Home > 小説『神々の黄昏』 > 第一章:黒き悪夢の呪縛 > 第十四話:青い目の姫君
ロイギル風のゴテゴテした装飾ではなく、上品な、あるいは人によっては地味な、と言うかもしれない。ロクラン王宮の洗練された装飾の施された、青白い大理石の壁と天井は、人々の賞賛の的であった。
ロクラン国王アンドレ・ルパート・ロクランは、ある些末なことに頭を悩ませていた。些末な、といっても、彼にとってはしごく重大なことでもある。今年十八歳になるひとり娘、アスターシャ・レネ・ロクランのことであった。
このお姫様、見かけは花のように可憐でかわいらしいというのに、下女にはつらくあたるわ話し相手にと連れてきた小姓をいじめて追い返すわで、徹底した暴君ぶりを発揮していた。やはり母親が早くになくなって、男手ひとつで育てて(といってももちろん王自身が彼女を育てたというものでもないのだが)きたのが災いしたのだろうかと、王は深く悩むのであった。
そんな折りに、ロクラン王はラインハット寺院に引き取られた、記憶のない少女のウワサを聞きつけた。記憶喪失とはたいへん興味深い。年の頃も同じだし、きっと彼女なら娘の話し相手に最適だろうと彼は考えた。思いついたらすぐ実行するのが王の務め。アンドレ・ルパート・ロクラン王はすぐにラインハット寺院に使者を送り出していた。
「天統べる数多の神々よ。大いなる技を持ちて水の加護を与え給え」
ラインハット寺院の中庭から、サーシェスのよく通る声が静かに響く。サーシェスは小さく印を結び終わると、両手を掲げて神聖語をつぶやいた。噴水の中の水が渦を巻いて一点に集中し、それはやがて天に吸い込まれるかのように水の柱と化していく。輝く水の柱はときおり不安そうに揺れながらしずくをきらめかせていた。そして、生き物のようにサーシェスの次の言葉を待っているかのようでもあった。サーシェスは両手を掲げたまま、頭上高くそびえ立つ水の柱を見つめている。彼女の額からは玉のような汗が噴き出していた。彼女が精神力だけでこの水の柱を支えているのは明らかであった。
「おお、ここにおったのか、サーシェス」
中庭の奥から大僧正の声がして、一瞬サーシェスの集中力が乱れた。それを待っていたかのように水の柱は結束力を弱め、まるで集中豪雨のように一気にサーシェスの頭上に降り注いだのだった。フライスはとっさに結界を張るのだが、サーシェスまでかばうのを忘れてしまい、彼女だけが頭から水をかぶるハメになった。
「もうっ! なんで自分だけよけるのよ!」
ずぶぬれの服の裾を絞りながらサーシェスはフライスに怒鳴りつける。フライスは自業自得だといわんばかりに肩をすくめてみせるだけだった。
「おお、すまんすまん、術の修練中だったのか」
大僧正が濡れねずみのサーシェスを見るなり笑いだしたので、サーシェスはあてつけに滴の垂れる髪をぶるぶると振って、濡れた子犬のように水しぶきを飛び散らして抗議した。大僧正は顔をしかめてフライスに助けを求めるが、フライスは我関せずといった感じである。
「何かご用ですの? 大僧正様」
「いや、先ほどロクラン王宮から王の使者がやってきおってな。王がそなたをお召しなのだそうじゃ」
「王の? 王がなんで私なんかに?」
サーシェスは首を傾げる。一瞬、少し前に世間を騒がせたファリオン・ワルトハイムの件で何か問題があったのではと不吉なことを考えながら。
「なんでも姫君がそなたに会いたいとおっしゃっとるそうじゃよ。年も同じくらいだし、話し相手にとのことじゃ」
ますますもってわけが分からない。話し相手くらいいくらでもいるだろうに。サーシェスは不満げな顔をしてフライスを振り返るが、フライスは瞼を閉じたまま冷静な口調でこう言ったのだった。
「そろそろ宮廷風の作法を身につけてもいい頃だと思いますよ。どこに出しても恥ずかしくないくらいのきちんとした礼儀作法をたたき込んでもらう、いいチャンスです」
サーシェスはフライスを睨み付けるが、フライスはここぞとばかりに見えないフリをするので頭にくるばかりだ。大僧正はフライスの賛成の言葉にほっとしたらしく、頬がゆるむ。
「気が進まなかろうが、とにかく使者にはあと二時間したら王宮に参上することを伝えたのじゃよ。早く支度をなさい。そんなずぶぬれのまま王宮に参上することはできんぞ。部屋に服を用意させたので着替えてきなさい」
サーシェスは大僧正にせきたてられ、しぶしぶ濡れた髪を絞りながら部屋に戻っていった。
サーシェスの後ろ姿を見ながらフライスが小さくため息をつく。そんなフライスを見て、大僧正は目を細めるのだった。
「……何か?」
大僧正の視線に気づいて、フライスは尋ねた。大僧正はうれしそうに微笑み、ひとりで何かに納得したように頷いている。
「……そなたのそんな表情を見るのは初めてだと思ってな」
フライスは驚いたような顔をしたが、やがて照れを隠すかのように顔を背けた。不機嫌なフリをしようとしても、口元は自然とほころんでしまう。
「サーシェスは……私にとって太陽のようなものです」
フライスが小声でそんなことをつぶやいたので、大僧正は目を丸くする。驚いたカエルがそんな表情をするときがあるが、まさにそんな感じだ。まさか冷血漢、鉄面皮、女嫌いと寺院内でも評判のフライスの口からそんな言葉が恥ずかしげもなく出てくるとは思ってもみなかったのだから、当然といえば当然だろう。
そしてフライスもまた、自分が言った言葉がとてつもなく恥ずかしいものだということは分かっていた。だが、自分にとっては本当にそうなのだ。それ以外に適切な言葉が見つからない。彼女といることで、自分は生まれ変われるかもしれない。今までとはまったく違った人間に。
「……水の巫女になるには生娘でなくてはいかんのじゃぞ?」
大僧正が意地悪そうな笑みを浮かべてそう言ったのに対して、フライスは柄にもなく顔を真っ赤にした。図星ではないものの、大僧正の遠回しな下ネタには閉口させられるときがある。そんなフライスを見て、大僧正は愉快そうに大笑いをし、
「冗談じゃよ。建前上そういうことになっておるということじゃ。わしはサーシェスについて王宮に参上せねばならんのでな、後のことは頼んだぞ、フライス」
そう言いながら、大僧正は足取りも軽く、元来た中庭の奥の庭園へ歩いていった。
銀色の髪に、瞳の色に合わせたグリーンの櫛を差して髪を結い上げ、裾の長いゆったりとしたドレープのワンピースに薄手のローブを羽織ったサーシェスは、むっつりとした顔をして馬車の大僧正の向かいに腰掛けていた。大僧正は何枚かの書類に目を通していたが、いまだむっつりと座っているサーシェスに目をやり、ため息をついた。
「まだむくれておるのか、サーシェス」
咎めるような口調ではあったが、さして気分を害しているわけでもないらしく、その口調の端にはどこか愉快がっているような雰囲気もある。
サーシェスは諦めたようなため息をひとつつくと、憤懣やるかたなしといった視線で大僧正を見つめた。
「何のためにこんな格好までして王宮に出向かなきゃならないのか、それをずっと考えていただけです」
「フライスも言ったとおり、いい作法の勉強にもなるじゃろうて。それに、アスターシャ王女は幼い頃に母君を亡くされて以来、あまりよいご友人に恵まれてないようじゃからの。年頃も近いそなたを側に置きたいとの国王のたっての願いとあっては断るわけにはいかんじゃろう」
「だからなぜ私が行かなければならないのか、それが気に入らないんです。他にもたくさん同じ年頃の子ならいるでしょうに」
それからふと大僧正の顔を見つめて、
「まさか大僧正様、先日王宮に参上したときに私の話を?」
大僧正は決まり悪そうに咳払いをし、白い眉毛の中からサーシェスの顔色をうかがった。サーシェスは目をくるりと上に向けて、もう一度大げさにため息をついた。
馬車はラインハット寺院の小道を抜け、ロクラン市街にさしかかっていた。小道はだんだんと広くなり、大通りの方角からは賑やかな物売りの声が響いてきた。
「それ、なんですの?」
サーシェスは大僧正が手にしている書類を見つめながら尋ねた。眼鏡をはずしたりかけたりしながら、さっきから大僧正が熱心に読んでいる代物だった。
「中央特務執行庁から取り寄せた資料じゃよ。最近、各国でさまざまな大きな動きがあってな。王もそれで対応にお困りの様子じゃ。そなたも知ってのとおり、つい二週間ほど前には中央諸世界連合からデリフィウスとレイアムラントが脱退し、辺境では中央の組織と地元の反中央諸世界連合の組織とがにらみ合いをしておる有様じゃ。それから、つい先日は、王位継承権問題でもめていたグレナダ公国で内紛が起こり、国がなかば壊滅状態じゃというのだから、まったく物騒な世の中になったものじゃ」
大僧正は肩をすくめながらそう言った。
「王の顧問を務めるわしと中央の特使とで、今後の動きについて考えなければならぬことが山ほどあるのじゃよ。今日はそなたを姫に会わせるのについていくついでに、顧問会に出席せねばならんのでな」
「……で、私はそのお姫様の前にほっぽりだされるわけですね」
「サーシェス!」
サーシェスの諦めたような口調に大僧正は閉口する。
やがて馬車はロクラン王宮の手前にさしかかり、その巨大な門をくぐり抜けて再び城に続く細い小道を滑っていった。
アスターシャ王女は、鏡の前に腰掛け、最後の身だしなみチェックをしているところだった。大きな青い目に緩いウェーブのかかった長い金の髪。世界中の童話に登場する典型的な「お姫様」像をそのまま人に表したような愛らしい顔であった。アスターシャはウェーブがかった髪の一房を弄びながら、部屋のソファに腰掛けているハイファミリーの娘を振り返った。
「その話は本当なの? セレン?」
セレンと呼ばれた、王女と同じ年くらいのハイファミリーの娘は、紅茶をすすりながら頷いた。
「本当よ。その娘のせいでファリオンは辺境に左遷させられたんですもの」
「……その話、もっと詳しく聞かせて」
アスターシャは立ち上がってソファの向かいに腰掛けた。セレンはアスターシャが本気で興味を示したのに気をよくした。
「その子ね、以前にもファリオンと大立ち回りをしたことがあったの。たまたまラインハット寺院でピクニックしていた私たちに突っかかってきたから、ちょっと口論になってね。いいえ、口論なんてもんじゃなかったわ。その子、生意気な口をきくだけじゃなくて、いきなりファリオンの顔をはり倒したのよ。まったく、育ちが悪いと素行も悪いのね」
セレンは吐き捨てるようにそう言い、肩をすくめた。
「なかなかおもしろい娘じゃない? ハイファミリーにたてつくなんて」
アスターシャは花のようなかんばせにおよそ似つかわしくない冷たい笑みを浮かべてそう言った。だがセレンはよほど頭にきているのか、乱暴にカップとソーサーを置くと、
「おもしろいなんてもんじゃないわ、アスターシャ。あんな下賤の者にあそこまで侮辱されたのは生まれて初めてよ。しかもファリオンに襲われたなんて恥ずかしげもなくバカみたいに騒ぎ立てて。なんて恥知らずなのかしら。いいえ、身の程知らずもいいところよ」
アスターシャはセレンの言い分をおもしろそうに聞いていたが、やがて思いついたように膝を軽くたたき、
「セレン? あなたまだ私の近衛隊長と親しくしていらっしゃるの?」
アスターシャは皮肉な口調でセレンに言った。セレンは鼻を鳴らして、
「親しく、にもいろいろあるわよ。あの人は私の言うことならなんでも聞いてくれるんじゃないかしら?」
アスターシャはそれを聞くと愉快そうに口の端を上げ、身を乗り出してセレンを引き寄せた。
「その娘をちょっとからかってあげるのよ。事故だってことにすればなにも問題はないわ」
「よくぞおいでくだされた。大僧正リムトダール殿」
金糸で縁をかがった緋色のビロードのカーテンの掛かる、豪勢な旧世界(ロイギル)風の謁見の間に通された大僧正とサーシェスを迎えたのは、満面に笑みを浮かべた体格のいいアンドレ・ルパート・ロクラン国王その人だった。大僧正もすらりとして背が高いが、ロクラン王はそれよりも背が高く、なによりがっしりとした骨格と丁寧に整えられた口ひげが、王者としての風格を物語っているようだった。人当たりのいい王の笑顔に、サーシェスも緊張の糸をほぐす。
「先日はお体の具合がよろしくないとうかがいましたが、そのご様子では回復なされたとみえてなにより。いちだんと恰幅がよくなられたようで」
大僧正は胸に手を当ててロクラン王に敬意を払いながら、思わせぶりに眉を上げてそう言った。ロクラン王は大僧正の軽口にも笑顔で応え、
「中年太りへの嫌みですかな。なに、運動不足で体がなまっているだけのこと。大事ない」
それからロクラン王は大僧正の後ろで控えている少女に目をやり、
「おお、そなたがサーシェスか。なるほど、噂にたがわぬ別嬪よ。大僧正殿が自慢なさるわけだ」
サーシェスはちらりと大僧正を横目で睨むと、大僧正はコホンと小さく咳をした。
「お初にお目にかかりまする、国王陛下」
サーシェスが優雅にお辞儀をしたのを見て、ロクラン王はますます気をよくしたようだった。
「そなたには面倒をかけたが、なにしろわしのひとり娘のアスターシャには話し相手になるような同じ年頃の娘があまりいないものでな。まぁいろいろと問題もあるのだが」
サーシェスは王が言いよどんだので、そのお姫様の外見とか内向的な性格とかいったありきたりの要素を思い浮かべた。ひどく引っ込み思案だったり、外見がひどく醜悪なものだったらどうしようなんて不謹慎なことを考えもした。
「まぁとにかく、ぜひとも娘と話をしてもらいたいのだ。そなたのような娘がそばにおれば、あれも落ち着くであろう」
「もったいないお言葉に存じます」
サーシェスはなかばおざなりに再びお辞儀をしたが、肩の荷が下りたといわんばかりの王はそんなことは目にも入らないようだった。王は小さく娘の名を呼ぶと、カーテンの横からくだんの王女がしずしずと姿を現した。
薄手のピンクのドレスに薄ものの上掛けを着た王女は、ひどくはかなげで妖精のような愛らしさを秘めていた。金のシンプルな首飾りが柔らかい金の髪とよく似合っていて、それぞれが共鳴しあっているかのようだった。思わず息を飲んでしまうサーシェス。さきほどの失礼な先入観を急いで打ち消し、目を大きく見開いた。不躾とは思ったが、しばらくの間王女をしげしげと眺め、やっと我に返ってかろうじて礼を欠かない程度にお辞儀をすることができたのを、サーシェスは神に感謝した。
ふと、王女の青い瞳が自分を見つめているのに気づいた。青い瞳といっても、セテの澄んだ青空みたいな青ではなく氷海のような薄いブルーで、やや冷たい感じがする。王女はにこやかな笑顔でサーシェスに頷いて見せたので、サーシェスもおずおずと笑みを返した。
(うわぁ……。すっごいかわいいお姫様。なんだか童話の世界の人みたい)
相変わらず自分の陳腐な表現能力には恐れ入る。でもまさか自分のいる国の王女を、しかもこん何かわいらしい王女を間近で見ることないんだから当たり前かと、サーシェスは自分に言い聞かせた。
そうこうするうちに侍女が何人か出てきてアスターシャを促し、彼女はサーシェスに目でついてくるように合図をすると、謁見の間を静かに出ていった。サーシェスのそばにも何人か侍女が寄ってきて、道を先導してくれた。こんな風に身の回りを何人もの人間に世話されるのはたいへん不便なんだろうなぁと思いながら、サーシェスは侍女の後をついていくのだった。
謁見の間を出るとき、侍女のひとりが小さな声でサーシェスに話しかけた。
「あの……あまりお気になさらずに聞いてくださいね」
サーシェスは驚いてその侍女の顔を見つめた。侍女は静かに、と目でサーシェスに合図を送った。
「アスターシャ様は……ちょっとご気性にクセがありまして……。何かお話になってもあまり真剣に取り合わないでくださいましね」
侍女は小声で早口にそう言うと、そのまま口をつぐんでしまった。
気性にクセ??? 妄想癖があるとか? なんだかいやな予感がするなぁ。サーシェスは先を立って歩く王女の後ろ姿を見つめながら、首をひねるばかりだった。
王女とサーシェスが謁見の間を出ていくのを見送った後、王と大僧正は顧問会のため小議事堂に向かった。廊下を歩く間にも、さっそくふたりは最近の世界情勢について話し合いを始めていた。
「まさかグレナダ公国があんなに簡単に瓦解するとは思わなかった」
ロクラン王は神経質そうにため息をついた。グレナダ公国はエルメネス大陸では比較的小さな国家ではあったが、ロクランやアジェンタスとも経済的・軍事的同盟を組んでいる経済大国のうちのひとつであった。
「王位継承問題がここまで発展するとは誰にも想像できなかったでしょうな。経済的には恵まれた国でも、ここ何年かは内政はひどく不安定でしたからの。それに、あの国は民衆が一致団結してどうこうするという力やアイデンティティのようなものがないに等しかった。国民性というものがまったくなかったのですよ」
大僧正は白いひげを触りながら答えた。ロクラン王もしきりに頷き、
「グレナダ公国はまだまだ新興国。我が国のように汎大陸戦争直後に建国されたというわけでもないからな。それにしてもふたりの大公殿下のうち、兄君は戦士し、弟君は行方不明。廷臣たちや親族も全滅ともなれば、あの国はもうどうにもなるまい」
やがてふたりは小議事堂に到着し、侍女が恭しくその扉を開けた。すでにそろっていた顧問会の他のメンバーがいっせいに起立し、胸に手を当ててふたりに敬意を表した。王はみなに座るよう手で促し、全員が黄金で縁取りされた贅沢な円卓に着席した。
アスターシャは自分の部屋ではなく、王宮の庭園に向かって歩き出した。侍女たちはてっきり王女が自室に新しい友人を連れていくと思っていたので、少々たじろいだ様子だった。自室で話をするよう侍女がおどおどした様子で提言すると王女は、
「うるさいわね! どこで話をしようと私の勝手でしょ! さがりなさい!」
と、たいそうな剣幕で怒鳴ったので、サーシェスは非常に驚いたのだった。
(なんか……顔に似合わず性格キツそー)
すごすごと退散するように辞去する侍女たちの後ろ姿を見ながら、サーシェスは王女の横顔を見つめる。ふと、アイスブルーの瞳がこちらを見つめていたので、サーシェスはすぐに視線を逸らした。
「すてきな庭園でしょう。ご案内するわ」
さっきとはうって変わったあの人形のような愛らしい笑顔で、アスターシャはサーシェスに微笑みかけた。サーシェスもお愛想程度に微笑み返した。
王女は庭園を見せびらかすようにゆっくりと歩いたが、その間一言も口を利こうとしなかった。しかし、サーシェスは庭園の美しさを堪能できるので、かえってあれこれ話しかけられない方がいいと思った。
大僧正やフライスの歴史の講義では、ロクラン王国は汎大陸戦争後に初めての王制国家として誕生したと聞いた。汎大陸戦争後の混乱は、とても参考書などで語り尽くされるものではなかったという。人々は疲れ、傷つき、絶望していたが、やがてそれは焦燥感となり、ついには各地で暴動が引き起こされた。そして、殺人や強姦、略奪などはほとんど日常茶飯事といっていいほどだったというから、当時の人々の生活は想像を絶するほどの悲惨なものだったろう。
その大混乱を治めるために、かの聖騎士の始祖レオンハルトとその同士たちが奔走し、人々をとりまとめて新しい国家の基礎を築いたのだった。聖騎士といえども、頻発する犯罪行為を四六時中監視しているわけにはいかないのだから、そこには組織力だけでなく、たいへんな労力と忍耐があったに違いない。
ロクラン王宮は、やがて脱力感から立ち直り、徐々に団結し始めた人々が、文字どおり汗水流して築いた城だという。物資もなく、当然イーシュ・ラミナの作った旧世界の道具も残されていないそのとき代、瓦礫の中から石を切り出したり石材を積み上げていく作業は、きっと大昔の奴隷がむち打たれて無理矢理暴君のための砦を築いているような原始的な様相だったに違いない。しかし人々は、自分たちの国家を築くという理想のもとに自ら進んで働いていたのだ。人々をそこまで動かしたのが、おそらくは聖騎士レオンハルトという人物の魅力だったのかもしれない。
旧世界(ロイギル)と神世代のいいところと悪いところを、それぞれ均等に受け継いで作られた名残がこの城にはある。例えば、建物は洗練された神世代風のすっきりしたデザインで、オブジェはロイギル風のゴテゴテした装飾のついたものが多いといった具合だ。庭園のデザインは質素ながらもどこか気品にあふれているのだが、庭園内に無造作に置かれた彫像などは、大昔の遺跡を思わせるような、古めかしくていかつい感じがする。だが、夏の日差しを受けて、庭園に咲き乱れる色とりどりの花はどれもみな美しかった。
「ラインハット寺院の暮らしは楽しい?」
やっと王女が話しかけてくれた。しかし、王女はサーシェスの顔を見るでもなく、まだ前を向いて歩き続けている。
「ええ、大僧正様や寺院のみんながよくしてくださっているおかげで」
唐突な質問にサーシェスは驚いたものの、なんとかありきたりに返答することができた。そして再び沈黙。さっきまではまったく口を利かないので気まずい思いをしていたが、話しかけてくれてもやはり気まずい雰囲気はなくならなかった。
また少し歩くと、再び王女は口を開いた。
「フライス様に付いて術法を習っているそうね。一番弟子だとか?」
「一番弟子……というほどの腕前ではありませんが……。まだ習いはじめですし、なによりも注意力が散漫なので、フライスにもよく注意されます」
「そうでしょうね。あまり集中力があるようには見えないものね」
(……あれ? 一応謙遜したつもりなんだけど……)
王女の失礼な一言に、サーシェスはこめかみが引きつるのを感じたが、とりあえず話のネタかもしれないとおもってここはぐっと我慢することにした。
「記憶喪失なんですって?」
王女の台詞に、サーシェスは全身が引きつるような感覚を覚えた。アスターシャはここにきてサーシェスを振り返り、興味深そうな表情で見つめている。
「記憶喪失……ねぇ。なんだか小説みたいなお話ね。自分が何者か思い出せないなんて、不便じゃない?」
面白がるような王女の言葉で、サーシェスはなぜ自分が王宮に選ばれたのかを悟った。このお姫様は単純に「記憶喪失の娘」に興味を持っただけなのだ。全身がかっと熱くなる。
「でも、大僧正様も変わってらっしゃるわ。私だったら記憶のない素性のしれない娘を自分の周りに置こうなんて思わないもの」
アスターシャは金色の髪の一房を指ですくい、くるくると巻き付けながら無邪気に笑う。サーシェスは血液がいつもの百倍もの早さで全身に駆けめぐるような感覚を覚えながら、ぎゅっと拳を握った。たぶん、自分は今ものすごい顔をしているに違いないと思いながら。
「やだ、そんな怖い顔しないでよ。だって本当のことでしょ?」
そう言って、アスターシャはまた無邪気に笑い、歩き出した。
このお姫様は何を言っているんだろう? どうしてこんな風に人を小馬鹿にしたような態度をとったり、人を平気で傷つけるような言葉を言えるんだろう。
いまにも頭から湯気が立ち上りそうな状態のまま、サーシェスはアスターシャの後に続いた。とりあえず気を落ち着けるために、フライスにさんざん暗唱させられた伝承(サガ)の一部を、頭の中で繰り返しつぶやいてみるのだが、あともう少しでもこんな会話が続けば、それもきっと限界に達するんだろうなとサーシェスは覚悟していた。
王女は庭園の隅にある、地下に続く階段の前で立ち止まった。ずいぶん古い階段で、あちこちかけたり崩れたりしているところから、もしかしたら旧世界で使われていた防空壕のようなものの名残なのかもしれない。
「ここはね、旧世界で防空壕として使われていたそうよ」
アスターシャの声が妙に無味乾燥なのに気づいたが、初めてみる旧世界の遺産の前には、そんなことはどうでもいいことだった。
「実際に汎大陸戦争でも使われたとか。非常に堅牢なので、五十年くらい前までは犯罪者を収容する牢屋としても使われていたそうよ」
アスターシャが先頭に立って階段を下りた。それから王女は階段の上に立っているサーシェスを顎で呼び寄せたので、サーシェスはしぶしぶ階段を下りていくことになった。ぽっかりと口を開けたその入り口の先は、まさに一寸先も闇といった状態だ。アスターシャはサーシェスの横で鼻を鳴らすと、
「でも、記憶喪失って言っても、最近のことまで忘れちゃうわけじゃないんでしょう?」
アスターシャが愉快そうな口調でそんなことを言ったが、視線は階段の上をさまよっていた。そんな王女の表情にとまどっていると、階段の上で何者かの気配を感じ、サーシェスは大げさなくらいの動作で振り返った。大きく目を見開いてその娘を見つめる。そこには、アスターシャと同じように小柄でほっそりした娘が立っていた。忘れもしない、確かラインハット寺院の外で大立ち回りをしたときに、ファリオンのそばにいた小生意気なハイファミリーの娘だ。
突然、アスターシャの細い腕に突き飛ばされ、不意を突かれたサーシェスは見事なくらい勢いよく防空壕の中に倒れ込んだ。これ幸いとばかりに王女は防空壕の入り口の鉄格子の扉を力任せに引き、さび付いた金属音とともに閉まった扉により、サーシェスは囚われ人となってしまった。
「ちょっと! 何するのよ!」
身分の差もなんのその、サーシェスは鉄格子につかみ寄り、愉快そうに笑っているアスターシャに怒鳴りつけた。
「この間のお礼をさせてもらおうと思っただけよ」
大笑いをしているアスターシャの代わりに、ハイファミリーの娘がそう答えた。その顔にはアスターシャと同じく愉快でたまらないといった笑い皺をよせて。
まったく。なんて幼稚で胸くその悪い連中だろう。情けなくて怒る気にもなれない。アスターシャは鉄格子の前に偉ぶって立ち、哀れな囚人を見下すような目つきでサーシェスを見つめた。
「ファリオンやセレンを侮辱したことをここで悔いるがいいわ。記憶喪失の半病人のくせに、私たちハイファミリーに無礼な態度をとるとどうなるか、思い知ることね。いますぐ謝罪をするならそこから出してあげてもよくてよ?」
誰が謝るものか。頭の悪いハイファミリーに謝罪することなどひとつもない。サーシェスは無言でアスターシャの顔を睨み付けた。アスターシャはおもしろくなさそうに鼻を鳴らすと、
「ならここで頭を冷やすことね。泣いてわめいて許しを請う気になるまで、ここにずっといるといいわ」
アスターシャは鉄格子の扉の前にあるもうひとつの分厚い鉄の扉を思い切り引いた。こちらの扉は、おそらく実際に防空壕として使われていたときのもので、鉄格子は囚人を収容するためにあとから取り付けたものであろう。大きな金属音とともに鉄扉は勢いよく閉まり、サーシェスはいわれもなき罪のために完全に闇に閉じこめられてしまった。