Home > 小説『神々の黄昏』 > 第一章:黒き悪夢の呪縛 > 第二話:決心
このあたりの春は長い雨期で終わる。この雨期が終われば優しい初夏が訪れ、再びロクラン王国城下町の市場にも活気が戻ってくる。その長い雨期がようやく終わりを告げ、ロクラン地方に久しぶりの青空が広がっていた。
この日のラインハット寺院はいつになくそわそわしていた。修行僧たちが廊下にごったがえし、閉じられた扉の向こうの様子を探ろうと背伸びをしたり、壁に耳を当てたりと大騒ぎしている。
「押すなよ! ばかっ」
「俺じゃないよ、こいつだよ!」
「しーっ! 静かにっ! 聞こえないじゃないかっ」
「……何をやってる」
背後から聞こえる冷たい声に修行僧たちは凍りつく。おそるおそる声のした方向に一斉に振り返ると、腕組みをしたフライスが仏頂面で立っていた。
「げっ! フライス様っ」
修行僧たちはバツが悪そうに頭をかきながら、さっきまで張りついていた扉から急いで体を引き剥がした。
「……まったく、お前たち何やってるんだ。午前中の修練は済んでないだろう」
フライスは修行僧たちの顔をひとつひとつ睨み付けながら扉に目をやった。すると、扉が開いて中から大僧正が姿を現した。
「それじゃサーシェス、昼食時間になったら誰かを呼びに来させるから、それまでゆっくり休みなさい」
大僧正は部屋の中に向かってそう言うと、後ろ手でドアを閉め、廊下に一列に並んでいる若い修行僧の面々に気づいてギョッとする。
「なんじゃ、お前たちはっ! 修練は済んだのか!」
大僧正の叱責にもめげず、修行僧たちはニヤニヤしながら大僧正を取り囲む。
「ずるいっすよ、大僧正様。俺たちにも紹介してくださいよ」
「どんな子なんですか、あの子」
「もうあの子の体の具合はいいんすかね?」
どうやら彼らの目的はサーシェスをひと目見ることだったらしい。彼女がラインハット寺院に引き取られてから三日ほど経っていたが、めざとい修行僧たちは若い女の子がきたという噂をさっそく聞きつけ、なんとか彼女を見ようとその機会をうかがっていたのであった。
「あーーーっうるさいっ!!! ったく、これだから男やもめは!」
大僧正は子どものように手足をばたつかせて、しつこくまとわりつく修行僧たちを追い払おうとした。それからコホンとわざとらしく小さく咳払いをして、修行僧の面々を見渡す。
「……まぁ、お前たちに隠していたわけではないのだが、な。癒しの術法で体のけがはもうほとんどよくなっておる。そのうち部屋から出てお前たちと一緒に修練や勉学に励むことができるじゃろうて。しばらくしんぼうせい」
それから大僧正は意地悪そうにニヤリと笑い、
「……それに彼女はたいそうな別嬪じゃぞ」
その一言で修行僧たちはどっと沸く。これまで食堂のおばちゃん以外、ほとんど女っ気のない寺院で暮らしてきた若者ばかりだから無理もない。そんな彼らの様子を見て、フライスはあきれたようにため息をつく。
「……大僧正様! またそんなことをおっしゃって……。お前たちも早く修練に戻りなさい。お前たちに課してあった課題は今日の昼までに提出のはずだが?」
「まぁまぁ、フライス様だって興味おありでしょ〜〜?」
「あ〜〜あ、フライス様ってばホント、お堅いっすね〜〜」
「そうそう。我が文書館長フライス殿の堅さときたら、そりゃもう……」
そう言ってからかう修行僧たちに、フライスのげんこつが炸裂。若い修行僧たちは半泣き状態で修練に戻るハメになった。
それから、大僧正はフライスがいることに今初めて気づいたかのようにフライスを見やった。
「おや、フライス。そういうお前こそこんなところで何をしておるのだ?」
「私は文書館長として文書館へ行こうとしていたところです」
「おお、そうだ、この先に文書館があったのだったな、わしはてっきり……」
フライスがギロリと睨むと、大僧正は愉快そうに忍び笑いをする。フライスは不機嫌そうに、
「まったく……。ただでさえ女っ気のないこの寺院にあんな女の子を引き取るなんて、分かってらっしゃるんですか、大僧正様? 何か間違いがあったりしたらどうするつもりです」
「そうならないようにお前が彼女を守ってやればいいであろうが」
「はぁ!?」
「冗談じゃよ、冗談。まぁ、これで若い修行僧たちも気合いが入るだろうて」
「……逆効果のような気もするのですがね……」
「まったくお前もホントに固い男じゃな、フライス。若いかわいい女がおれば、男なら誰でもかっこいいところを見せてやろうと思うじゃろうが」
「興味ありませんね」
フライスはプイッとそっぽを向き、サーシェスの部屋の前を通り過ぎて文書館へと歩き始めた。その後ろ姿に大僧正はため息をつく。
「……お前に女の話をするのが間違いじゃったな。ああ、そうだ、フライス。文書館の整理が一段落したらサーシェスに顔を見せてやってくれんか。たまには若い男の顔のほうが彼女も喜ぶだろうて」
「丁重にお断りさせていただきます」
「……やれやれ」
振り向きもせず返事をするフライスに、大僧正はいつものことだと思いつつも肩をすくめた。
ラインハット寺院の文書館には、膨大な量の書物が収められていた。汎大陸戦争で母星の書物はほとんど失われてしまったが、それでもフレイムタイラントの炎からかろうじてまぬがれた、古い貴重な書物もここに存在する。中には汎大陸戦争以前の旧世界で使われていたという、不思議なケースに収められた円盤状のものも含まれるのだが、旧世界の文明が滅んだ後ではその解読の方法を知る者はいない。もちろん、汎大陸戦争後、神世代になってから書き記された書物も、この文書館に集まってくる。
フライスはこの文書館の管理を任される文書館長の任に就いている。この膨大な書物の管理や修復が彼の主な仕事であった。古い書物は傷みが激しいので、それを修復しつつ、棚に納める。字がかすれて読めなくなってしまったようなものは、可能な限り解読してそれを新しい紙に書き写していく。またこのほかにも、年長ということもあって、さきほどのような若い血気盛んな修行僧たちの面倒を見るのも、彼の仕事のひとつであった。
フライスは文書館にいるのが好きであった。膨大な書物に囲まれていると、心が落ち着くからである。文書館の棚は年代やカテゴリーごとによく整理され、書棚の奥に進んでいくにつれて、知識はどんどん深くなっていく。こうした書物を次々に読みあさりながら、一日を過ごしてしまうこともしばしばであった。
これらの書物には、失われた古代人類「イーシュ・ラミナ」の知恵が宿っている。この世界で「術法」として使われている不思議な魔力は、もともとはイーシュ・ラミナの輝くべき遺産であった。イーシュ・ラミナの民は先天的に強大な魔力を持っており、それを魔力を持たない人間にも使えるよう「術法」という形で伝えたのが、イーシュ・ラミナと人間の混血児である旧世界人だ。彼らの世界が汎大陸戦争で失われてもなお「術法」は人々の間に伝えられ、今日に至る。しかし、今日伝えられる術法はオリジナルの魔力に及ばず、ラインハット寺院での修練も限定されている。フライスはそのことに強い不満を持っていた。
古い書物の中には、現在伝わるものよりももっと強力な術法が解説された「術法書」がある。多くは失われた言葉で書かれていたり、傷みや欠落が激しくてなかなか読み進むことも困難であるのだが、これらをひとつひとつ解読し、自分の修練の糧として吸収していくのがフライスにはとても楽しかった。もちろん、文書館の書物を閲覧するのがフライスだけに与えられた特権ではない。しかし、若い連中は文書館に来て術法書を読むどころか、勉学にすら励まなくなってきているのが、文書館長フライスの悩みであった。
高い天井までびっしりつまった書棚にはしごをかけ、書物を整理しながら気になる本を見つけてはぱらぱらとめくってみる。興味のないものは即座に書棚に返すのだが、ふと手に取った書物に心惹かれ、フライスはすでに心ここにあらずといった状態で、はしごの中段に軽く腰掛けた。
ひとしきり読んだあとフライスははしごから腰を上げて、その書物のページを開いたまま近くの机にそっとおいた。一瞬ためらったのもつかの間、深呼吸をし、両手で水の法印を組みながら呪文の詠唱を始めた。
「……古き御霊よ、我、永劫の眠りより解き放たん。忘却の川を越え、幾千もの夜を越え、白日の光を求めて、来たれ、我が元へ!!」
詠唱が終わるとともに両手を解き放つと、フライスの体を白い光の輪が覆い、その輪は次第に広がって床の上に幾重もの層に重なると、神聖文字の刻まれた魔法陣となった。きらきらと淡い水色に輝き、薄暗い文書館がぼうっと照らし出されていた。魔法陣の外側に白い霞のようなものが現れると、それは徐々に人の姿になるべく寄り集まっていく。と、そのとき、パキッと何かがはじけるような音がして、魔法陣も霞もすべて消え失せ、やがて再び文書館のなかに静寂が訪れた。
「……だめか……」
フライスは予想していたかのように苦笑し、ひとりごちた。が、背後の気配に気づいてするどい視線を投げかける。
「あ……っ」
書棚の陰には銀髪の少女が立っていた。彼女はフライスの冷たい視線に驚いて声にならない声をあげた。
「……君か……」
ほっとため息をついて、フライスは机の上に広げていた術法書を静かに閉じた。
「あ、ご、ごめんなさい、盗み見するつもりじゃ……」
「こんなところへ何か?」
あいかわらずフライスの口調はぶっきらぼうだ。そんな彼の態度に、サーシェスは少し怖がっているようだった。
「ごめんなさい、もうお昼の時間で……大僧正様があなたを呼んでくるようにおっしゃったので……」
……まったく、大僧正様は余計なことばかりなさる……。なかば呆れたようにフライスは軽くため息をつく。
「分かったよ。大僧正様のご命令じゃ君も断れなかっただろう。食堂に行こう」
さくさくと本を片づけ、文書館を出ていこうとするフライスに、サーシェスはとまどいながら声をかけた。
「あの……」
「なに?」
「きらきら光ってとてもきれい……さっきの……」
「ああ……」フライスはさっき失敗した術法のことを思い出す。
「……召霊術、ネクロマンシーだよ。死んだ人の魂を召還する術法だ。かねてからそういった術の話は聞いていたが、禁呪とされているものも多くてなかなか試す機会がなくてね。今のも未完成のまま本に記述されていただけだ。召霊術ってのはつまり、水の精霊と言霊の力を借りて異世への門《ゲート》を開き、死人の魂を現世に呼び起こして……」
術のこととなると人が変わったように熱心に語り始めるフライスを、サーシェスはびっくりしたように見つめていた。ひとしきり話した後、フライスも我に返ったように咳払いをしてサーシェスをちらりと見やる。
「……君にこんな話をしてもしかたないな」
サーシェスは思い切り首を左右に振って、大きな目をきらきらさせてフライスの顔を覗き込む。
「それって、どんな人でも呼べるの? 死んでしまった人なら? つまり、私が会ったことのある人なら誰でも?」
サーシェスの勢いに少々圧倒されつつあるフライスだが、平静を装って静かに首を振る。
「……誰でも……ってわけにはいかないだろうな。少なくともその人の過去の記憶の中にある人の残像をたどってそれを触媒に行う術だから……」
サーシェスは落胆したようにため息をつき、目を伏せる。一瞬、フライスは彼女の記憶喪失について言及してしまったことについて後悔したが後の祭りであった。
「……そうよね……。『あの人にもう一度会いたい』っていう思いがなければ、死んだ人も来てくれないものね……」
フライスはしばし返答に困り、サーシェスを見つめた。うつむいた瞳が少し潤んでいるようにも見えた。それから、出し抜けにサーシェスは顔を上げ、フライスに満面の笑みを返した。
「湿っぽくなってごめんなさい。気にしないでね。ちょっと寂しくなっただけ。だって……お父さんやお母さん、もしかしたら兄弟姉妹もいたかもしれないけど……私は誰のことも思い出せないし。世界中のどこかに私を知っている人がいたとしても、私にはその人のことを思い出すことも、思いを馳せることもできないんだもの」
少し寂しげに微笑むと、彼女はフライスにくるりと背を向けて文書館を出ていこうとした。その後ろ姿に、フライスは遠い記憶の彼方にある幼い自分の姿を見たような気がして、ためらいがちに声をかけた。
「……私にも父も母も、肉親すらいない。君と一緒だ」
フライスの言葉にサーシェスは足を止める。おずおずと振り返ると、これまで仏頂面しか見たことのなかった文書館長が、うって変わったようなおだやかな表情で自分を見つめているのに気づいた。
「確かに、自分はひとりぼっちだと不安に思うかもしれない。どうやって生きてきたのか、自分はどんな人間だったのか知りたいと思うかもしれない。でも、よく考えてごらん。世の中には、あのときこうだったらとか、あの時こうしていなければなんて、人生クヨクヨ悩み続ける人間が多いのに、君は幸いにもこれから人生を始めていくことができるんだ。少なくとも、これから経験することは君にとっては最初の人生になるはずだろう? 今までどう生きてきたかということよりも、これからどうやって生きていくかということの方が大切なんじゃないのかな」
これまでかたくなな表情しか見せたことのないフライスが、しかも女嫌いで有名な(少なくともサーシェスは大僧正にそう聞かされていた)文書館長が自分にそんなことを言うなんて、サーシェスには信じられなかった。彼の言葉には、きっと彼自身が経験してきたさまざまな事柄や想いが込められているはず。つまり、上辺だけじゃない本物の言葉が、サーシェスにとっていちばん重要なことを示してくれるヒントが、こんなにも簡単に得られてしまったことにサーシェスは驚きを隠せなかった。
フライスも、自分でもどうしてこんな言葉が簡単に出てくるのか不思議に思いながら、サーシェスの顔を見つめていた。透き通るグリーンの瞳が、まっすぐ自分を見つめているのを感じていた。
「……ありがとう……。こんなに簡単にヒントをくれるなんて思ってもみなかった……」
サーシェスはまっすぐフライスの顔を見つめている。こんな風にじっくりと自分の顔を見られるのは何年ぶりだろうとフライスは思った。
「……いやなことを聞くかもしれないけれど……本当にあなたの……その……あなたの目は見えないの? あ、ごめんなさい。だって……大僧正様や他のみんなに聞かなかったら、とても目が不自由だなんて思えないから……」
確かにそうだろう。だが、これまで面と向かって自分にそんなことを聞く人間はいなかったので、フライスはいささか面食らってもいた。
「……私の目には本来の『見る』という力はないが……。それでも私はあらゆるものを普通に見ることができるし、それ以上に人間の本質を見極めることだってできる」
「あ、違うの、そういう意味じゃなくて……」
サーシェスはフライスが気を悪くしたのだと思い、あわてて付け加えた。
「だって、とてもきれいな目をしているんだもの。澄んだ北の海みたいなきれいなグレーで」
そうサーシェスに言われて、フライスは感触を確かめるように自分の瞼に軽く触れた。いつもはだいたい感応力をセーブするために閉じている瞼が、この少女と会話するときにはまるで彼女の顔を本当に覗き込むようにしっかりと開かれていることに、自分でも驚いていた。
自分の目のことをこんな風に表現する人間がいたとは驚きだった。彼にとっては、見る力のないこの目は忌まわしい以外の何ものでもなかったから。
「ご、ごめんなさい、私、余計なこと言っちゃったみたい」
サーシェスはあわててそう言うと、いきなりフライスの手をつかんで走り出した。
「さあ、早く早く! みんな食堂で待ってますよ! 私が怒られちゃう!!」
サーシェスはフライスの手をつかみながら、ずんずん食堂に向かって歩き出し始めた。フライスはその豪快さにあっけにとられながら、ひとり苦笑いする。
(そういえば……最初に逢ったときもこんな風に私の顔を見つめていたな、この娘は……。まっすぐ、怯えることなく……そのグリーンの瞳で……)
食堂に着くと、案の定非難囂々であった。女に興味はないと豪語している(寺院ではそういうことになっている)文書館長フライス様が、噂の美少女を伴って現れたのだから。大僧正のしてやったりという表情が目に浮かぶようだ。サーシェスが入ってくるのを、中等部・高等部の少年たちはもちろん、大僧正ら長老席にいる者たちまでもが見とれていた。
フライスは小うるさい中・高等部の少年たちを一睨みで黙らせ、サーシェスを席に着かせると、何事もなかったかのように大僧正たちのいる長老テーブルに着いた。
食事が始まると、案の定サーシェスは高等部の男の子たちの質問責めにあっていた。名前は? 好きな食べ物は? 好きな男性のタイプは? などなど……。
フライスはため息をついて大僧正を見やったが、本人はさもうれしそうにその様子を眺めているだけだ。
「何か言いたげじゃな、フライス?」
「……もういいです。あなたのおかげで私はすっかり悪者だ」
「ほほほっ。悪い気はしなかろうて。見てみい。すっかり寺院の人気者じゃ。あれだけの器量ならどこに行っても引く手あまたじゃろうなぁ」
意地悪そうにちらりと横目で見る大僧正であったが、フライスは聞かなかったフリをして黙々と食事を続けた。
「そうじゃ、明日からお前が彼女の教育係じゃからな、今日のうちにカリキュラムを組んでおくことじゃな」
「はぁ!? 誰がそんなこと決めたんです!」
「わしじゃ」
フライスは頭痛を抑えつつため息をつく。大僧正はまたまたうれしそうにまくしたてる。
「同年代の女の子たちがいなくて不憫ではあるが……。だからといって学校にやるのもいいが、下手に街に出してヘンな虫につかれでもしたら困るからのぉ。その点、文書館長フライスの教育なら安心して任せられるというものじゃよ」
いい加減フライスは反論する気力もなくなっていた。どうしてこの人はこうも勝手にいろいろなことを決められるのだろう。
「それから、あの娘には幼少部の子どもたちの面倒を見てもらうことにした。パートタイマーのおばさん連中を雇うよりはいいじゃろう。子どもたちの世話をしていれば、記憶のことでクヨクヨ悩むこともできないじゃろうて」
なるほど、大僧正様もそれなりにあの娘に気を使っているのだな。それにしても過保護すぎやしないか? まるで自分の娘みたいに……。フライスは心の中でそうつぶやいた。
「ところで大僧正様、あの娘の肉親らしき者はまだ見つからないのですか? 捜索願が出ているとか、けがの原因とか」
「いや、ロクラン国内ではここ最近火災も事故も起きていない。最近の大きな事故ではレザレアの消滅事件くらいじゃが、レザレアから歩いてロクランにたどり着くなんてことは考えられまい。捜索願が出されている気配もまったくない。彼女の記憶が戻らないほかはなんともいたし難いのぉ」
ということは、本当に彼女は降って沸いたとしかいいようがない状態なのか……。
「開封の儀でも執り行ってみたらどうです」
軽口のつもりでフライスがそういうと、大僧正は表情を固くしてフライスの顔を見つめた。
「……お前ならやったか? フライス?」
大僧正の言葉で、フライスは今の軽口がすぎたことに気がついた。
「過去の記憶……開封の儀で無理矢理こじ開けることは簡単だ。だが、自分の過去を誰かに暴かれるというのは、気持ちのいいものではあるまい。フライス、お前ならそれを強行できたか?」
ふと、再びフライスの脳裏に自分の幼い少年時代の映像が浮かび上がる。泣いて母の死体の横に座り込む自分の姿……。
「……失言でした。申し訳ありません……」
「分かってくれればよい」
大僧正はそう言うと、楽しそうに談笑するサーシェスを見ながら食事を続けた。
「あの娘は、ああ見えても夜中ひとりになると泣いておるのじゃよ。世界中で自分はたったひとりぼっちだとでもいわんばかりにな。朝起きると目が腫れておるからすぐ分かる。人間がどう生きてきたかということも大切じゃが、わしにはあの娘にはこれからどう生きていくかの方が大切だということを分かって欲しいのじゃ。もちろん、これから先、あの娘がどうしてもと言った場合には開封の儀で記憶をほじくるしかないわけだが」
「これからのことについては、私からも伝えてありますよ。ご心配なく」
フライスの言葉に、大僧正はおどけたように目を丸くしたかと思うと、またまた大げさに驚くフリをする。
「ほぉ、お前から女の子に話をすることもあるのか。めずらしいこともあるもんじゃのぉ!」
また始まったとばかりにフライスは無視を決め込む決意をする。そんなフライスの様子を見ながら大僧正はくすくす笑っていたが、
「フライスよ、わしはあの娘を水の巫女にしようと思っておるのじゃ」
「水の巫女……ですか?」
「もちろん、あの娘に異存がなければの話じゃがな。剣士になりたいとでも言わん限り、願ってもない話だと思うのじゃが」
食堂の窓から鳩が群れて飛び立っていくのが見えた。大僧正は景気よくフライスの肩をたたいて大笑いしている。
「そのために、サーシェスをしっかり教育してもらわねばならんぞ。文書館長フライス」
いつものように時間どおりサーシェスの部屋を訊ねたフライスは、ノックしても返事がないことに気づく。そっとドアを開けてみるとやっぱりもぬけの殻で、サーシェスの姿はどこにも見あたらない。
フライスはまたかといわんばかりに軽くため息をつき、通りかかった寺院の下男に尋ねて、サーシェスが子どもたちを連れ、寺院裏にある野原まで散歩に出かけたことを知ったのであった。幼少部の悪ガキたちもサーシェスによくなついていて、「おねえちゃんおねえちゃん」と引っ張りだこで、午前中の学習時間に遅れることもしばしばだった。
「……まったくすごい人気だな、あの娘も」
しばらく部屋で待っていたが、あまりにも彼女の帰りが遅い。もうじき昼食の時間だというのに、何をやっているのだろう? まさかサボり? そういえば、最近課題だの予習だのと彼女にみっちり詰め込みすぎて、いい加減サーシェスもうんざりしたような顔をしていたしな……。
そんなことをぼんやり考えていると、下男があわただしく廊下を駆けていくのが聞こえた。
「大僧正様!!」
何事だろうか。フライスは気のなさそうにその足音を聞いていたが、下男の次の言葉で我に返る。
「大僧正様、たいへんでございます! サーシェスが……!!」
立ち上がった拍子にイスがガタンと大きな音を立てて倒れた。廊下に飛び出し、駆けていく下男を呼び止める。
「あ、フライス様! 大僧正様はいずこに?」
息せき切ってしゃべる下男にフライスが詰め寄ると、奥の書斎から大僧正が姿を現した。
「何事じゃ、騒々しい!」
大僧正は下男を叱りつけようとしたが、そのあわてぶりが尋常でないことに気づいた。
「た、たいへんでございます! サーシェスが……!」
フライスと大僧正は蒼白になったお互いの顔を見合わせ、次の言葉を待つ。
「こともあろうに喧嘩騒ぎを起こしまして!!」
救護室では、医療班の修行僧に手当をしてもらっているサーシェスと、幼少部の少年の姿があった。大僧正とフライスが入ってきたのを見て、ふたりとも「しまった」というような顔をする。なるほど、サーシェスの服の裾はぼろぼろ、あちこちひっかき傷やら擦り傷やらで、せっかくの花のかんばせも台無しだ。
「何があったのか、正直に大僧正様にお話ししなさい!」
手当をしていた修行僧がきつい口調でサーシェスを促す。サーシェスはばつが悪そうに上目遣いで大僧正とフライスを見やったが、口を開こうとしない。
「サーシェスは悪くないよ! 悪いのはあいつらだ!」
サーシェスの傍らから、幼少部のマールと呼ばれる少年が飛び出してきた。この少年もあちこち傷だらけで、顔に派手な痣を作っていた。
「ふむ、詳しく聞かせなさい、マール」
大僧正はかがみ込んで少年の目を覗き込み、優しく問いかけた。少年はちらりとサーシェスの顔を伺ってから、生意気にも大人っぽいため息をついて話を始めた。
少年の話によると、寺院裏の野原まで散歩に出かけたサーシェスと幼少部の少年たち一行は、鬼ごっこをしながら駆け回ったりして遊んでいたそうだ。ところが。
突然、少年たちの足下に鋭い矢が突き刺さり、鬼ごっこは中断された。振り返ると、野原の向こう側で数人の人影がこちらを見ていた。
「あっわっるーい! 手元が狂っちゃってさー」
立派な服装の男女数人が、こちらを見ながらへらへら笑っていた。そのうちのひとりは手にボウガンを持っていた。一目で、ハイファミリーと呼ばれる貴族出身の若者たちと見てとれた。
サーシェスは幼少部の少年たちに駆け寄り、けががないのを確かめると、地面に突き刺さったボウガンの矢を引き抜き、ハイファミリーの若者たちを睨み付けた。
「危ないじゃないの、こんなところでボウガンを使うなんて!」
「手元が狂っちゃってさ、なにもこの子たちを狙ったわけじゃないよ」
若者はへらへらと笑いながら仲間の顔を見渡す。仲間も仲間で、謝るどころか同じようにへらへら笑っていた。酒臭い。どうやらピクニックがてらここに遊びに来ているのだろう。
「謝りなさい。狙っていようがいまいが、この子たちに当たっていたらどうなったと思っているの!?」
サーシェスはかみつくような視線で若者を睨み付ける。ハイファミリーの少女がボウガンを手にした若者に、聞こえよがしに耳打ちする。
「なあに? この子、口の聞き方も知らないようね。生意気〜」
サーシェスはカッとなってハイファミリーの少女を睨み付けた。くすくす笑う少女を制して、若者はサーシェスに近寄ると、すっとサーシェスの顎に手を添える。
「へえ〜、かわいいね、君。僕とつき合わない? 僕はワルトハイム家の者だけど、少しはいい目見られると思うよ。少なくともこんなガキどもよりは楽しませてあげられると思うんだけどな〜」
「結構です。あなたがどこの何様であろうと、常識知らずな人とはお近づきになりたくありませんから」
サーシェスはその手を振り払い、子どもたちに目で向こうに行くように合図をした。
若者たちは大爆笑する。若者のひとりが愉快そうに腹を抱えながら、
「かわいい顔して言うこと言うねえ〜君。さすがのファリオンでも堕ちない女がいるとは思わなかったよ」
ファリオンと呼ばれた若者は舌打ちすると、持っていたボウガンを後ろにいる若者に手渡し、サーシェスの下顎を乱暴につかんでこちらを向かせる。
「ふ……ん、確かに生意気だよな。ますます気に入ったよ」
酒臭い息が顔にかかり、サーシェスは眉をひそめて顔を背けた。が、それもままならず、若者の顔が近づいてくる。
「……や……っ!」
両腕で若者を押し戻そうとサーシェスはもがいたが、若者はびくともしない。と、そのとき、
「この野郎! サーシェスから離れろ!!」
横から飛び出してきたマールの体当たりで、ファリオンは勢いよく後ろに倒れ込んだ。マールは自慢げに鼻をこすり、どんなもんだと言わんばかりに胸を張ってみせた。
「こ……のガキ……!」
ファリオンの繰り出した拳が見事にマールの横っ面に当たり、マールは2メートルほど後ろの草の上に倒れ込んだ。サーシェスは急いでマールに駆け寄り、少年を抱え起こす。口を切ったらしく、少年の口元から赤い糸が流れていた。サーシェスはハイファミリーの若者を振り返り、憎悪でいっぱいのまなざしを向ける。
「ふん、孤児のくせに生意気なんだよ。所詮親の顔も知らないで育ったような子どもは粗野な言動しかできないってこ……」
ファリオンの言葉を遮ったのは、怒りに拳をふるわせて立っているサーシェスの平手打ちだった。
「もう一度言ってごらん! ただじゃおかないから!」
「こっ……このアマぁ〜〜!!!」
そんなこんなでサーシェスとマールは、甘やかされて育ったハイファミリーのお坊ちゃんお嬢ちゃん相手に、大立ち回りを披露したのであった。騒ぎに気づいた寺院の下男が駆けつけ、事態はやっと収拾がついたというわけだ。
「ね? 大僧正様。サーシェスちっとも悪くないでしょ?」
マールは大僧正の顔を覗き込むが、大僧正はうつむいたまま小刻みに震えている。もしやお怒りなのでは……と、マールもサーシェスも息をのんで次の言葉を待つ。が、次の瞬間、大僧正の口から高笑いが漏れ、一同は呆気にとられる。
「でかしたぞ! サーシェス!! ハイファミリーのぼんくらども相手に立ち回りとはたいした度胸じゃ!!」
てっきり怒られると思って覚悟を決めていたサーシェスは、大僧正の反応にとまどいを隠せない。これがフライスだったら、今頃こってりと絞られていただろう。そう思ってちらりとフライスを盗み見ると、フライスは相も変わらず仏頂面でサーシェスを見つめている。
(やば……午前中の学習時間に間に合わなかったこと、怒ってるんだわ……)
サーシェスはバツ悪そうにフライスから目をそらす。フライスはため息をつきながら、
「ワルトハイムといえばロクラン王家にゆかりのある家系ですよ。もめ事が起きたらどうするつもりです」
「あのぼんくらどもにそんな勇気があるものか。ファリオン・ワルトハイムやその取り巻きたちの噂は誰もが知っておる。いまさら肩を持つ者もあるまい。わしも若ければぎゃふんと言わせてやるところだったものを」
「かといって、暴力沙汰が勇気ある行動とはいえないと思いますがね」
「もちろんそうじゃ。だが、サーシェスの貞操の危機を救ったのはマールの勇気ある行動だけじゃったろうが。お前ならどうする」
また大僧正様は論点をすり替えて……。フライスは再び深いため息をつく。マールは得意げにフライスの顔を見つめている。まるでこの武勇を誉めてくれと言わんばかりに。
「じゃがまぁ、なんにせよ、この程度の怪我ですんでよかった。わしはてっきりまた……」
大僧正がそう言いかけるのを聞いて、サーシェスは自分がどれだけ心配をかけていたのかに気づいた。
「すみません……軽はずみな行動でした……本当に心配かけてごめんなさい……」
うつむいて自己嫌悪に陥るサーシェスの頭を軽くなでただけで、大僧正は何も言わすに医務室を出ていった。医務班の修行僧はあとの手当をフライスに任せ、マールを引っ張って部屋の外に出た。部屋の外では医療班の修行僧がマールにお小言を言っている声と、大僧正に直訴している下男の声が響きわたっていた。
「この悪ガキが! 今度誰かと喧嘩騒ぎを起こしたら昼食抜きだぞ!」
「わーん、なにするんだよう! おいらが悪くないって言ってるじゃん!!」
「大僧正様! もっときつく言ってやってくださいまし! 髪も服もぼろぼろにしてきて! あの生地高いんですよ! 私がどやされるんですから!!」
そのやりとりを聞いていたフライスは、思いがけず吹き出し、しばし声を殺して笑い続けた。あんまりフライスが笑うので、サーシェスはムッとしながらフライスを睨み付ける。
「……何がおかしいの?」
「いやなに……」
……まさかこんなに気の強い娘だとは思わなかった……
「それが本当の君なんだね」
フライスは笑いをこらえてサーシェスを見やる。確かに、服も髪もぼろぼろで見れたものではない。一応手当はしてあるものの、かすり傷がいつまでも残っているのは、年頃の女の子には似合わないだろう。フライスはサーシェスの顔の前に手をかざし、癒しの呪文を唱えた。
「慈悲深き癒しの神よ。血となり肉となり骨となりて、心正しき者の力となり給え」
軟らかなグリーンの光が掌からにじみ出し、サーシェスの体を包み込む。ふっと体が軽くなったような気がして、かすり傷が跡形もなく消えていくのをサーシェスは感じた。
「……あ、ありが……とう……」
おずおずと礼を言うサーシェス。フライスにはこれくらい造作もないことだとは分かってはいても。
「とにかく、どんな理由があるにしろ、軽はずみな行動は慎むこと。まして女の子なんだから何かあったら……」
「そんなの差別だわ!」と、フライスが言い終わらないうちにサーシェスが強い口調で反論する。
「男だからとか女だからとか、そんなの差別でしかないと思うわ。私はそういうのだいっ嫌い!」
プイと横を向くサーシェスに、フライスはまたまた大笑いする。
「確かに、水の巫女というよりは剣士にでもなれそうな勢いだ」
「剣士……?」
からかいのつもりだった言葉に、サーシェスが反応したのを見てフライスはおや? と思う。
「大僧正様がね、いずれは君を水の巫女にしようとお考えなのだよ。もちろん、君に異存がなければの話だが……」
「水の巫女……って?」
「詳しくは大僧正様から聞くといいが……。ここロクランの象徴は水だ。水の精霊の力を借りて失われた神々の知恵を授かり、人々を導いていく……神々に祈り、その英知を人々に伝えるのが巫女の役割なんだよ」
「ふーーん、確かにタイクツそうな仕事ね……」
サーシェスは不謹慎な一言を漏らす。
「どちらかというと向いていないような気がするなぁ。体を動かしている方が好きだもの。剣士っていうのも結構憧れちゃう」
サーシェスはいたずらっぽく笑いかけたが、ふと我に返って口に手をやる。
「やだ、私ったら、なんであなたにこんなこと話してるんだろ」
照れたように笑うサーシェス。笑っているかと思うと、急に真顔になってじっとフライスを見つめている。医務室の窓から入ってくる風に彼女の銀髪がなびいて、光の加減で七色に光って見える。どきっとさせられるほど美しい。フライスでなければとても平静を保っていられないほどに。
「……私……昔からずっとあなたをよく知っているような気がする…………あなたによく似た人を、かもしれない。それが誰かは思い出せないけど……でも、とても大切だった人だということは覚えているの。だから……あなたにはいろいろ話せるような気がする……のかな……?」
不思議なことを言う……。自分は彼女にあったのはほんのつい最近だ。ということは、彼女は自分に誰の影を見ているのか……。
「ねえ、フライス」
「え?」
そんな考え事をしているときに、サーシェスが自分の名前を呼んだのでフライスは少々驚かされた。
「私に剣術を教えてくれない?」
サーシェスの次の言葉にはもっと驚かされた。よりによって本当に剣士になるつもりでいるのか。
「剣士になって誰よりも強くなれば……誰にもバカにされるようなことはなくなるかもしれないじゃない。私は……強くなりたいの! 誰よりも強い剣士に!」
サーシェスの瞳は強い決意の炎が燃えているようだった。いつもまっすぐに人を見つめ、その視線をはずすことを許さない深いグリーンの瞳。
強くなりたい……そういえば、自分も昔は心からそう思っていたときがあった。誰よりも強い力が欲しい……と。
「……私には剣術の心得はないが……大僧正様にお話ししてみよう」