第三十三話:奔流

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 辺境といえば、未開の、とてつもなく貧しく、文明とはおよそかけ離れた土地だと中央の人間は想像していたはずであった。実際、中央エルメネス大陸から海を隔てた先は、人の行き来があまりないために新聞記事で取り上げられることが少なく、中央の人間にとっては未知の領域である。しかし、そこには確かに人が生活を営み、文明があり、政治経済が機能する土台が存在している。中央との国交も、わずかではあるが存在する。
 辺境への船賃はべらぼうに高く、汎大陸戦争の残骸がある海域が一部の商船や軍艦以外、航行禁止になっている。よほどの用がなければ、中央の一般人が辺境に出向くことはほとんどの場合、許可されない。海の旅は、中央によって厳しく、さまざまな理由をこねくり回すことで制限されているのが事実である。海は、中央エルメネス大陸以外のほとんどの大陸を飲み込んだ恐ろしい魔物である──中央の人々は大陸史によって、海が忌避すべきものであると認識しているのが常であった。そのうちに、忌まわしい海の向こうにある地域は誰言うとなく辺境と呼ばれ、そうした地域にある小国のことなど、誰も気にも止めなくなったのである。
 だから、セテがラナオルドの議事堂に到着したときには、ずいぶんと度肝を抜かれたものであった。
 中央ほどの贅沢さはないが、辺境によく見られる赤いレンガを積み上げる方式で建築されたそのさまは、白っぽいロクランの議事堂と比べると、多少の無骨さはあっても趣があり、温かみを感じるのである。二百年の歴史を誇る立派な建造物だ。街も、ロクラン城下町のような大都会と比べれば大きな建物は少なく、田舎臭いところがあるが、素朴で、セテの生まれ故郷ヴァランタインを彷彿させる。懐かしい感じがするのだ。
 議事堂では平日の午前と午後の二回、一般人の見学会が催される。地元の学校が社会科見学の一環で子どもたちを連れてきたり、酔狂な金持ちたちが観光する際、地方政治を知るための見どころのひとつとなっているらしい。セテはその見学会に参加するため、時間が来るまでここで待機することになっていた。
 議事堂の前は手入れのされた樹木が植えられた公園を兼ねた広場になっており、人々が憩う。広場のベンチに腰掛けて時間をつぶしていると、三十人くらいの子どもたちが議事堂にやってくるのが見えた。教師らしい女性が子どもたちを引率しており、小学校の社会科見学であることがうかがえた。教師は子どもたちを議事堂の脇に並ばせると、議事堂とはどういうもので、どういう歴史があり、これから何を見るのかを説明し始め、子どもたちは好奇心に輝く瞳でそれに耳を傾けている。
「まいったな……子どもばっかりじゃないか……」
 セテはベンチでその様子を見ながらつぶやき、髪をくしゃくしゃと掴んだ。
「そう言うだろうと思って、連れて来たぞ」
 ベンチの後ろから声がしたので振り返ると、ヨナスとベゼルが立っていた。ベゼルの顔を見たセテは文句を言おうと口を開きかけたのだが、
「大の大人が少年をひとり連れてるだけじゃ、最近の犯罪傾向から見て危なそうに見えるだろ。もうひとり、妹がいるほうが年の離れた兄弟で見に来たと思われて都合がいい」
 得意げにヨナスがそう言ったので、セテはその横でまた得意そうな顔をしているベゼルを見ながらため息をついた。
「お前がもう少し大人の外見をしてれば問題なかったと思うんだけど」
 セテがヨナスにそう言うと、
「男ふたりで議事堂見学? 気持ちの悪いこと言うなよ。やろうと思えばおっさんにだってなれるけど、おっさんと若い男ってのもなんか怪しいし、子どもの外見のほうが何かと便利なんだよ。それに、ベゼルの嬢ちゃんがいれば、年の離れた弟と妹をいなくなった母親の代わりに面倒みてやってる、いいお兄ちゃんキャラで通せるぞ」
「はいはい」
 セテは気のない返事を返した。
「そろそろ集合時間だな。レイザークたちも配置についたようだし、あとはいろいろ任せとけ。な? ベゼル?」
 ヨナスが兄貴ぶってベゼルにそう言い、ベゼルも愉快そうに笑って返事を返した。そうしてふたりで仲良く手をつないで議事堂の入り口まで走り出したので、セテはあっけにとられたのだった。
「おーい! お兄ちゃーん! 早く早くー!!」
 ヨナスとベゼルが満面の笑みでセテを振り返り、議事堂の階段の下で手を振ったのだ。セテはベンチからずり落ちそうになる。
 こうして見ればヨナスはちょっと耳がとがっただけの陽気な子どもだ。利発そうで素直ないい子に見えるので、セテは従属一族の柔軟性に舌を巻くのだった。
 入場券を配る受付で、ヨナスとベゼルはセテの手を引いて「早く早く」とせかす。セテが偽造した身分証を見せると受付係が「三名様ですね?」と尋ねるので、ヨナスが「うん。今日はお兄ちゃんが休暇で、久々に遊びにつれてきてもらったんだ」と笑顔で答えた。
「まぁ、かわいい弟さんたちね」
 受付係がベゼルを見てそう言ったので、
「あ、いや、こっちは妹で」
「あら妹さん。ごめんなさいね」
「いやぁ……その……。は、母親がいなくなってから父親と俺ばっかり見てたせいか、男の子みたいな格好してるおてんばなんですよ、ハハハ」
 セテはそうとってつけたような説明をするが、その後ろでベゼルが見えないようにセテの足を蹴る。
「まぁ……苦労なさっているのね」
 と、受付係は気の毒そうな顔をした。そうして入場券をセテに一枚渡し、残りをベゼルとヨナスにそれぞれ丁寧に手渡してやりながら、
「格好いいお兄ちゃんね。今日はゆっくり楽しんでいってね。議事堂の中は静かにしてね。いまちょうど大事な会議をやっているところなの」
「はーい!」
 ヨナスとベゼルはそろって元気な返事をし、セテの手を引いた。子どもを引率していた教師も、そのほほえましい光景に頬を緩ませている。セテがため息まじりに眉根を寄せていることなど誰も気付くわけがない。
「おい、なんでそんな顔してんだよ。もっと楽しそうにしろよ。もとはお前の発案だぞ」
 小声でヨナスがセテに問う。セテのゲッソリした顔が気になるらしい。
「ひどい保安意識だよな。身体検査をしないどころか、あんな与太話ですんなり入れちゃうとか、中央の騎士団だったら信じらんねーわ」
「与太話って?」
「俺は金髪、ベゼルは銀髪でお前は黒髪だろ。おまけにひとりは偉大なる一族《イーシュ・ラミナ》っぽい外見ときた。ふつうに考えればこの三人が兄弟とか、ありえないだろうに」
「全員、母親が違うって設定もありだぞ」
 ヨナスがにこやかにそう返したので、セテは頭をかきながら大きなため息を返した。
「……もういいよ」
 セテとベゼルとヨナスは、しばらく小学生たちのあとをついていき、見学会の案内役の説明を聞きながら議事堂内を見て回る。入り口を入れば大理石でできた高い天井のエントランスホールがあり、歴代の議長や歴史的偉業を成し遂げた議員などの関係者の像が並んでいる。ステンドグラス風の明かり取りの窓や、セテの背丈を軽く越えるほどの大きな振り子時計などもあり、歴史的価値は想像以上のものだ。
 それらを見ながら小学生たちと一緒になってベゼルが楽しそうにはしゃいでいるので、セテが小声で彼女をたしなめた。
「おい、仕事だってこと忘れるなよ」
「いいじゃん別に。こういう社会科見学ってあんまり経験ないから楽しくて。勉強になるよねえ」
「まぁいいけどな」
 セテがベゼルの頭をポンポンとなでてやると、少女はうれしそうに笑った。
 さすがに見学に来ている小学生たちよりは年上だが、彼女だって十二歳、まだ子どもだ。本当なら中学生で学校の友人たちと楽しい時間を過ごしていたはずである。アートハルクが救世主を狩り出すための女児狩りを避けるために家族と逃げだし、そのときに両親を失った被害者のひとりである彼女は、いまこの多感な時期を剣士とともに殺伐とした時間を過ごさなければならない。それは異常なことだ。中央なら虐待案件になる。
 ひょっとするとヨナスがベゼルを連れてきたのは、そうした彼女の境遇を気に掛けて気を利かせたのかもしれないとセテは思った。
「こっちだ。あの団体が角を曲がったところで階上に上がるぞ」
 ヨナスがセテとベゼルにそう告げた。ヨナスの透視により、議事堂内部の構造はだいたい把握できている。この計画にヨナスのような超常能力を持つ者は必須であった。
 歩みを遅くしながら団体との距離を徐々に取り、小学生たちがわいわいやりながら角を曲がっていくのを見届けると、セテら一行は「関係者以外立ち入り禁止」の看板が立っている区画に入り込み、その先の階段を静かに駆け上がって行く。
「よし、誰もいない。この先の渡り廊下を渡れば議場だ」
 ヨナスが職員などがいないことを確認した後、セテたちは渡り廊下を小走りに行く。渡り廊下にはセテくらいの長身の青年でもやっと手が届くかといった窓があり、いつも内側から鍵がかかっている。それも把握できており、その鍵を開ければよいのだが、セテが軽く跳躍すれば手が届くものの、古くてさびているせいか、手が当たっただけで鍵がすんなりと動くことはなかった。
「不知火《しらぬい》を貸せ」
 セテがヨナスにそう言うと、〈土の一族〉の少年は腰から短刀の不知火《しらぬい》を取り出してセテに手渡した。子どもの姿なら都合がいいと言った理由はこれである。受付係も、まさかこんな子どもが短刀を持ち歩いているなどとは思うまい。
 セテが不知火を掴んでもう一度跳躍すると、不知火の切っ先で鍵が動いた。そこでセテは片側の窓を静かに、大きく開け放った。セテは不知火に軽く感謝の口づけをすると、ベルトの間に挟んだ。
 それからセテはヨナスを肩車してそこから顔が出るように担ぎ上げる。ヨナスは窓の下に向かって軽く口笛を吹いてみせた。しばらくすると下から鉤の突いたロープが投げ入れられ、何度かしてようやく窓の縁に鉤が引っかかると、そのロープがピンと張った。
「さてと。あの聖騎士のおっさんがここを無事に通って出て来られることを祈るか」
 ヨナスが意地悪そうにそう言った。セテはその間に、渡り廊下の先の目的地周辺に人が来ないかを注意深く見守っている。
 彼らの数十メートル先に議場がある。セテがもう一度驚いたことは、議場の前には歩哨も何も立っていないことだった。これは中央と辺境の差なのだろう。のんびりしているというべきか、そもそも悪い奴がいないのか、悪い奴がいても彼らに議事堂への用などないと踏んでのことか。あまり無関係な者を巻き込みたくなかったので幸いというべきだが、このあとの展開を思えば余計に罪悪感を覚えることになるだろうとセテは思った。
 そんな折に、窓からうんうん唸る声がするので、セテは顔をしかめた。
「おい、静かにしろよ。聞こえるだろが」
 セテが後ろの窓に向かってそう言うと、案の定、窓に引っかかって唸っているレイザークの姿があった。ジョーイとピアージュは先に窓から飛び降りて涼しい顔をしている。
「うるせえ、こんなに窓が小さいとは思わなかったんだからしょうがないだろう」
 レイザークが肩や太い腕をなんとか角度を変えながら窓に押し込みながらそう言った。
「窓ってのは熊みたいな聖騎士が出入りできるようには作ってないからな」
 セテがそう軽口を叩いた。
 レイザークとジョーイとピアージュは、腰やら肩やらに剣を差しているうえに、誰が見ても堅気《かたぎ》には見えない。とくにレイザークの体格なら、怪しまれて正面で足止めされるに違いなかった。かそうでなくとも、剣を携えずに行くのは論外だ。だから、先にセテとヨナスが観光客を装って議事堂内部に侵入し、窓の内側から鍵を開けて彼らを招き入れるという作戦であったが、まったくもって正解であった。いくらのんびりした国の議事堂といえども、正面から強行突破すればおおごとである。セテとヨナス──あとからベゼルも加わっているが──が仲の良さそうな兄弟として潜入することは、この作戦の重要な一歩であった。
 なんとか窓から侵入できたレイザークがひいひい言いながら、セテの愛刀・飛影《とびかげ》と蒼月《そうげつ》を渡してやる。セテは自分の剣帯に二本を差し込んだ。剣が戻ってくると、丸裸のような落ち着かない気分がようやく和らいだ。
「さーて。それじゃ俺たちの演技力を見せつけてやろうぜ」
 セテはそう言って、仲間たちの先頭に立って走った。






〈蒼海の淑女〉号の修理のため、ヴィンスたちの中継基地まで船は進み、そこでレイザークやセテたち一行は船を下りることとなった。レイザークはヴィンスの修繕代の見積もりを見て椅子から転げ落ちんばかりに驚いたようだったが、仕方なく小切手にサインをして支払いを済ませた。ヴィンスは関係業者の船を呼び、レイザークたちがそれに乗れるよう手配をしてくれた。
 しかしである。
「はぁ!? お前ら、本気でそんなこと考えてるのか!? 頭ダイジョウブか!?」
 ヴィンスの声がドック中に響き渡った。船の修理に当たっている乗組員や作業員たちが驚いて、ヴィンスと話し込んでいる厄介な元乗客たちを見下ろしている。
「もう迷惑かけないって。ここを出たら俺たちはもうヴィンスとは無関係なわけだし」
 衝撃のあまり茹で蛸のように真っ赤な顔をしたヴィンスの前で、セテがさらりとそう言ってのけた。
「アホか!! 弟がいるんだぞ!? 俺がけしかけたと思われるだろうが!! 議事堂に殴り込みをかけるとか、どこのバカが考えついたんだ!!」
 ヴィンスがそう叫んだので、セテの後ろにいたジョーイとレイザークが揃ってセテを指さした。
「殴り込みだなんて物騒な。ちょっと仲立ちをお願いするだけだって」セテは軽やかにそう返した。
「あんたの言ってたことがいいヒントになったんだよ。長老の婆さんはラナオルド議会の監視人兼助言者だって言ってただろ。本人が来なくとも、なんかしらの形で議会はあの婆さんの助言を受ける機会がある。そこでだ」
「議事堂に潜り込んで、議会を制圧するってか」
 じろりとヴィンスが睨みつける。海の男であるこの船長は、体格もよく浅黒い肌をしているので、眼力も加わってたいそうな迫力である。だがセテには通用しない。
「議事堂ってのは、だいたいどこも民間人の見学会ってのを催してるんだよ。見学のふりして入り込むのは簡単だし、見学者を人質にとって議場に入れば、彼らは要求を聞かざるを得なくなるだろ?」
 得意げに言うセテに対し、ヴィンスがさらに激高して怒鳴る。
「一般人を巻き込むつもりか! それこそ見過ごせねえぞ!」
「一般人じゃないよ。俺がついてく」
 ヨナスが偉そうに腕組みをしながらやってきてそう言った。先ほどまで別室で、黒砂漠商会の捕虜から奪った個人用の瞬間移動装置を調べていたのだったが、それが終わったのだろう。
「どうだった?」
 セテがヨナスを振り返って尋ねる。
「だめだ。あれは一回だけ作動しておしまいの廉価版だろう。行き先までジャンプしてみたが、もうやつらの足跡は見当たらなかった。即座に別の組織に引き渡されたんだろう」
 ヨナスが肩をすくめてそう答えた。
「そっか。いよいよアートハルクの本拠地が分からないことには救出不可能ってわけか」
 セテがため息をついたが、その表情は困難に挑む剣士の厳しい顔つきである。それからヴィンスに向き直り、
「明日、俺とヨナスとで、兄弟を装って見学会に参加する。人質役はヨナスってわけ」
 セテがさらに得意げにそう言ったので、ヴィンスは大きな大きなため息をつきながらごわごわした黒髪をかきむしるしかなかった。
「剣を携えた人間が真正面から入るわけにはいかない。潜入した俺たちが誘導するまで、レイザークとジョーイとピアージュは外で待機してもらい、中で合流して議場になだれ込むって寸法さ」
「そんなアホな計画が……」
「アホでもなんでも、やらなきゃなんないんだよ。どうせあの婆さんに正攻法で行っても会ってくれやしない。だったら、手配犯らしく振る舞うまでだ」
 セテはきっぱりとそう言ったが、ヴィンスは苦々しい表情のままだ。もちろんレイザークとてすべてに賛同しているわけではないらしく、あまり愉快そうには見えない。
「アホに見えるだろうが、うちのお坊ちゃんのこういうトンでも系な発想力を、やんごとなきお方が期待してるって言ってんだ。他に妙案がない以上、やるしかあるまい」
 レイザークにそう言われて、セテがしかめっ面をした。
 ジョーイが歩み出てきてヴィンスの肩に手をやる。
「ごめんな、兄貴。本当はこの計画だって話すつもりもなかったんだ。言えば絶対反対するから」
「当たり前だ! なんだか胸騒ぎがしてこのあとのことを聞いてみて正解だった。蓋を開けてみたらこれだ。聞いた以上、知らなかったで押し通せるか! それに、お前は部外者だったろう!? こんなふうに振り回されて楽しいのか!? きっぱり辞めさせてもらえ!!」
「まさか。俺だって〈黄昏の戦士〉の一員だ。関わることが俺の責任なんだよ。男だったらやらなきゃいけない時があるの、兄貴も分かるだろ?」
 そう言って、ジョーイはヴィンスの両肩に手を置き、兄の顔を真正面から見上げた。ほんの数センチだが。
「だから、ここからはもう俺とは他人になってよ。これ以上、ヴィンスに迷惑はかけないから。もしこのあと俺のことでなんか聞かれても、縁を切ったし何も知らなかったと押し通してよ。出来の悪い、厄介な弟のことなんかスッパリ忘れてさ」
「忘れられるわけないだろうが!! お前は俺のたったひとりの弟なんだぞ!!」
 突然、ヴィンスが弟を抱きしめたので、一同はたいへん驚いたのだった。
「な、なんだよ兄貴……いきなり」
 ジョーイが兄を押し戻そうとするが、
「……ヴィンス……なんで泣いてるんだよ」
 ジョーイが弱々しい声で尋ねたが、ヴィンスの返事はなかった。仕方なく、ジョーイは自分よりも体格がよく長身の兄の背中に手を回し、子どもをあやすようにその背中を叩いてやった。ヴィンスが鼻をすする音がわずかに聞こえた。
 それからヴィンスは弟から体を離すと、
「お前も男になったってことか。世界を救う仕事をするようになるなんて、俺は兄としてこんなに誇りに思うことはない」
 いきなりの展開である。ヴィンスがロマンチストであり、多少、芝居がかった演出を好むのは知ってはいたが、その任侠じみた物言いに、セテもレイザークも吹き出したくなるのをこらえるばかりであった。
「好きにやれ。あとのことは心配するな。俺がなんとかする。助けが欲しいならいつでも連絡をよこせ。世界でいちばん早い船で駆けつけてやる。すべてが終わったら、必ず親父とお袋に顔を見せてやるんだぞ」
 ヴィンスはジョーイの背中をその大きな手のひらでバンバン叩き、激励してやる。ジョーイはヴィンスに見えないようにセテとレイザークに目配せをし、セテたちはしらけた表情を悟られないようにして頷き返したのだった。






 そして今に至る。
 議場の扉の前に到着した面々は、セテとベゼル、ヨナスを先頭に立たせ、その両脇をピアージュとジョーイが、後ろをレイザークが囲む形で待機した。
 セテはヨナスとベゼルのふたりを抱きかかえるようにすると、ふたりの顎下に蒼月《そうげつ》の峰を当てた。不知火《しらぬい》では短すぎ、飛影《とびかげ》では長すぎるので重宝する。剣をこのように使うのは生まれて初めてのことであったが。
「よし。いいぞ。いけ」
 セテは小声で指図する。ベゼルは大きく息を吸い込んだかと思うと突然、悲鳴のような金切り声をあげた。それに合わせてセテは議場の扉を足で蹴り開け、ヨナスとベゼルを引きずるようにして議場に入る。ピアージュとジョーイが剣を抜いて両脇を固め、レイザークが後ろ手で扉を閉めてあの大きなデュランダルを掲げた。
 審議中の議場は議員たちの悲鳴で溢れかえった。
「静かにしろ!! 全員その場を動くな! 動いたら子どもたちの命はないぞ!!」
 セテが議場に響き渡る凜とした声で叫んだ。騒然としていた議場が一瞬で静まりかえる。
「助けて! 助けてーッ! 怖いよーッ!!」
 ベゼルとヨナスが嘘泣きをしながら叫ぶ。
「お前ら! そのまま席に座れ! 妙な動きしやがったら剣の露にしてやるぞ!!」
 脇にいたジョーイが、議場の入り口付近にある空席目がけて剣を振り下ろした。机がまっぷたつになったので、議員たちから再び悲鳴があがったが、すぐに全員が固唾を呑んで議場になだれ込んできた悪党一味を見つめた。
「よし、静かになったな。お利口お利口」
 セテが悪人っぽくニヤリと笑いながらそう言った。
「待ちなさい、手荒なことは。いったい何が目的だね?」
 議会の議長らしき老人が壇上から尋ねた。髪の毛は寂しいが立派な白いヒゲが威厳を蓄えており、人のよさそうな紳士である。こういった年寄りにセテは弱いのだが、
「なに、たいした用じゃない。要求はたったひとつだ」
 努めてセテは悪人を装い、できるだけ極悪に聞こえるように声をしわがれさせた。後ろにいるレイザークがため息をついたが、幸い誰にも聞かれることはなかった。
「〈水の一族〉末裔の長老と話がしたい。取り次いでもらおう」
 セテの要求に、議場からさざ波のように驚きの声が漏れる。
「無茶なことを。彼女はここには」
 議長が答えると、
「ここにいないのは知っている。だが、ラナオルド議会の助言者だろう? しかもいまは重要な法案の審議中ときた。彼女の助言や承認が必要で、議会はあの婆さんと接触できるはずだ。本物でなくていい、いますぐ彼女の影でもなんでも召喚してもらおう」
 セテの要求にしばし議長は唸り、考えている。
「子どもたちがどうなってもいいってんなら俺は別にかまわないけどな」
 セテは蒼月をぐいと押し上げ、ヨナスとベゼルの首を剣と腕とで締め上げているように見せかけた。子どもたちふたりは、さらに嘘泣きをして悲鳴をあげ、助けを求める。
「ま、待て! 待ってくれ! わ……分かった。従おう」
 議長がそう言い、そばにいた職員に要求に従うよう頷いて見せた。職員はなにやら卓上の魔法陣らしきものに小声で呪文詠唱をはじめ、両手でいくつかの印を結び、魔法陣の上でそれを解き放つ。術法を利用した通信装置とはなかなか考えたものである。こんなものを活用している議会は他にはあるまいと、セテは感心してそれを見守る。
 しばらくすると、議長の真上の空間に歪みが現れた。最初はほんのわずかなくぼみがあるように見えたのだが、次第にそれは中央からさざ波のように広がっていき、くっきりした鏡面を作り出す。海で見たのと同じような水鏡である。その中に、フードを目深にかぶった小柄な人影が浮かび上がったのであった。
『なにごとです、議長。まだ審議が終わるような時間では』
 年老いた女性の声。長老その人に間違いない。
「やっと会えたな長老。俺たちを覚えているか?」
 セテは水鏡に向かって声を張り上げた。水鏡の人物はその声に顔を上げ、子どもふたりを抱えて剣を押しつけている青年の姿を見つめる。さすがというべきか、動揺している気配はない。
『愚かなことを』
「こうでもしねえと、会ってくれないだろ?」
『卑劣な行為に私が屈するとでも? いますぐ人質を開放せよ』
 長老の声はわずかに震えているが、怒りによるものだろう。しかしセテは勝機とばかりにニヤリと笑い返した。感情に揺さぶられれば判断力は鈍る。それが狙いだ。長老がいぶかしむ間もなく、セテの戒めを解かれたヨナスが飛び出してきて、水鏡に向かって両手を差し出した。
「人質じゃねえよ! 〈土の一族〉の長、ヨナス様だ!! 捕まえたぜ長老!!」
 ヨナスの両手から光がほとばしり、水鏡を捕らえる。議場の四方に、ヨナスの放った術法の光が反射して轟音を立てた。長老はその意図を即座に理解し、術を強制終了させようとしたが、
「もう遅え!! お前ら! このままヤツの術法に乗るぞ! 乗り遅れんなよ!!」
 ヨナスが叫ぶのと同時に一行の体も光に巻き込まれ、見えなくなる。議場内は炸裂する光にさらなる大混乱だ。悲鳴や逃げ出す者たちの足音があちこちに乱反射している。まるで爆発でもするかのようないっそう明るい輝きを残して水鏡は消え、それと同時に、議場に押し入った悪党一味の姿も中空に消える。残されたのは蹴り破られた議場の扉と、剣でまっぷたつにされた机だけだ。
 議長をはじめ、議員たちはいま自分たちが見たものがいったいなんだったのかを理解することもできず、呆然と、一行が消えたあたりを口を開けて見つめるだけだった。






 長老の術法の源を探り、その流れに沿ってヨナスに転移させられた一行は、冷たい床に折り重なるように投げ出された。転げ落ちた先にはなぜか水があり、うまい具合にそこに着地させられたセテが水しぶきをあげた。
「くそっ! なんでこんなところに水があるんだよ!」
 濡れ鼠のセテが忌々しげに叫ぶ。無事に床の部分に着地できたレイザークは、ジョーイやピアージュ、ベゼルらを立たせてやりながら、セテの怒鳴り声をかわすように肩をすくめて無言の返事を返す。
 ジョーイは、侵入時から登山用かと思うほどの大きなリュックサックを背負っていたが、それを丁寧な手つきで横たえ、ファスナーを開ける。その中には、意識のないまま毛布にくるまれたサーシェスの姿があった。
「とりあえず全員、無事だな」
 ヨナスが一行の顔を見回しながら確認する。
 水の神殿と呼ぶにふさわしい場所であった。白い大理石の石柱が並び、規則正しく区画を区切られた床の間を、小川のように澄んだ水が流れている。純白の水の宮殿といった風情だ。
「ここが長老の住まいか? なんだか殺風景な神殿みたいだな」
 ずぶ濡れの服や髪を絞りながらセテが尋ねる。
「子どもの頃に何度かしか来たことがないけど、そうだよ。奥に託宣の間ってのがあって、長老はそこで〈水の一族〉の声を聞くんだ」
 ジョーイがそう答えた。
 バラバラと人が駆け寄ってくる足音がした。警護の者であろう。剣を抜きはしなかったが、レイザークが身構えた。あっという間に周囲を十数人の男たちに囲まれたので、ピアージュがレイザークに攻撃してよいか目配せするのだが、レイザークは首を振り、敵意のないことを示すために男たちに対して両手のひらを見せる形で手を挙げた。仕方なく、他の面子もそれにならう。
「何者だ。どうやって入った。ここを水の神殿と知っての狼藉か」
 警護の者たちの口ぶりがあまりに時代がかっていたので、ヨナスが吹き出す。いわく、「『狼藉』なんて言葉、久しぶりに聞いたぜ」ということであったが、剣を手にした男たちに威嚇されたので口を閉じることにしたようだ。
「敵意はない。長老に会わせていただきたい」
 レイザークがそう周囲の男たちを見回しながら言うが、男たちは答えない。レイザークが大きなため息をつきながら剣を抜くべきかと思った矢先のことであったが。
「よい。この者たちは敵ではない。もっとも、味方でもないが」
 女の声がした。一同は声の主の方角を揃って見やる。警護の男たちが身を引き、通路を作るように一行の前方から引き下がる。その向こうに、純白の長いローブを羽織り、水の色にも似たゆったりした法衣のような服をまとった、小柄な人影が現れる。フードを目深にかぶった、〈水の一族〉末裔の長老その人であった。
「通信用の術法に乗ってここまでくるとは、考えたものです」
 長老はため息交じりにそう言った。感嘆と、ほんの少しの賞賛が見える物言いではあるが、フードをかぶっているためにその表情はほとんど見えない。
「その小賢しさに免じて、無礼は許しましょう。しかし」
「話は聞かないってか」
 セテがビショビショのまま強い口調でそう言った。全身からぼたぼたと水をしたたらせているのがまったく決まっていなかったので、ヨナスが後ろでまた吹き出す。
「俺は風邪をひかなきゃいいだけの話だが、彼女はそうじゃない。意識のない少女をほっぽり出すほど無慈悲で通すっていうならそれでもいいけどな」
 セテはジョーイが抱えている小さな少女を指さした。長老はわずかにひるんだ様子だった。サーシェスはもとから意識がなく、顔には生気が認められない。彼女が意識不明に陥ったのはこの転移のせいであると押し切るつもりなのだ。
「……自業自得であろう」
「慈愛に満ちた〈水の一族〉の末裔を束ねる長老の言葉とは思えないがな」
 セテが意地悪そうにニヤリと笑った。
 長老は小さくため息をつくと、周りの者たちを完全に退けさせ、身振りで奥へついてくるよう示した。一行は長老に悟られないよう安堵のため息をめいめいつき、その後ろに従う。セテのはったりもここまで通用するとは思わなかったが、まさかの奇襲作戦成功であった。
 向かった奥の間は長老の執務室のようだった。壁一面に本棚が並び、びっしりと分厚い本が詰まっている。蔵書の数でいえば、どこぞの図書館にも負けないくらいだろう。落ち着いた色の上品な調度品が並び、執務をこなす机は使い込まれても丁寧に磨かれているためか黒光りしており、議会の助言者としての彼女の地位の高さをうかがえた。
 柔らかい上質な革張りのソファーにサーシェスを横たえさせると、長老はその小さな頬をなでた。しばらくそうしていたが、彼女は突然顔を上げて一行を振り返った。
「たばかりましたね。彼女の意識はもとからない。意識がないというよりは、彼女の中にはいまはなにも、彼女自身すらない」
 ばれたか、わずかにそう言いたげな顔をしてセテが前に進み出る。
「助けてほしい」
「ここまで私をたばかり、無関係な議会の人間を巻き込んでまで、いまさらなにを」
 吐き捨てるような口調で長老はそう言った。セテのほうを見もしない。
「まぁいまさらってのは分かるよ。ただ、無理強いするつもりはないし、俺たちを粗暴な人間だとも思ってほしくないんだけど。少しだけ力を貸してくれればそれでいい」
「〈水の一族〉への取り次ぎなら、何度言われても答えは同じだ。彼らは二度と自分たちの力を誤って利用されることがないよう、外界との接触をすべて拒絶している」
 にべもない言葉に、セテは頭をかきながらため息をついた。
「それなんだよなぁ……。過去の過ちを悔いて引退したってのに自殺をするわけでもない、かといって自分たちでは何もしたくない、誰かがやってくれればそれでいいって、そう言っているのと同義じゃないか。あんたの後ろにいる連中は結局、自分たちを罵った奴らには協力したくもないってだけのことだろ? 要するに、極めて単純な感情の問題で」
 長老が静かに振り向いてセテをローブの間から睨みつける。
「間違いなんか誰でも起こすし、間違えたら次は間違えないようにすればいい、過ちを正していくことだってできるのに、自分かわいさで引きこもって、誰かがやることを高みの見物していたいだけなんだよ」
「おもしろいことを言う」長老の声が、静かな怒りを含んでいる。
「正せる間違いならそうしただろう。だが、取り返しのつかない過ちの場合は? その重責に耐えかねて死を選ぶ者もいる。世界を破滅に追い込んだ責任を、そなたならどう取るおつもりだ」
「正せない間違いなんかない。誰だって間違いは起こしたくない、だけど人間なら誰しもその判断を誤るのが当たり前じゃないか。だからやり直す方法を模索して悩むんだ。あんたや〈水の一族〉の連中は悩むことも考えることも放棄して、自分たちのことしか考えていない。そういうの、逃げてるって言うんだよ」
「それこそ欺瞞だ。ではなぜ我ら末裔の者たちは中央に戻れないのだ。このような辺境で下賤な生き様を強いられているのは、中央諸世界連合ですら間違いを正す気がないということだ。名誉回復とは言わない。あの当時はフレイムタイラントで焼き尽くされるのでなければ、水位の上がった海に飲み込まれるかしかなかった、そう〈水の一族〉は判断したのだから』
「答えは出てるじゃないかよ。当時、世界が滅亡するよりは、水の力を使ってあの化け物を弱体化させるしかなかったんだろ? 決死の覚悟で人命を前にした究極の選択だ。そのときはそれが最善の努力だった、そうじゃないのか?」
「その最善の努力が間違っていたと言っている」
「だったら次に間違えないようにすればいいだけだろ!? 自分たちの名誉回復しか頭にないのかよ! 選択が間違ってたとしても、そのあとでなにもしなければ評価はそのままだ。あんたたちは間違いを正せる機会を、自分たちで潰してるんだよ!」
 昂ぶったセテの声が室内に響き渡る。他の面子はハラハラしてそのやりとりを聞いているだけだ。この交渉も、セテの発案によるものであるからだ。
「では救世主に責任が取れるというのか! こんな姿で、こんなふうに自分をなくした状態で、いったい彼女に何ができるというのだ!」
 長老の声が珍しく昂ぶり、そしてソファーに横たわる幼女を指さしたのであった。セテの読みどおりであった。セテは勝利を確信したいつもの表情で長老を見やった。
「やっぱりな。あんた、末裔の長老なんかじゃないんだろ? 会ったこともなく従属一族でもないのに、たかが術者が、いまの姿をした彼女を救世主であると認識できるわけがない。過去に会ったことがあるんだろ? なあ、〈水の一族〉の長老さんよ」
 語るに落ちるとはまさにこのことだとセテは思った。彼女の言葉は、末裔《すえ》の者として〈水の一族〉の代弁をするにはいささか主観的すぎるのだ。
 観念したかのようなため息が漏れた。長老はローブをゆっくりはずし、セテをしっかりと見据えた。年老いて白髪となった豊かな長い髪を丁寧に編み込んでおり、深いしわが刻まれてはいるが上品な顔立ちの、優しげな老婆の姿がそこにあった。耳は四大元素の一族の常として、偉大なる一族《イーシュ・ラミナ》のようにとがっており、瞳はエメラルドグリーンでこそないが、一族の属性を象徴したような、湖のように澄んだ水の色をしている。その瞳からは、聡明さとともに、長年の悲しみと後悔に歪んだ固いわだかまりのようなものが見え隠れしていた。
「いかにも、私が〈水の一族〉の長、ナハーデイラだ」
 長は、優しい顔に似合わず威厳の満ちた表情で一行を見渡した。ヨナスを見つけると、
「先代は亡くなられたのか」
と尋ねた。
「じいさまのことなら、とっくにね。オヤジも。俺がいまの長だ」
 ヨナスがそう言うと、
「先代には大戦中、世話になった。しかし、いまの長が〈土の核〉を守っていないのは理解に苦しむ」
「アートハルクに奪われそうになってね。仲間の施した封印で持ちこたえてはいるが、それだって長くはもたない。時間がないってことさ」
 ヨナスがそう説明した。テオドラキスが封印を守ると言って残ったことを、彼は忘れていなかったらしい。ヨナスにとっても、テオドラキスは大切な友人なのだろう。
「そうやって、〈水の核〉をアートハルクとの戦争に利用するというのであろう」
 ナハーデイラは苦々しげにそう言ったが、
「違う。防御のためだ。もしアートハルクが神獣フレイムタイラントを開放したら、世界は火の海になる。それを防ぐために水の力が必要なんだ」
 セテが言う。
「同じことだ。そうして、今度はこの星のすべてを水没させることになる。二度と、もう二度とそのようなことはしたくない」
「アートハルクがやらなくとも、地球のやつらの殺戮兵器がきてこの星は蹂躙されまくるんだぞ。それだって黙って見てるっていうのかよ」
 セテが食い下がる。
「あるべき運命《さだめ》なら。私の決断で多くの罪のない人間が命を落とすことの恐怖を、考えたことなどあるまい。第三者の手によって攻撃に晒されるならそれもいたしかたない。我々は、あるがままでいたい。それに、傲慢な救世主の一存で踊らされたことを、我々は死ぬまで許せないのだ」
 ナハーデイラはソファーで眠る幼女を火のような瞳で睨みつけた。人には誰しも、他人に対する苦手意識や好き嫌いがある。しかし、大人になってそういった相手を完全に拒絶することは、社会との関わり合いの中であまりできないことだ。いったい救世主と〈水の一族〉になにがあったのか。
「過ぎたこと、なんて言っても、あんた納得しそうにないもんな」
 セテが根負けして頭をかいた。だんだん、レイザークの仕草に似てきていることはセテ本人は気づかないようであるが。
「じゃあさ、サーシェス本人が謝ったらどうすんの?」
 突然セテがそんなことを言い出すので、一行はたいへん驚いたのであったが。
「俺たちはあんたに無理強いすることはできないし、これ以上、話をしたってらちがあかないってのはよーく分かったよ。だから、もういっそのこと本人と話をしてどうするか決めてほしいんだよね」
「……意識がない状態でどうやって」
「もうひとつの問題はそこなんだよね。サーシェスは、ある時点からこんな姿になってしまったし、それ以前から救世主としての記憶がない。それに、いまはなぜか意識が途切れて目を覚まさない。かと思ったら、目を覚ましたときに暴れ回ってたいへんな状態だったし、あんたも言ったように中身が空っぽだとヨナスが言ってる。どうにかしてサーシェスの意識を取り戻して、話ができる状態にならないかなって」
「なぜ私が救世主を助けなければならない?」
「さあ。でも、話をしてみたいとは思えない?」
 セテがいらずらっぽく笑った。しかし、
「偉大なる一族《イーシュ・ラミナ》は長年を生きながらえるのに記憶の整理をし、そこで自分以外の〈アヴァターラ〉を作り出す。とくに、救世主のような始祖で長寿の者ならなおさらだ。本人が望まなければ〈アヴァターラ〉は増え続け、目を覚ましたとて、話をできるのがそうした〈アヴァターラ〉のひとつでは意味がない」
「本人そのものと話をすることはできないのか? その……元のサーシェスと」
 実はセテも興味があった。さまざまな記憶を抱えて生きていくのに、人格を作り出して整理をするというのは、人間と違って実に合理的だ。悲しくもある。しかし、その人格が増えすぎたときにどうなるのか、二度と復活しない人格があるのではないか。そのひとつに、ロクランにいたサーシェスの人格も含まれていて、二度と会えないのではないかという恐怖もある。実際、光都以降のサーシェスは以前のサーシェスとはまったく異なるが、おそらくおおもとの救世主に近いはずだ。しかしその彼女も、セレンゲティでの謎の襲撃以降、表に出てきていない。なにか元のサーシェスが望まないことがあるのだろう。どうにかして姿も性格も〈元のサーシェス〉とやらが表に出てくればいちばんいいのだが。
「……おもしろい。やってみる価値はありそうだ」
 ナハーデイラは呟くようにそう言った。
「だが、これは救世主やそなたらを助けるためではない。私が過去二百年の怨みを救世主本人にぶつけたいがためだ」
 セテは顔しかめた。案外、この〈水の一族〉の長は執念深い。個人的な怨みつらみに凝り固まっているのだ。







 託宣の間と呼ばれる最奥の部屋は、異次元に隠居し生活する〈水の一族〉と外界をつなぐ唯一の場なのだそうだ。一族の長老から声を聞くとしてナハーデイラがひとりで儀式を執り行うことに表向きはなっているそうだが、ここではナハーデイラが一族の者たちと術法で通信を行い、さまざまな取り決めを行ったり自治を行うのだという。彼女がここに設置されている結界を越えて、一族のもとに行き来することもできるが、そうしたことは決して公表されていないことであった。
 しかし、術法を施すのに最適化されていることは本当であった。野戦でなければ、術法はある場所、ある時間、ある特定の条件が重なったときに最大限の威力を発揮するものである。とくに、人間の内面に関わる術法であれば、そうした条件は術法の成就に必須条件であった。
 白い大理石の床には巨大な魔法陣が描かれている。それに被さるようにして、小さな魔法陣がいくつも描かれている。これが発動すれば、見事な積層型立体魔法陣となることだろう。
 その中央に、毛布に横たえられたサーシェスがいる。魔法陣の上座にはナハーデイラがいて、小声で呪文を詠唱しながらいくつもの魔法陣を描いては空中に解き放っている。サーシェスの額や頭には粘着テープでいくつもの細い線が貼られており、その先はすぐ脇の四角い無骨な金属製の箱に繋がっている。金属製の箱には画面がついており、グラフのような光の線がいくつか規則正しく上下しているのが見えた。脳波を測定する装置で、中央でも大きな病院で活用されている。〈水の一族〉の術法が医療に深い関係があると言われればそれまでだが。
「なあ、これ、ホントに術法に必要なの?」
 セテが不安になってナハーデイラに向かって尋ねた。
「救世主の脳に直接、術法で信号を送る。心話を脳の一部に対して限定的に、集中的に送るようなものだ。その際、脳の中で眠っている記憶を呼び起こすのに、救世主の脳の働きを逐次、見ていく必要がある。危険があった場合には即座に術法を解除しなければならないためだ」
 長は平然と言ってのけるのだが、危険な状況になる可能性が低くはないという意味だ。セテは不安を覚える。
「始めよう」
 ナハーデイラの歌うような呪文詠唱が始まった。本格的な神聖語による呪文詠唱は、いつ聞いても音楽のように美しいとセテは思った。詠唱に合わせ、床の巨大な魔法陣が共鳴して和音のような音を立てる。この託宣の間にあって、まるで交響楽団の演奏を聴いているようにも思える美しい音色である。水属性の術法は、他の属性の詠唱に比べて遥かに洗練されており、だからこそ楽曲のように美しいのだろう。
 呪文詠唱が中盤に差し掛かると、サーシェスの体がわずかに動いた。それから激しく体が海老反りになる。意識はないが、脳に心話で大量の心語を送り込まれているために、生理的に脊髄が反射したのだろう。
「おい! 大丈夫なのか本当に!!」
 セテがサーシェスに駆け寄り、隣の脳波測定装置に目をやる。脳波のグラフは、不規則に大きく揺れたり収まったりと危うげな様子である。
「救世主の精神防御を突破した。問題ない」
 ナハーデイラが冷静に返した。
「そんなこと言ったって、すごい痙攣だぞ! 平気なわけが……!」
 そう言いかけたときだった。セテの体から急に力が抜け、セテはその場でサーシェスに覆い被さるようにして倒れてしまったのだ。
 レイザークが飛び出してきてセテを抱え起こす。セテに意識はなく、完全に体から力が抜けてしまっている。しかし、セテの右手のひらが光っているのでレイザークは舌打ちをした。サーシェスとの絆といわれていた右手の傷跡が、緑色の強烈な力を放ち、明滅しているのだった。
「くそ! こいつのせいか! おい! セテ! しっかりしろ!! セテ!!」






 レイザークが叫ぶ声が遠のいていく──。レイザークの声を聞きながら、セテは自分の体が暗闇に引き込まれていくのを感じていた。痛みは感じないが、ともすれば体を引き裂かれそうな衝撃が加わり、セテはそのたびに歯を食いしばって四肢がバラバラにならないことを祈った。

 願わくば──
 暗闇の雲が××を飲み込む前に──

 なんだ。誰かの声がする。女だ。

 ×××の愛した──
 死せる夢見の大地に××を──

 祈るような声だった。その声が暗闇に吸い込まれていくと、しばらくして暗闇の向こうからいくつもの光が見えてきて、それらはすぐにセテの体を包み、高速ですり抜けていく。その光の粒は人の顔であった。無数の人の顔が、もう失われてしまってずいぶん経つ技術である写真のように、遥か遠くから流れてきては消えていくのである。
 写真は、いわば場面を切り取ったかのような図画であるが、いま流れてくる光の中に見えるものこそまさにそのとおりであった。よく見れば、レイザークや自分がいる。ジョーイやアスターシャ、ベゼルなど、見知った人物が写真の中で動きを止めたまま、通り過ぎていく。人の記憶を視覚的に辿れば、こんなふうに見えるのかもしれないとセテは思った。
 そうして、見知ってはいたがあまり見たくない顔もあった。ガートルードである。黒髪のガートルードと小さなサーシェスが、互いに手を取り、荒野をたったふたりだけで歩いている。あれはいつのことだろう。なぜあのふたりが一緒に、あんなに悲しそうに歩いているのだろう。
 その間にもさまざまな場面が体をすり抜けていくが、やがて前方から流れてくる光の粒は他の粒と混じり合い、次第に大きな光の円となっていくのが見えた。それを見たセテの目が驚きに見開かれる。その円の中心には、金色の髪をした伝説の聖騎士がいたからである。レオンハルトだ。優しそうに笑いかける黄金の聖騎士の姿に、セテは懐かしさと愛しさと、ほんの少しの嫉妬心を覚えた。もしこれがサーシェスの記憶の中ならば、かの聖騎士はこれほど大きな痕跡を彼女の心に残したというわけだ。
 しかし、また次の瞬間にセテは目を見張った。レオンハルトと思っていた人影が、徐々に闇に溶けていく。溶けるというのは正確ではない、金糸のような美しい金髪が、漆黒の闇夜のような色に変わっていったからであった。その姿に、セテはもうひとり、あまり顔を見たくない人物のことを思い出したのだった。
 ──フライス──!?
「うわっ!!」
 突然、体を引っ張られるような強い引力を感じ、セテは声をあげた。上も下も左右も感じられなかったところへ急に発生した重力がセテを大きく揺さぶり、その直後にセテの体は固い地面に叩きつけられていたのだった。
 胸を強く打ったために息ができない。術法が解除されたのか。にしては、床は白い大理石のあの水の神殿ではなく、乾いた土塊であって、砂が口や鼻に入り込んで苦しいやら不快やらで満足に呼吸ができない。
「くそ……術法……急に中止すんなって……」
 やっとのことでセテが絞り出すように恨み言を言うのだが、周囲に人の気配はない。気配どころか、荒野のど真ん中にあって建物の姿すら見つけることができない。
「な、なんだここ……おい、レイザーク? いないのかよ」
 試しに呼んでみるが、当たり前のように返事はない。ナハーデイラも仲間たちの姿も、サーシェスの姿も見えないのだ。ナハーデイラの策略で、どこか辺境のずっと遠い荒野に飛ばされたのではないか。怨みに凝り固まった人物のやることなど、やはり信頼すべきではなかったのだ。そう考えるとセテは悪態をつき、ブーツで手近にあった土塊を蹴飛ばして、とりあえず手持ちの悪口雑言が尽きるまでナハーデイラを罵倒することにした。
 太陽はもう西に傾いており、セテはとりあえず歩き、建物のようなものがないかを探さなければならなかった。どことも知れない荒野で、身を潜め、体を休める必要がある。こうした荒野にはたいがいたちの悪い生物が潜んでいるし、辺境なら昼と夜間での気温差が激しい。氷点下近くまで下がることもあるので、完全に日が沈んでしまう前に、なんとか火を起こしても問題なさそうなところまでたどり着かなければならない。
 しばらくしてずいぶん傷みの激しい馬小屋のような建物を見つけることができたセテは、慎重に中に誰もいないことを確認して近づいた。完全な廃墟であった。屋根もだいぶはがれ落ちているが、とりあえずは風雨をしのぐことはできそうだ。薄汚いホロのような布きれを見つけることもできたので、セテはそれをマントのようにして羽織り、体温が下がるのを防ぐことにした。床にわずかに残されているわらをかき集め、火を起こすことにも成功した。幸いなことに腰には飛影《とびかげ》と蒼月《そうげつ》が、ベルトの間には不知火《しらぬい》がはさまっていたので、なにかのときにも心強い。
 いったいここはどこだろう。サーシェスは無事だろうか。そしてレイザークたちはいったいどこにいるのだろう。自分と同じようにどこかへ飛ばされてしまっているとしたら、ナハーデイラの狙いはなんだろう。サーシェスに怨みがあるというなら、自分たちを消して、そのあと自分の手でサーシェスに復讐することもできるが、あれほど人の命にこだわっていた彼女が、簡単に救世主を殺めるとも思えないのだが。
 なんという選択をしてしまったのかとセテは深く自分を戒める。水の長の執念深さも知らず、全面的に信用してしまったのは愚策であった。交渉ごとはやはりレイザークのような手練れに任せておけばよかった。そんな後悔ばかりが頭の中を駆け巡る。
 なんとかしてラナオルドへ、ナハーデイラの元へ戻らなければ。しかしいったいどうやって。ここがどこかも分からないし、こんな荒野では通りがかる人影すらない。このままではここでのたれ死にだ。
 太陽はすっかり地平線に隠れてしまっていた。荒野では地平線がくっきり見え、沈んだあともしばらくは美しい夕焼けが楽しめるのだが、セテはとうていそんなものを楽しむ気にはなれなかった。周囲から拾ってきた枯れ枝をたき火に放り込みながら、セテはすきま風の音を聞きながら考えを巡らせた。当然、いい考えなど浮かぶわけもない。喉も渇いたし、なにより空腹だ。疲労はさほどでもないが、いっそのこと明日の朝まで寝てしまえば飢えを感じなくてすむ。
 そんなとき、風の音に乗ってわずかに聞こえた物音を、セテは聞き逃さなかった。吹き付ける冷たい風の音と枯れ木のはぜる音以外、ここにはなんの音も聞こえてこなかったからだ。
 セテは小屋を出て目をこらす。すっかり夜のとばりが下りた中にあってわずかだが小さな明かりがふたつ、動いているように見えた。耳を澄ませると、固い足音が複数、規則的に聞こえる。早駆け獣の蹄の音に違いなかった。日が落ちてからの移動など、ろくな人間ではあるまい。だが、いまのセテに選択肢は他になかった。
「おーーーいッ!!!」
 セテはたき火のなかから最も長い枯れ木を引き抜いて、それを頭上で左右に大きく振りながら何度も呼びかけた。しばらくすると、早駆け獣らしき移動者たちが気づいたのか、足を止めたようだった。それからセテはさらに松明を振りながら声を上げた。小さな明かりがだんだんと大きくなってくるような気がした。こちらへ向かってきているのだ。
 セテは松明を持ったまま走り出した。向こうの明かりは確かにふたつで、二頭の早駆け獣に乗っているらしいことがわかったからだ。軽く合図を送る声が聞こえ、早駆け獣が早足で近づいてくる。セテは松明のおかげで走りづらかったが、一生懸命彼らのもとへ走った。立派な顔つきをした二頭の早駆け獣がセテを目視できる距離まで来たところで、馬上の男が声をかける。
「こんな時間に、こんな場所で……なにか困ったことでも?」
 セテは息を呑んだ。松明の明かりで、男の顔を縁取る黄金の髪が暗闇にあっても輝いて見えたからだ。
 まさか──。
 セテはその後ろに、立ち止まって早駆け獣に乗って状況を疑わしげに様子を見ているもうひとりの人影に目をやった。線の細さからすぐに女であることが分かったが、さらにセテは驚きのあまり息を呑む。フード付きのマントで隠れてしまっているが、美しい金髪の──アートハルク帝国皇帝、ガートルードがそこにいた。
 セテはもう一度、目の前にいる男に視線を移し、松明の明かりに揺れる見事な金の巻き毛を確認した。馬上から見下ろしているのはまぎれもない、伝説の聖騎士レオンハルトその人であった。

【第三章:死せる夢見の大地 完】

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