Home > 小説『神々の黄昏』 > 第一章:黒き悪夢の呪縛 > 第一話:銀髪の少女
私は夢を見る……死に至らぬまどろみの淵で
目の前を通りすぎていく、無数の光……ひかり……
触れれば消えてしまいそうなシャボン玉のように流れてゆくのは
ほんの刹那の時間なのか……
何度も何度も、走馬燈のように駆け巡る
……黒い……夢……
私を抱きかかえる、優しく大きな手。それにもうひとり、静かに微笑みかける優しい影……。
誰だろう……とても懐かしくて……それはとても悲しい……
一転して、渦を巻くどす黒い焔の中、向かい合うふたつの影。
すさまじい憎しみの眼差しで見つめる深紅の瞳。
……裏切り者め……!!
次の瞬間、怒り狂った焔の牙が私に襲いかかる!!!
夜の静寂《しじま》に、つんざくような悲鳴が響きわたった。暗闇に浮かび上がる大理石の柱。祭壇の傍らで、全身に傷を負った少女が身を横たえていた。肩で息をしながらうっすらと目を開けた少女は、周囲を見渡すことなく、再び昏倒する。ぼんやりと灯る松明の灯以外、あたリは何者の気配もなく、静まりかえっていた。
豊かな縁をたたえるロクラン王国。汎大陸戦争後の大混乱のなか、聖騎士レオンハルトと、大戦中から聖賢五大守護神《ファイブ・ガーディアンズ》を強力に後押ししていた初代国王デミル・ロクラン将軍が、平和と秩序の象徴として最初に作り上げた国家であった。ロクランは、汎大陸戦争で水没を免れた数少ない陸地のなかでも最も面積の広いエルメネス大陸で、最も「中央」に位置する、最も豊かな国であった。エルメネス大陸で〈中央諸世界連合〉を構成する国家の中でも、中心的な役割を果たすだけあって、経済は常にここを中心に動き、それ故に人々が集う。町には常に市場が建ち、商人たちの活気あふれる声と買い物客でごったがえしていた。
このあたりの大地を潤す大河が静かに流れ、それを見下ろす丘の上に王宮、そこから少し離れた森の中に、中央諸世界連合でも屈指の術者を生み出すことで知られるラインハット寺院がそびえ立っていた。
何千冊もの本が並ぶ書斎では、老人が書棚に梯子をかけ、背伸びをしながら上段の本に手をかけているところだった。ラインハット寺院の文書館が抱える膨大な蔵書の一部をそのまま移動したかのような量である。やっとのことで老人が手に取ったその本には、もう何年も開かれていないだろうほどの埃が数ミリたまっていた。梯子から降りてひと吹きすると、埃は容赦なく舞い上がり、老人はむせてせき込むハメになった。
「神々の黄昏か……」
老人はつぶやいた。
「もはや我らには縁なき伝承《サガ》と思うておったが……。アジェンタスのあれから十年、以来なにごともなかったはずなのに、なぜいまになって再び空が黄金に輝くのか」
そう言って、老人は古ぼけた本の一ページ目をめくった。真っ白なあごひげは長くたれさがり、瞼が隠れるほどの眉毛も白い、人の良さそうな老人であった。老人は考えごとをしたり調べものをしたりするときの常で、自分のあごひげを愛おしそうになでる。そのとき書斎のドアがノックされ、老人は顔を上げた。
「大僧正様」
「フライスか。お入り」
訪れた者に入ってくるように促すと、ラインハット寺院リムトダール大僧正は静かに本を開じた。ドアが開いて、長い黒髪の巻き毛を無造作に後ろで束ねた、端正な顔つきをした青年が書斎に入ってきた。青年の瞼は開じられていて目が不自由そうに見えるのだが、不思議なことに足元に危なっかしいところはない。
「昨夜の件でちょっと……」
「守護神廟に倒れていたという娘か」
「は……。昨晩礼拝中の婦人が見つけて大騒ぎになったのですが……しかし、いったいどうやってあの中に……」
あそこには協力な結界が張ってあり、一般人が中まで入り込めないよう禁呪が施されているのに。
大僧正は首をひねりながら部屋を出た。
「先ほど意織が戻ったようです。大僧正様に会っていただきたく……」フライスと呼ばれた黒髪の青年が続けた。
「何しろ名前以外、自分が何者なのか、どこから来たのか、どうしてあそこにいたのかも覚えていないらしいのです」
白い部屋の陽の当たる窓際のベッドの上に、その少女は半身を起こしていた。傍らには医飾が付き添っていたが、彼女はひどく怯えているようだった。部屋に入ってきた見知らぬ訪問者に怯える、まだあどけなさの残る少女。柔らかそうなその白銀の髪が、窓から差し込む晩春の光に照らされて七色に反射していた。
「そんなに心配しなくてもよい。ここはロクラン王国のラインハット寺院。わしはここの大僧正のリムトダールだ。きみは大怪我を負って倒れていたんだよ」
大僧正は少女に優しく話しかけた。
「よかったら君の名前を教えてくれないかね?」
警戒しているのか、少女は口をつぐんだままだ。後ろにいるフライスと顔を見合わせて、軽くため息をつく大僧正。
「まいったな。これでも若い頃は女殺しの異名をとっていたのだがなぁ」
大僧正がいたずらっぽく笑った。すると、かたくなな表情でうつむいていた少女がつられて吹きだし、くすくすと笑ってみせた。
「……サーシェス……です……」
少女は怖ず怖ずと名乗った。大僧正はベッドの横にしゃがみ、少女の瞳を覗き込みながらにっこり笑いかえした。
「サーシェス……か。いい名前だ」
少女は照れて頬を赤く染めた。それから、大僧正の傍らに立っている黒髪の青年に気づいて、彼の顔をじっと見つめた。
「……私の顔に何か?」
フライスは怪訝そうに、どちらかといえばやや不機嫌そうに少女に訊ねた。少女は一瞬びっくりしたように目をそらす。それを見た大僧正は、何かに気づいたように意地悪そうに笑いながらフライスと少女の顔を交互に眺める。
「ああ……。これはわしの一番弟子のフライスじゃよ。フライスには君の視線くらい、心の目でお見通しじゃからの。びっくりするのも無理はない」
余計なことを、とでも言いたかったのだろうが、フライスは軽くため息をつくにとどめた。
「……あなた……目が……? ごめんなさい。私……」
そう言ってうつむく少女に、フライスはぎこちなさげに微笑みかけた。この青年は微笑むという行為が苦手なのであろう。横では大僧正が大きく咳払いをしていた。
「安心してここで養生しなさい。傷が癒えれば君の記憶も徐々に戻ってくるじゃろう。まずはゆっくりと休むことじゃよ」
そう言って、大僧正たちは医師とともに部屋を出た。フライスもその後に続いてきびすを返そうとしたが、少女がまだ自分の顔を見つめていることに気づき、ふと足を止める。一秒ほど見つめ合ったが、フライスは興味なさそうに視線をはずすと、そのまま静かに部屋を出ていった。
「一応身体の傷は治療しておきましたが……。しかし記憶喪失とはね。癒しの技で傷は治せても、心の傷までは治せませんからねえ。それじゃ、私はこれで」
少女の容態を説明すると、担当の医師は一足先に帰って行った。残されたふたりは医師の背中を見送ると、ゆっくりと肩を並べて廊下を歩き始めた。
「あの娘……どう見る? フライス」
「記憶喪失……ですか……」フライスはちょっと考えたように顎に手を当てる。
「しかしあの傷は……明らかに火の術法のダメージですね。しかも、かなり強カな」
「ふむ……」
大僧正は裏っ白なひげを触りながら考える。
「それに……さっきあの少女の心を読もうとしましたが、白いもやがかかったようで……。心を閉ざしているのならそういうものが感じられるはずなのですが……。気になりますね」
「お前ほどの力の持ち主でも……か」
そう言って考えこんでいる大僧正であったが、何かを思い出したようにすぐに話題を切り替えた。
「そういえばあのサーシェスという少女、部屋を出て行くときもずっとお前の顔を見つめておったぞ。お前もやりおるのぉ」
意地悪そうにくすくす笑う大僧正に、フライスは突然いきり立つ。
「大僧正様!! 私は……!!」
「まあまあ、冗談じゃよ、冗談。お前の女嫌いは筋金入りじゃからのう」
そう言って、大僧正リムトダールは寺院の窓を見つめた。窓の外には、無数の鳩が群れて飛んでいくのが見えた。
「フライス。わしはあの娘を手元に置こうかと思うのだが……」
フライスは少し驚いたような顔をしたが、何も言わなかった。
「サーシェス……か……。不思講な少女だ……。あのグリーンの瞳は、我々の中の何もかもを見透かしているようじゃ」
ロクラン王国、アートハルク帝国、アジェンタス騎士団領のそれぞれの広大な領地がちょうど隣接する国境近く。黒い煙が立ちこめ、まだ焼け焦げた大地がぶすぶすと音を立てているそこには、クレーターのような大きな穴が口を開けていた。信じ難いことだが、ロクラン領内のここにはつい先ほどまでレザレアという工業的に発達した町が存在していたはずであった。しかし、その町並みはクレーターが無惨にも丸ごと飲み込んでしまっているようだった。
レザレアの周囲には誰も入れないよう厳重にロープが張られ、ロクランの国境を警備するロクラン騎士団の分隊が押しかける野次馬と格闘していた。
「ひどいものだな……」
警備隊長らしい騎士がクレーターを見ながらつぶやいた。
「これがあのレザレアの町だったとは思えん」
部下が警備隊長に駆け寄り、状況報告をする。
「残念ながら生存者はひとりもおりません。何人かは遺体として収容いたしましたが、ほとんどは蒸発したようで姿かたちも……」
「ふむ。工場の爆発や天災でもこんな有様にはならん。いったいここで何があったんだ」
警備隊長は厳しい表情でクレーターの中に歩み寄った。地面はまだ相当な熱を持っているようだ。騎士団に配給されるブーツの底から熱が伝わってくるので、作業をしている騎士たちは、たまに足の裏をひっくり返して確認しなければならないほどだった。
そこで隊長はふと何かに気づいてしゃがみ込み、地面の土に手を触れた。
「なんです?」
部下も一緒になって地面を覗き込んだ。見ると、土と混ざって何かきらきら光るものがある。
「ガラスだよ。想像を絶するほどの圧力と熱が加わると、土もこんな風に凝固してガラスに変化してしまう。だが……旧世界《ロイギル》の兵器でもあるまいし、これほどの破壊力を持つものなど……」
「隊長。わたくし、以前祖母から聞いたことがあるのですが……偉大なる一族《イーシュ・ラミナ》の直系の末裔には、まれにすさまじい能力を持った者がいて、その力は星をも砕いたといいます」
「伝説の古代人類か。だが、彼らの血は世代とともに薄まり、現存する術者のなかでも先天的に力を持っている者は少ない。能力もたかが知れている。聖賢五大守護神《ファイブ・ガーディアンズ》以外、いま〈中央諸世界連合〉内にそんなすごい力を持ったヤツがいるなぞ考えられんよ」
「それもそうですね」
部下が同意を示して頷いた。隊長は無惨なクレーターを見渡し、唇をかんだ。
「……くそ! どこのどいつがどうやって、何の目的でレザレアをこんなにしやがったんだ!」
この光景を、野次馬のなかで黙って見つめる男がいた。周りの人間より頭三個分はゆうに出ているくらいの大男で、長いマントの下には銀の甲冑、その背には巨大な剣を携えて。
ロクランの城下町に、剣士を目指す若者たちの登竜門的存在である王立中央騎士大学がある。剣士見習いの若者はみな、この中央騎士大学で騎士としての美徳と剣術を学び、それぞれの国に散らばって行くのであった。誰よりも強い剣士にあこがれ、おのおのの生まれ故郷で「守護剣士」としてその任務を果たすために。
騎士大学は今日、創立記念日であった。騎士大学の創立は古く、かの初代聖騎士レオンハルトの直系の弟子たちが、レオンハルトの意志を継いで優れた騎士を育てるべく、共同出資して建てたものであった。
ちょうど講堂では祝典が行われていた。多くの学生が集まるなか、学長らしい初老の紳士が長々とうんちくを述べている。そのとき後ろのほうで退屈そうに見ていたひとりの学生が、大あくびをして伸びをした。学長の名演説にまだ興奮覚めやらぬ周りの学生たちは、そんな彼をじろりと睨んだ。彼は、しまったというような顔をしてそそくさと講堂を抜け出す。
講堂を抜け出すと、青年は芝生の敷き詰められた中庭にまっすぐ向かった。さらさらの金髪が風に揺られて、前髪が額に被さるのを青年はうざったげに掻き上げる。せっかくの蒼い瞳は眠たげに曇っており、彼はそこで再び大あくびをする。
「……あ〜あ、つまんね〜。なんかおもしろいことないかなぁ……」
青年は学内の庭をぼんやりと見ながらつぶやいた。
「お〜い! セテ!!」
と、後ろから青年を追いかけて、彼の友人が息を切らせて駆け寄ってきた。その姿を見た青年は、困ったように笑ってみせると、
「よお、レト。お前もか」
「まあね、せっかくの創立記念日だけど、学長の話はいっつも長くて聞いてらんないからな」
「言えてる、言えてる」
彼は友人レトの顔を見て笑い返した。あれから十年、あの日のセテ少年はたくましく成長し、ロクラン王立騎士大学で騎士となるべく勉学にいそしんでいるのだった。相変わらずの真っ青な瞳と、ひときわ明るい金の髪は当時の面影をしっかりとどめていた。
祝典が終わるのを待って、彼らは町中の居酒屋に繰り出していった。落ち着いた雰囲気の居酒屋で、ふたりはビールを食らいながら取り止めのない話をして大笑いした。友人たちのこと、馬鹿な教授のこと、女のこと、たわいもないうわさ話などなど。
レトもアジェンタス騎士団領出身で、同郷というだけでなく、幼い頃から彼の親友でもあり、酒飲み仲聞でもあった。十年前の冒険の際はまだ臆病な悪ガキ仲間だったが、いつの間にかセテと同じように騎士にあこがれ、ロクランへ上京してきたのであった。
「ところでさ、セテ。お前卒業したらどうする気だ?」ジョッキを置いてレトがまじめな顔をして切り出した。
「お前だけだぞ。職が決まってないやつは。それだけの腕をもちながら、何で騎士団の資格を取ろうとしないんだよ?」
そう言われたのだが、セテはジョッキをおいて黙って聞いていた。
「サルジもジョースタもプロストも、優秀といわれていたやつらはみんな騎士団の試験に落ちて諦めた。アジェンタス騎士団は人気の花形職業でもあるけど、それだけに難易度も高い。でも教授の話じゃ、お前なら絶対受かるってゆーじゃないか。何で受けに行かなかったんだよ」
「レト、お前はどうするんだ?」
「まあ、俺もいったん実家に帰って、とりあえず騎士団の試験を受けようと思うんだ。無理だって分かってるけどさ。なあ、一緒に受けてみないか?」
「んー……」
レトの言棄に、セテは気のない返事を返した。
「あのなあ! セテ! 落ち目といえどもアジェンタス騎士団は最強の結束を誇っている伝統ある騎士集団なんだぞ! 分かってんのか? お前は!!」
レトは興味なさげに聞いているセテの態度に切れていきり立った。そのとき、酒場女がふたりの聞に割って入って、乱暴に料理皿を置いた。そして鼻息の荒いレトの顔を覗き込むと、
「落ち目でわるうござんしたねえ。あたしのだんなは騎士団員だったのよ。あんましこのへんで大きなこといわないほうがいいわよ」
すまん、とセテは彼女に笑って謝り、レトをなだめた。
「剣士になる夢を諦めたわけじゃない。最強の剣士になってやるつもりだよ。でも、アジェンタス騎士団に入るつもりはない。俺はもっと強いやつに会ってみたいんだ」
レトはため息をついて、また始まった、というような顔をした。
セテの喧嘩っぱやさは騎士大学でも有名な話だった。ちょっとでも強そうなヤツがいると片っ端から喧嘩をふっかけ、持ち前の剣術でこてんぱんにのしてしまうのだった。実際にセテは剣にかけては強く、自信満々でもあった。それだけ聞けば鼻持ちならない青年のようにも聞こえるが、その明るくてさばさばした性格は、たいていの人間に彼の血の気の多さを容認させてしまうのであった。
「……ま、確かに、ここらじゃお前より強いヤツなんかそうそういないしな……。伝説のレオンハルトはもう五年も前に死んじまってるし……」
「その聖騎士レオンハルトが俺の目標なんだよ」
「はあ!?」と、レトはまたまた声を荒げる。
「お前まだ聖騎士になるとか言ってんのか? 術法も使えないのに? 聖騎士《パラディン》になるには剣術も術法も最高クラスの腕がないとだめなんだぞ!! お前、術法なんかまるきしダメでよくそんなこと言ってられるな!!」
レトにそう言われ、セテは思いきり黙りこくってしまう。セテが聖騎士の受験資格のひとつであるレベル3の術法をマスターできていないのは、周りの学生たちにとっても驚くべき弱点なのだが、それをいちばん身にしみて感じているのは、誰でもないセテ自身だ。あんまりセテが落胆するのでレトは後から思い出して付け加えるように、
「でも、ま……お前だったら王宮付きの騎士でも何でもなれるさ」
ウェイターが新しいビールを薦めてきたので、ふたりは勢い良く残りのビールを飲み干した。
「なあ、なんだってそんなに聖騎士に固執するんだ? 剣士になれるなら何だっていいような気もするんだけど。お前だったらよりどりみどりって感じなのに」
明らかにレトの言葉にはセテに対するやっかみが含まれていた。そんなことにはおかまいなしで、セテは幸せそうな表情でにっこりと笑う。
「……もうずっと前、まだ子どもだった頃から聖騎士に、レオンハルトに憧れて……レオンハルトのように誰よりも強くなってみたかったんだ」
セテが子どものようにジョッキをくるくると弄びながらそう言うのを見て、レトはまた深くため息をついた。そしてもう一回ジョッキに口をつけてから、
「でもさ、俺には分からないよ、セテ。どうしてそこまでレオンハルトに思い入れることができるのか。五年前のアートハルクの侵略戦争を止めもしないで、おまけに例のクーデターの張本人ときた。今じゃ聖騎士団の面汚しとまで言われてるんだぜ」
レトがそう言い終わるのが早いか、セテはいきなり立ち上がってレトの胸倉をつかんでいた。ガタンと大きな音をたてて椅子が倒れ、周りの客が騒然とした。
「あの人がそんなことをするはずがないんだ! レオンハルトは……!!」
「分かった! 分かったよ! セテ! 謝るよ!」
レトがそう言ってセテを懸命になだめた。セテも我に返った様子で彼の胸倉から手を引いた。
「……すまない……レト。悪かったよ」
レトはその言葉を聞いて安堵のため息をつく。周りの客たちも安心したようにそれぞれの仲間と談笑し始めた。
セテが幻の浮遊大陸でレオンハルトに出会ったのは、もう十年も前のことになる。その頃、レオンハルトとその妹ガートルードは、アートハルク帝国皇帝、「銀嶺王」ダフニスに仕えるようになったと聞く。帝国が侵略戦争を起こし、クーデターで崩壊したのは、セテがレオンハルトに会ってから五年もたたないうちのことであった。
さまざまな憶測や冷やかしのうわさ話が乱れ飛んだが、セテはどれを信じたこともなかった。レオンハルトはおおよそ裏切り者として語られることが多くなってしまったが、セテは彼への信頼を忘れることはなかった。それどころか、彼は子どもの頃から夢見ていた剣士に、レオンハルトのような優れた聖騎士になることへの情熱を、ずっと燃やし続けていたのであった。
「俺にとって聖騎士《パラディン》レオンハルトは最高の目標だった。レオンハルトがそんな卑怯な真似をするわけがない!」
セテは自分に言い聞かせるようにそうつぶやいた。
突然、セテの後ろの席で下品な笑い声が上がった。振り返ると、これまたおよそ品とは縁のなさそうな男たちが大笑いをしていた。みな腰に剣を携えている。剣士だ。セテがむっとしたように男たちをにらみつけると、男のひとりがにやにやしながらこちらに近寄ってきた。
「『レオンハルトがそんな卑怯な真似をするわけがない』……か。そいつはどうかな? 中央騎士大学のエリート学生さんよ」
セテの耳元でレトが、「相手になるなよ」と念を押した。
「いいか、よ〜く聞けよ! レオンハルトはな、善人面して皇帝をだまし、侵略戦争を起こしたんだ。俺の故郷はアートハルク帝国に攻撃されて、いまや荒野も同然になっちまった。やつが謀反を起こしたことは今じゃ子どもでも知ってることだぜ」
セテはレトの言うとおり、拳を握りしめながらじっとがまんをしていた。男は調子に乗ってさらにまくしたてる。
「聖騎士だの、聖賢五大守護神《ファイブ・ガーディアンズ》だの、所詮やつもただの人間ってこった。侵略戦争を起こした後はそっくりそのまま帝国を自分のものにする腹づもりだったんだろうよ。いいか、ここらでレオンハルトの名を口に出すんじゃねえ。吐き気がしてくらあ!!」
レトは不安そうな表情でセテを見つめている。その目は、「がまんしろ」と言っている。セテはゆっくりと立ち上がり、男たちの顔を端から順番に見つめた。
「……もう一度言ってみろ」
セテは男から視線をはずさずに低い声でそう言った。
「なにい!?」
「……もう一度言ってみろ、クソ野郎」
その言葉で男たちは大笑いした。さんざん笑った後、もう一度セテの顔をにらみつけて、
「口の減らない若僧だな。その根性だけは認めてやる」
「……剣の腕もな!!」
突然セテが腰から剣を抜いて構えた。酒場内に悲鳴が上がり、人々はセテと剣士たちを遠巻きに囲みながら後退りした。男たちもゆっくりと剣を抜き、構えた。
「おもしろい。俺たちとやろうってのか?」
「バカ!! 決闘は御法度だぞ! セテ!!」
レトがそう叫んだが、セテにはもはや聞こえていない。剣士たちは五人、セテは腕はたつとはいえ、まだ騎士大学在学中の半人前だ。結末が火を見るよりも明らかなことは、レトにはよく分かっていた。
「女みてぇな面しやがって! 滅多切りにしてくれるわ!!」
男がかけ声とともにセテに斬りかかってきた。セテは素早く剣で応戦する。剣をくるりと器用に回して切っ先を跳ね返し、相手を追い詰めると、男の顔面に何発か拳をお見舞し、相手を床に遣いつくばらせた。
「小僧!!」
それを見ていた仲間が同時にセテに斬りつけてきた。人々が固唾を飲んで見守るなか、騎士見習いの若者は剣の柄の部分で次々と男たちを殴り倒していった。とうとうセテは、ひとりの喉笛に剣の切っ先を突きつけて壁際に追い詰めた。男は手から剣を離し、両手を挙げると、
「お、おい、悪かったよ、あやまるからもう勘弁してくれよ」
セテがため息をついて剣を下ろそうとしたとき、恐怖に凍りついていた男の表情が薄笑いに変わった。背後に五人目の剣士の気配を感じたときに、セテに勝ち目はなかった。
「後ろだ!! セテ!!」
レトが叫び、人々は目をつぶった。
鈍い音がしたかと思うと、最後の剣士は床に倒れ込んだ。セテも周りの人々も目を丸くして、ことの状況を一生懸命理解しようと努めた。背後には、鞘に収まったままの巨大な剣を肩に担いでいる大男が立っていた。色黒で熊のような図体、身長は二メートル近くはあるのではないだろうか。長身のセテも、この男の前ではずいぶん小柄に見える。年は三十半ばかそれ以上かもしれない。顔の真ん中を横切る派手な古傷と、鋭い眼光が人を萎縮させるに十分な小道具だ。
「ふん、剣で切りつけるほどの価値はないクズどもだからな」
男は床に倒れている男たちを軽く蹴り上げた。どうやらこの男がセテの危機を救ってくれたらしいことだけは、周りの人間にも理解はできた。
「こいつらはさっきから口が過ぎる。聖騎士を侮辱した。どのみち俺が叩きのめしてやるところだったのだが……」
巨大な剣を携え、銀の甲冑を身につけているこの見知らぬ男に、セテは表情を固くしたままだ。
「このくらい、俺ひとりで十分だったさ」
セテはふてくされながらそう言った。その態度に男は眉をぴくりと動かし、
「おいおい、それが命の恩人に対する礼か?」
「命の恩人だと? 俺の相手をあんたが勝手に倒した。それだけじゃないか」
レトはまたセテの悪いクセが始まったのを見て頭を抱える。今度の相手がただ者じゃないことくらい、店の中にいる誰にも分かっていることだった。
「礼儀を知らん小僧だな。剣士に対する礼というものを教えてやろうか?」
「望むところだ!」
ふたりの剣士は店の外の大通りに出て対峙した。店にいた者たちはみな、大通りを見つめて息を飲んでいた。
「……セテ……相手が悪いぞ……。今度の奴は、多分聖騎士だ」
店の扉の横でそうひとりごちているレトの心配をよそに、セテは剣を構えたまま大男を睨んでいた。
「小僧。撤回するなら今のうちだぞ。我が愛剣デュランダルの露と消える前にな!」
「ふざけるな!!!」
セテはそう叫ぶと剣を振り上げ、大男に斬りかかった。男は巨大な剣を鞘から抜こうともしないで、いともたやすくセテの攻撃をヒョイヒョイかわすだけだ。
「クソッ!!! 剣を抜きやがれ!!!」
セテは男の態度に侮辱されたようで、ますますいきり立ち、ものすごい音を立てて剣を振り回す。
「あちゃ〜、キレたか。セテの奴、そーとーキテるな」
レトがふたりの様子を見ながらそうつぶやいた。
とうとう男が巨大な剣を鞘から抜いた。長さや幅から見ても、とても普通の人間に扱えるような代物ではない。男が剣を軽く一振りしただけで、剣圧による衝撃波がセテを襲った。セテは剣を正眼に構えてそれを防ごうとしたが、あえなくはじき飛ばされてしまった。レトも周りの人間も、この大男が並の剣士でないことは分かっていたが、剣圧だけではじき飛ばすその力に、もはや声を出すこともできなくなっていた。
「どうだ!? 小僧。そろそろ観念したか?」
男は愉快そうに笑って、砂煙の向こうで転がっているセテに問いかけた。完全にキレたらしいセテはすぐに立ち上がって体勢を整えると、もう一度男に切りかかる。男は余裕の構えで簡単にセテの攻撃をかわす。
(くそぉ! なんとか奴のふところに入り込めれば……!!)
ふと、セテの身体が一瞬視界から消えた。次の瞬間、彼は男の足の間をすり抜け、男の足をすくい上げていた。
「へへっ! スピードは俺の方が上みたいだな!!」
男はバランスを崩して倒れ込んだ。その瞬間をセテは見逃さなかった。
「もらったぜ!!!」
セテは得意げな笑みを顔面いっぱいに、男めがけて剣を振り下ろした。が、男はその不利な体勢から見事に立ち直り、巨大な剣デュランダルでセテの剣をはじき飛ばした。
「聖騎士《パラディン》が魔法剣士だということも忘れるな!!!」
男がそう叫んだ瞬間、セテの身体は見えない力で五メートルも後ろの壁に叩きつけられた。はじき飛ばされたセテの剣は店の扉の横で指をくわえていたレトの目の前に突き刺さり、レトは肝をつぶしてその場にへたりこんだ。周りの人間も息を飲む一瞬の出来事であった。
男は、壁に張りつけられたまま動けないセテの首筋に巨大な包丁のような剣の切っ先を当てると、
「油断大敵、だぞ、小僧」
男は笑いながら剣を鞘にしまい、術を解いてやった。いきなり術を解かれたセテは、顔面から地面に落ちて鼻をしたたか打ち、声にならない声を出してうずくまった。レトがセテの剣を拾い、駆け寄ってきて彼に渡してやった。
「その様子だと、今まで負けたことがなかったようだな? 小僧」
男の問いかけに、セテは歯ぎしりしたまま答えない。
「この辺じゃ確かに腕はたつほうだろうが、うぬぼれるな。上には上がいる。お前ほどの剣士なら五万といる。実戦じゃひと打ちであの世行きになるだろうし、この程度でうぬぼれているようでは腕は上がらんぞ」
そう言われたセテは悔しくて声も出ないようだ。けがもないのだが、足腰が立たないのか、レトが手を貸してやってやっと立ち上がることができた。
「それよりも、その顔を活かしたほうが長生きできるぞ、小僧。その顔なら辺境あたりで客は死ぬほど取れるだろうし」
セテは耳まで赤くしたかと思うと、突然激しい形相で男をにらみつけた。レトは、よりによってセテにいちばん言ってはいけない言葉を男が口にしたのを見て青ざめる。顔がいいんだから黙ってればいいのに。これがセテを知る者の共通意見であったが、本人は自分の顔立ちがひどく気に入らないらしい。
「俺を男娼と一緒にするなぁっ!!!」
再び男につかみかかろうとしたが、今度はレトに後ろから押さえつけられてそれもかなわなかった。男はまた愉快そうに高笑いをしたあとセテが元気なのを見届けると、その強面にニヤリと笑いを浮かべてこう言った。
「だが聖騎士をここまで追い込んだのは、ここ何年かでお前くらいなもんだぞ」
その言葉にセテは目を丸くする。
「せ、聖騎士って、あんた、まさか……」
「俺の名はレイザーク。聖騎士《バラディン》レイザークだ。いい太刀筋だったぞ、小僧。長生きできたらまた会おう!」
聖騎士レイザークと名乗ったその男は再び巨大な剣を担ぎ、銀の甲宙を月明かりに輝かせて居酒屋を後にした。呆然とするセテたちを残して、人々は一斉に安堵のため息をついて居酒屋に戻り、めいめいの席について歓談を始めていた。
「セテ!! このバカ!! お前死ぬ気か!? 聖騎士《パラディン》相手にケンカを売る奴がどこにいる!! 決闘が厳しく罰せられるのも分かってんだろ一な!!」
今度はレトがセテの胸倉をつかんで大声で叫んだ。
「……すまん……」
セテは元気なく謝る。さっきの手合わせで相当自尊心を傷つけられたようだ。がっくりと肩を落としてとぼとぼと歩くセテを見て、レトはたまにはこれくらいの薬もいいだろうと思う。しかし、セテはいきなりくるりとレトに振り返り、
「くっそ〜〜〜!! あの大男、今度会ったら絶対打ち負かしてやる!! 覚えてろよ! レイザーク! 聖騎士だろうがなんだろうが、俺は絶対お前を見つけてこてんばんにやっつけてやるからな〜〜〜〜!!!!!」
すでに後ろ姿も見えない通りで、セテは大男の去っていった方角にびしっと中指を立てて叫ぶ。この程度じゃセテにはきかないようだ。だめだ、こりゃ、とレトはさじを投げるのであった。