第十一話:アジェンタスの風

Home > 小説『神々の黄昏』 > 第一章:黒き悪夢の呪縛 > 第十一話:アジェンタスの風

 赤茶けた土ばかりが息を潜めている荒野の片隅に、折れた剣が突き刺さっていた。装飾も何も施されていない質素なその剣は、盛り土の上にひっそりとたたずんでいた。
 世界の果てというものがあるならば、まさしくここがそうなのだろう。ひとりの男がそうつぶやいた。
 誰もいない、生き物の気配さえ感じさせることのない赤い大地は、まるで人の血を吸ったかのように黒ずんで見えた。
 赤い大地に勝るとも劣らない赤茶けた色をした長い髪。腰には炎の色をした剣をはき、丈の長い黒い軍服を着たその男は、折れた剣の前にかがみ込み、手の中でざわめく白い花束を盛り土の上に添えた。それは簡素な墓であった。
 端正な顔立ちの若者であった。しかし、その表情はどこか暗く、険しい。するどい眼光を宿らせたグレイの瞳が、その青年の揺るぎない憎悪を物語っていた。
 乾いた茶色い風が青年の顔をなで、赤茶色の髪を弄んだ。風はついでに墓の前に添えられた花びらをなで回し、容赦なく奪っていく。若者の顔が悲しみにゆがみ、しかしそれもつかの間、すぐに青年はさきほどと同じ冷たい表情を取り戻した。
「……ここで待っていろ。俺は必ず、愚かな人間どもに復讐してやる……!」
 青年は炎の色の剣を鞘から引き抜き、凪払った。風すらも呼吸を止めてしまいそうなすさまじい剣圧。剣からほとばしる炎が、風に乗って華麗な舞を披露していた。青年はそれでしばらくは満足できるとでもいいたげに剣を鞘に収め、荒野の果てを無言で見つめていた。
 この日、王位継承権問題で揺れていたグレナダ公国は、事実上瓦解した。






 馬車を乗り継いで三日。セテはようやく故郷のアジェンタス騎士団領に到着した。長い道のりを馬車に揺られて戻ってきたが、アジェンタスの町並みは四年前にロクランに向けて出発したときとさほど変わりはなかった。セテの生まれ故郷のヴァランタインは総督府アジェンタシミルに隣接している中都市で、人口は七千人。アジェンタス騎士団領の中でもかなり密集しているほうだ。煉瓦造りの建物が立ち並ぶ、ロイギルの時代の名残を残した美しい町であった。
 ぎりぎりで臨んだ中央特務執行庁の試験にトップクラスの成績で受かり、入庁が決定していた矢先の暴力沙汰。正当防衛とはいえ、ハイ・ファミリーのぼんぼんを剣で斬りつけてしまった罪は重い。セテは生まれ故郷で経験を積むべく、アジェンタス騎士団への出向を命じられた。ラファエラ・フォリスター・イ・ワルトハイム将軍の計らいであったが、セテをハイ・ファミリーの攻撃から守るためといえども、それは左遷と同じような待遇であった。
 ていのいい厄介払いみたいなものだ。これで一年、ロクランに戻ることはかなわない。サーシェスに振られ、左遷で故郷に逆戻り、聖騎士への道のりは遠のくいっぽう。まったくもってついてない。
 ひとりで馬車に乗っていると、これから先のことを思って気分がどんどん滅入ってしまい、里帰りという気分にはまったくなれなかった。
 馬車はヴァランタインの町の入り口で止まり、そこでセテは荷物を下ろして御者に料金と心付けを渡す。御者は「いい旅を」ととってつけたような言葉を返してくれたのだが、セテは見向きもせずに荷物を担ぎ上げ、故郷ヴァランタインの町並みを眺めた。<BR>
 ロクランの中央騎士大学に入学してからは半年に一度は帰郷していたから、それほど懐かしいと思うほどではない。変わり映えしない中でも、馬車の駅の前には大きな居酒屋があったはずなのが、別のもっと洒落た店になっているのに気付いて少し驚いたくらいだ。半年前に帰ってきたときにはまだ前の店だったので、つい最近経営者が変わったのだろう。変わったのが自分だけでないことに、セテはなんとなくホッとする。
「よう。早かったな」
 突然背後から声をかけられ、セテは驚いて振り返った。こんなところで知っている人間に声をかけられるなんて滅多にないはず。振り返った先に立っていたのは、茶色い巻き毛とそばかすがトレードマークの親友、レトの姿だった。
 レトはセテよりもずっと先にアジェンタス騎士団への入団が決定しており、卒業式のすぐあとに騎士団領に戻っていた。今日辺りにはアジェンタスに到着すると知らせてはあったのだが、まさかずっとここで待っていたのだろうか。
 いぶかしげに親友の顔を見つめていると、彼はそれを困惑の証拠ととったのか、
「そんな顔すんなよ。一週間ぶりだってのによ」
 レトはそう言ってセテの肩を抱いて背中をぽんぽんと軽く叩いた。それから「お帰り」と言ってぎゅっと金髪の親友を抱きしめる。
「……ただいま」
 セテもそれに甘んじてレトの背中を叩き、照れくさそうにそう言った。
 アジェンタスに戻ってきてよかったことと言えば、またレトといっしょにいられることかもしれない。中央特務執行庁に勤務すれば、いやでもレトとは離ればなれになってしまうはずだった。自分はロクランやオレリア・ルアーノを行き来する任務が多くなるはずだったし、レトはアジェンタス騎士団領へ。レトとは小さい頃からずっといっしょで、よく喧嘩もしたし、それこそ本当の兄弟のように過ごしてきた。ロクランに上京してからセテにとっての最大の支えになってくれていたのがレトだ。彼のような友人には、おそらくもう二度と出会えないような気がしたので、またいっしょにレトとアジェンタス騎士団で働けるようになったのが、唯一の救いであり、最大の幸福だろう。
 セテがヴァランタインの実家に戻る道では、レトは彼の荷物を半分持ってやるのを手伝ってやり、ここ最近のヴァランタインの町のうわさ話について話してくれた。セテはそれを笑ったり驚いたりして聞きながら歩いていたが、レトがいつ自分の出向について尋ねてくるか内心気が気ではなかった。
 前代未聞の入庁直後の出向。格好付けていたくせに情けないとか軽蔑されていたらどうしよう。実は内心自分のことを小馬鹿にしていたらどうしよう。そんな思いがセテの頭を駆けめぐる。
 しばらくたわいもない話をしながら歩いていくのだが、セテは思い切って自分から尋ねてみることにした。
「……聞かないのかよ」
「なにを?」
 尋ねられてレトは不思議そうな顔をして振り向いた。
「いろいろ。俺がアジェンタスに戻ってきた理由、知ってるだろ。もっと詳しい話とかさ」
「そんなこと聞いてどうすんだよ。お前が話したがってないのに」
 そう言ってレトは笑った。セテはかえって気まずい雰囲気を作ってしまったのではないかと、親友の顔を見ることができなかった。
「ほらほらほら、そういうシケた顔すんなよ。俺とまたいっしょにいられるってのがそんなにイヤなのかよ〜」
 レトに荷物を持ったひじで脇をこづかれて、セテはよろける。
「イヤなわけないだろ。なに言って……」
「じゃあうれしい?」
「はぁ?」
 満面の笑みを浮かべながらそんなことを聞くレトに、セテの口はあんぐりと開いた。
「だーかーらー。俺といっしょにいられてうれしいかって聞いてんの。うれしいだろ? だろ? なあ」
 レトは分かっていてそういうことを確かめたがるのだ。自分の前でなかなか素直にありがとうとかうれしいとか言わないセテに、わざと執拗に言わせようとする。根負けしてセテが「うれしい」とか「ありがとう」とか言うと、それはそれは大喜びをする。飼い主にかまってもらえてうれしがる飼い犬のような有様で。
「うれしいに決まってるだろ! バカ!」
 セテが照れ隠しに怒ってそう言うと、レトはまたうれしそうに満面の笑みを浮かべた。
「やっぱり〜? 俺もまたセテといっしょにいられてうれしいんだよ〜!」
 レトは猫なで声でそう言ったかとおもうと、荷物を持ったままの腕でセテの背中を思い切り抱きしめる。
「バカ! よせっつーの! 人前で!」
「んもぉセテ君ったら照れ屋さんなんだからぁ〜! かわいいから抱きしめちゃう!」
「よせっつーの! 暑苦しい!!」
 背中から抱きつかれて身動きの取れなくなったセテは、猫のように背中にすりついてくるレトを引きはがそうと必死になって抵抗するのだが、まんざらでもないのが本音だった。レトが冗談でもこうやってあからさまに、自分との再会を喜んでくれるのがとてもうれしい。
「あ、ところでさ、セテ。今日は実家に泊まるんだろ?」
 セテの背中からようやく手を離したレトが尋ねる。
「ああ、申し送りは月曜日だから。明後日までは実家にいようかなと思ってる」
「そっか。じゃあ今日はお前んちでメシいっしょに食おうよ。お袋がお前を呼んでこいってうるさかったけど、親子でメシ食うのも久しぶりだろ。いいワインみっけたから持ってくよ」
 またしばらくレトといっしょにいられる。また学生時代と同じように、レトと俺とお袋と三人で食事をする。それがとてもうれしくて、セテは礼を言う代わりにレトににっこりと笑いかけた。
 途中、小さい頃によく世話になった近所のおじさんおばさんに出会ったが、彼らはみなセテがアジェンタスに帰ってきたのを心から喜んでいた。そして口々に言う。「こんなに立派になって。お母さんもお前のことを本当に心配していたんだよ。早く帰って安心させてやりな」と。
 セテは彼らにあいさつをしながら、実家への道を急いだ。そして、母に会ってからまず一言目になんて言おうと考えた。半年ぶりの母との再会。ふつうにしていればいいじゃないか。何をそんなに神経質になっている? セテは苦笑した。どうもまだ肩に力が入るクセが抜けていないらしい。
 戸口が開いて、母親がセテを迎えに出てきた。セテと同じブルーの瞳と金の髪。四十の後半を過ぎても、その美貌は衰えることがない。そして、その整った顔立ちから、一目でセテは母親似であることが分かる。
「おかえり。セテ」
 母親は両腕を広げてセテを迎え、それから自分の背丈より頭ひとつ分も大きい息子を抱きしめた。
「……ただいま。母さん」
 セテは母親の抱擁を甘んじて受けながら、さっきまで何を話そうかと考えあぐねていたことを思い出し、苦笑する。横でレトが照れくさそうに笑っていた。






 セテの母親は夕食にレトも招待し、三人でささやかながら食事をした。セテの数々の武勇伝を話すレトに、セテの母親は満足そうに頷きながら聞いていた。ところが。
「セテ、あなたもいい加減ガールフレンドのひとりやふたり、できたんじゃないの?」
 レトの褒めちぎり作戦にセテもまんざらでもなかったが、話がガールフレンドのこととなるととたんに気持ちが萎えてしまう。
「だめだめ、おばさん、こいつときたら汎大陸戦争並の古い頭だからぜんっぜん」
 レトがおおげさなくらいに手を振ってみせると、セテはいまいましげに鼻を鳴らしてレトの脇腹をこづいた。
「まぁ……いることにはいるけど……」
 決まり悪そうに言うのを見て、母親は疑い深そうにセテの目を覗き込んだ。レトは横でうずうずしながら先を待つ。
「……ロクランにおいて来たから……」
「あらぁ、あなたもずいぶん薄情ね。女の子を泣かすような男は最低よ」
「ホントだよなー、力ずくでもアジェンタスに連れてくればよかったんだ」
「あなたもよ、レト」
 母親は厳しい目つきでレトを睨む。
「レト、あなたもロクランではずいぶんと女の子を泣かせてきたっていうじゃない? そんな種馬みたいなマネしてるとロクな剣士になれないわよ」
「た、種馬?」
 セテの母親の一言に、レトは絶句する。横ではセテが大笑いをしていて、今度はレトがセテの脇腹をこづく番だった。
「まぁなんにせよ、若いうちにいろんな女の子とつきあっておくのもいい勉強のうちよ。剣ばかり強くても色気がないんじゃね」
 セテの母親が皿を片づけにいくのを見計らってか、レトは突然セテの核心をついてきた。セテの肩に手を回し、ぐいと引き寄せて小声で尋ねる。
「で? なんでサーシェスちゃんをおいてきたんだ。あんなかわいい娘を振るなんて、ホント嫌みな男だなーっ」
「違うって! 俺が振られたの!」
 セテはレトの腕を振り払って面倒くさそうに前髪を掻き上げる。レトはセテの一言に固まって動けない。
「……まじ?」
「……まじ」
 長いため息を吐き出してセテがそう言った。
「彼女にはさ、俺みたいな剣術バカの若造よりも、もっと頼りがいがあって包容力のある大人の男がそばにいてあげたほうがいいんだよ。たまたまそれがフライスだったってだけで」
「かーっ! やっぱフライスかよっ」
 レトは頭をかきむしりながら声を荒げた。台所のセテの母がこちらを振り向いたので、レトはあわてて声のトーンを落とす。
「……で、サーシェスちゃんは『フライスが好きだからあなたとは付き合えません』って?」
「そこまで拒絶されたわけじゃないけど……」
 セテは肩をすくめて見せた。
「彼女はやっと自分の気持ちに気づいたってだけさ。俺以前に自分を支えてくれるにふさわしい人間がそばにいたことに気づかなかったんだよ」
 レトは腕組みをしながら話を聞いている。
「彼女は俺と思考回路が似ているんだよ。自分ひとりでなんでもできると思って、誰かに頼ろうとすることをしたことがなかったんだ」
 本当にサーシェスはいつもそうだった。気丈で勝ち気で、曲がったことが嫌いで、人に頼らずにすべて自分で解決してしまおうとしてしまうところなんか、自分にそっくりだ。
「それが……精神的に追いつめられたときに、やっと自分に必要なのがフライスみたいな男だと気づいたんだろうな」
 あのときは本当に悔しかったけれど。彼女が助けに入った自分の名でなく、フライスの名を呼んだ瞬間、彼女が心からフライスを頼りにしているのを知って愕然としたものだった。
「俺たちふたりは似たもの同士だから……お互い自分のことしか見えてなくて……そう、まるで鏡を見ているようなんだ。自分を映し出す鏡。お互いに見つめ合っていても、見ているのは結局自分自身なんだ」
 もしかしたら、俺がサーシェスに救世主を重ねて見ていなかったら、彼女は俺にもっと好意を持ってくれたかもしれないなんて考える。だが、遅かれ早かれ、彼女は自分の気持ちに気づくことになっただろう。
 ふと、セテは自分の右手のひらに残された銀色の傷跡を見つめる。彼女と俺を結びつけている不思議な絆。彼女はなんと言ったか。お互いを必要としているときに力になる、友人であり、パートナーであることを証明する近いの証。俺とレトがそうであるように、彼女もまた、俺を支えてくれる友人のひとりであったわけだ。そう認めるのも少し悔しくはあったが。
「……なんか、やけに大人じゃん」
 レトがそう言った。その顔は驚いたような、納得したような感じで。
「大人なもんか。本当ならあんな無愛想な男に『はいそうですか』と彼女を譲るなんてことしないよ。それに俺はまだ、フライスに負けたつもりもない! 一年後ロクランに戻ったら、俺のかっこよさにきっと彼女もメロメロだ!」
 中指を立てていつもの挑発的なポーズをとるセテに、レトは安心したように笑顔になり、それからふたりは大笑いをした。セテの母親が気を利かせてくれて特上のワインを持ってきてくれたので、その夜は遅くまでふたりは語りに入ったのだった。






 レトは甘いワインをしこたま飲んだおかげで、千鳥足で帰っていった。セテの家とレトの家は十メートルも離れていないから、まぁ這ってでも帰れないことはないが、呂律のまわらないレトを見るのは久しぶりだった。
 セテも今日は飲み過ぎたかもしれない。母親が持ってきてくれた冷たい水を飲み干し、大きなため息をついて母親が後かたづけをしている後ろ姿を見つめていた。
 四年前ロクランに出てきたときからたいして老けてはいなかったが、背中に疲れが見える。半年に一度は帰ってきたものの、やはりひとりでこの家を切り盛りしていくのは大変だったに違いない。
「母さん?」
 セテは母親の背中に声を掛けた。母親は洗い物をしながら背中で返事をした。
「母さんは……怒ってないの?」
「怒るって、何を?」
 セテは言葉を飲み込む。中央特務執行庁始まって以来の、入庁直後の出向命令。前代未聞だ。
「聖騎士になるなんてデカいこといったくせに、帰ってきたのは出向命令でさ。出向なんていいモンじゃない、ほとんどアジェンタス騎士団に無理矢理入団させられたような待遇で、左遷みたいなもんだよ? 情けないだろ?」
 母親は洗い物を終え、前掛けで手を拭きながらテーブルに近づいてきた。
「どうして? 何が情けないの? 聖騎士になれなかったこと? それともアジェンタスへの出向?」
「……両方……」
 少し考えてからセテはぽつりとつぶやいた。母親はあきれたようにため息をつくと、
「母さんに気を使って言っているならやめてちょうだいね。母さんちっともそんなこと思ってやしないわ。自分の好きな剣の道をいくというから、母さんはあなたに好きなようにさせてきたのよ」
 母親の一言で、セテは胸をなで下ろす。
 母さんはいつもそうだった。十年前の冒険の後、レオンハルトにあこがれて聖騎士になるといったとき、母さんは驚いたような顔をしたが非常に喜んでくれた。そのあと高校時代にロクランの中央騎士大学へ行くと言い出したときには経済的な理由から反対したものの、結局は自分の好きなようにさせてくれたのだった。実際のところ、母ひとり子ひとりで、商人にでもなっていれば経済的にも母親を楽させて上げることはできたかもしれない。だが、母親はいつも、自分の好きな道を行くように言ってくれた。だから自分もしゃかりきになって奨学金を得ようとがんばったし、成績もトップクラスを目指したのだ。
 ふと、セテは壁に立てかけてあった愛刀・飛影(とびかげ)に手を伸ばし、テーブルの上に横たえた。母親は一瞬ぎょっとした顔をして、セテと剣を交互に見つめていた。
「父さんの形見だっていうこの刀。本当にいい剣だよ。刃こぼれひとつしない立派な剣だ」
 セテは愛刀の鞘を愛おしそうになでながらそう言った。母親は満足そうに微笑んでいる。
「母さん。……父さんのこと、話してくれないかな……?」
 物心ついたときから父親は家にいなかった。これほど立派な剣を持っていたからには、立派な剣士だったに違いない。だが、母親は父親のことについて何ひとつ教えてくれなかった。幼い頃は「行方不明」と聞かされていたが、中央騎士大学に入る前にこの剣を持たされたとき、母親がもらした一言で、父親はとうの昔に死んでしまっていたことが分かってひどく驚いた。それでも、なぜ死んだのか、どこでどうやって死んだのか、母親は何ひとつ教えてくれなかった。
「こんな立派な剣を使っていたんだ。立派な剣士だったんだろ?」
「……そうね……とても立派な剣士だったわ」
 母親は夢でも見ているかのような表情でつぶやいた。
「性格はね、あなたにそっくりだったわ。負けん気が強くて明るくて、まるで太陽みたいな人だった。あなたが生まれたときには、それはもうとても喜んで、将来は剣士にしてやるなんていつも言っていたわ」
 あなたはもう覚えていないでしょうけど、と母親は付け足した。ということは、うんと小さい頃にはまだ父親は生きていたのだろう。だが確かに、自分には父親に抱かれた記憶はまったくない。
「……どうして……死んじまったんだ? 事故……?」
 母親の表情が曇る。一度だけこんな表情の母親を見たことがあった。中央騎士大学に入学する前、この飛影を手渡してくれたとき。「お父さんの二の舞になるようなマネだけはしないでね」と、彼女は言った。
 母親は口をつぐんだままだ。セテはせかすようにたたみかけた。
「アジェンタス騎士団にいたの? それともどこかの騎士団にいて、それで任務の途中で?」
「お願いよ、セテ。もう思い出したくないの」
「どうしてだよ。俺にだって知る権利はある! 自分の父親のことだよ?」
「もう二度とあんなことを思い出すのはいやなのよ!」
 母親が突然金切り声を上げたのを見て、セテは驚いて母親を見つめた。母親も自分で驚いたらしく、ため息をつきながらゆるいウェーブのかかった前髪が落ちてくるのを掻き上げた。それから席を立つと、
「……ごめんなさい。いつかあなたにすべて話してあげるわ。でも、今はまだ母さんは何も話したくないの。本当に……ごめんなさい……」
 母親は顔を背けて目の端をぬぐっていた。
「……もう寝るよ……」
 セテはそう言って、飛影をつかんで部屋に戻っていった。アジェンタス山脈から吹き付けてくる冷たい風が窓から吹き込んできて、部屋の中の熱気を静かに奪っていった。






 フライスは文書館に立ち寄り、聖賢五大守護神《ファイブ・ガーディアンズ》に関する古い資料を取り出した。
 聖賢五大守護神。汎大陸戦争で炎の神獣フレイムタイラントと戦い、世界を救ったという伝説の術者たち。五人それぞれが強力な術を使いこなし、救世主《メシア》を大いに助けたというが。
 フライスはいちばん古い書物から聖賢五大守護神の個人データを収めたものを取り出し、パラパラとページをめくった。
 ガートルード。聖騎士レオンハルトの妹で、美しい金髪を持つ心優しい宮廷魔導師。水の術法を得意として、各地で傷ついた人々を癒してきたという。
 あのとき、サーシェスはなんと叫んだか。確かにガートルードの名を呼んだ。「やめてガートルード!」と。
 フライスは書物を閉じ、前髪を掻き上げながら自虐的に苦笑する。
「バカだな、私も。ガートルードと名のつく女ならいくらでもいるだろうに」
 フライスはここに立ち寄る前に、先日の火事の際、家畜小屋で遭遇したモンスターについて大僧正に相談を持ちかけた。大僧正は真っ白なひげを触りながら古来から伝わる聖職者のための古い本を取りだし、ぱらぱらとめくりながら何かを考えていた。大僧正によると、そのモンスターは暗黒の炎の結界から生まれ、炎を活性化させる異次元の魔物、フレイムイーターだという。炎を糧とし、そのエネルギーで周りのすべてを焼き尽くす炎をまとったひとつ目の丸い化け物。しかも厄介なことに非常に利口で、初歩的な水の術法に対する絶対魔法防御を身につけているのだった。
「じゃが、炎の結界はすでにイーシュ・ラミナによって封印されておる。何者かが暗黒の炎の封印を解かぬ限り、安定したこの世界で物質化することなどあり得ないのじゃが……」
 大僧正は困ったような顔をしてそう言った。フレイムイーターは神獣フレイムタイラントと同じ暗黒の炎に属する魔物で、大昔にイーシュ・ラミナに結界の向こうに封じ込められたのであった。汎大陸戦争の際に一時破れはしたものの、それを補うためにさらに強力な結界が築かれたのだった。炎の結界とともにフレイムタイラントは完全に封印され、たまに小者がこちらの世界で実体化したとしても、フレイムイーターほどの中クラスのモンスターが現れることはほとんどなかった。
 フライスは不安そうにため息をつき、礼をして書斎を後にする。部屋を出る際、サーシェスがとうとう水の巫女になる決心をしたと告げると、大僧正は大いに喜び、その後の教育も引き続きフライスにまかせたのだった。だが、燃えさかる炎の中でサーシェスが口にした言葉については、大僧正に報告しなかった。確信が持てるまでは、自分の中にしまっておこうと思ったのだ。
 自室のドアを開けると、サーシェスが熱心に本を読んでいるように見えた。フライスはわざと慇懃な物腰で、
「よろしいですかな、お姫様」
 と声をかけた。サーシェスは怒ったような顔つきでフライスを睨み付け、本を閉じる。
「どうしてまた本ばかり読まされなきゃいけないの。これじゃ今までと変わらないじゃない!」
「剣士になるにも術者になるにも、教養は大切だ」
 フライスは吹き出しそうになるのをこらえて向かいの席に座った。
「さてと、自習の成果がでているかどうか、試験させてもらおうか」
 フライスは口頭で何問か出題し、サーシェスはそれに対してふくれっつらで答えた。一応成果は出ているらしく、彼女はほぼ完璧に答えをそらんじて見せた。
「結構。では今日は『神々の黄昏』と術法について始めようか」
 フライスがそう言って本をめくると、サーシェスはしかめっ面をして見せた。
「私が知りたいのは術法の使い方よ! こんな過去の話ばかり、うんざりだわ!」
「サーシェス、座りなさい!」
 フライスが厳しい声でそう言うと、サーシェスは渋々イスに座り直した。
「術を使うには、それ相応の知識と集中力が必要だ。そんないい加減な気持ちで術を使えば、確実に身の破滅を招くぞ!」
 サーシェスはうんざりしたようなため息をついた。
 かつて世界を統一していた神々は、自分たちの姿に似せて人間を生み出した。ところが、人間たちに地上をまかせてみたものの、彼らは戦争ばかりしていたので、地上はほとんど壊滅状態に陥ってしまった。そこで神々は怒り、人間たちをこれまでの半分に減らした。そして今度はより自分たちに近い完璧な人間を作り出し、地上を支配させた。それが、偉大なる一族、イーシュ・ラミナだった。
「ふ〜〜ん、なんだかおとぎ話みたいな話ね」
 サーシェスは気のない相づちを打った。フライスはめげずに先を続ける。
 イーシュ・ラミナは完璧な容姿を持っていただけでなく、これまでの人間にはなかった不思議な能力を生まれながらにして持っていた。例えば言葉を使わずに会話をしたり、人の心が読めたり、手を触れずにものを動かしたり。時には下手な武器よりもはるかに殺傷力のあるパワーで、人を殺すことだって簡単にできた。
「なんだか神様みたいな力を持っていたわけね」
「その通り。彼らはまさしく神々に作られた完璧な存在だったのだよ」
「完璧な容姿って、つまり美男美女だったってこと?」
「伝説ではそう言い伝えられている。人をつかんで離さない魅力的なエメラルドグリーンの瞳と、端整な顔立ち。耳は伝説のエルフみたいにとがっていて、おまけにえらく長命だったとか。平均で二、三百年は生きたというから、我々人間にしてみれば本当に神のような存在だろうね」
 サーシェスは驚いて自分の耳に触れる。自分のグリーンの瞳ととがった耳。ということは、自分もイーシュ・ラミナの血を引いているということだろうか。
「でも、そんなに長命っていったって、残りの人生よぼよぼのおじいさんおばあさんで過ごしたわけでしょ?」
「ところが、イーシュ・ラミナはほとんど年を取らないんだそうだ。たいていは十代後半から二十代後半くらいの外見をしていて、まぁ少しでも自分を若く見せたかったんだろうな」
「ふ〜〜ん」
 サーシェスは自分の耳を触りながら相づちを打った。そういえば、フライスもとがった耳をしていると思いながら。
「ところが、イーシュ・ラミナの治世も長くは続かなかった。彼らの力をねたんだ人間たちが、今度はイーシュ・ラミナ相手に戦争を始めたのだ」
 先の汎大陸戦争よりも遙か昔、イーシュ・ラミナは人間を遙かにしのぐ知力と奇跡の力をもってさまざまなすばらしい文明を築き上げた。人間もその恩恵に授かっていたのだが、その文明の高度さは、逆にイーシュ・ラミナの弱点ともなった。つまり、高い攻撃力を持つ武器での応酬は、弱点どころか瀕死の事態を巻き起こしたわけだ。
 長く激しい戦いが続いて、人間もイーシュ・ラミナも半数が死に絶えた。事態を憂えた神々は、神獣フレイムタイラントを遣わし、世界の半分を焼き尽くしてその戦争を終結させた。そしてとうとう、この地上を見守ることを諦め、我々を残して神々は姿をお隠しになった。それが、今の世の「神々の黄昏」の始まりだった。
「フレイムタイラントって、神様の使いだったの? でもおかしいわ。汎大陸戦争では愚かな支配者がフレイムタイラントを使って世界を滅亡させようとしたんでしょ? どうして神々の使いが人間のいいなりになるの?」
「サーシェス。頼むから話を続けさせてくれ」
 フライスは辛抱強くそう言った。サーシェスはしかたがないといった様子で口をつぐむ。
「フレイムタイラントは純粋な破壊の意志を持つ炎の竜の化身だったそうだ。だから、解き放たれれば相手が何者であろうと、目的が何であろうと周りのものを焼き尽くそうとするだけ。まぁとにかく、そんなこんなで神々に見捨てられた人間たちはどうしたかというと、しかたなくイーシュ・ラミナと再び世界を再構築していくこととなった」
 イーシュ・ラミナの知力はすばらしい遺産を残した。なかでも最大の遺産は我々が現在「術法」と呼んでいる魔法の力だ。イーシュ・ラミナはふだんから手を使わずにものを動かしたりすることができたが、それを我々人間にも使えるように研究し、さらに彼らが解明に成功した「火」「土」「水」「風」「光」「聖」「闇」などの霊的な力と組み合わせることで、「術法」というテクノロジーを生み出したのだった。それ故、すべての術法はこれらの霊的な力に結びついた呪文によって発動される。
 話がいよいよ核心に迫ってきたので、サーシェスはごくりとつばを飲み込む。
「イーシュ・ラミナがいかに強力な術を使いこなしたとはいえ、やがて人間たちを交わることによってその神秘的な力は徐々に薄れていった。イーシュ・ラミナの血を引く人間は確かに多いが、純粋にイーシュ・ラミナのような絶大な力を、なんの呪文も詠唱することなく発動できるのは、今ではほんの一握りの人間だけだ。聖賢五大守護神《ファイブ・ガーディアンズ》や救世主もイーシュ・ラミナの血を濃く引いていたため、恐ろしく強大な力をふるうことができたし、大僧正様もお若い頃はすばらしい霊力の持ち主だったとか」
「あの……ね、フライス?」
 サーシェスはおずおずと切り出してみる。
「私もあなたも……その……イーシュ・ラミナみたいなとがった耳をしているわけでしょ? やっぱり少なからずイーシュ・ラミナの血を引いているってことなの?」
「その可能性は大いにあるだろうね」
 フライスが頷いた。自分の出生の範囲がイーシュ・ラミナの血を引く人間ということである程度は狭まったので、サーシェスは少し明るい展望が開けたような気がした。といっても、世の中そんな人間は星の数ほどいるわけだが。
「君みたいなグリーンの瞳は典型的なイーシュ・ラミナの特徴だ。まぁ容姿端麗というのはおいといて」
 フライスは意地悪そうな笑みを浮かべてサーシェスをちらりと横目で見やる。サーシェスが憤慨したようにフライスを睨み付けた。
「私は幼い頃から力を使うことができたし、一般人の中にもイーシュ・ラミナの血を引くものは多い。だが」
 とフライスは一息おいてからサーシェスを見つめる。
「だからといって必ずしも全員が全員術法を使うことができると思ったら大間違いだ。訓練すればふつうの人間にも術法は使えるし、逆に訓練しなければイーシュ・ラミナの血を引いていたって力を使うことはできない。というわけで、いかに精神力を高めて呪文を詠唱できるかが、術の発動のキーポイントになってくるんだ」
 念を押すようなフライスの言葉に、サーシェスは小さくため息を吐き出した。
「少なくとも、今の君みたいに気持ちにムラがあるような状態では、とうてい術を使いこなすことはできない。イーシュ・ラミナはそろいもそろって冷静沈着だったというし」
 まるで自分がそうだといわんばかりのフライスの口調に、サーシェスはうんざりして肩をすくめた。
「ただ、救世主だけは例外だったと聞く。非常に気性が激しくてね。そのくせ、聖賢五大守護神の力すべてを併せても足りないほどの強大な力を、呪文の詠唱無しに瞬時にふるうことができたというし、おまけにすばらしい剣の使い手だったとか」
「……なんか……とんでもなく恐ろしい人だったのね、救世主って」
 サーシェスは筋肉の隆起したたくましい女性の姿を想像して、伝説とのあまりのギャップに気持ちが萎えていくようだった。大僧正に聞いた話では、救世主はいつも少女の姿をしていたというから、はかなげで可憐な薄幸の美少女を想像していたのだが。しかもレオンハルトはその救世主を心から愛して……。愛して? なんだかレオンハルトの趣味もよく分からない。
「で、私にもっと落ち着けというわけね」
 フライスはそのとおりと頷いた。
「それから、術法はすべてを可能にするものではないということを覚えておくことだ。例えば食べ物をぱっと出すような奇術みたいなマネはできないし、死んだ人間を生き返らせることもできない。これは分かったね?」
「うん」
 サーシェスはフライスでさえもマールを生き返らせることができなかったことを思い出し、力強く頷いた。死んだ人間を生き返らせることはできなくても、死の前にその人間を救うことができればそれでいい。
「また、ひとつかふたつの属性の術法を併せ持つのが限界だ。私は水と風(雷は風に属する)の術法が得意だし、聖賢五大守護神を例に取れば、レオンハルトは聖の属性、ガートルードは水の属性、ディウルナハは風と闇の属性の術法が得意だった。まれにメシアのようにすべての術法を扱えるオールラウンドプレーヤーも存在するが、それだけの術法を使いこなすまでに、ほとんどの人間は精神が耐えきれなくなる」
「私はどの術法を学べばいいの?」
 あの大きな瞳を輝かせて、サーシェスはフライスを見つめる。フライスは一瞬その瞳に飲み込まれそうになるのを感じながら、
「ここロクランの象徴は豊かな水と緑だ。したがって、水の巫女になるのであれば水の属性を学ぶ必要がある。ラインハット寺院でも水の術法を推奨しているし、覚えておけばどこへ行っても重宝される」
「じゃあ、水の呪文を学べばいいのね!」
 サーシェスはうれしそうに手をたたき、術法書をめくる。やれやれとフライスがため息をつくのもつかの間、術法書に書いてある神聖文字がまったく読めないことに気がつき、サーシェスは顔をしかめた。
「……なにこれ。全然読めないじゃない」
「当たり前だ。呪文は神聖文字で記述される。したがって」
 フライスは意地悪そうな笑みを口の端に乗せ、サーシェスの開いた術法書をぱたりと閉じる。
「まずは神聖文字を学ぶところから始めよう」
 サーシェスはいまいましげに鼻を鳴らし、背もたれにぐったりと体を預けた。
「覚えてらっしゃいフライス! 私が水の巫女になったら絶対……!」
「私を大僧正にでも推薦してくれるって?」

全話一覧

このページのトップへ