第十六話:親愛なるセテへ

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 サーシェスは激痛で目が覚めた。体の節々がきしむのも当然だが、左腕が焼けるように痛む。ふと横を見ると、アスターシャ王女が倒れていた。上を見上げると、崩れた床がぽっかりと口を開けていた。まだパラパラと崩れた床の破片が落ちてくる。しばらくすると、残った床も崩れるかもしれない。
 周りを見渡すと、ちょうどふたりが落ちたのは、シェルターの床下から十メートルくらい掘り下げられた竪穴状の空間で、この穴はここから脇の何本もの小道に続き、さらに奥へと続いているようだ。シェルターの真下がこんなに穴だらけだったなんて、考えるととても恐ろしい。
 とりあえず体を起こしたが、左腕の激痛にサーシェスはうめき声を漏らす。腕が動かないことから、もしかしたら折れているのかもしれない。痛みの波が落ち着くのを待って、サーシェスは右腕でアスターシャを揺さぶった。アスターシャはすぐに目を覚まし、周りの状況を見るとどんどん顔を青ざめさせて呆然としていた。サーシェスは左腕をかばいながらようやく起きあがり、茫然自失状態のアスターシャを促して、横に続く小道に待避した。
「……床が崩れたのね。まさかシェルターの下にこんな穴があいているとは思わなかった……」
 アスターシャがそう言った。さすがにショックだったらしく、さきほどまでの威勢はどこにも見あたらない。
「上まで十メートル。ここからじゃ登ることはできないわね。今にも天井が崩れ落ちてきそうだし」
 サーシェスは上を見上げながらそう言った。アスターシャはショックで震えながら瓦礫のかたすみに座り込み、膝を抱えた。
「もうおしまいだわ……。シェルターの扉は閉まっているから外からは誰にも分からないし……。きっとここで死んじゃうんだわ……」
 サーシェスはそんな気力のないアスターシャの言葉にかっとなり、
「どうしてすぐ諦められるのよ! 何とかしてここから出ようって気はおきないの!? だいたいあなたが子どもじみたマネしなければこんなことにならなかったのよ! 責任はとってもらうからね!」
 アスターシャはサーシェスの顔を無気力なまま見つめている。すべてを諦めたような表情に、サーシェスは深いため息をついた。
 この温室育ちの花は自分の力で何とかしたことがないんだろう。だから、誰かに助けてもらうことしか考えられないんだ。それが不可能だと分かると、すぐこうやって諦める。まったく、とんだ厄災、とんだお姫様だわ。
 再び激痛の波が襲ってきた。サーシェスは歯を食いしばってその痛みをこらえようとするが、うめき声がもれてしまう。アスターシャが驚いてサーシェスを見つめている。その表情は、誘拐された子どものように恐怖でゆがんでいた。
「ど、どうしたのよ」
 アスターシャがおそるおそる尋ねる。容赦なく襲ってくる痛みと吐き気に、サーシェスは荒い息を吐くのでせいいっぱいだ。額から脂汗がにじみ出てくる。
「腕が……折れたらしいのよ……!」
 サーシェスの言葉に、アスターシャはまた絶望的な表情をする。サーシェスはため息をつき、とりあえずアスターシャの横に座り込んだ。それから、自分の腕の状態を確かめるために右腕で皮膚をさする。骨が皮膚を突き破ってでてきていないから、中で単に骨が砕けただけだと推測される。しかも砕けたのは肘から下のようだ。上腕部は問題なさそうなので、固定しておけば大丈夫だろう。癒しの術法を受ける前だったが、けがや病気を治すのに必要な医学の知識を詰め込まれたのを、フライスに感謝すべきだろう。まさかこんなところでフライスの講義が役に立つとは思わなかった。
 サーシェスは右腕でワンピースの裾をつかみ、それを口でくわえて引き裂いた。突然の布の引き裂かれる音に、アスターシャはびっくりしたらしい。サーシェスは細く裂いた布をアスターシャに手渡し、
「これで左腕を固定してくれない?」
「え? 私が? そんなのやったことないわよ」
「やったことなくてもやるの! 私が指示するからそのとおりに布を巻いて、肩からつって」
 アスターシャは慣れない手でサーシェスの腕に布きれを巻き、歯を食いしばって痛みをこらえるサーシェスの表情をうかがいながら、どうにかこうにか肩から左腕をつるして固定することに成功した。左腕にかかる重量が少なくなったおかげで、痛みはさっきよりもだいぶましになった。裾のボロボロになったワンピースを見ながら、サーシェスはラインハット寺院の服飾担当のおばさんに、また「高い生地なのに」とグチをこぼされることを予想してげんなりするのだった。
「あなた……ラインハット寺院の修行僧なんでしょ。それくらい治せないの?」
 アスターシャがサーシェスに嫌みたっぷりに尋ねる。
「おあいにく様。修行僧なんていいもんじゃないわよ。水の術法だって習い始めたばっかりだし、癒しの術法なんて教わったこともないもの」
「お粗末な術者ね。術者ならここから外へ転移するくらい朝飯前だと思ったわ」
「お粗末で悪うございましたわ。そんなすごいことができるのは、ラインハット寺院でもフライスくらいなものよ」
「あ〜あ、一緒にいるのがあんたみたいな子じゃなくてフライス様だったらどんなによかったかしら」
「こんな非常時に色気なんか出さないでよ。もっとも、フライスは女嫌いだし、特にあなたみたいな底意地の悪い娘は大嫌いらしいわよ」
 お互い辛辣な口調でやりあったが、最後のサーシェスの一言でアスターシャは黙りこくってしまった。サーシェスは言い過ぎたかなと思い、アスターシャの横顔を見つめる。アスターシャはため息混じりにぽつりとつぶやいた。
「やっぱり……性格、悪いわよね……」
 それがやけにしおらしい口調だったので、サーシェスは我が耳を疑った。たまらないので、サーシェスは話題を変えることにした。
「あの底意地の悪いお友達がいたじゃない。彼女が助けを呼んでくれたかも」
「友達じゃないわ。ただの従姉妹よ」
 アスターシャはそう訂正してからため息をつき、
「まぁそれはあり得ないわね。彼女は自分のことでせいいっぱいだし。それで自分たちのしたことがバレるくらいなら、私なら黙ってるわ」
「本当にロクな友達がいないのね」
 サーシェスはそう言って右腕だけで肩をすくめて見せた。アスターシャの横顔が寂しそうにゆがんだのが見えた。それからアスターシャは思い切りサーシェスを睨み、
「あんたに何が分かるってのよ!」
 それからアスターシャはまた膝を抱えて顔を埋めた。意外にこのお姫様は寂しがり屋なのかもしれない。友達がいないから、人との接し方がよく分からないんだ。そう思うと、サーシェスはこのわがままな王女がひどく哀れに思えた。
「とにかく、ここから出る方法を考えるのよ」
 サーシェスは立ち上がり、この小道が続く先に目を凝らした。暗がりがずっと続いているが、その先から淡い緑色の光がぼんやりと見えた。何か出口のようなものがあるのかもしれない。
 サーシェスとアスターシャは、横穴伝いに歩き始めた。道は途中で迷路のように枝分かれしていて、まるで鍾乳洞のようだ。土塊の感触を頼りに歩くが、たいていは行き止まりで、もと来た道を引き返しては、また同じような横穴を歩く、それの繰り返しだった。
「だめね。どこも塞がっていて……いったいこの穴はなんなの。こんな風にいくつもいくつもダミーの道ばっかりで。これが人間の手によるものだったら、作者はきっとえらく根性の曲がった人に違いないわ」
 サーシェスはまたしても行き止まりの道にぶちあたり、悪態をついたが、折れた左腕に響くので悪態もそこまでにした。アスターシャはとりあえずおとなしくサーシェスの後についてきているものの、この世の終わりでもきたかのような絶望的な表情をしたままだった。
 サーシェスは入った道の入り口に崩れた瓦礫のかけらを置いていた。とにかくしらみつぶしに分かれ道を進むしかなかった。
「ここが最後の一本よ。ここがだめだったら穴を掘って進むしかないわよ」
 サーシェスはアスターシャにそう言った。アスターシャは驚いて、
「本気で言ってるの?」
「冗談よ」
 自分でもずいぶん底意地の悪い冗談を言えるものだと感心しながら、サーシェスは残る最後の小道を歩き始めた。ふたりとも泥だらけで、髪もぼさぼさ。口の中はじゃりじゃりするうえに泥の味がして不快きわまりない。いい加減温かいシャワーが恋しくなってきた頃だ。
 途中から、この道の内部がほのかに光り始めているような気がした。しばらくするとそれが気のせいではなく、確かに壁面が緑色の淡い光を発しているのが分かった。さっき見たのはこの光かもしれない。右手で壁面を触ると、それは先ほどの道のように土塊でできているのではなく、何か鉱物のようなすべすべしたもので作られているのが分かった。
 もしかしたらビンゴかもしれない。これは明らかに人の手によって作られた洞窟だ。先にあるのがなんであろうと、何か活路が見いだせるかもしれない。だが、緑色に発光する鉱物なんて聞いたことがない。アスターシャもそれに気づいたらしく、不思議そうな表情で壁面をさすっていた。地面もここから先は土ではなく、同じような鉱物でできているらしく、たまにブーツがすべってしまう。
 道を進むと、最初は幻聴だと思っていたうねるような音が次第に大きくなってきた。まるで大きな羽虫が羽を鳴らすような音だ。その音が腕に響くので、サーシェスは歯を食いしばって耐えるしかなかった。
 やがて、この道の終点らしき光の点が見え始めたので、ふたりは安堵のため息をもらし、足早にその光めがけて走り出した。すると突然視界が開け、ふたりは真っ白い光の中に投げ出されたような感覚を味わった。そして光に目が慣れてくる頃には、ふたりは呆然と口を開けてあたりを見回していた。
「なに? ここは?」
 うねるような音が鳴り響く、三十メートル四方ほどのだだっ広い白い部屋。壁面に埋め込まれた四角い箱のようなものがずらりと並び、中央にはいくつもの魔法陣を立体的に重ね合わせた円形のステージがある。だが、そこに刻まれた文字はサーシェスでも読むことができない。それどころか、上級の術者が使っている神聖文字でもないらしい。
「なんなの、これ」
 アスターシャがサーシェスに尋ねた。サーシェスは首を振り、
「分からない……でもこれ、もしかして……」
 そう言いかけて、サーシェスは体をこわばらせた。
「もしかして、何よ?」
「しっ」
 サーシェスはアスターシャを黙らせ、今入ってきた入り口へと後ずさり始めた。すると、音が突然大きくうねりだし、カチカチという機械的な音が部屋中に響き渡った。それがけたたましいくらいの音量にまで達すると突然音はぱったりと止み、いつの間にかふたりの目の前には巨大な馬にまたがった甲冑の騎士が立ちはだかっていた。
「我が主の聖域を侵す愚かな人間どもよ。死をもってその罪を贖うがよい」
 甲冑の騎士は低い声でそう言った。兜をつけているのでくぐもって聞こえるが、なぜかふたりにはそれが人間の声ではないことが分かった。そう考えるのはおかしなことではない。騎士のまたがっている馬は、体高が五メートルもあり、巨大な蹄のついた足は全部で六本。それにまたがる騎士は全身を重たそうな黒い金属の甲冑で包み、頭を保護する兜の頂上には、人間の頭蓋骨をいただいていた。
 騎士は右手を高く掲げた。その指の先から光がほとばしり、まるで空気中の電気すべてをその指に吸い上げているように見える。サーシェスは入り口に向かってアスターシャを押しやり、脇の小道に入るように指図してすぐさま自分も後に続いた。
 アスターシャはサーシェスに突き飛ばされて転げるように小道に倒れ込んだが、その瞬間に自分の背中で何かが爆発したような音を聞いた。さっきまで自分たちがいた入り口付近は爆発で砕け、もうもうと煙を上げている。アスターシャは自分におおいかぶさるようにしているサーシェスに気づいて、あわてて彼女を抱え起こした。
「ちょっと! 重いじゃないの!」
 サーシェスは顔をしかめたまま動かない。アスターシャがぐったりとしたサーシェスの背中に手を回すと、ぬらりとした感触がし、サーシェスが小さくうめき声をあげた。その背中は、爆発ではじけた破片を受けて傷だらけだった。サーシェスがアスターシャを爆発からかばったのは一目瞭然だった。
「……なんてバカなマネするの!」
 アスターシャはサーシェスの右肩をかついで脇道の奥に引きずっていく。煙の中からあの騎士の化け物がこちらの様子をうかがっていることは確かだ。どういうわけか知らないが、あの化け物は侵入者である自分たちを確実に殺すつもりでいるらしい。
「勘違いしないでよ……ちょっと逃げ遅れただけ……」
 サーシェスの強がりもここまでくると通じない。背中に受けた傷から血が流れ落ち、折れた左腕も爆発の衝撃でひどくなっているらしかった。唇が青紫になって、がくがくと震えが止まらない。アスターシャは煙の向こうにいる死刑執行人を睨み付けるが、対抗するすべがなにもないことに歯ぎしりをする。
「ねえ! ちょっと! しっかりしてよ! あいつがくるわ! 何とかならないの!? 術者でしょ!」
 アスターシャはサーシェスを引きずりながら叫ぶ。サーシェスはまた激しい痛みと吐き気にさいなまれているらしく、顔をしかめ歯を食いしばったまま答えない。万事休す。私の人生もここまでか。
 アスターシャは何を思ったか立ち上がり、サーシェスを背に、化け物の前に立ちはだかった。膝が震え、間接が白くなるほど指を握りしめているが、せいいっぱい背筋を伸ばし、毅然とした態度で甲冑の騎士を睨み付けた。
「……なにしてるのよ、はやく逃げなさいよ!」
 サーシェスはアスターシャの背に叫んだ。アスターシャはそれでも動こうとしない。甲冑の騎士は再び右手を宙に掲げ、アスターシャに狙いを定めている。巨大な光の玉が騎士の指先に集まり、それが膨れ上がると、その光は稲光となってアスターシャ目がけ、文字通り宙を舞った。アスターシャは目を強くつぶり、腕で頭をかばう。と、そのとき、
「心正しき者の盾となり給え!!」
 稲光はアスターシャの体寸前で鏡面に反射したかのようにはじき返され、四散していた。振り返ると、サーシェスが痛みにゆがんだ面もちで水の法印を結んだ手をさしのべていた。アスターシャの体の前には、水で作られた結界が張り巡らされていたのだ。さきほど布きれでつった左腕を無理矢理はずして印を結んだので、肘から手首までが青紫に腫れ上がっていた。
「それは私の役目よ、お姫様!」
 サーシェスは口の中にたまった血を吐き出し、体を起こした。それから手のひらの銀色の傷跡を見つめ、救世主とセテに勇気を与えてくれるよう祈るとアスターシャを下がらせ、痛む左腕に右腕を添えて両手を差し出した。
 甲冑の化け物はうなり声を上げ、再び右腕を宙に掲げた。その指の先から光がほとばしる。次は本格的な一撃がくるはずだ。サーシェスは渾身の力を込めて大きく円を描き、水の法印を素早く結んで攻撃に備えた。ふと、甲冑の騎士が動きを止めた。巨大な馬が静かにいななき、騎士はうつろな眼孔でサーシェスをひたと見下ろしているようだった。
 サーシェスは額から落ちる汗がしみるのもかまわず、甲冑の騎士を睨み付けている。ふたりの間で緊張した数秒が流れていった。
 やがて、六本足の馬が膝をつき、首を垂れた。それに習うように、黒い甲冑の騎士は掲げていた腕を下げて胸に当て、静かに礼をした。
「……すべては御心のままに……」
 騎士は低い声でそう言うと、現れたときと同じようにどこへともなく消え失せていった。
 サーシェスは両腕をおろし、深いため息をついた。とたんに緊張の糸がほどけたのか、またそれによって痛みが襲ってきたのか、サーシェスはその場に倒れ込んだ。アスターシャが駆け寄り、サーシェスを抱え起こした。
「ちょっと! しっかりしてよ! ねぇ!!」
 アスターシャが泣きそうな顔をしてサーシェスを揺さぶる。サーシェスは痛みで意識がもうろうとして起きあがる力もない。急に眠気が襲ってきて、このまま眠れたらどんなに幸せだろうと思った。
「こんなところで……私をひとり残して死んだりしたら絶対許さないから!」
 アスターシャはいまにも眠ろうとするサーシェスの頬を平手でぴしゃぴしゃとたたいた。サーシェスは呆けたようにアスターシャを見つめ、それから口元に少しだけ笑みを浮かべた。
「……絶対許さないって……どうするつもり?」
「引きずってでも連れて帰るわよ! こんなところで死なれちゃ夢見が悪いじゃない! お望み通り穴を掘ってでも外に連れて行くわ!」
 アスターシャはサーシェスの右肩をかつぎ、さっきの広間に引きずるように歩いていった。とりあえず中央の魔法陣のステージにサーシェスを横たわらせ、壁に埋まった四角い機械の群を調べて回る。サーシェスはそんなアスターシャの姿を見ていて、思わず笑みがこぼれてしまう。
「……意外に……優しいんですね、お姫様?」
 サーシェスのからかうような言葉に、アスターシャは顔を真っ赤にして睨み返した。それから王女は震える声でぽしょりとつぶやくように言った。
「……あんただって……なんで私をかばったりしたのよ。死ぬかもしれないなんて思わなかったの?」
 サーシェスはアスターシャのぶっきらぼうな言いぐさに再び笑みをもらし、自分はつくづく素直じゃない人間に恵まれているなぁと思った。
「……とっさに誰かをかばうなんてこと、人間ならよくあることじゃないですか?」
 アスターシャはサーシェスのその言葉で一瞬手を止めた。後ろを向いているので分からないが、鼻をすするような音と、手で頬を拭っているような気配がした。
 サーシェスは自分が横たわっているステージを見回した。ちょうど魔法陣の中央に何か青い宝石のようなものが埋め込まれているのに気づいた。魔法陣の円の上には、見たことのない複雑な神聖文字のようなものが描かれているが、この青い宝石の周りには、不思議なことに光で描かれた矢印が宙に浮いていた。そしてこの矢印は上に向かっている。とすると、もしかしてこれは。
「姫!」
 大声でアスターシャを呼ぶと、自分の声が傷に障ったのでサーシェスは一瞬顔をしかめた。が、すぐにアスターシャが飛んできたので、それ以上大声を張り上げる必要がなくなったと内心ほっとした。
「ここはたぶん、イーシュ・ラミナが残した遺跡だと思います。それにこれ、これはもしかして外に出るためのなんかの装置じゃないですか?」
 アスターシャはステージの中央の青い宝石を覗き込んだ。透き通るような透明な青で、埋め込まれているというよりは、金属の中に浮いているといった表現がふさわしい。矢印が上に向かってのびたり縮んだりしながら、静かに点滅していた。
「押すのかしら? 引っ張るのかしら?」
 アスターシャはその宝石をたたいたり、なでたりひっぱったりしてみたが、特に何も反応はない。そこで今度はサーシェスが手をさしのべると、その宝石は青から紫に色が変化し、内側からぼんやりと光り出した。どういう仕組みか分からないが、これでなんらかのスイッチが入ったようだ。その証拠に、このステージを構成する立体魔法陣が輝きだし、ステージからにじみ出る光が円柱状に上に伸び始めたのだった。
 光は優しくふたりを包み込み、金色に輝きだした。不思議と、この光の中では痛みが緩和されるようで、サーシェスは夢見心地に遙か古代の叡知に思いをはせた。これがイーシュ・ラミナの残した遺産だとすれば、彼らの叡知が失われたのは人類にとってたいへんな痛手であると。
 やがて、身を引きちぎられるような一瞬の衝撃のあと、ふたりは宙を漂うような感覚とともにこの広間から姿を消した。広場に残されたものいわぬ機械たちは、再び白い静寂の中で眠りについたようだった。






 庭園は大騒ぎとなっていた。王女とその客人がそろって姿を消してから、すでに三時間は経過している。城の中はこれ以上隠れる場所はないというほど探索し、やがて庭園を探索していた近衛兵から、シェルターの扉が閉まっていることが報告された。そして扉を外から無理矢理切断したときには、すでに床が抜け落ちていたのだった。ロクラン王も大僧正も気が気ではない。もちろんロクラン王は、自分の娘がいったい何をしでかしたのかはおおよそ見当がついていたのだが、それをむざむざと大僧正に語る気にはなれない。
 突然、シェルターの前の空間が揺らめき、虹色に輝きだした。近衛兵たちが剣に手をかけるより早く、大僧正はその光に向かって駆けだしていた。
 光はやがて人の輪郭を形作った。虹彩が薄れていくと、泥だらけでぼろぼろの姿をしたアスターシャ王女と、王女に背負わされるような形でぐったりとしている、血塗れのサーシェスの姿が現れた。
 人々は歓声を上げてふたりを取り囲み、ケガをしているサーシェスを見留めると、急いで担架の手配をした。意識ははっきりしているが、とりあえずその場で術医の応急処置を受け、サーシェスはそのままラインハット寺院に馬車で送られることになった。
 アスターシャはサーシェスが運ばれていく直前まで馬車のそばに立っていた。ぼろぼろの服も、泥だらけの顔を気にすることもなく。
 馬車が出る直前に、サーシェスはアスターシャに親指をぐっと突き立ててみせた。アスターシャは一瞬驚いたが、それが、よく若い男の子たちが使う「大丈夫」という合図であるということにすぐに気づいたのだった。





親愛なるセテへ

 セテ、お元気ですか。
 たぶんセテのことだから、アジェンタス騎士団でものすごくがんばっていることでしょう。レトも一緒だし、毎日忙しくても、きっと楽しくてしかたないんじゃないかなぁと思います。ほら、レトってすごく友達思いでしょ。彼みたいな友達がいれば、どこに行ってもやっていけるって思うよね。
 私は相変わらず、フライスにしごかれています。剣の稽古もすごくつらかったけど、水の巫女になるための勉強はもっと難しくて、ホントに脳味噌がパンクしちゃいそう。
 でも、守護神廟の前で水の巫女になることを誓ったから、絶対になれるようにがんばるつもりです。
 そうそう、セテがアジェンタスに戻ってからね、いろいろあったんだ。





 サーシェスは不自由な左腕に舌打ちしながら、ベッドに横になった。ロクラン王宮地下シェルターからの大脱出の後、彼女はすぐにラインハット寺院に運ばれ、術医のしつこいくらいの診断と手当を受けた。気が抜けてから襲ってきたものすごい痛みにのたうちまわっていたところへフライスがやってきて、ひどく心配そうな顔をして付き添っていた。治療の後に事情を説明すると、フライスはめずらしく悪態をつきながら、ロクラン政府の管理ミスだのなんだのと怒りまくっていた。それからいつものように「無茶なマネをして」だとか「後先も考えずに行動するから」とかお説教をされたが、術医や他の修行僧がいなくなると、うって変わったように優しい態度でサーシェスを抱きしめた。フライスはまだ、サーシェスのことをなにもできないただの娘だと思っているようで、自分がまたそばにいてやれなかったことを、ひどく後悔しているようだった。
 術医の応急手当で背中の傷や擦り傷などはほとんど治してもらったが、折れた骨だけは自然の治癒能力にゆだねるのがいちばんいいらしく、結局しばらくは左腕をギプスで固定し、肩からつるはめになった。寝返りが容易にうてないし、寝るのにも起きあがるのにも非常に難儀していた。
 自室の窓の外からは、小高い丘に立ったロクラン城がよく見える。ついさきほどまで、あの地下の迷路で生きるか死ぬかの大冒険をしていたなんてとても信じられない。
 あの王女様にはけがはなかっただろうか。本当に性格の悪いお姫様だったけど、最後のほんの何分かだけ、彼女と気持ちが通じ合ったような気がしたのは私の気のせいだったのだろうか。
 それから、なんで王宮の地下のあんなところに、あんな洞窟があったのだろうか。あれは本当にイーシュ・ラミナの遺産のひとつだったのだろうか。あの黒い甲冑の巨大な騎士は何者で、どうしてとどめも刺さずに消えてしまったんだろうか。あの不思議な転送装置みたいなものは、なんのために作られたものだったのだろうか。
 そんなことを考えながら、サーシェスはうとうととし始めていた。正門の方角から馬車の車輪がきしむ音と馬のいななきが聞こえてきたような気がしたが、サーシェスはそれを夢の始まりだと思いながらすぐに深い眠りに落ちていった。
 サーシェスの部屋がそっと開いて、誰かが近づいてくる気配がする。衣擦れの音だけが聞こえた。裾の長い衣服のすれる音だ。フライスかな。でもいいや、このまま寝ていよう。なんだかすごく疲れたし。サーシェスは夢うつつのままそう思った。
 すごくいい香りがする。石鹸みたいなさわやかな香り。誰かが自分の右腕に触れた。細くて柔らかい指の感触がする。
「本当にごめんなさい」
 その声の主は小さな小さな声でささやいた。まるで私に内緒話でもしているかのように。
「あんなひどいことをして、許してもらえるとは思えないけど……でも……」
 声が震えている。泣いているのだろうか。
「ごめんなさい。それから、ありがとう。私を命がけでかばってくれて……。私ね、今まで誰にも殴られたことなんかなかったし、あんな風に怒鳴られるのも初めてだったの。すごく腹が立ったけど、でもね……」
 ああ、この声はさっきまで聞いていた声だ。勝ち気で意地悪で性格のひん曲がった……。
「……姫……?」
 サーシェスはうっすらと目を開け、自分の横ですがりつくようにして手を握っている王女の姿を認めた。アスターシャはサーシェスが目を開けるとびっくりして顔を上げた。その頬には涙の跡が見えた。彼女はひどく驚いたようだが、サーシェスの手だけは握って離さなかった。石鹸の香りは、彼女のやわらかな黄金の髪から漂っていた。
「あの……ね……」
 アスターシャは伏し目がちにそう言った。サーシェスは勝ち気な王女の手を握り返し、
「もういいですよ。そのことならもう終わったんだし」
「違うの、聞いて!」
 アスターシャはサーシェスの言葉を強い口調で遮り、深呼吸をした。たぶん彼女はこれまで口にしたこともないような言葉を言うのに、勇気を振り絞っているところなのだろう。
「本当に……ごめんなさい。私、誰かに怒られたり殴られたこともないけど、誰かに本気で守ってもらったこともなかったの。あなたは……あんなひどいことをした私でも見捨てずに守ってくれようとした。それがすごく……うれしかったのよ……」
 サーシェスはアスターシャの手を強く握り返し、何も言わずに頷いてやった。
「さっきフライス様に聞いたわ。あなたには攻撃術法はなにひとつ教えていなかったんですってね。防御術法だけで切り抜けるつもりだったなんて考えられない、もしあの絶対魔法防御がだめだったら、ふたりとも確実に死んでいたってフライス様もおっしゃってた。自分が死ぬかもしれないのに、どうして人をかばったりできるのか、私には全然分からなかったの。だから……私に教えてほしいのよ」
「何を? あなただって、私をかばって立ち向かっていってくださった。それと同じことですよ。あなたはそれにご自分でも気づいてらっしゃらないだけで」
「そうじゃなくて! 今だけじゃなくて!」
 アスターシャは再びサーシェスの言葉を遮った。握る手に力がこもっているのが分かる。
「これからも、ずっと教えてほしいのよ。その……私のそばにいて、おしゃべりしたり、一緒に遊びに行ったり……」
 アスターシャは顔を真っ赤にしてうつむき、最後の言葉は尻切れトンボになっていた。サーシェスはそんな王女がかわいらしくて、ついつい意地悪な言葉を投げかけてしまいそうになる。その先を、どうしても彼女の口から聞きたい。
「遊びに行ったり……?」
 アスターシャは顔を真っ赤にしてサーシェスを睨み付けた。怒ったような顔をして、彼女は言った。
「お友達になってほしいのよ! これからずっと一緒にいてほしいの!」





 セテ。私ね、女の子のお友達ができたのよ。これまで男の子の中でばかり過ごしていたから、女の子の友達なんてひとりもいなかった。だからすごくうれしかったの。セテが帰ってきたら絶対紹介してあげる。でも、きっとびっくりするだろうな。彼女はね、ロクランの王女様なのよ。信じられないでしょうけど。私だって信じられないけどね。
 じゃあ、そろそろ夜も更けてきたことだし、これくらいにしておきます。私もがんばるから、セテも夢を捨てないでがんばって。
 またお手紙を書きます。お体に気をつけて。セテも、暇ができたらでいいからお手紙をくださいね。それでは。

愛を込めて
サーシェスより

神世代二〇一年八月十七日

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