひどかった。全身の骨格もぼろぼろに違いないし、いまでも傘を持つ手が震えている。確かに昔はロクラン王国でも随一の腕を見せた女剣士かもしれないが、ここまで堕落してはもう昔の栄華はただの幻影でしかない。それに、こうした哀れな患者を彼は何人も診てきたから、いまさら特別な感情はなかった。自業自得の結果だからな。彼は哀れな女を見下ろしながら思った。
 女は目を細めて庭の花壇を見渡していた。同じように車椅子に乗せてもらっている患者や、自分で歩ける患者たちが何人もこの庭に出てきているのを見ても、彼女はまったく気にすることがなくなった。はじめの頃は、彼女はそうした患者の姿を見ると狂ったように騒ぎ、自分のことは棚に上げて患者たちを罵っていたが、最近は精神状態もいいらしく、おとなしく看護人たちのいうことに従うようになった。
「ああ、本当にいいお天気だねぇ、そういえば昔……」
 女は満足そうに目を細めながらそう言い、車椅子を押す看護士を振り返った。またはじまった。看護士はそう思いながらも、女の言葉に耳を傾けた。彼女の話はもう何十年も前の昔話ばかり。まだ自分が現役の剣士だった頃の武勲を、あれこれ延々と話し続けるのだった。
「それでね、そのとき将軍は……」
「あ、すみませんね、フォールスさん、ちょっと同僚から用事を頼まれていたんでね、すぐ戻りますからここで待っててくださいね」
 看護士はまだなお話したりない女に優しくそう言うと、そそくさと院内に駆け戻っていった。彼が何かの口実でこの場から逃げ出したかったのは明らかである。女は上機嫌な顔で看護士を見送り、そして周りにわからないように口に手を当て、忍び笑いを隠した。気持ちはわかるわ。そう、私だって同じ話を何回も何回もくどくど話し続けるアル中患者の側にはいたくないだろうからね。
 フォールスと呼ばれた女は笑いをかみ殺し、看護人が戻ってくるのをいまかいまかと待ちかまえる哀れな患者のものではない鋭い視線で、ゆっくりと自分の四方を用心深げにうかがった。庭には看護人を必要とするやはり重度のアル中患者や、もうそれほど先の長くない病に冒された患者がひなたぼっこをしている。自分を見ている看護人がいないのを確認すると、女は手を頭に乗せ、それから少し首を傾げてみせた。ふいに、花壇の側のベンチに座っていた男がゆっくりと立ち上がり、女に近づいてきた。
「いいお天気ですね」
 男はにこやかにフォールスに話しかけた。フォールスはしかめ面をしてみせ、
「ふん、気安く話しかけるんじゃないよ。あたしを王宮付きの剣士だって知ってるのかい? ガラハド提督だってあたしにゃ頭が上がらないんだからね」
 女が見下したようにそう言うのを聞いて、男は愉快そうに頷いた。そして袖口からなにやら紙切れのようなものを取り出すと、女の膝の上に無造作に丸めて落としてやった。フォールスはそれをすぐさま自分の胸元に押し込み、大声で叫んだ。
「この色きちがいが! なめるんじゃないよ!」
 自分の患者の声を聞きつけ、フォールス担当の看護士があわてて建物から飛び出してきた。見ると、フォールスは狂ったように日傘を振り回し、男を叩きつけようとしていたところだった。またか。看護士は額に手をやる。あの患者は自分によって来る男すべてが下心を持っていると勘違いして怒り出す。まったく手に負えない。
「やめなさい! 何をしているんですか!」
 看護士はすぐさま女の両手を押さえ、相手の男に目で向こうに行くよう指図をする。
「こんなところまで来て女を誘惑しようってのかい!? その腐れた下半身をぶった斬ってやろうか!」
 日傘で叩かれた男は逃げるように退散し、女はその姿が見えなくなるまで狂ったように罵倒し続けた。やがて彼女が落ち着くと、看護士はすぐさま車椅子を押して病室に戻り、女を西日しか当たらない粗末なその部屋に閉じこめたのだった。
 看護士は暴れる患者をおとなしくさせるのに成功すると、ドアを乱暴に閉め、それから壁に掛かっている患者の名札を見つめながら鼻を鳴らした。
「アンジェラ・フォールス……か。元剣士も落ちぶれたもんだよな」
 そう言って彼は凝った肩をぐるぐると回し、そそくさを逃げるように廊下を去っていった。
 女は車椅子からベッドに移され、なかば無理矢理寝かされていた。さきほど掃除をしたにもかかわらず、蒸し暑い部屋の中を一匹のハエがぶんぶんと小うるさい音をたてて飛び回っている。
 女は廊下に誰の気配も感じなくなると半身を起こし、小さくため息をついた。
「やれやれ」
 フォールスは白髪頭を掻き上げ、それから胸元にしまった紙切れを取り出した。さきほどの男から受け取った小さなメモだった。連絡員の顔は見知っていなかったが、さきほどの短い会話だけで必要なことは事足りた。あと何人かの特使がこの病院に潜入しているはずだった。彼女は思いのほかうまくことが運んでいることに満足していた。
 女は紙切れに小さな字で書かれた暗号のような文章を読み終わると、それを便器に放り込んで勢いよく水を流した。早ければ明日には再び連絡員からの接触を期待できそうだ。女は夕食までの間、病人らしくベッドに横たわって眠ることにした。






 再び体が引きちぎられるような感覚が戻ってきて、お互いの顔がぐにゃーっと歪んで見えたのもつかの間、セテとスナイプスは乱暴に床に投げ出されていた。スナイプスが悪態をつきながら体を起こして隣を見やると、あばらが痛むのか脇腹を抑えたセテがうずくまっていた。スナイプスはすばやくセテを抱え起こして自分の剣を引き抜き、まわりの様子をうかがった。
 ──闇。ふたりはまさに暗闇の中にいた。自分の足下さえロクに見ることもできない。床の表面がざらざらしているしブーツの下に感じる感触もしっかりしているので、おそらく切り出した岩でできているのではないだろうか。そして肌にまとわりつくねばっこい湿気。空気はとてもかび臭い。おかげでなにかの建物の中であることはわかったが、目が慣れないのであたりになにがあるのかさっぱりわからない。スナイプスは剣を構えながらまわりの様子に耳をすましたが、生き物が側にいるという気配はまったく感じられなかった。
「どこなんだ、ここは」
 スナイプスがささやくような声でつぶやいた。セテは脇腹を抑えながら悪態をつき、スナイプスと同様に腰の剣に手をかけた。濃い湿気を含んだ空気が息苦しくさえ感じられる。
 スナイプスは左手でブーツのかかとの裏を探り、そこからすばやく卵形をした小さな白い物体を取り出した。スナイプスの手のひらに乗ると、それはほのかに青白い光を放ち始めた。発光エッグ。卵形をしているためにこの名で呼ばれる携帯用灯火は、アジェンタス騎士団が夜間の行軍用に開発したもので、成分に特殊な塗料を含んでいるために暗闇に反応して自動的に淡い光を放つ。たいまつなどの大きな炎は敵に見つかりやすいばかりでなく、身動きがとれなくなるため、イーシュ・ラミナの技術力を応用して開発されたものだった。
 元来、遠くを照らすほどの発光能力はないので薄ぼんやりとしか見えないが、それでも地獄の中の女神に等しい。ふたりの目の前に青白く浮かび上がったのは、壁も天井も床も岩で作られた長い通路であった。
「地下なのか? 窓がひとつもないとはな……」スナイプスが舌打ちしながらそう言った。
「ふん、悪質なトラップがしかけてあるかもしれんな。下手に動いて串刺しにでもされたらかなわん」
 前方と後方を交互に睨みながら、スナイプスは用心深く剣の切っ先で壁や床をつついてみた。が、そんな心配をよそにセテがずんずん歩き始めたのを見て、スナイプスは派手に毒づく。
「このクソバカ! どんな罠が仕掛けてあるかわからないんだぞ!!」
 セテはスナイプスの怒鳴り声そっちのけで気がなさそうに、
「声が……聞こえませんか」
「なに?」
「大勢の人間がつぶやくような声……向こうの方から……」
 セテは目の前に続く暗い通路を剣で指しながら、スナイプスを振り返る。セテにそう言われてスナイプスも耳を澄ますが、
「……俺には何も聞こえんが……」
 セテは暗闇の奥に続く道を睨みつけながら、もう一度耳を澄ます。
「……つぶやき声じゃなくて……もっと……」
 セテは声のする方向へと歩き始め、スナイプスもおそるおそるその後を追う。発光エッグのわずかな明かりを頼りに、ふたりは長く続く一本道の通路をたどっていった。やがて、スナイプスの耳にもはっきりとその声が聞こえるようになった。つぶやき声ではない。大勢の人間が同時に呪文の詠唱をしている声に違いなかった。
「おい、これはもしかして……」
 スナイプスが小声でそう言った。「ビンゴ」かもしれない。
 さらに歩を進めていくと、通路の壁や天井が発光エッグを頼らなくても見える程度に緑色の光を放つようになっていった。スナイプスは発光エッグを再び靴の底に隠し、壁を興味深そうにさする。
「勝手に光る壁とはな……便利なもんだ」
 スナイプスは小声で独り言をつぶやき、壁の質感を確かめるようになで回した。セテもこの質感に覚えがあったのは言うまでもない。十年前のアジェンタス山に入る洞窟の中が、途中からほのかに緑色の光を放っていた。あれは偉大なる一族《イーシュ・ラミナ》のゲート《門》へと続く通路だった。ということは、いま自分たちがいるこの地下道はイーシュ・ラミナの手によるものなのか。なぜコルネリオが自分たちをこんなところへ招待したのか見当もつかない。
 そのうちに、通路は一本道ではなく枝分かれするようになり、通路の途中にいくつもの小部屋が登場する。ふたりは慎重にその小部屋をのぞくが、だいたいが空か、あるいは土砂で埋まってしまっていた。やはりこの通路は地下にある天然の洞窟を利用したものに違いなかった。
 祈りの声はますます大きくなってくる。ふたりは心臓の音が高鳴るのを感じながら、声のする方角へと足を運ぶ。その先に待っているものが何か、半ば予想しながら。
 やがて大きな扉に行き当たった。イーシュ・ラミナの、救世主の紋章が丹念に掘られた古い金属製の扉。おそらくは十年、二十年どころの代物ではなさそうだ。酸化してサビに覆われ、膨れ上がった紋章が、緑色の光に照らし出されるさまは不気味以外のなにものでもなかった。この中から呪文の詠唱と、さらには何十人もの人間の衣擦れの音が聞こえてくる。
「ビンゴだな、トスキ。ポルナレフ教祖が死んだからってやつらは終わりじゃない。ここで呪いの準備をしてやがるに違いない」
 スナイプスはさびた扉の腐食した穴から中の様子をのぞく。セテもそれに習って別の穴から中をうかがう。中の広間では、まさに白いローブを着込んだ五十人くらいの信者たちが、不気味に体を揺すりながら失われた言葉で呪文の詠唱をしているところだった。中央の祭壇には巨大な救世主の紋章が描かれた魔法陣が用意されている。そしてさらに、その祭壇に横たえられた人間の姿があった。
「……生け贄? まさか!」
 セテが声をあげる。心なしか飛影にかけた手に力がこもる。それを見たスナイプスはセテをなだめるようにその肩を掴み、
「焦るな。ここで様子を見よう。下手に動けば多勢に無勢、囲まれたが最後だ」
 我々は術法に対する防御手段を持たないからな、とスナイプスは加えた。
 中では黒いローブを着た三人の、おそらくは教団内でも高い地位にいる人間であろう人物が救世主の紋章に向かって手をかざし、呪文を詠唱していた。長い呪文を率先して詠唱している三人に習い、あとの五十人ほどの信者はうわごとのように詠唱を繰り返す。三人のうちのひとりがローブの袖から短剣を取り出したのを見て、セテはさらに強く飛影を握りしめた。黒いローブの人物は短剣をかざしながらゆっくりを祭壇を練り歩き、やがて祭壇に横たえられた生け贄を抱え起こしてその喉元のすぐ真上に短剣を振りかざした。
 セテの体がこわばる。生け贄に選ばれたのは年端もいかない少女であった。気を失っているのかぐったりと死刑執行人に体を預けている。セテはそれを見て発作的に飛び出そうとするが、スナイプスがそれを力づくで押さえ込んだ。
「待て! まだ殺しはしないはずだ! もう少し様子を見るんだ!」
 黒いローブの男は見せつけるかのように少女の真上に掲げた短剣をゆっくりと振り、そして切っ先で複雑な魔法陣をいくつも空中に描く。スナイプスのいうとおり、儀式的な手順があるためにすぐには殺さないようだった。低く響く呪文の詠唱が長く重なり、そのうちに生け贄の少女がゆっくりと瞼を開いた。少女はしばらくの間呆けていたが、やがて自分の置かれた立場を瞬時に悟るとすさまじい悲鳴をあげた。
 計算外だったのか、少女の悲鳴に黒いローブの男たちが明らかに狼狽している。少女は短剣を掲げた男を突き飛ばし、祭壇を飛び降りる。それを見た場内の信者たちも明らかにうろたえ、呪文の詠唱が中断した。
「よし! 行くぞ!」
 スナイプスのかけ声とともにセテは扉を蹴破り、剣を抜いて広間に躍り込んだ。白いローブの信者たちをなぎ倒しながら、同じように信者をかき分けて逃げ出す生け贄の少女を救うべくふたりは祭壇に駆け寄った。
「はやく! こっちへ!!」
 スナイプスが少女に向かって叫んだ。少女はふたりの剣士の姿を見て驚いたが、やがて地獄で見つけた天使でも見るような顔つきをして全力で走り出した。
 だがセテは、その後ろの祭壇で空中に魔法陣を描く黒いローブの男の動きを見逃していなかった。金色の光を放つ神聖語が次々と空中に現れては消え、やがて巨大な光の魔法陣が少女の体を捕らえた。少女はその場で動きを止め、彼女を受け止めようと手を差しのべるスナイプスに手を差し出す。その瞬間、少女の体にいくつもの亀裂が入り、スナイプスとセテの目の前でまさに粉みじんになって砕け散ったのだった。
 ガラスの破片がザラザラと落ちるように少女の砕けた体が足下に広がる。差しのべた手の平に少女の手のぬくもりだけが残ったのを、スナイプスは一生忘れないだろう。
 壇上の男がなにか神聖語でつぶやくと、砕けた少女の体の破片が白く輝きだした。そしてそのひとつひとつから白い光があふれ始めると、それはやがてひとつの大きな光の柱となって中央の祭壇に設けられた魔法陣に吸い上げられていった。
「……残念だったな」
 壇上の黒いローブの男がふたりに声をかける。さもうれしそうに口をゆがめながら。男はゆっくりとローブのフードを払う。まぎれもなくそのフードの下には、元アジェンタス騎士団長候補カート・コルネリオの顔があった。
「ちくしょう!!!!」
 セテは飛影を構えて飛びかかろうとしたが、スナイプスに取り押さえられ、それもままならない。まわりでは再び熱に浮かされたような信者たちの呪文の詠唱が始まっていた。そして彼らは詠唱しながらセテとスナイプスを取り囲み始める。
「トスキ! 来い!」
 スナイプスはセテを引っ張りながら信者たちをかき分け、広間の出口へと急ぐ。
「やつらを取り押さえろ。殺すなよ」
 壇上のコルネリオが信者たちに冷たく命令を放ち、それに従って信者たちは別の呪文を詠唱し始める。おそらく攻撃術法に違いない。セテは舌打ちする。自分たちは攻撃術法に対する対抗手段は持ち合わせていない。ここへ来て自分の無鉄砲さが悔やまれた。
 信者たちは呪文を高速言語で詠唱したかと思うと、一斉にふたりに手を差し出して呪文を完結する。彼らの体からまばゆい光があふれ、それはなすすべもないセテとスナイプスに降りかかろうとしていた。
 しかし、スナイプスがセテをかばうようにして前に立ちはだかる。そしてすばやく腕をまくり上げるのが見えた。カチリと硬い音がしたかと思うと、迫っていた攻撃術法の光の軌跡はスナイプスたちの体に触れる寸前にはじき返され、広間の祭壇にかかげられた魔法陣にぶつかり爆炎をあげた。信者たちがそれを見てひるむ。
「な、なんですか! 今のは!?」
 セテが驚いてスナイプスに尋ねる。統括隊長の腕には、小さな金属板がバンドのようなもので固定されていた。スナイプスは自慢げな笑みを浮かべてセテを振り返ると、
「アジェンタス騎士団が開発した対術法戦用の個人用魔法障壁だ。個人レベルで装備すれば、おおかたレベル5くらいまでの攻撃術法をはじき返し、レベル8程度までならダメージを大幅に軽減できる」
「そんなモノがあったなんて……! 俺たちにはちっとも使わせてくれなかったくせに!」
 セテは憎々しげに叫ぶ。だが統括隊長はケロッとした様子で、
「まだ開発途上でな、いろいろと問題があるんだから仕方がなかろう。例えば……」
 スナイプスが言い終わらないうちに、もう一度信者たちの攻撃術法がふたりを襲う。再びスナイプスは腕に巻いた個人用魔法障壁用の装置にスイッチを入れる。迫り来る稲妻はふたりの体の前ではじき返され、広間の壁に当たって煙を上げた。かと思うとすぐに腕の装置は小さく火を噴いたので、スナイプスはそれをはぎ取り、床に投げ捨てる。
「ジェネレーターの過負荷だ。2〜3回しか保たないんでな、まだ使い物にならん。走るぞ!」
 ふたりが走り始めたのを見て、信者は待ってましたとばかりに逃げるふたりに迫ってきた。次に術法をふるわれたら防ぐ手段はない。ふたりは全速力で出口に向かって走る。そんなふたりの目の前で、さび付いた大扉は音を立てて閉まり始めていた。スナイプスが扉に飛びつき、剣の鞘をてこにして締まりかけたそれを押し戻そうとする。
 セテはスナイプスをかばうように立ち、飛影を構えて信者たちを睨み付けた。剣を持つ手が心なしか震えるのは気のせいだろうか。なぜか剣を持つのが怖いとセテは感じた。信者たちはそんなセテの心の内を見透かしてでもいるのか、からかうようにゆっくりとふたりに迫る。
「何やってる! トスキ! 斬れ!!」
 扉と格闘しているスナイプスが叫ぶ。だがセテは飛影を構えたまま動かない。いや、正確には動けないのだった。心臓が高鳴り、いやな脂汗が流れ落ちる。白いローブの連中を睨み付け、その頭上に剣を振り下ろすべくもう一度剣を構え直すが、どうしても迫り来る一群に振りかぶることができなかった。
「トスキ! 早く斬れ! 術法を発動されたら終わりだぞ!」
 扉はもう少しで人間が通れるくらいにまで動きそうだが、スナイプスがじれて叫ぶ。
──斬れ!
 セテの耳の中でスナイプスの叫び声が響き渡る。しかし、脳に到達し、筋肉を動かす命令にはどうしてもつながらない。自分のなかの何かが言うことを聞いてくれないのだ。流れ落ちる汗が目に入り、しみる。腕が震える。いつものように剣を振り上げてなぎ払えばいいだけなのに、どうしてもそれができない。セテは目を固く閉じ、剣を動かそうと必死に腕の筋肉に命令を送る。動け! 動け! と。
「トスキ!!」
 スナイプスが叫ぶ。すぐ目の前の信者が術法を発動すべく呪文の詠唱を始めた。法印を結ぶ手から光があふれ始め、攻撃術法の詠唱がいままさに完結しようとしていた。突然セテの目の前で閃光が閃き、法印を結んでいた信者の一団を切り裂いた。血しぶきと悲鳴が吹き出し、白いローブを真っ赤に染めた信者たちが倒れる。扉のこじ開けに成功したスナイプスの剣が、間一髪で迫り来る一群をなぎ払っていたのだった。
「この……バカが!!」
 スナイプスは悪態をつき、剣を構えたまま動けないセテをひっつかんで扉の隙間から体を踊らせる。その際、再びブーツのかかとに手をやり、取り出した丸っこい物体を扉の中に放り込んだ。それはスナイプスの手から離れると即座に激しく閃光をまき散らし、追っ手の目をくらませた。スナイプスは扉に体当たりして入り口を閉ざし、呆然とするセテを再び引っ張って走り出した。
 ふたりはもと来た道を走り続けた。追っ手は目くらましのおかげでしばらくは動きがとれない。あの扉を開けるまでにはしばらくは時間が稼げるはずだ。スナイプスはセテを引っ張って枝分かれした道のそれぞれをすばやく一瞥し、それにつながる小部屋に飛び込んだ。
 部屋の扉を閉め、スナイプスは激しく脈打つ心臓に新たな空気を送り込むべく、大きく肩で息をする。セテもそれに続いてきたが、肩で息をしながら呆然とした様子でぺたりと床に座り込んだ。スナイプスはそんなセテの様子に憤慨し、大声で怒鳴りつけた。
「……この……バカヤロウが! なぜ斬らなかった! もう少し俺が手間取ってたらどうするつもりだった!」
 セテは力なくうなだれたまま返事をしない。スナイプスは舌打ちし、乱暴にセテの胸ぐらを掴んで無理矢理立たせ、壁に押しつけた。
「答えろ! トスキ!!」
 顔をそらすセテの態度に腹を立てたのか、スナイプスがセテの顎を掴んで無理矢理自分のほうを向けさせる。だが、目は自分を見ていないのがさらに腹立たしさをかき立てる。
「……いい度胸だ……!」
 スナイプスが自嘲気味に鼻を鳴らして低い声でそう吐き出すと、セテの青い瞳がゆっくりと動き、スナイプスを見つめた。薄暗い緑色の光の中で、その瞳が潤んでいるのが見えた。
「……俺……だめでした……」つぶやくようにセテが口を開いた。
「……身体が動かなかった……頭では斬り倒してやろうと思っていたのに……どうしてもできなかった……」
 セテは再び顔をそらし、手で目の辺りを覆った。
 スナイプスが手を離すと、セテはそのまま壁に沿ってずり落ち、子どものように膝を抱えた中にその顔を埋めた。
 いわれてみれば、本物の戦闘で、しかも非武装の生身の人間相手に剣を振るうのは、実際にはこれが初めてだった。自分はやるときにはやれる。もちろん人を斬ることができると思っていた。だがしかし、このザマはなんだ。足が震え、腕がこわばり、冷や汗を流して硬直し、剣を振るうどころか立っているのもやっとのほどの恐怖感にさいなまれる。つまり「びびってた」わけだ。スナイプスが扉を開けるのに手間取っていたら、確実にふたりは捕まっていたはず。情けない。情けなくて本当に涙が出てくる。そうだ。自分は人間を斬るのを恐れていたのだ。
 スナイプスはセテを無言で見下ろし、大きくため息をついた。
「……おおかたそんなとこだろうと思ったぜ……」スナイプスは剣帯を結び直し、もう一度ため息をついた。
「貴様には言ったはずだ。まだ実務経験がほとんどないし、人を斬るってのがどういうことかわかっちゃいないってな。だが貴様はだいじょうぶだと言った。やるときゃやるってな。それがなんだ、このザマは!」
 セテはスナイプスの叱責を無言で受け入れ、膝を抱えたまま鼻をすすった。
「誰でも最初は人を斬るなんてことはできない。所詮剣士といえども人間だ。同じ人間をそう簡単に殺せるもんじゃない。びびるのは当たり前だ。俺だって最初はできなかった。それで当然なんだ。だがな、俺たちの仕事は安全を守ること。生命の確保ができなければ俺たちの存在意義はまったくない。生き延びるために、誰かを守るために人を殺す。それが俺たち剣士の役割だ。わかったか!」
 セテはまだ顔を埋めたままだったが無言で頷いた。スナイプスはその様子を見て鼻を鳴らすと、
「まぁ貴様が最初から平然と人を殺せる人間だなんて思っちゃいなかったがな。にしても貴様の査定はさっきので大幅に下がったからな、覚えとけよ」
 再びセテは無言で頷いた。
「さて……と、問題はどうやってここから脱出するかだな。コルネリオのやつに招待されただけで、ここがどこだかさっぱりわからんのだから動きようがねえな」
 スナイプスは小部屋を歩き回り、それからドアに耳を当てて外の様子をうかがった。どうやらまだやつらは出てきていないらしい。スナイプスはドアを少しだけ開け、通路の様子をうかがった。
「よし! 行くぞ、トスキ。いつまでもメソメソするな」
 スナイプスはセテに檄を飛ばし、再び剣に手をかけたまま通路に出た。セテも顔をごしごしとこすり、その後に続いた。
 ふたりは慎重に前後を警戒しながら通路を歩き始めた。逃げるのがせいいっぱいでどうやってここまでたどり着いたか定かでない。すでにふたりは自分たちのいる場所がわからなくなっていた。実際にここの小道は入り組んでおり、まるで巨大な地下迷路のようだからわからなくても無理はない。
 とりあえず本能のおもむくまま道を進んでみるが、やがてふたりはさらに地下にのびた道にさしかかった。その道の先からは、大きくうなるような音が聞こえる。音の反響具合から、これまで見てきたような無数の小部屋とも違うようだ。ふたりは意を決してその道を下ってみることにした。
 その先にある大きく口を開けた入り口には扉がなく、緑色の光がいっそう強く輝きを放つ。うねる音が耳障りなほどだ。さきほどの広間よりひとまわりくらい小さいが、たいそうな広さであった。壁にはわけのわからない神聖文字とともに機械が埋め込まれているばかりか、チューブが無数に張り出しており、それは中央に据えられた玉座に集中していた。透明なチューブの中には緑色に光る液体が流れ、室内をいっそう不気味に照らし出している。そしてすべてのチューブを束ねる玉座を見て、ふたりは愕然とする。
「な、なんだこりゃあ!?」
 先に声を上げたのはスナイプスだった。銀色の髪をした女性が、丸い台座の上に乳房もあらわな姿で固定されている。長い銀髪がサーシェスを思わせるが、年はずっと上だろう。しかし、透き通った肌に鼻筋の通った彫りの深い顔立ちが、彼女に似た不思議な美しさをたたえている。瞳を閉じているためその表情をうかがうことはできないが、苦しそうには見えないのがふたりにとって救いであった。
 恐ろしいことに、四方から張り出したチューブは台座にではなく、台座に固定された女性の身体につきささっている。その身体には下半身はない。正確に言えば、下半身の断面にいくつものチューブが接続され、時折うごめくチューブがまるでタコの足を思わせた。
「これはいったい……なんだ!? これで……生きてるのか……?」
 スナイプスはその女性にゆっくりと近づき、手を差しのべようとしたが、見えない壁に阻まれ、押し返された。不思議に思ってもう一度、今度は身体全体で女性に近づこうとするが、やはり結界のようなものでも張ってあるのかすぐに押し戻されてしまう。スナイプスは女性を見て、規則的な呼吸によって胸が上下するのを確認した。
「なんなんだ、これは! それにこんな残酷な……!」
 スナイプスは台座に固定された女性を見ながら憤懣やるかたなしといった表情で叫んだ。彼女は生きたまま下半身を奪われ、上半身にいくつものチューブをつなげられて生きながらえているに違いない。いったい誰がなんのためにこんな仕打ちを、この美しい女性に対して行ったのか。
 突然、女性のまぶたが開かれた。エメラルドグリーンの瞳が現れたが、どこか焦点の合わないものだった。ふたりは驚いて後ろに飛びすさる。やがて部屋の中のふたりを見つめると、その存在に対して警告を発するかのように女性は言葉にならない声を発した。金切り声。文法もなにもあったものではない、ただそれは「声」をあげているだけであった。
「く、狂ってる……!?」
 焦点の合わない目と呪いをつむぐような意味のない音の羅列。まさに狂気以外のなにものでもなかった。セテはその声に耳をふさぐ。このような状態で正気を保っていられるとは思わなかったが、それでもこの女性に理性のかけらも残されていないことに、セテは吐き気を催すほどの嫌悪感と怒りに身を焦がされる思いだった。
 すぐにふたりは近寄ってくる複数の足音に気づいた。追いつかれたらしい。ふたりは剣を抜き、構えた。スナイプスはセテに一瞥をくれ、剣を抜かずに自分の後ろに下がるよう身振りで示したが、セテは首を振り、飛影を構え直した。
「何者だ!」
 広間に入ってきた男たちがふたりに問う。セテとスナイプスはお互いの顔を見合わせ、彼らがさきほどの白いローブを着込んだコルネリオの配下でないことに首を傾げる。彼らはみなアジェンタス騎士団によく似たグリーンの制服を着用しており、そしてその襟にはアジェンタスの紋章バッチが光っている。何者だとはこちらが聞きたいと思いながら、スナイプスは剣を構え直した。だが、彼らはまったく武装していない。
「どうやってここへ入った? 何者だ、貴様たちは」
 リーダー格の男がふたりに尋ねた。セテとスナイプスは彼らに敵意がないのを感じ取り、ゆっくりと剣を収めた。
「聞きたいのはこっちのほうだ。いったいここは……」
 スナイプスが攻撃する意志のないことを示すために両手を上げて見せたが、その瞬間、ふたりの立っている床がほのかに光り出したかと思うとゲートの魔法陣が浮かび上がり、ふたりはすぐさまその光に吸い込まれていった。






 アジェンタス騎士団領総督府、ガラハドの執務室に臨時に開設された作戦会議室で、ガラハドは深くイスに腰掛けながら部下の状況報告を待っていた。セテとスナイプスのふたりが行く先も告げずに単独行動をしたのを腹立たしく思ってはいたが、中央特務執行庁から派遣されてきた特使たちやハートマンにすべてを任せるよりは安心だというのが本心だった。
 ハートマンは何度も何度も報告書を書いては破り捨て、破り捨てては書き直しといった行動を繰り返している。若いがかなりのやり手である彼であったが、やはりイライラしているのが見て取れた。
「ガラハド提督!」
 部下が執務室に駆け込んできて敬礼をし、声をかけた。ガラハドは顔を上げ、身振りでその部下に報告するよう促した。
「術者団がアインバイン付近でものすごい邪気を感じ取ったという報告を受け取りました」
「なに!?」
 アインバインは次にコルネリオが定めているのではと目星をつけておいた街で、アジェンタス騎士団と中央諸世界連合から派遣されてきた騎士たちを配置していたところだった。邪気……術法使いか! ガラハドは舌打ちをする。騎士団のほかに心語を得意とする術者をひとり気休め程度につけておいたが、果たして太刀打ちできるかどうか。
「アインバインに総力を結集させるわけにはいきませんよ。提督」
 報告書と格闘していたハートマンが顔を上げてそう言った。若いながらもその冷ややかな目には、いつもながらぞっとさせられるものがあるとガラハドは思った。






 再びセテとスナイプスは空中から放り出され、地面に叩きつけられた。こうめまぐるしくあちこち強制的に旅をさせられたのではたまったものじゃないと、スナイプスが毒づいた。今度は地下ではなく、街の中だった。それがどこなのか、ふたりには見当も付かないのだったが。しかし、ふたりはすぐに地面が濡れているのに気がつき、それが血だまりであると認識するまでにものの数秒も必要なかった。
 立ち並ぶアパートメント群の上から、布を引き裂くような悲鳴が聞こえた。ふたりはとっさに剣を抜き、構えた。すぐにどさりとイヤな音がして、ふたりの目の前になにか大きなものが落ちてきた。ふたりは同時に息を飲み込む。それはまさに、さっきまで生きていたに違いない人間の腕であった。
 セテとスナイプスはアパートの屋根を睨む。逆光に照らされて顔まではよく見えないが、剣を携えた何者かが、ふたりを冷ややかに見下ろしていた。赤く燃えるような髪が、血の色そのもののようであった。

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