第二十一話:金の面影・黒の気配

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 からみつくような重苦しい黒い背景のなかで、女の人がひとり、顔を覆ってうずくまっている。その人にだけライトが当たっているみたいで、暗闇なのにその姿だけがくっきりと浮かび上がっている。まるでお芝居の暗転場面を見ているよう。
 私はゆっくりとその女の人に近づいていった。その人は顔を両手で覆いながら、声も出さずにさめざめと泣いていた。
「何を泣いているの? 泣かないで」
 私はその人に声をかけた。ものすごく悲しい気分になって、私まで泣いてしまいそうだったから。
 女の人は私に気づいて顔を上げた。
 なんてきれいな人。白い陶器のような肌に見事な黄金の髪。長いその髪はまっすぐに腰のあたりまで届きそうで、うずくまっているために、美しい金色の髪がなめらかな布地を広げたかのように床になびいている。それに、目鼻立ちの整った顔。まつげも長くて、そういえば大昔の芸術的な彫刻があったけれど、ちょうどそんな人間離れした美しさを醸し出している。エメラルドグリーンの透き通るような瞳。でも、大粒の涙がその美しい瞳を曇らせてしまって……。
「……おいで」
 りんと響く、透き通るような声。女の人は私に手を差しのべ、そして私をぎゅっと抱きしめた。たぶん、また私は小さい女の子なんだろう。この女の人の腕の中にすっぽり収まってしまうんだもの。
 女の人は私を抱きながら、またはらはらと涙をこぼした。ふとその胸を見ると血だらけだった。私は息を飲んで、彼女がどこかけがをしていないかを確かめるように、彼女の胸のどす黒い血の跡をじっと見つめた。
「どうしたの? どこかけがをしているの?」
 私は尋ねた。女の人は驚いたような顔をしたが、やがて首を横に振った。返り血を浴びたのだろうか。ふだんなら恐ろしさのあまり悲鳴を上げてしまうほどの異常なできごとなのに、私はちっとも怖くなかった。ただ、無性に悲しくて。
「泣かないで、××××。私まで悲しくなっちゃう」
 いまのはこの女の人の名前だったのだろうか。よく聞き取れない。でも、私はこの人を知っているんだ。
 女の人は弱々しく微笑み、それからまた私をぎゅっと抱きしめた。あまりの力強さに、私は息苦しくなってちょっと身をよじった。
「痛いよ、××××。そんなに強く抱きしめないで」
 でも、女の人は腕を弱めるどころか、ますます私を強く締め上げる。
「苦しいよ、離して」
 私は抗議の声をあげた。金のカーテンみたいな髪の間から女の人の表情をうかがうと、彼女はもう泣きやんでいたが、唇にうっすらと笑みを浮かべていた。
 私は急に怖くなって、彼女から身を引き剥がそうともがくが、彼女の腕は私の体をしっかりつかまえていて、小さい私の力ではどうにもならない。
 突然周囲が赤黒くなり、見ると私たちの周りにはどす黒く渦巻く炎があがっていた。
 黒い炎。私はこの炎の熱さを知っている!?
「離して! 離してよ!」
 私は女の人の胸のあたりを拳で叩いた。すると伏せていたその顔がゆっくりとあがり、私は息を飲んだ。
 黒髪。金の髪はいつのまにか漆黒に変わっており、さきほどまでのはかなく消え入りそうな優しい顔は、いまでは地獄の悪鬼のような笑みを浮かべている。そしてエメラルドグリーンの瞳は……右目だけ、右目だけが燃えるような炎の色をしていた。
「サーシェス。私にはもうお前しかいない。お前にも私しかいないはず。それなのに……」
 やめて。それ以上言わないで。もう聞きたくない!
「お前だけだったのに。私に残されたのは、もうお前だけなのに……!」
 突如、黒い炎が私たちを包み込んだ。私は悲鳴をあげる。髪や服に炎が燃え移っているのに、彼女は身じろぎひとつせずに私を抱きすくめたまま動かない。
 やがてそのどす黒い炎の舌は、私の肌をじりじりと焦がし始める。猛威を振るうその炎の中で私はあえいだが、口を開け息を吸うその瞬間にのどの奥まで炎に焦がされ、体の内側から生きながら焼かれる苦しみを味わう。
 肉が溶け、血を焦がし、骨が見え始めて、私は気が狂ったように叫んだ。
 そして最後に見たのは、黒髪の女のその不思議な微笑み──!






 悲鳴をあげ、サーシェスは自室のベッドから飛び起きた。急いで寝間着の袖をあげ、両腕がなんともないのを確かめると、今度は裾をめくって自分の足にやけどの跡がないかを確かめた。
 全身から滝のような汗がどっと噴き出す。あの熱さ、痛み、恐怖。あれほどの生々しい感覚が、ただの夢だったとは思えない。
 廊下でカタリと物音がして、サーシェスは飛び上がらんばかりに体を震わせた。
 誰かいる? それともこれはまだ夢の続き? いまにも扉の向こうから恐ろしい姿をした化け物が飛び出てくるような気がする。
 唐突に扉が開き、サーシェスは悲鳴をあげて両手で顔を覆った。半分だけ開いたドアの向こうには、暗闇の中に光る赤い瞳がこちらを見ていた。サーシェスはそのまま意識を失ってベッドの上に倒れ込んだ。






 その朝、ロクランは盛大な花火の音で目を覚ました。ロクラン王宮の天蓋から打ち上げられた何発もの花火が、透き通った夏の朝の空に雲のような白い煙を残している。城下町からは花火にあわせて市の準備に忙しい商人たちのの声が響いてきて、ラインハット寺院の子どもたちもそわそわと起き始めてきた。
 サーシェスは爆音のようなその音によって現実に引き戻された。布団の上に横たわり、まるで昨夜は疲れてそのままベッドに倒れ込んだかのような姿だった。朝方の涼しい風が体をなで回し、寒気で一気に目が覚めたようだった。
 起きあがり、昨夜のできごとを思い返す。なにかとてつもなく恐ろしい思いをしたような気がするのに、あまりよくは覚えていない。少し吐き気がする。体をねじり、少し寝癖のついた髪を掻き上げながら、物憂げに鏡を覗き込む。
「なんだか腫れぼったい顔……」
 サーシェスは鏡の中の自分に向かってそう言い、自嘲するように笑った。が、すぐにサーシェスは息を飲む。鏡の中の自分の顔が、まるで熱湯でもかぶったかのように赤くただれ、ケロイド状にたれさがった皮に覆われていたからだ。
「……ひ……っ!」
 すぐさま顔を両手で覆い、手の中の顔の感触を確かめた。痛くも熱くもないのを確かめると、もう一度おそるおそる鏡を振り返る。
 ……なんともない……?
 すぐに昨夜見た恐ろしい炎の中での夢を思い出した。ひどく鮮明に。燃えさかる狂気のような炎、それも、不吉な黒煙を吐き出す真っ黒な。
 震えが止まらない。夢の中では、自分はあの黒い炎の中で焼き殺されていたのだった。なんと悪趣味な夢だろう。それに、あの女性は私をひどく憎んでいるようだった。いやだ。そんなふうに自分が誰かに憎まれるなんて、夢の中の話だとしても絶対に耐えられない。
 いや、夢の中のできごとだ。でも……。もしかしたら、自分は正常ではなくなっているのではないか。そんな考えが全身を支配すると急に吐き気がひどくなり、サーシェスは部屋を飛び出して洗面所に駆け込んだ。
 とりあえず吐きはしなかったものの、胸がむかついてしかたがなかった。水を飲み、顔を洗っているといくぶん気分がよくなってきたので、サーシェスは着替えるために廊下を戻ろうとした。その際に大僧正とばったり出くわし、朝の挨拶をしたがすぐさま大僧正に気取られてしまう。
「顔色が悪いぞ、どこか具合でも悪いのかね?」
 心配そうな表情で顔を覗き込まれ、サーシェスは首を振った。大僧正に余計な心配をかけたくない。自分が正常でなくなっているのならなおさらだ。
「大丈夫、もうなんともありません」
 サーシェスはやっとのことでそれだけ言うと、逃げるように自分の部屋に帰っていった。
 部屋に戻っても着替える気が起こらず、もう一度ベッドの上に体を横たえた。
 今日の午後はアスターシャと会う約束をしている。汎大陸戦争終結を祝う二百年祭が四日後に控えており、今日から一週間お祭り騒ぎが始まる。市場にはいつもの倍以上もの市が立ち並び、軽業師や曲芸師、さまざまな楽師がロクラン城下町の沿道にあふれる、それは賑やかな祭りが催されるという。アスターシャはこっそり城を抜け出して市に遊びに行きたいと言っていた。だが、楽しみにしていたその約束も、いまは何となく取りやめてもらいたい気分だった。
「キャンセル……なんて言ったら、アスターシャは怒るだろうなぁ……」
 サーシェスは天井を見上げながら、金髪の姫君の怒った顔を思い浮かべた。アスターシャはよくお忍びでラインハット寺院に遊びにきている。サーシェスに会いに来ては街を見たいとせがんで、ふたりで護衛もなしによく街に出かけるのだった。サーシェスは心からアスターシャの存在をうれしく思っていた。女の子の友達ってホントに楽しい。サーシェスは思った。怒ったり、笑ったり、ころころとよく表情の変わるアスターシャ王女。最初は本当に性格が悪くて張り倒してやりたい(実際に張り倒してやったのだが)と思ったが、彼女のその奔放でわがままなところも、サーシェスには新鮮であった。最近の彼女はフライスにご執心で、サーシェスに会いにラインハット寺院に来るときには世間話の口実を携え、フライスを見つけては愛想を振りまいている。それがちっとも嫌みじゃなくて、なんだかかわいくてほほえましい。実のところちょっとだけ妬けるけれども、フライスはいつものとおりだったりするので、まぁいいかとも思ってしまう。
 セテも友達だけど、やっぱり男の友達とはまったく違う話ができるし、女の子同士のおしゃべりってすっごく楽しい。きっとレトとセテもこんな感じでお互い本音で話をしてるんだろうなぁと、サーシェスはアジェンタスに帰ったふたりの友人を思い出す。最近手紙が来なくなったけど、忙しいのかな。きっとあのふたりは優秀だから、最前線でがんばっているんだろうなぁ。
 ふとサーシェスは左手のひらの銀色の傷跡を眺めた。最近はなにか心配事があるときにこの傷跡を見つめるのがくせになってしまっていた。
 もし……もし私がおかしくなってしまったら、セテやアスターシャは心配してくれるだろうか……。
 ふとサーシェスは考えた。セテがいなくなって、アスターシャもいなくなって、そのとき私はまたひとりぼっちになってしまうのではないか。そんなことを考えると、悲しくて涙が出そうになる。いやだ、いつまでもここにいたい。もしそうなってしまっても、誰かに側にいてもらいたい。
 フライスは? フライスは私の側にいてくれるのだろうか。聞くまでもない。きっとあの黒髪の文書館長は自分を支えてくれるはずだ。でも……フライスには支えてくれる友はいるのだろうか。
「……私にも父も母も、肉親すらいない」
 文書館で会ったとき、彼はそう言った。それはもしかしたら本当の孤独を意味していた言葉ではなかったか。
 ああ、フライス。あなたを支える力が私にあったら。目を閉じ、フライスの面影を心で追う。黒い巻き毛と整った顔立ちに浮かべた仏頂面がトレードマークの盲目の修行僧。常に冷静で、人を見下したような腹立たしい態度も、いまはとても恋しく思える。
 歌声が聞こえた。それはひどく遠くから聞こえるようで、間違いなく男の人の声だった。自分がまどろみかけているのに気づいて、サーシェスはそれをとても心地よく聞いていた。フライスが歌を歌っている? まさか。それにこんな歌詞、聞いたことがない。中央の標準語ではないし、ひどく複雑なメロディだ。それにしてもどこかで聞いたことがあって、ひどく懐かしい感じがする。
 ……サーシェス……!
 ふいにフライスが振り向いてサーシェスに手を差しのべた。サーシェスはその手を取ろうとしてハッとする。フライスではない。よく似ているけれど、黒髪ではなくて見事な黄金の巻き毛の……!
「サーシェス!」
 落ち着きのある低い声がして、サーシェスは揺り起こされた。きっとそのとき、自分は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていたに違いないとサーシェスは思った。目の前には大僧正がいて、ベッドに横たわるサーシェスの顔を心配そうな表情で覗き込んでいた。
「大僧正様……?」
 サーシェスは寝間着のまんま寝ぼけていたことを叱責されると思って、急いでベッドから跳ね起きた。
「ご、ごめんなさい! いま起きようとしていたところです!」
「いや、そうではない、その……」
 大僧正は困ったような顔をしてその先を言い渋っている。
「すまぬな、どこか具合が悪いのかと思って様子を見に来たのじゃが……今歌っていた歌はどこで覚えたのかね?」
「歌?」
「今そなたが歌っていた歌じゃよ。起きているのかと思っていたのじゃが?」
「あの……私が歌っていたって……今ですか?」
 大僧正は頷く。歌なんて歌った覚えはない。さっき夢の中で誰かが歌うのは聞こえてきたけれど。ではあれは夢ではなかったのか。寝ぼけて歌っていたのだろうか。
「いえ……あの……夢の中で男の人が歌っているのが聞こえてきたのですが……たぶんそれに合わせて歌っていたのかしら……?」
「夢の中で?」
 大僧正は身を乗り出してサーシェスの肩に両手を置いた。その表情はいつになく真剣そのもので、真剣というよりは怒ったようなこわばった顔だ。
「その歌に聞き覚えはあるのかね?」
「あの……」
 大僧正がひどくまじめな顔で問いただすので、サーシェスは何か自分が悪いことをしたのかと思って怖くなった。歌ってはいけない歌なのだろうか。いや、そもそもあの歌をよく知っているというわけでもないというのに。
「……聞き覚えというよりは……とても懐かしい感じがしました。あの、本当に私が歌っていたのですか? もしや禁忌とされている歌なのですか?」
 サーシェスがあまり怯えているようなので、大僧正は詰問するような自分の口調を心の中で戒めた。それからため息をついてサーシェスに微笑んだ。
「いや、すまぬ、そういうわけではないのじゃよ。脅かすつもりはまったくないのじゃが……。ただ、わしの古い友人が好んでよくあの歌を歌っていたのでな、驚いただけじゃよ。あの歌を知っている者はもうほとんどいないと思っていたのでな」
 大僧正はすまなそうにもう一度笑った。サーシェスはとりあえずほっと胸をなで下ろしたのだが、まだなにか考えているような様子の大僧正を見て、また不安になってくる。ふいに大僧正に肩を掴まれ、サーシェスは息を飲んだ。
「サーシェス、わしに何か隠し事をしているのではないかね? 本当は記憶を取り戻し始めているのではないかね?」
 サーシェスは驚いて大僧正の顔を見つめた。
 記憶を取り戻している?! 自分が? そんな馬鹿な。
 サーシェスは首を振り、それからまるで許しを請うかのように両手を大僧正に差しのべた。うつむいたその目から涙があふれそうになるのをこらえるように、彼女の細い肩が震えた。大僧正はサーシェスの手を握り、優しく髪をなでながら彼女を抱きしめた。
「……話してご覧なさい」
 大僧正はなだめるような低い声でそう言った。
「私……おかしくなりはじめているのかもしれない……!」
「なにを出し抜けに!?」
 サーシェスの一言で大僧正は彼女を胸から引き剥がし、その顔をまじまじと見つめた。サーシェスは首を振り、
「最近、恐ろしい夢ばかり見るんです。いいえ、最近じゃなくてこれまでもたまにあったけど、それが最近頻繁にあって……。今朝も黒い炎が私を……! 私、きっとおかしくなってきているんだわ!」
「夢? 夢の話かね?」
 大僧正はほっとしたように小さくため息をついたが、サーシェスはいっこうに落ち着こうとしない。珍しく取り乱し、恐怖に歪むその顔を、不謹慎にも大僧正は美しいと思った。小さな唇が少し震え、そこからため息のような言葉がつぶやき出される。
「夢の中での私は……いつも決まって小さな女の子なんです。誰かの膝の上や腕の中にすっぽり収まってしまうくらいの。いつも誰かに抱きしめられていたり、膝の上に乗っていたりして、そして必ず、その人は私の名前を呼ぶ。それは暗闇の中だったり、黒煙をあげる炎の中だったり……。見覚えのない場所だけれども、なぜか私はその場所を懐かしく思ったり……その人の面影をなんとなく覚えていたり……」
「頻繁に見るといったが、どんなときに見るのかね?」
 大僧正は興味深い口調になるのを抑えるのに苦労しながらサーシェスに尋ねた。サーシェスは少し落ち着いたらしく、顎に手を当てて首を傾げた。
「……最初にここに運ばれてきたとき……やっぱり黒い炎が私を取り囲んでいて……医務室で目が覚めたときは悲鳴をあげたと術医の先生がおっしゃってましたから。それから次はあのくそいまいましいファリオンをセテが斬りつけた翌日……」
 あのときの夢はあまり思い出したくない。まだ小さい自分を何人もの男が慰みものにするなんて、考えただけでもむしずが走る。
「そのあとは畜舎で炎に巻かれたとき、幻覚だと思っていましたが、黒い炎の中で誰かが私を呼んでいました。その人は私をとても憎んでいるようで……」
 思い出しただけでも背筋が寒くなるような憎しみのこもった瞳だった。今日の夢にしても、自分が誰かに憎まれているなんて考えたくもない。
「その次はアスターシャ王女にシェルターに閉じこめられたときで……」
 そう言ってからサーシェスはあっと口を押さえ、大僧正を仰ぎ見た。やはりあの事故は王女の悪巧みが発端だと判明し、大僧正は少し顔をしかめたが、とりあえず不問に付すことにしてサーシェスに先を促した。
「それが最後だと思っていました。それからしばらくは見ていなかったんですが……でも今日の夢は……黒い髪の女の人に、私は炎の中で焼き殺されようとしていた。この手もこの足もどろどろに溶けて……!」
「ふむ……」
 大僧正は白いあごひげをなでた。考え事をするときのくせである。
 つまり、その夢はサーシェスがなにか必ず特殊な体験をしたあとに見たということになる。夢は潜在意識を映し出す鏡と大昔の科学者が言っていた。文書館にある古い書物の中にも、そうした夢に関する文献が数多く残されている。もしや彼女の過去をデフォルメした形で投影されているのではあるまいか。やはり彼女は記憶を取り戻しかけているのではないかという不確かな感触。
「……サーシェス、その夢の中に出てくる人物について、特に思い出せることはあるかね?」
 夢の中に登場する人物について聞くなんてばかげていると思いながら、大僧正は尋ねた。サーシェスはけげんそうな顔をしながらも頭を巡らせ、見た夢について思い出せる限りのことを探そうとしているようだ。
「今日出てきたのはとてもきれいな女の人でした。すごくきれいな長い金髪をしていて……こんなきれいな人がいるのかと疑ってしまうくらい」
 ふとサーシェスは、暗闇の中で自分を抱きしめた優しくたくましい腕の感触を思い出した。かの人は私を抱きしめ、そして本当にうれしそうに微笑み、私のために涙を流してくれた。覚えているのは金色の柔らかい髪。
「それから……」
 あごひげをなでながら考え事をしている大僧正に、サーシェスは言葉を継いだ。
「すごくきれいな男の人。もうイメージしか思い出せないけれど……ちょうどフライスを金髪にしたような感じの男の人が出てきたこともあります」
 大僧正は目を見開き、驚いたような畏怖したような顔をしてサーシェスの顔を見つめた。。それから大僧正は顔を両手で覆い、うめくような声をあげた。サーシェスは驚いて大僧正の手に自分の手を重ね、慰めるように寄り添う。大僧正は顔をあげ、サーシェスの手を握り返した。眉毛に埋もれてしまいそうな目が、少し潤んで見えるのにサーシェスは気づいていた。
「サーシェス、その話、だれにも沙汰すでないぞ」
「大僧正様?」
「よいな、フライスにもじゃ! わし以外の誰にも話してはいかん!」
 思いがけず強い口調の大僧正にとまどいながら、サーシェスは小さく頷いた。すぐに大僧正はいつもの優しい顔に戻り、
「早く着替えなさい。さっきの夢のことは忘れて、今日はアスターシャ王女との約束があったはずじゃろう?」
 大僧正は悪かったというような顔をしてベッドから腰を上げた。
「……そなたは知らぬかも知れぬが……そなたが歌っていた歌はたいへん古い歌なのだよ」
 大僧正はドアの前で立ち止まると、もう一度サーシェスを振り返ってそう言った。
「もうこの世界では使われることのない言葉で歌われた歌じゃ。この世界でそれを歌える人間を、わしはひとりしか知らぬ」
 悲しみのこもった瞳がサーシェスを見つめていた。いつだったか、そんなふうな表情をした大僧正を見たことがある。あれはいつのことだったか。それから大僧正は鼻をすするような仕草をし、静かに部屋を出ていった。
「……なんということだ……」
 後ろ手にドアを閉めた大僧正は再び顔を覆い、廊下の手すりに体をもたれさせながら絞り出すような声でそう言った。
「我が友よ……そなたの探していた娘が、わしの養い子かもしれぬとは……!」






 騒々しく廊下を駆ける音がしたので、アスターシャが到着したのが分かった。アスターシャはラインハット寺院に来ると、待ちきれないのかいつも廊下を走ってサーシェスの部屋まで来る。それでお姫様だというのだから聞いてあきれる。
「サーシェス!」
 騒々しくドアが開かれ、アスターシャが駆け込んできた。サーシェスはこんなふうに騒々しくして、自分はいつもフライスや大僧正に怒られるのにとため息を付きながら、わがままな姫を振り返った。
「な、なに、その格好!?」
 サーシェスはアスターシャを見るやいなや、頓狂な声をあげた。それもそのはず。いつもなら裾の長いローブにゆったりとしたドレープの上質のドレスに身を包んでいるアスターシャが、今日は街の少女のように髪を結い上げ、チュニックと膝頭の見える短いスカートを着ていたからだった。金色の髪には瞳の色に合わせたターコイズの髪飾りを刺し、馬のしっぽのような長い髪をひとつにまとめ上げていた。チュニックはクリーム色の布地で作ったもので、やはり瞳の色に合わせたのかアイスブルーの色鮮やかなテープで縁取りされている。柔らかいシルクで織った短いスカートの下からは、ぷっくりしたかわいい膝小僧が顔を出していた。
「なにって、失礼ね。これでもずいぶん変装してきたつもりよ」
 アスターシャは怒ったような顔をしてそう言った。似合わないわけではないが、いつもの王女らしい服装に見慣れていたので、驚いただけだとサーシェスはあわてて付け加えた。いや、むしろすごくかわいいかもとは、本人には口が裂けても言わない。
「お祭り騒ぎの中に行くのに、護衛もなしで豪華なドレスなんか着ていくほど、あたしはバカじゃないわよ」
 アスターシャは腕を組んでサーシェスを睨み付けた。サーシェスはそんな彼女の様子に笑い出した。
 ふたりが出かけるのを、大僧正とフライスが見送りに出てきた。最後までフライスは護衛のためにふたりに着いていくことを主張したが、サーシェスがそれを強くはねつけたため、彼はいつもより増して怒ったような顔で無言でため息を付いてみせた。それを大僧正はなだめながら、女の子同士羽を伸ばしてくるようサーシェスに言い、彼女に百セルテスほどの小遣いを渡した。百セルテスもあれば、本や身につけるものなど、ふつうの女の子が買い物をする程度なら十分な額だった。
 サーシェスは大いに喜び、ふたりはロクラン王宮の従者が用意した庶民が乗るのと同じくらいにカモフラージュされた馬車に乗り込んだのだった。






 市の立ち並ぶ広場の手前で馬車から降りたふたりは、その喧噪のすさまじさに息を飲んだ。ロクランの街の賑やかさといえばエルメネス大陸中に聞こえるものでもう慣れていたはずだったのだが、今日のこのお祭り騒ぎは普段の市とは比べものにならないほど華やかであった。
 道の両側は隙間もないほどの露店で埋め尽くされ、脇の路地に人が入り込む余地などほとんどない。大陸のあちこちから集められた貴重な天然石で作られる装飾品、辺境で織られるという色とりどりの鮮やかな布地、大陸の周りに点在する島々で収穫される珍しい果物や魚介類など、ふだんの市ではほとんど見られることのない貴重な売り物が、両側を埋め尽くす出店の軒先で所狭しとひしめき合っていた。
「うわぁ、すっごい人出! それにすっごい賑やか! 迷子になっちゃいそう!」
 サーシェスが声をあげた。その目は早くもあちこちの露店の軒先の商品を物色し始めている。
「さすが大陸随一と言われるだけはあるのね。それにしても二百年祭にこんなに人が出てくるなんて思いも寄らなかったわ」
「そりゃそうよ」
 アスターシャも商品をきょろきょろ見回しながらサーシェスに返事をする。
「だって汎大陸戦争が終わって今年でちょうど二百年ですもの。最高におめでたいお祝いだわ。ロクランだけじゃなく、世界各地で同じようなお祭りが催されているそうよ」
 そう言いながらもアスターシャは商品の物色に余念がない。
「あ、見て見てサーシェス! 辺境で捕まえた珍獣ですって! かわいい〜!」
 2軒先の露店に、大陸の辺境にしか生息していないという珍しい動物ばかりを扱っているのを見つけ、アスターシャは歓声をあげてその店に駆け込んだ。人だかりができているために、小柄なアスターシャはひょこひょこと軽く飛び跳ねながらそれを見なければならなかった。
 そんな彼女の様子を見ながら、サーシェスはとりあえず何を買おうか考えた。フライスが怒っていそうだから、彼には何か新しい書物でも買っていってあげよう。きっと四日後の祭典の準備で忙しくて来られないのをひがんでいるんだわ。大僧正様には新しい拡大鏡を買って差し上げよう。最近目がかすむとおっしゃっていたし。
 ふたりは人混みをかき分けながら通りを進み、それからサーシェスがお気に入りだという甘い焼き菓子を売る露店で、一個あたり半セルテスのところを六個二セルテス半にまけてもらった。
「はい。これ、すごくおいしいのよ。私の大好物なの」
 サーシェスは紙袋に詰めた焼き菓子の半分をアスターシャに手渡した。アスターシャは目を丸くしながらそれをひとつ掴み、大きな口を開けて一気にほおばった。
「すごい! ホントにおいしい!」
 焼きたての菓子をほおばりながらアスターシャは満足そうに笑った。サーシェスは三個ずつ分けた自分の取り分をさっさと平らげてしまったが、アスターシャは遠慮するかのようにサーシェスを見やり、小さくため息を付いた。
「どうしたの? 早く食べないと冷めちゃうわよ」
「うん……」
 アスターシャは2個目の焼き菓子に手を伸ばし、それにかぶりついた。
「あの……ね……サーシェス?」
「なに?」
「あ……うん、なんでも……」
「なによ、言いかけたのに途中でやめないでよ」
「うん……」
 アスターシャはらしくもなくうつむいた。それからもう一度ため息を付いてサーシェスの顔を見つめる。
「サーシェスは……フライス様のこと……」
「は?」
「あ、やっぱりいいわ、なんでもない」
 アスターシャは最後の残りをパクリと口に放り込み、それから両手をパンパンと大袈裟に振り払って先に立って歩き始めた。
 ああ、そうか、このお姫様はフライスに本気で恋をしているんだな。サーシェスは、彼女の後ろ姿を見ながらなんとなく後ろめたいような気分になってきた。自分はまだ、フライスの正式な恋人であるというわけではないにもかかわらず。
 フライスは私のことを本当はどう思っているのだろう。彼の口から、「好き」だの「愛している」だのの台詞が聞けるとは思っていないが、本当に好きならもっと愛情表現をしてほしい。かといって自分もフライスを束縛するような行動には出たくないし、恋人然とした態度をとったこともない。中途半端な関係。記憶喪失の自分に対する同情だけだとしたら、あまりにも寂しい。
 そんなことを考えながら先に立って歩くアスターシャの後をぶらぶらと歩いていると、薄汚いがらくたが入り口に所狭しと並ぶ、これまた薄汚いテントの前にさしかかった。
 錆ついた鉄で作られた看板らしきオブジェが、テントの柱に立てかけてある。それが看板だと見てわかるのは、中央の標準語ではないひどく複雑な文字をペイントした跡が見て取れるからだった。値札がついているところを見ると、これもおそらく商品のひとつなのだろう。
 こんな小汚いものを買う酔狂な人間がいるのだろうかと思いながらも、不思議に足が店内に向いてしまう。
 テントの中は以外に広いのだが、その中もがらくた同様のオブジェで占領されていた。つるつるに磨き上げられた金属で作られた頑丈そうなベッドとか、年季の入った黒檀の洋服ダンスだとかの家具も並んでいるので、サーシェスはようやく、ここが骨董品を扱う店なのだということが理解できた。
「いらっしゃい!」
 山積みのがらくたの中から元気な声がして、サーシェスはぎょっと飛び上がらんばかりに驚いた。
「あれ、もっと年寄りのお客さんが来ると思っていたのに、お嬢ちゃんみたいな若い女の子が来るなんて意外だなぁ」
 浅黒い顔、ごわごわの黒髪がひょっこりと顔を出した。硬そうな伸ばし放題の黒髪を無造作にたばねたその青年は、真っ白い歯を見せながらサーシェスに笑いかけた。年はたぶんフライスと同じくらいかもしれないのに、健康的に日に焼けた褐色の肌がずっと若々しく見せている。
「ゆっくり見ていってよ。どれも貴重なものばかりだからね」
 青年は店内をぐるりと指さしながら自慢げにそう言ったが、サーシェスにはその価値というものがさっぱりわからない。
「貴重……ねぇ……」
 そうやって肩をすくめてみせると、青年は鼻を鳴らし、
「この貴重さがわからないなんて、そりゃお嬢ちゃんイナカモノもいいところだぜ? なんてったってここにある商品のほとんどが、旧世界《ロイギル》の時代のものなんだ」
「ふーーん」
 田舎者と言われ、少々サーシェスはムッとした。青年を見つめ、あんたの方がよっぽど田舎くさいじゃないと思いながら、店内のがらくた、もとい貴重な品々を物色し始めた。青年は悪びれたところもなく、にこにこしながらサーシェスが店内を見て回っているのを見つめている。
「骨董品に興味があるの?」
 青年が尋ねた。サーシェスは首を振り、
「別にそういうわけじゃないけど。だって誰が使っていたかわからない道具なんて、薄気味悪くない?」
 青年はそれを聞いて吹き出した。
「意外に現実的なんだねぇ、お嬢ちゃん。ま、確かに誰が使っていたかわかんないってのはアレだけどさ、もうちょっとロマンを感じてほしいなぁ」
「ロマンねぇ……。だって、旧世界のものなんてほとんど焼かれてしまって……」
 そう言いかけて、サーシェスははっとした。これらが旧世界の品々だとしたら、フレイムタイラントの炎をどうやってまぬがれたんだろう。
 青年に問いかけようとすると、彼はしたり顔でサーシェスを遮った。
「ああ、お嬢ちゃんの言いたいことはわかるよ。もう何百回も尋ねられたことだからね。なんで旧世界のものが灰にもならず、ほとんど無傷で残っているか、だろ? ここにあるもののほとんどはね、海から引き上げられたものなんだ」
「海?」
 サーシェスは目を丸くして青年の顔を見つめた。褐色の肌とは対照的な真っ白な歯を見せて青年は笑った。
「そうだよな、あんたら中央の人間は海なんて見たことないだろうし、中央諸世界連合にしても海に近づくことを禁止しているし。そりゃそうだ。汎大陸戦争で人類の叡知のほとんどを奪ったのは、海なんだからね。だが、辺境に生きる人間にしてみれば、海は生命の源なんだよ。まぁ、あんたら中央の人間は俺たち辺境の人間をバルバロイ《野蛮人》なんて呼ぶけどな。それに海には俺たちの知らないたくさんの宝が眠っている。俺たちは海に潜ってこいつらを引き上げては、中央のこうした市場で売りさばくってわけ」
 青年は一気にそうまくしたてると自慢げに両手を広げ、念を押すようにひとり頷いた。サーシェスはこの青年について、顔や背格好こそ似ていないが、しゃべり方や人当たりの良さがセテの親友レトによく似ていると思いながら、海から引き上げられたという幻の逸品を見回した。
 ロクランは中央エルメネス大陸に位置するために、海からはほど遠く、おそらくここに住む者のほとんどは一生見ることもかなわないだろう。本と大僧正やフライスの講義の中でしか教わったことのない海。二百年前に世界のほとんどを飲み込んでしまった恐ろしい怪物だというのに、こんなにも懐かしく感じるのはなぜだろうか。
「海の中には……まだこんなものがゴロゴロ転がっているの?」
 サーシェスは側にあった木製の小さな像を手に取り、それを青年の方に振り上げて見せた。小振りで人型をした木彫りのそれはたいへんきめ細かい細工が施されており、少しひび割れてはいるものの、手を合わせ祈りを捧げるような指先や、ひじで波打つ服のドレープが見事に再現されている。恍惚としたその表情はうっすらと笑みを浮かべ、見る者を魅了して止まないだろう。
「お、いいところに目を付けたね、お嬢ちゃん。それ、すごく腕のいい木彫り師の細工によるものだから結構値が張るよ。えーと、三千五百セルテス」
「三千五百セルテス!?」
 買う気はさらさらなかったが、値段を聞いてますます買う気が失せた。サーシェスは申し訳なさそうにその木彫りの像をもとの場所に戻した。
「ああ、えーとなんだっけ、海の中にまだこんなのがあるかって? そりゃもちろん! 毎年中央諸世界連合の作業チームが何人かやってきては調査していくみたいだけどね、まだまだ海の中にはこんなのとは比べものにならないようなのがごっそり眠ってるよ。そこらへんに置いてある看板も、旧世界《ロイギル》のものだし」
 青年は無造作に立てかけられた錆だらけの鉄板を指さした。それから急に声のトーンを落としてサーシェスに耳打ちするように、
「実のところ、俺たち一般の人間が海に潜っていろいろ引き上げるのは御法度なんだけどさ、ま、世の中酔狂なヤツがいるからこういう商売が成り立つってわけで」
 青年は片目をつぶって見せたが、サーシェスはあきれたようにため息をついた。
 奥の方には古い書物が無造作に積み上げられていた。立派な装丁のものが多いのに、黄ばんでしまったり、見事に波打ち、変形しているものがほとんど。なかにはページが腐って落ちてしまった無惨なものも見受けられる。
「これもそうなの?」
 サーシェスはボロボロの本を手に取りながら、店主の青年に尋ねた。彼は頷き、サーシェスが商品を手に取る様子を楽しそうに見つめている。自分だったらこんな冷やかし客にそこまで愛想よくできるだろうかと思いながら、サーシェスは本を物色し始めた。
「そこらへんのは汎大陸戦争以後の比較的新しいものも混じってるな。でも割と薄っぺらい本は汎大陸戦争以前のものだよ」
 古物商の青年がそう言ったので、サーシェスは分厚い本の下敷きになっている薄い本を取り上げた。表紙になにも書かれていない味気のない装丁で、それがますますサーシェスの興味を引いたらしい。ページをめくると、なにやら怪しげな文字がびっしりと細かく印刷されており、人物の精巧な絵が二ページに一枚の割合で割り付けられていた。色すら着いていないが、まるで生きた人間をそのまま写し取ったかのような精巧な絵で、サーシェスはそれが大昔の「写真」という技術であることをようやく思い出した。
 かっちりと軍服を着込んだいかめしい顔つきの年輩の男性や、科学者風の眼鏡をかけた神経質そうな男性が続いたので、サーシェスは次の本を手にするべく、ページをめくる速度を速めた。しかし、ふと手が止まったページを何気なく見て、サーシェスは息が止まるかと思うほどの衝撃を受けた。
 黒光りする甲冑に身を包んだひとりの男性の写真がそこにあった。そしてその人物こそ、何回か彼女の夢に登場した美貌の男性であったのだ。
 甲冑の男はまっすぐにこちらを見据え、腰まで届くかのような見事な巻き毛を無造作に後ろで束ねている。そしてその思慮深い瞳は、見つめるものすべての真実を見抜いてしまうほど聡明な輝きを持っていた。
 髪の色を除けば、本当に雰囲気も背格好も驚くほどフライスに似ている。いや、フライスには剣の心得はないから、彼が甲冑を身にまとうことは絶対にあり得ないし、この本はフライスが生まれるよりも遙か昔、汎大陸戦争以前のものだ。
 黒い甲冑の騎士。あなたはいったい何者?
「やっと見つけたわ! サーシェス!」
 アスターシャが憤慨したように叫び、店内に入ってきた。サーシェスはなぜかとっさにその本を閉じた。
「散々探したわよ! もう、変なヤツに連れて行かれちゃったかと思ったわよ!」
「あ、ごめん、だってアスターシャもどんどん先に行っちゃうし」
 サーシェスの言い訳に、アスターシャは少しすまなそうな顔をしてため息をついた。アスターシャはサーシェスの手に持つ古本に目を留め、
「なぁに、サーシェス。こんな汚い本を買う気なの?」
「あ、うん、大僧正様にちょっと頼まれてたから……」
 なぜアスターシャに本当のことを言えないのか少し悲しく思いながらも、とっさの思いつきにしてはまともなウソをついてみた。
「あの、これいくら?」
 サーシェスは古物商の青年に声をかけ、手に持っている古本を見せた。青年は古本を受け取るとそれをひっくり返し、
「五十セルテス」
「五十セルテス!? これが!?」
 端で見ていたアスターシャが声を荒げた。青年はアスターシャに向き直り、
「そりゃそうだよ。こっちだって慈善でやってるわけじゃない。仕入れにゃ命賭かってるんだから」
 アスターシャは憤慨したようにサーシェスを向き直り、わざと聞こえるような声で言った。
「考え直した方がいいわよ、サーシェス。こんなぼったくりの店じゃなくたって、本を買うならほかにいくらでもあるでしょうに」
「お嬢ちゃんも結構言うねぇ〜」
「いや、あの、この値段でもあたしはかまわないし」
 サーシェスがふたりの仲裁にはいるような形で割って入る。青年は苦笑しながらアスターシャの顔をまじまじと見つめた。それから考え込むような顔をして、
「あれぇ? こっちのお嬢ちゃん、俺、どっかで見たことあるような気がするんだけど、前に会ったことある?」
 アスターシャは驚いて青年の前から体を翻す。王女だということがバレたらたいへんだ。
「あ、あの! これ、これもらうわ!」
 サーシェスはあわてて財布から五十セルテスを取り出し、青年に手渡した。
「まいどどうも」
 青年は上の空で金貨を数えながら、アスターシャの方を怪訝そうに見つめて、
「んーーとどこだったかなぁ、君によく似た顔を知ってるんだけど、どこで見たんだろう。どっかの歌姫か女優さんかなぁ、いや、違うな」
 そんなふうにひとりごとを言うので、アスターシャはあわててテントを飛び出していった。サーシェスも胸に古本を抱え、テントを出ていこうとしたが、その後ろ姿に青年があわてて声をかけた。
「あ、ごめん。お買いあげありがとう! また機会があったら……って言ってもそうそうあるわけじゃないだろうけど」
 青年がまた白い歯を見せて笑ったので、サーシェスもつられて微笑み返した。
「ジョーイだ。俺は海の民のジョーイ。もし辺境に旅する機会があったら、一度は海を見ておくことだな」
「サーシェスよ」
 サーシェスはジョーイと名乗った古物商の青年に名乗り返した。青年はうれしそうに笑うと、
「海の民は『水の一族』の末裔なんだよ。君に水の加護があらんことを」
 そう言って手を振り、アスターシャと入れ替わりに入ってきた別の客に声をかけると熱心に接客を始めた。
 ジョーイの店から出たサーシェスは、古本を大事そうに胸に抱え、外でいらだたしげに待っているアスターシャに声をかけた。アスターシャは憤慨したような顔をしてサーシェスを睨み付けると、
「あんなバルバロイ《野蛮人》の言い値で買うなんて! 信じられないわ!」
 そう言って大袈裟に肩をすくめた。バルバロイという言葉を平気で口にするアスターシャに、サーシェスは顔をしかめた。
「彼はそんなに野蛮じゃないわ。商売なんだから仕方ないわよ」
 サーシェスがたしなめるようにそう言うと、アスターシャはどうぞお好きなようにといわんばかりにまた肩をすくめて見せた。
 突然、大通りの向こうからけたたましいラッパの音がした。数メートル先の大通りの両側に人々が集まり、ロクランの近衛隊によって通りが広く確保されていた。沿道の人々は通りがよく見えるよう、そろって背伸びをする努力をしている。
「何が始まるの?」
 サーシェスはアスターシャに尋ねた。
「ああ、たぶんこの時間だから新しい水の巫女のパレードが始まるんだわ」
「水の巫女のパレード?」
「あ、そうか、あなたは知らないわよね。年に一度、ちょうどこの時期なんだけど、厳しい審査のあとに何人もの候補の中から水の巫女が選ばれるの。選ばれた女性が国王に謁見をしたあと大僧正様に祝福を与えられ、正式にロクランの水の巫女に任命されるんだけど、たまたま今年は二百年祭に時期が重なっていることもあって、お父様が新しい水の巫女のパレードを企画したのよ。四日後の二百年祭の式典では大僧正様が正式に水の巫女に祝福を与えることになっているから、その前にパレードでアピールしておけば、平和の象徴として国民に印象づけやすいでしょ?」
 水の巫女か。自分は来年、水の巫女に選ばれるだろうか。セテに約束したのだから、絶対にならなくてはいけないけど……。
「あなたはその水の巫女に会ったの? どんな人だった?」
 サーシェスは軽い嫉妬にも似た羨望の思いを抱きながらアスターシャに尋ねた。が、アスターシャは小さく舌を出し、
「それが残念、私は水の巫女を見ることはできないのよ。式典の前に会えるのはお父様と大僧正様だけ。悔しいから外でパレードを見てやるのよ」
 アスターシャによると水の巫女はこの大通りを特別製の馬車でパレードするということだから、ふたりは急ぎ足で沿道に並び、文句を言われるのもかまわずに割り込んで前列の方へ向かった。
 遠くから馬車の車輪が回る音が聞こえ、近衛兵の馬が前を護衛しているのが見え始めた。途端に、両側からいっせいに歓声が上がった。そのすさまじい熱狂ぶりは異常なほどだ。ほどなくして、ふたりはその興奮した歓声の原因を知ることになる。
 水の巫女の乗る馬車はまさに特別製であった。車輪と台の部分は白木製。台座部分には金でロクラン王家の文様が埋め込まれ、それは見事な細工が施されていた。また、台座の上半分はクリスタルでできており、夏の強い日差しに照らされて輝く様は幻想的で神々しい。ロクランの王家の人間でも、おそらくはこれほど立派な装飾の馬車に乗ることはないだろう。しかし、群衆がこれほど興奮したのは、馬車の細工が美しかったからだけではない。ガラスケースに収められた高貴な宝石を思わせるような、水の巫女その人の容姿であった。
 もし詩人がその水の巫女をひとことで例えたなら、黒曜の宝玉と賛美したに違いない。その豊かな黒髪は日の光を受けて、まさに黒曜石のような艶やかな光を放ち、流れ落ちる滝のようにまっすぐに腰まで伸びていた。しっとりと水気を含んだような美しい黒い髪が、巫女の陶磁器のように白い肌を引き立たせている。白と黒、相反する色が見事に調和していた。そして鼻筋のとおった彫りの深い端正な顔立ちと、聡明さを物語る深いエメラルドグリーン色をした切れ長の瞳が、その巫女にこの世の者ならぬ幽玄の魅力を与えているのであった。
 巫女はロクランの水を象徴するブルーの薄もののベールを頭にかぶり、そして同じ色の装束を身につけていた。身分の高い貴婦人が身につける高価な布で織られているのは間違いないだろう。多くの観衆の中で臆すこともなく、まっすぐに前を見据え馬車に乗る様は、まるで誇り高いハイファミリーのようでもある。
 まさに目を見張るほどの美形の巫女。ただ惜しむらくは、彼女の顔の右半分が黒髪で隠されていることであった。
 サーシェスはその巫女を見て声にならない声をあげた。悲鳴のようでもあったが、多くの歓声の中ではそれはかき消されてしまう。突然血の気が引き、体が震え、そして全身の毛穴から冷や汗が吹き出すような感覚に陥った。
 こんなことがあるわけがない。
 巫女の乗った馬車だけが、真っ暗な空間の中でゆっくりと自分の前を横切っていくように感じる。そうしてサーシェスは、水の巫女の顔をはっきりと見た。
 ──今朝の夢に出てきた黒髪の女──その美しく不吉な姿が目の前にあった。
「すごい美人! あんなきれいな人、見たことないわ」
 アスターシャは馬車の中の水の巫女を見て、うわごとを言うかのようにそう言った。幸い、目は巫女に釘付けにされて動かせないようで、サーシェスにはまったく注意を払っていない。
「水の巫女ってあれくらい美しくないとなれないものなのねぇ。サーシェス、あなたももう少しがんばったほうがいいわよ」
 アスターシャの軽口に応戦するほどの余力はない。サーシェスは同時に吐き気がするほどの嫌悪感を感じ、震える足で体を支えるのがやっとであった。息が苦しい。禍々しい悪意があの巫女を中心に渦巻いているような不吉な予感。その強さにめまいすら覚える。あの巫女はいったい何者なのか。なぜ夢に出てきた女性と同じ顔をしているのか。
「ちょっと、聞いてるの?」
 アスターシャはサーシェスを振り返るが、彼女が顔面蒼白になって震えているのに気付き、あわててその体を支える。
「だいじょうぶ? 顔、真っ青よ。ちょっとそこで休む?」
 アスターシャに支えられながら人混みを抜け、すぐそばの植え込みのベンチに腰を下ろすが、サーシェスは声を出すこともできない。体が震え、手足の先がしびれる。重度の貧血状態に陥ったようだ。
 ──これは夢なのか。夢だとしたら最強の悪夢に違いない。
「あの人……」
 がちがちと鳴る歯の間から、サーシェスがうめくようにつぶやいた。
「ものすごい悪意の塊を感じるの……あの人、危険だわ……!」
「まさか、水の巫女なのよ」アスターシャは不安げなサーシェスの言葉を一蹴するかのように言い、鼻を鳴らした。
「わざわざ厳しい審査を受けてやってきた優秀な女術者が、なにかよからぬことでもたくらんでいるとでも? そんな馬鹿なこと、あるわけないじゃない」
 夢の中のあの黒髪の女は、自分をひどく憎んでいた。だが、それは夢の中の話。現実にはあの女性に会ったこともないのだ。たかが夢の中の話だというのに、こんなにも恐怖感を感じるのはなぜだろう。
 サーシェスは無意識に、胸に抱えていた古本をしっかりと抱きしめていた。古本の中の黒い甲冑をまとった騎士が、自分の心を安らげてくれるのではないかという淡い期待を抱きながら。

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