Home > 小説『神々の黄昏』 > 第一章:黒き悪夢の呪縛 > 第十話:銀色の絆
呆けたような表情でサーシェスが意識を取り戻した。自室のベッドの上。その傍らにイスを持ってきて、フライスが彼女をずっと見守っていたのだった。
「……フライス……?」
フライスはサーシェスの焦げた前髪を掻き上げてやり、微笑んだ。すぐにサーシェスは跳ね起き、あたりを見回す。
「マール、マールはどこ?」
フライスは何も言わなかった。その表情は暗く冷たい。瞬時にサーシェスは悟った。体から力が抜けていく。整った顔立ちが青白く冷めていき、その指は間接が白くなるほどシーツを握りしめていた。
「ウソでしょ? だって私……」
フライスは瞼を伏せて静かに首を振る。この娘にマールの死を告げるのは、自分にとってもどれだけつらいことかを考えながら。
「……外に出たときにはすでに彼の呼吸も心臓も停止していた……蘇生も間に合わなかった……」
「ウソ!!」
サーシェスはフライスにつかみかかり、その肩を揺さぶる。
「さっきまであんなに元気だったのよ! 今日だって子牛が生まれるのをとても楽しみにしていた! なんで彼が死ななきゃならないの! ねぇ、フライスなら術法で彼を生き返らせることができるんでしょ! お願いだから早く彼を生き返らせてあげてよ! ねぇ!!」
「サーシェス! 聞くんだサーシェス! 術法といえども死んだ人を生き返らせることはできないんだ! 私だって全能なわけではない!」
サーシェスは枕に突っ伏し、大声をあげて泣き始めた。フライスは自分のいらだちを少しばかり彼女に向けてしまったことに後悔し、ため息をつく。サーシェスばかりではない、フライスも大僧正も、寺院全体がマールの死を悼んでいるのであった。元気のいいいたずらっ子で、時にはその元気の良さが手に負えなくなったこともある。だが、彼の人なつこい笑顔を永遠に失った事実を、誰がそのまま受け入れることができるだろうか。
「……私のせいよ……」
サーシェスは押し殺したような声でつぶやいた。
「……私がもっとしっかりしていれば……早くみんなを呼びに行けばマールは死なずにすんだ……」
「サーシェス」
叱責するような声でフライスはサーシェスの頭をなでる。サーシェスはその手を払いのけ、フライスを睨み付けた。
「私のせいよ! あんないい子がなんで死ななきゃならなかったの! 私が死んだほうがずっとましだった! 私がいなくなって悲しむ人なんて誰もいないもの!」
パン! と軽い音がして、サーシェスは驚いたように目を見張る。フライスは思わず彼女の頬を平手ではたいたのだった。
「そんなことを軽々しく口に出すものじゃない! 私は君を命を粗末にするような人間に教育した覚えはない」
それからフライスは彼女を抱き寄せ、乱れた髪をなでるように整えてやる。
「自分を責めないで……。私は君が無事だっただけでも十分だ」
胸の中で彼女は声を押し殺したように泣き、それから声をあげて再び泣き始めた。
「……私のせいよ……私にもっと力があったら……私にフライスみたいな力があったら……マールもセテもこんなことにはならなかった……!」
「どうして君は自分ばかりを責める? どうして何もかも自分のせいにしてしまう? 君はいつもそうだ。自分ひとりで何もかもできてしまうのなら、人間は誰も苦しまずに生きていけるんだよ」
フライスは彼女を抱きしめる自分の腕に自然に力がこもってしまうのを許した。
「人は自分だけでは生きていけない。だからこそ、誰かに助けてもらったり支えてもらって生きて行くんだ。自分だけの力で何もかもかたづけてしまおうと、君はいつも気を張ってばかりで。君はまるで……ピンと張った糸の上を歩く道化師みたいだ」
「だって……私はいつもひとりなのよ。家族もいないし、それを思い出す記憶もすべもない。誰に頼ればいいの? 私には何もないのよ?」
「私がいる」
フライスはサーシェスの耳元でささやいた。自分でも驚くほどの素直な一言。サーシェスの呼吸が止まるのが感じられる。
「……私がそばにいる……。だから私を頼ってほしい。人がひとりでは生きていけないのは、自分の半身を生まれたときに奪われたからだと、そして人間は自分を補う半身を常に捜し続けているのだと誰かが言っていた。私も……以前はそんなパートナーはいらないと思っていた。でも今は違う。君のそばにいて、君を支えてあげたい」
自分がおそらく十も年の離れたこの少女を愛し始めていたことを、フライスは初めて素直に受け入れた。寺院内の誰よりも、そしてあの中央騎士大学の青年よりもずっと長く彼女のそばで過ごしてきて、自分がどれだけ彼女に惹かれていたかを認識したとき、フライスの中でのわだかまりが消えた。劣等感や焦燥感、嫉妬……。それらの何もかもが、すべて彼女を思う心から来ていたことを知ったときには、フライスはもうサーシェスから離れられなくなっていたのだった。
サーシェスが驚いたような顔で自分を見つめているのに気づいた。だがそれは拒絶の表情ではない。もう一度彼女を抱きしめると、彼女の腕がおずおずと自分の背中に回されて、フライスは心の中がたとえようもなく暖かくなるのを感じた。
フライスはサーシェスの顔を見つめ、涙の後に沿って指を這わせる。その指がサーシェスの形のよい唇にたどり着いたとき、フライスはそこに自分の唇を重ねていた。サーシェスの吐息が髪にかかり、背筋がぞくぞくする。彼女の鼓動が高鳴り、自分の鼓動とシンクロしていくのが分かる。短くて優しい口づけ。
顔を離すと、サーシェスが顔を赤らめて自分を見つめている。驚きと喜びが入り交じったような不思議な表情をして。
「おやすみ」
フライスはサーシェスの髪をなでながら優しくささやいた。
「あ、あの……」
フライスが部屋を出ていこうとするのを、サーシェスが呼び止めた。どういう態度をすればいいのか困っているといったような顔をして、サーシェスは上目遣いにフライスを見上げている。フライスはそんな彼女の様子がかわいくて、思わず優しく微笑み、
「明日からはまた、いつもどおりに『フライス』と呼んでくれればそれでいい」
そう言って、フライスは部屋の扉を静かに開けて去っていった。まるでさっきのキスは夢だったかのように。
サーシェスは自分の唇に指で触れ、フライスの唇の感触を思い出していた。心臓がまだドキドキして、顔が熱い。そして、静かに歩いているであろうフライスの姿を廊下の外に感じながらベッドに横たわり、ふとんをかぶり直した。そのすぐ後に、彼女は安心したように眠りについたのだった。
光。それまで放り出されていた暗闇の中から、いきなりサーシェスは白い光に吸い寄せられるように歩き出した。
(サーシェス! サーシェス!)
誰? 私を呼ぶのは? でも、この間の声とは違う。子ども……の声……?
(サーシェス? 聞こえる?)
ああ、マール。マールね。やっぱりあれは夢だったのね。死んでなんかいない。よかった。
(サーシェス、聞いてほしいことがあるんだ)
ええ、マール、今なら何でも聞いてあげるわ。でも変なお願いはやめてね。
(サーシェス。おいらもうすぐ行かなくちゃいけないけど、その前にサーシェスにどうしても会っておきたかったんだ)
行く? 行くってどこへ? あなたはラインハット寺院にいればいいのよ?
(サーシェス。おいら本当に君に会えてよかった。サーシェスはいつも優しくて、お姉さんとかお母さんみたいで。おいらお母さんの顔は知らないけど、次に生まれてくるときもサーシェスみたいなお母さんのそばにいたい)
何を言っているの? マール? 次に生まれてくるって……もう死んでしまうような口振りはやめて。
(サーシェス、おいらはもう死んでしまったんだよ? 思い出して)
やめて! 聞きたくない! お願いだから思い出させないで!
(サーシェス、お願い、聞いて。もう二度と、自分を責めるようなマネはしないで。おいら、とっても幸せだったから。ホントはもう少しいろんなことをしたかったけど、おいらはサーシェスに会えたことで大満足しているんだ)
お願いよ、マール。そんなこと言わないで。
(おいらはやっと分かったんだ。おいらが生まれてきたわけ。これがおいらの役目だったんだなって今なら思える。よく聞いて。サーシェス、君がすべきことは剣士になることじゃない。君がこれからなすべきことを、自分で考えてみて。そうすれば自ずと道は開けてくると思うんだ。剣をとって力とするか、術を身につけ叡知とするか。考えるのは君だよ。おいらが言いたかったのはそれだけ。だからもう泣かないで)
どうして? まだ行かないでマール。お願い、戻ってきて。
(大僧正様とフライス様にも伝えて。おいらはラインハット寺院にきて幸せだったと。ふたりとも大好きだった。心から愛していたと)
マール、行かないでマール、戻ってきて!
(もう行かなきゃ。神様が目を覚ましてしまう。それからサーシェス。今までありがとう。これからも君を見守っているよ。サーシェスは泣き虫だから心配だけど。大好き、サーシェス。愛してる。心の底から……これからもずっと)
涙が頬を伝って枕をぬらしていた。こんなに悲しい夢を見たのは初めてだった。改めてマールが死んでしまったのだということを再認識して、サーシェスは声もなく泣いた。
幻だったのだろうか。だが、マールは夢の中ではっきりとこう言ったのを覚えている。
君がこれからなすべきことを、自分で考えてみて。
そうすれば自ずと道は開けてくると思うんだ。
剣をとって力とするか、術を身につけ叡知とするか。
考えるのは君だよ。
あれは本当に、マールが最後に私に残してくれたメッセージなのかもしれない。私に道しるべを与えるため、自分の使命を果たすべく。
その日の朝は、マールの葬式がしめやかに執り行われた。ラインハット寺院全員が喪服に身を包み、棺の中のマールと最後の別れを惜しんだ。
棺の中で横たわるマールの体には、傷ひとつ見あたらない。まるで今にも「あ〜あ、よく寝た。あれっなんでみんなそんな深刻な顔してるの?」といって起き出しそうな顔をしている。人を脅かすのが大好きだった彼の、たちの悪いいたずらであればと今でも願わずにはいられない。
サーシェスは一輪の白い花を棺に入れ、マールの頬をなでる。涙があふれてきて、サーシェスは傍らのフライスに寄り沿って泣いた。
フライスが葬送の儀を執り行い、大僧正が神聖語でそれを締めくくって葬式は終わった。やがて音もなく雨が降り始め、修行僧たちは棺の中の少年に最後の祈りを捧げる。ラインハット寺院のすべてが息を潜め、涙を流しているかのような静かな葬式であった。
その日の夕刻に、思いがけない来客でサーシェスは息を飲んだ。絶対に二度と会ってくれないだろうと思っていた中央騎士大学の青年が、わざわざラインハット寺院まで出向いてサーシェスに面会しに来たのだった。
今朝方降り続いていた雨は午後になってようやく止み、この夕方には晴れ間が広がっていた。ラインハット寺院の名物でもあるきれいな夕焼けの見える丘をふたりは言葉少なに歩き、林を抜けて守護神廟まで歩いてきた。救世主の像が夕日に照らされて、まるで生きているかのように見えた。
「私のせいでこんなことになって……本当になんて言っていいのか……」
サーシェスは顔を伏せたままセテの目を見ようともせず、そう言った。少し間が空いて、もしかしてセテは本当に怒っているのではないかと思うと、胃のあたりがきゅっと痛んだ。だが、セテはそんな様子もなく、サーシェスの顔を覗き込むようにして笑いかけてくれた。
「そうやって自分を責めているんじゃないかと思って……心配していたんだ。本当はすぐにでも飛んでこようと思ったんだけど……いろいろと手続きがあってね」
セテはごめん、といったように肩をすくめてみせた。
「君のせいなんかじゃない。これだけは君のせいじゃないからそんな風に自分を責めないでほしいんだ。フォリスター・イ・ワルトハイム将軍も、それなりに気を使ってくれたらしいんだよ。本当なら辺境に左遷されていたのを、故郷に帰って実務経験を積むように計らってくれたんだ。俺も少し頭を冷やしていろいろ考えてみるよ」
セテはそう言って微笑んだ。フライスとは対照的な明るいブルーの瞳。この青年がこんな風に笑うのを、サーシェスは久しぶりに見たような気がした。ここ何日かはいつも気を張って、張りつめた糸のような目をしていた。考えてみれば、この青年も自分のように何かを自分ひとりでやり遂げようとそればかり考えていたのかもしれない。その緊張の糸がいい意味でほぐれて、今はとても自然体でいるように感じられる。そして、おそらく自分も。
「一年。一年経ったらまたロクランに戻ってくる。そのときは……」
セテは照れたように笑い、言葉を濁した。それから笑いの混じったため息を吐き、
「それまでは君もフライスに思い切り頼ることを覚えたほうがいいな。君もなんだかいつも気を張りつめているみたいだし。早く自分の気持ちに気づいてほしい。俺が言いたいのはそれだけ」
「セテ……」
「そんな顔しないでくれよ。俺はまだ負けたつもりはないよ。聖騎士も諦めたわけじゃないし、フライスに負けたとも思わない」
サーシェスは顔を赤らめて笑った。ふたりとも、今なら最高の笑顔ができる。
「俺はいつもひとりで何でもできると思いこんでた。でも、実はひとりでは何もできない。俺だけじゃなくて、人はみんなそうだよ。両親や兄弟、恋人や友人もそうだし、それだけじゃなくて、例えば仕事なら気の合う仕事仲間とかね。例えば俺の場合、それがレトだったりする。そう、剣士と術者みたいに、お互いの足りない部分を補う力を持つ者同士が一緒にいるってことも、パートナーってことだと思うんだ」
ふと、サーシェスは昨日のフライスの言葉を思い出す。
自分から奪われた半身を取り戻すための探索。それはすべてにおいて、自分に足りないものを自分以外の人間によって埋めようとする作業のことだ。サーシェスはこれまで頭にかかっていたもやのようなものが一気に晴れたような気がした。
「セテ、聞いて」
サーシェスはセテに向き直り、そのブルーの瞳を見つめる。
「私ね、剣士じゃなくて術者になろうと思うの。いつかセテがロクランに戻ってきて剣士として名をはせるときに、剣士にない力であなたを補ってあげることができたら……。それってすてきなことじゃない?」
セテはサーシェスの言葉に目を丸くしていたが、やがて顔をほころばせ、サーシェスの手を握りしめる。
「そうだね。とてもすてきなことだ」
セテはうれしそうに笑い、手のひらで瞳をぬぐった。そのブルーの瞳が少し潤んで見えた。泣いているのかもしれない。
「一年後、あなたは有名な剣士で、私はロクランで水の巫女として傷ついた人を癒しているわ。救世主《メシア》にレオンハルトが寄り添っていたように……剣と術がうまい具合に結びついて、きっとそれって最高にすてきなことだわ」
サーシェスはセテの手を離し、自分の手のひらを下に向けて差し出した。
「セテ、誓って。剣を抜いてよ」
セテはいわれるままに腰の飛影を抜き、サーシェスの腕と交差させるようにして剣を差し出した。
「1年後、私たちはまたこの場所で新しく出会うの。それまでお互いの道を過たず、正しき道を進むことをここで誓って」
セテはサーシェスのグリーンの瞳を見つめながら剣に力を込める。サーシェスの左手がセテの剣を握る左手に重ねられた。その上から、セテは右手を添え、そしてふだんはほとんど使われない古い言葉で神聖な誓いの言葉を口にする。
「正しき道を進むことを、救世主の御元で誓わん。蒼天我らが上に落ち来たらぬ限り、この誓いは破らるることなく、神聖なるものなり」
突然、ふたりを銀色の光が包み、飛影が銀色に輝き出す。ふたりは驚いて離れようとするが、不思議な力で押さえつけられでもしたのか、剣も腕も動かすことができない。
銀色の光は小さな炎となって剣の柄に宿り、すぐさまふたりは自分の手のひらに鋭い痛みを感じた。見ると、セテの右の手のひらとサーシェスの左の手のひらに、剣で真一文字に切り裂かれたような赤く深い筋ができていた。痛みに顔をしかめるのも一瞬、次の瞬間にその切り傷は銀色の炎を吹き出して燃え上がった。
やがて傷口はみるみる塞がっていき、銀色の傷跡となって残った。気がつくと、あの不思議な銀色の光はあとかたもなく消え失せており、ただ救世主の像だけがふたりを見下ろしているだけだった。
「……今のは……?」
セテは自分の右手のひらに残る傷跡を見ながらつぶやいた。サーシェスも呆然と自分の左手のひらを見つめている。
痛みはもう消えていた。ただ銀色の傷跡が、夕日に照らされてきらきら輝いて見える。
「きっと……救世主がこの誓いを聞き届けたということよ」
サーシェスが守護神廟の入り口にそびえる救世主の像を見上げながら言った。
「私たちはこれからずっと、この誓いに縛られていくの。きっとあなたと私は、お互いが必要とするときには必ずこの誓いで引き寄せられるんだわ。救世主が私とあなたをパートナーとして結びつけてくれたんだもの」
サーシェスは手のひらをセテにかざして銀の傷跡を見せ、そっとセテの右手を自分の手に重ねた。
「あなたが必要とするとき、私はあなたの力になる。私が必要とするとき、あなたが私の力になる。約束よ」
サーシェスは重ねた手のひらを右手でそっと包み込んだ。セテも左手をサーシェスの手の上に重ね、ふたりは守護神廟の前でお互いの道を正しく歩むことを誓ったのだった。
「なんだって? 本気か? サーシェス?」
フライスは駆け込んできたサーシェスの発言に耳を疑い、読んでいた本を閉じる。
「本気よ。私、水の巫女になる! だから明日からは私に術法を教えてほしいの」
フライスはこのおてんば娘の言葉に耳を疑ったが、その真剣な眼差しに気圧され、諦めたようにため息をついた。
それからサーシェスは、自分の左手についた銀色の傷跡を見つめ、満足したように頷いた。
(私きっと、歴代の水の巫女の百倍もすごい術者になってみせる。だからセテ、あなたもすごい剣士になれるようにがんばって! 約束よ!)
サーシェスは窓を開け、セテの下宿先のある方角を見つめながら心の中でつぶやいた。夏の優しい風が彼女の銀色の髪を静かになびかせた。今頃はたぶん、セテはもう下宿先を後にしているだろう。
サーシェスは銀色の傷跡をそっと右手でなぞった。その不思議な傷が、きらきらと輝いて見えた。
セテは下宿先から引き上げてきた少ない荷物を鞄に詰め込み、ロクランを後にするのを待つばかりであった。サーシェスからもらった救世主の護符を服の中でしっかりとかけ、その冷たい感触を味わうかのように胸に手を当てた。
それから空っぽになった下宿先を見回した後、ほっとしたようなため息をついてドアを閉め、下宿先のアパートを後にした。
馬車が階下で待っていたので、御者に即座に荷物を預け、そして馬車に乗り込んだ。彼が乗り込んだのを確認すると御者は馬に軽く鞭をあて、ゆっくりと馬車が滑り出した。
小高い丘の上に立つラインハット寺院。きっとサーシェスは水の巫女になることをフライスに告げ、今日からもう修練を始めているかもしれない。
サーシェス。初めて好きになった不思議なグリーンの瞳を持つ少女。気が強くていつも気を張っていて。考え方がまるで自分そっくりだった。
ふと右手のひらの銀色の傷跡を見つめ、セテは思わず顔がほころんだ。
そうだ。たぶん自分と同じ人間だったのかも知れない。鏡を見ているように、お互いを映し出す自分の半身。彼女こそ、本当の意味で自分の半身だったのかもしれないと思うと、やはり何となく悔しくなってくる。
でも、一年たってロクランで再会するそのときには……! 自分もきっと成長して、彼女もきっと一人前の術者になっていて。そしてお互いの足りない部分を補完する、真のパートナーとなるはず。
俺が彼女を必要とするとき、彼女が俺を必要とするとき、力になれるように。
馬車はロクランの城下町を抜け、長いアジェンタスへの道を走り始めようとしていた。
アジェンタス騎士団。こんな形で自分の故郷に帰るのは本当に不本意だし、どんな新生活が待っているのか不安だけど。でも、これからは自分の生き方をしっかり考えよう。
ふたりの勝ち気な主人公が、お互いの新しい道を行く、最初の一歩であった。