第三十一話:大混戦

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 波は穏やかで頭上には青空が広がっており、嵐や竜巻の類が発生するとは思えない状況であった。にも関わらず、船首の鼻先には海面から巨大な水柱が二本、噴水のように大量の海水を噴き上げている。ヴィンスがそれを回避させるために舵を切ったのだろう。船上の積み荷が崩れ、セテはもんどり打って倒れそうになる。
 水柱のほんの数百メートル手前で船は旋回し、水柱との正面衝突は回避されたが、海中からおびただしい量の海水を吹き上げているところへただの水の柱と侮って突っ込んでいたら果たして船はどうなっていたか。
 水柱は生き物のように自身の身体を震わせながら天を突くほど大きく伸び上がると、やがて左右のそれぞれが互いに身体を預けるかのようにしなる。さながらアーチ型の城門のようだ。ふたつの水柱がひとつになり、巨大な水の橋を築くと、アーチの内部に海水が舞台の緞帳さながらに流れ落ちた。遠くから眺めるだけならば、海面から巨人が鏡を突き出したようにも見えるだろう。
「なんだいったい。海底火山の噴火かと思ったが」
 ヴィンス船長とレイザーク、ジョーイが甲板に姿を表し、その後ろからヨナスとベゼルがちょこちょこと着いてきていた。
「術法の匂いがするな」
 ヨナスが得意げにそう言ったので、レイザークが険しい表情で愛剣デュランダルの柄を掴む。しかし、
『船長ヴィンス・ヨハンセンと〈蒼海の淑女〉号乗組員に告ぐ』
 水面を通じて声がしたので、甲板にいた者たちが驚きの声をあげた。女の声ではあるが、年齢はといえば若くはない。しかし透き通る水のような清廉さが感じられる、美しい声だ。
「〈蒼海の淑女〉? この船の名前が?」
 ジョーイが吹き出しそうになるのをこらえてそう言ったので、ヴィンスがまたしてもその頭を叩く。
「剣を収めろ。心配はいらん」
 ヴィンスはレイザークにそう告げ、剣を降ろさせた。それから水のアーチに向かって大声で叫ぶ。
「ヴィンス・ヨハンセンならここにいる。何用だ、長老」
 先ほど話題にのぼった、末裔の者たちの長老であろう。ヴィンスの呼びかけに応えるように水のアーチの内部を流れ落ちる海水がゆっくりと動きを止め、その表面が氷のごとく滑らかになる。さながら水鏡のようであった。その水鏡の中央に、ローブを羽織った小柄な人影がひとつ。目深にフードをかぶっているために口から下しか見えないが、なるほど、声のとおりの老婆であることが伺えた。
『ハーシェル港への入港は認められぬ。ラナオルドへの入国もだ』
 長老と呼ばれた女性は冷酷な声できっぱりとそう言った。
「理由は」
『〈水の一族〉の長の判断によるものだ。その船に救世主を乗せているであろう。それをよしとしていないためだ』
 ヴィンスは小声で悪態をつき、レイザークと、その様子をあんぐりと口を開けて見ていたセテを見やった。あわててセテが口を閉じ、ヴィンスに駆け寄る。
「はいそうですかって従うわけじゃないだろうな」
 セテの言葉に少しヴィンスは苛立った様子で、
「当たり前だ。こっちだって積み荷を下ろしたいし休暇だって取りたいし、なにより引き返すといってもさほど燃料を積んでいるわけではない」
「燃料? 帆船なんだから風で動いてるのかと思った」
「いまどき帆だけで進む船がいたら逆立ちして小便してやってもいいわ。帆とマストは男のロマンなんだよ」
 そうヴィンスが言ったので、セテは小さく「あっそ」と返してため息をついた。
「長老とお見受けする。私は聖騎士団の者だ。話を聞いていただきたい」
 レイザークが一歩前に出て水鏡に向かってそう申し出た。
『聖騎士《パラディン》レイザーク、存じ上げておる。あなたがたが何をしようとしているのかも』
「それなら話が早い。〈黄昏の戦士〉を代表して正式に要請したい。〈水の一族〉へのお取次ぎを。力を貸していただきたいのだ」
『〈水の一族〉は誰にも会いませぬ。アートハルクはもちろん、中央とも、そしてあなたがた〈黄昏の戦士〉とも関わりたくないと申しておる。そして、〈水の一族〉の末裔たる我らもそれは同じこと』
「なぜだ。このままではアートハルクによってフレイムタイラントの封印が解かれ、世界は再び焦土と化す」
『フレイムタイラントを封じるため、二百年前に何がなされたか知っておいでだろう。〈水の一族〉が守る封印を解呪したことで大沈下を引き起こした。救世主《メシア》や聖賢五大守護神《ファイブ・ガーディアンズ》らの浅はかな考えで……な。〈水の一族〉はそれを深く嘆き、恥じ入り、悔み、二度と自分たちの力を戦に利用されまいとこの世から姿を消した。いまでも世界の惨状に心を痛め、失われた命と文明のために静かに喪に服している。世界が滅びるのであればそれも運命《さだめ》、水が低きに流れるのであればそれが道理。抗い、足掻くことで人を傷つけるよりは、静かに滅びを待つというのが〈水の一族〉の統一見解だ』
 厳しい言葉であった。レイザークが唸り、口をつぐむ。〈水の一族〉やその声を伝える長老が救世主を嫌っているというヴィンスの言葉は嘘ではなかった。嫌悪ではなく、もはや怨嗟すら感じさせる物言いであった。
「〈水の一族〉の総意は理解した。だが我々はあなたがたしか頼る者がいないのだ。せめて話だけでもしたい。どうか取り次いでいただけないものか」
 レイザークは辛抱強くそう言った。
『四大元素の力は人の手には余るもの。偉大なる一族《イーシュ・ラミナ》はそれらを制御するために現世《うつしよ》での姿を与えたが、ひとたび手元が狂えば厄災と化す。だからこそ、要石《かなめいし》で封印し、守らねばならないものだ。その力を解放したがために地上の大都市が海に飲み込まれ、多くの人命を失うことになった。いまの世の苦難はフレイムタイラントのせいだけではない、荒れ狂う水の力も存分に加担していたのだ。〈水の一族〉が、大沈下の果てにどのような誹りを受けたか分かるまい』
「〈水の一族〉の長年の苦悩は我々には計り知れない。誹謗を受けたことについては心中察して余りある。しかし、だからといって世界が滅びる様を見届けるだけというのは、あまりにも消極的すぎはしまいか。あなたのような知恵ある長老までも、彼らの受動的な考えに賛成しているとは思いたくないものだが」
『我ら末裔の者も同じだ。中央とアートハルク帝国のいずれに与しても戦乱に巻き込まれることは明白。我々は静かに、平和に暮らしたいだけなのだ。いつもどおりの暮らしを続ける、それがどれほどの幸福をもたらすか……戦士を生業とする聖騎士のようなあなたがたに、それを説いても詮ないことかもしれぬが』
「その暮らしも、戦わなければ蹂躙されることもあり得るではないか」
 さすがのレイザークも今回ばかりは歯切れが悪い。
『人間の価値観でこれ以上話を続けるのは時間の無駄だ』
 長老は冷たい声でそう言い放った。
 セテは大きなため息をついたが、その横で船長ヴィンスもため息をついた。だが、それは呆れたような素振りでもなく、納得したような小さな頷きを伴ったものであった。
「長老の言い分ももっともだ。我々は進路を変えて別の港に停泊することとする」
 その言葉に一同がざわめいた。
「こいつらを乗せていなければ我々は帰ってよいという認識だが」
『無論だ』
 ヴィンスは長老の言葉を待っていたとばかりに近くの伝声管に向かって叫んだ。
「取舵いっぱい! 全速前進!」
 船は左三十五度まで船首を回し、加速をつけて滑り出す。その横で、水鏡の中の長老が静かに船を見下ろしている。ヴィンスはそれを見上げながら、
「心配せずとも、このお客さんたちを俺たちの故郷まで連れていくことはせん」
 そう言って、海の男らしく長老に敬礼を返した。レイザークとセテは水鏡の中で表情を変えずにいる長老を苦々しく思いながら見つめていたが、そんな視線を気にすることもなく、水鏡はゆっくりと海中に沈んでいった。
「ふん。本当に我関せずなんだな」
 セテが忌々しげに唾を吐き、嫌悪感をあらわにした。
「しかたあるまい。ふつうの人間なら厄介ごとに巻き込まれるのは御免だろうよ」
 レイザークが腕組みをしながらそう言った。どうやら、長老の言葉は相当レイザークを落ち込ませているようだ。
「俺だって厄介ごとは御免だ。悪いがあんたらには次の停泊地で降りていただこう」
 ヴィンスがそう言ったので、セテは「はぁ!?」と声を荒げた。
「勘弁してくれよ。俺たちを辺境のどことも分からないところに置き去りにするつもりか!?」
「勘弁してくれってのはこちらの台詞だ。この船は商船だし俺たちだってただの船乗りだ。あんたらがおっ始めようとしていることに興味もないし、協力できることもない。とにかく厄介事に巻き込まれて商売ができなくなるのも御免被る」
 ヴィンスがそう言うと、
「なるほど。アートハルクに加担している国もあんたらの顧客ってところか」
 そうレイザークが尋ねた。ヴィンスは軽く頷き返し、
「そういうこと。戦争だなんだと言っても、一般人には関係ない。必要としている場所へ必要とされる物資を運ぶ、これが俺たち商船に乗る者たちの本来の仕事だからな」
「……分かった。従おう」
 レイザークがそう言ったのに対し、セテとベゼルはたいそう憤慨して大騒ぎだ。
「そんな簡単に承諾するなんてどういうことだよ! あんたらしくもない!」
「そうだそうだ!! 辺境の言葉なんてまるで分からないし、足もないのにこれからどうするつもりなのさ!! ちょっとヨナス! あんたさっきから涼しそうな顔ばっかりだけど、なんとか言ってやったらどうなの!?」
 ベゼルに煽られたヨナスであったが、黒髪の小柄なこの少年は大人っぽいため息──実際に、彼はここにいる誰よりも長く生きる〈大人〉ではあるのだが──をついて肩をすくめた。
「これだからお子様は」
「なんだって!?」
 セテとベゼルがヨナスに食ってかかるが、それもまた肩をすくめて少年がかわす。
「考えが子どもだって言ってんだよ。見ろよ、あの聖騎士のオッサンはちゃんと理解してるじゃないか。お前ら、自分たちが特殊な環境に生きてきたことで麻痺してるようだがな、ごくフツーの人間が戦争に関わることを忌避するのは当たり前だろうが。あのバアさんだってそうだ。自身も関わりたくないし、仮に関わったとしてその判断によって下の者が苦しむことになるかもしれない、命に関わることになるとすればなおさらだ。上に立つ人間ならごく自然にそう考えるだろうよ」
 そう言って、ヨナスが珍しく憮然とした様子のレイザークを仰ぎ見たので、セテとベゼルも彼を見上げる。大柄な聖騎士はどことなく猫背に見えた。
「オッサンは余計だがな……」
 レイザークがため息交じりにヨナスを睨みつけるが、ヨナスはお構いなしだ。
「従属一族は、偉大なる一族《イーシュ・ラミナ》を助けるための戦闘能力も与えられているし好戦的な一面もあると聞いていた。サーシェスの嬢ちゃんが遭遇した〈風の一族〉や、そこのヨナスの坊ちゃんみたいな〈土の一族〉、それに、保身のために裏切り、業火で焼かれてなお破壊を続ける〈火の一族〉も。〈水の一族〉も当然そうだと思っていたが、この反応は……。争いを好まないのは一族の性質の問題、癒やしと浄化を司る種族だからかと思ったのだが……浅はかでおこがましいことだった。従属一族とはいえ、好き好んで戦いに出たがる者などふつうはいないってことだ。そうする理由ってもんがあっただけだろう」
「〈土の一族〉、いやヨナスに限ってはその理由は当てはまらないと思うね。『おもしろいからやる』って本人も言ってただろ」
 セテがそう言うと、
「おもしろそうだからってのだって立派な理由だぞ。俺はずいぶん退屈してたんだからな」
 と、ヨナスが偉そうにそう言うのだったが、
「やかましい」
 とレイザークが一蹴する。
「〈水の一族〉やその末裔のあの婆さんには理由がないんだ。むしろ、やりたくない理由がある。人ごとで済ませたいのは彼らの戦後の扱いを考えれば当たり前だ。自分たち以外にやれる人間がいるのだから。俺たちのような剣士がな。正しいことは相手もすべきだなんていうのは自分の価値観を押し付けるたいそう傲慢な考えで、それこそロクランを占領して宣戦布告をしたアートハルク帝国と変わりはしない」
「アートハルクと一緒にするなよ。胸くそ悪い。だいたい、俺は承服しかねるね。人に任せて知らんぷりなんて」
 そうセテが尊大に腕を組んでレイザークを睨みつけた。
「お前はまだ若い。自分でなんでもできると思ってるし、自分がやらねばならないなんて青臭い使命感に燃えているだけだ」
「なんでもできるなんて、そんなこと思ってねえよ」
「関わっていくのが使命だとは思っているだろうが。だがな、世の中のほとんどは他人事でできてるんだ。自分事なんてのは、今日の晩飯はなににしようとか気になる娘にどう声をかけようとか子どもに言うことを聞かせるのにどうしようとか、その程度なんだよ。で、その程度が人にとっては十分、せいいっぱいなんだ」
「分からないよ。自分にできることがあるなら俺はしたいし、何かをできる能力がある者ができることを実行しないなんてのは、俺はすげえずるいと思う」
「それこそ軍隊の考えだな。人生は任務じゃない。やるもやらないも、その人間の自由だ」
 そこでセテは顔を瞬時に怒りに染め、声を張り上げた。
「じゃあ俺の自由はどこにあるんだよ! あんたに無理矢理引き込まれてさんざんな目に遭って、いまここにいるのは俺の意志か!? 俺があんたについて行くって選択したのは、それしか選択肢がなかっただけだろ!?」
 レイザークは大きなため息をつくと、
「いきなりなんだ? うちに居候するのがいやだったなら出て行って他で暮らすこともできただろうし、剣を教えてくれと懇願したのはお前だろう」
「アートハルクに故郷を火の海にされて母さんも友人もピアージュも失ったのは俺のせいじゃないし! 彼女が……!」
「セテ」
 ジョーイがそこで割って入ってセテの肩を掴む。
「それは言っちゃいけないことだよ。みんな分かってるから。セテだけじゃなく、みんなにだって自分の意志でどうにもならないことがあるんだ」
 ジョーイに言われ、セテはぐっと歯を食いしばる。
「……何かのせいにしたい気持ちも分かるけど、いまはこれからどうするかを考えないと、ね?」
 セテはジョーイの手を振り払い、背を向ける。
「おい! 話はまだ」
 レイザークが声を荒げるが、それもジョーイが制止する。
「……ちょっと頭、冷やしてくる」
 そう言うと、そのままセテは階段を大股で降りていった。プリプリといつものように癇癪を起こしているようにも見えたが、その肩がどことなく落ちているのは気のせいか。
「相変わらず年中、生理で機嫌の悪いお嬢さんだ」
 レイザークが鼻息を荒くしてそう言うと、
「旦那ももう少しそういう発言は控えたほうが」
 ジョーイが肩をすくめながらレイザークをたしなめる。
「それにさっきの痴話げんかみたいなのも、子どもたちの前で見せちゃだめだって」
「誰と誰が痴話げんかだ」
「まあまあ。ちょっと彼、参ってるんじゃないの? 特使なら作戦の終了後には特別報酬や特別休暇が与えられるのに、ずっと災難続きで」
「ヤツが自分の意志でサーシェスの嬢ちゃんを連れ出したのまで不可抗力の災難だって言いたいなら、お前のケツにデュランダルを突っ込んでやりたいところだがな」
 レイザークがジロリとジョーイを睨みながら苦々しそうにそう言った。
「まぁ、それもね。でも、起こったことは仕方ない。とりあえず、ヴィンスに次の停泊地に連れて行ってもらってからのことを考えよう。辺境の地理なら俺に任せてよ。俺と兄貴のツテ、ずいぶん使えると思うよ」
 ジョーイがいつものようにニコニコしながらそう言うので、レイザークは大きなため息をついて渋々頷いた。しかし、レイザークはセテの去っていった階段を見つめながら、どことなく上の空である。
「自分の意志ね……。実は意志なんざ関係なく、未来が決まってるんじゃないかって思いたくもなるわな」
 レイザークは誰に言うとなく、そう呟いた。






 セテは船室まで階段を降りてくると、大きなため息を吐いた。
 なんでレイザークにあんなことを言ってしまったのか自分でも分からない。〈水の一族〉末裔の長老が人任せであることに怒りを示しておきながら、自分の意志でどうにもならないことに憤慨するなんて、誰が見ても矛盾していた。だが、自身が翻弄されている苛立ちを隠せないのだ。
 ジョーイの言うことももっともで、人生には自分だけでなんともならない状況ばかりだ。あのままいたらもっとひどいことを言いそうだったので、ジョーイが間に入ってくれたのはありがたいことではある。しかし、かつての親友であったレトの仲裁の仕方にそっくりで、セテはどうにも複雑な気分になる。そんな、いろいろなもやもやが頭の中にみっしり詰まっているために、感情を制御できないのだ。
『ずいぶん参っているようだが』
 突然、何者かに声をかけられ、セテは階段の脇で飛び上がらんばかりに驚いた。階段脇の隙間にある暗闇に、怪しい人影が揺れる。それを見たセテは、船室の廊下に誰もいないのを素早く見回して確認し、わざと大げさにため息をついて面倒臭そうな素振りを見せた。
「またあんたか。誰かに見られたらどうするつもりなんだよ」
『一難去ってまた一難……といったところか』
 祭司長ハドリアヌスの影は、セテの問いかけには答えず、くぐもった声で笑っている。
『ハーシェル港からラナオルドへの入国がかなわないようだが、別の停泊地からの迂回はおすすめできん。これを見たまえ』
 ハドリアヌスの影が中空に軽く指を突きつけると、ちらしのような一枚の紙が浮かび上がる。もちろん祭司長の影同様に本物ではなく、大気中に投影されたものである。セテは始めはそれを興味なさそうに見つめていたが、急に顔を近づけて食い入るようにそこに書かれている文言を目で追う。
 それは手配書であった。ロクラン王国アスターシャ王女を拉致した、少年ひとりを含む男四人組を捜索している旨が書いてある。少年ひとりというのはおそらくベゼルのことであろう。男のうち、ひとりは中央諸世界連合の関連職員であるとも。
「これ……俺たちのこと……だよな? ついでにこの関連職員って」
『さすがに中央特使とは書いていないが、おそらく君のことだろう。辺境のあちこちの港に配布されているそうだ』
「ちょっと待てよ! 拉致って」
『アスターシャ王女は運よく門《ゲート》を通ってアートハルクの占領下であるロクランから逃げおおせることができたが、その後、君たちと合流し、光都へたどり着いた。そこで今度は運悪く、君が救世主《メシア》を連れて逃げる際に、王女が一緒に行動していたというわけだ。中央からの手配は当たり前だが、さすがに占領下にあるロクランから王女だけが脱出できている理由や、その後に行方不明になったことは公表できないし、その件について被占領国に対して光都から打診することも困難だ。そうこうしているうちに、今度はロクランから手配書が出回った、と。中央としても寝耳に水だろう』
 文書の下には、月桂樹を模したロクランの紋章と、ロクラン外務省の印が記されている。しかし、
『だが問題は見てのとおりだ』
 併記されている紋章に、セテは息を呑む。真紅の炎を模した新生アートハルク帝国の紋章である。
 アートハルク帝国が、ロクラン王国と共同で発表した文書であることは一目瞭然であった。占領したロクランと友好的な関係にあることを示すためだろうか、それとも、支配下に置いていることを誇示するためだろうか。いずれにせよ、この文書にはふたつの国家が懸賞金をかけてまで王女を探し、彼女を拉致して連れ回している不逞の輩をどうにかしたいという意気込みが満載である。
『これはアートハルクによる入れ知恵だ。ロクラン側がどこまで知らされたかは定かでないが、アートハルクは君たちと行動するアスターシャ王女の存在を確認しているわけだから、王女の無事をエサに、ロクランに話を持ちかけたと推測できる。ロクラン国王としては王女の安全を確保したいし、アートハルクとしては救世主を手に入れたい。何者かに拉致されたと世間に公表すれば、中央もロクランも面目は立つし、世界中から情報が入ってくる。つまり、両国の利害が一致したというわけだ』
「……世界中からお尋ね者かよ……」
 セテが自虐的に笑いながら髪の毛をクシャクシャとかき回す。
『それについては私のほうでなんとか対策を立てよう』
「あんた、中央の人間なのにそんなことできるのか? っていうか、そんなことしていいのかよ」
『愚問だ。聖救世使協会は、中央諸世界連合の中でも異色の組織であることを忘れるな。だが、万能ではないことも忘れてくれるな』
「ふん、当てにしないでおくわ。で、俺はどうすればいい」
『即座に聖騎士《パラディン》レイザークに事態を告げよ。なんとかして危機を回避するのだ』
「簡単に言ってくれるよ……。なんてレイザークに説明すればいいんだよ。すでに十分、怪しまれてるんだ。俺が言っても信じやしないって」
 前髪をかきあげながらふてくされたようにセテはそう言った。が、
『頼んだぞ、〈青き若獅子〉』
「えっ!?」
 祭司長からそのように呼ばれるとは思ってもみなかった。なぜ彼がその呼び名を知っているのかを尋ねるいとまもなく、ハドリアヌスの影は跡形もなく消え失せていた。






 不審船が現れたのはそれからほどなくしてのことであった。船長ヴィンスの判断により、〈蒼海の淑女〉号は予定していたハーシェル港への針路を変更し、ラナオルドから海を隔てた隣国、オルレーヌと呼ばれる小国にあるもっとも大きな港、コルマールへと向かっていた矢先のことである。
 セテが操舵室に入ると、双眼鏡で船の動向を監視しているヴィンスと、その横で望遠鏡を覗いているレイザークのふたつの大きな背中があった。大柄なふたりが並んでいて視界が遮られてしまっているので、セテは彼らの前に出て前方を確認し、ふたりの顔を伺う。双眼鏡から目を離さずともセテの気配に気付いていたヴィンスが、目線は双眼鏡の先を捉えたままこう言った。
「つい三十分ほど前からだ。あまりこの海域で他の商船に出会うことはないんだが、先ほどからこの船と十分に距離を保ったまま、並走している」
「目的地が同じなら並走もありなんじゃないの?」
「こんな沖で並走する必要があれば、な。そもそも、中央や国家に属する巡視船の類なら、それと分かるような印やら船名やらが船体にデカデカと描かれている。それが見当たらないばかりか、国旗も社旗も掲揚されていない」
「えーっと……」
 セテがわけが分からないといったように間延びした声を上げると、
「すまんな。中央の下っ端剣士は海に近寄らないどころか、船なんざ乗らないからな」
 レイザークが呆れた素振りで肩をすくめて見せた。
「船尾にあるマストには、その船が所属する国旗が掲げられる。船首のマストには、所属する会社や団体を表す旗、社旗と呼ばれるんだが、これが掲げられる。うちの船の場合は国旗はラナオルドのものだし、社旗は繊細で美しい髑髏をあしらったものだ」
「ああ……」
 あの趣味の悪い旗ね、とセテは続けて言おうとしたが黙っておくことにした。あれがまさか会社の旗だとは思いも寄らなかった。ずいぶんな美意識である。
「それから、船首付近の船体にさまざまな印、たとえば中央の巡視船なんかでは三本の線などが描かれていたりするから、旗も見えないほど遠い距離からでもだいたい分かるようになっているものだ。あとは、もっとも高いメインマストに行き先の国旗や、信号旗といってアルファベットや数字を表すさまざまな旗を掲げることで、他の船などと通信を行うことができるようになっている。場所によっては決められた信号旗を掲げることになっているんだが……いずれも掲揚されていない。なにか障害があったのなら、そのような信号旗を掲揚するはずなんだがな」
「嫌な予感がするということで、先ほどからこうして速度を落としてあちらさんを監視しているというわけだ」
 ヴィンスの解説とレイザークの状況説明に、なるほど、とセテは頷いて見せた。
「相も変わらず向こうも速度を落としているし、なにか魂胆がありそうなんだが……ん?」
 ヴィンスが双眼鏡のピントを合わせながら呻いた。
「信号旗が掲揚されている。こちらに停船を求めているようだ」
「船籍不明の船の信号に従うつもりか?」
 レイザークがヴィンスを睨みつけると、
「事故で信号旗が掲揚できない場合もある。海の男は海上の仲間を見捨てたりしないものだ。だが、用心に越したことはない」
 ヴィンスがそう言ったのでレイザークは望遠鏡をセテに手渡し、顎でセテを誘う。
「来い。念のためだ、甲板でやつらを見張るぞ」
 レイザークは剣の帯を結び直し、ドカドカと廊下を歩いていく。その後ろをセテが追いかけた。
 ヴィンスは停船に従う旨を信号旗で掲げさせ、停戦命令を下す。〈蒼海の淑女〉は静かに停船し、相手の返答を待つ。しばらくすると、向こうの船から小型の連絡艇らしき船が降ろされ、こちらに向かってくるのが見えた。
 小型艇といえどもけっこうな大きさで、大型河川を渡る旅客艇くらいの大きさであった。〈蒼海の淑女〉の数キロ手前くらいから、船首に制服姿らしき男が立っているのが見えた。男が手を掲げると、小型艇、もとい中型艇は速度を落とし、いったんそこで停止する。レイザークは彼らの船が武装していないかを注意深く観察し、同じく操舵室でそれを見ていたであろうヴィンスが甲板に現れたので、ヴィンスの表情を伺う。
「やはり社旗もなにも掲げていないのが気になるな」
 ヴィンスは船首の男が旗を持ち出すのを凝視しながら呟いた。両手に旗を持った男が、左右のそれらを上に上げたり下に降ろしたりせわしなく動かしている。手旗信号の起信信号である。ヴィンスの後からついてきた船員が、信号を解読できていることを示す信号を、彼らと同じく旗を使って返信し始める。
「なんて言ってんだ、あいつ」
 セテが尋ねる。見れば、ヴィンスの表情はずいぶん険しい。
「オルレーヌ港湾局の連中だ。中央からの要請による極秘作戦を展開中のため、社旗や国旗を掲揚していないことを説明しているんだが、その極秘作戦とやらが、どうやらあまりあんたらにはよろしくないものだったりする」
「もしかして……指名手配犯の捜索とかなんとか?」
 そこでヴィンスがセテを凝視する。相手の船への警戒は解いていない表情ではあるが、同時にセテの言葉に驚いている様子でもあった。
「船長、どうします?」
 こちらの旗手がヴィンスに尋ねた。ヴィンスは腕組みをしたまま唸り、レイザークとセテの顔を交互に見つめる。
「ロクラン王国からの通達だそうだ。ロクラン王国アスターシャ王女を拉致した四人組の男を捜している、だとよ。あんたらまさか」
「誤解だ。そのような事実はない。これまで説明したとおり、王女は行きがかり上、一緒に行動することになったまでだ。必要なら俺の身分を明かして事情を説明してもいいのだが、問題は……」
 レイザークはヴィンスの疑念に即座にそう返したあと、セテを見やる。
「こいつのバカさ加減をこれほど恨んだことはないが、きちんと説明すればあるいは。あれだけの大見得を切って暴れて光都から救世主を連れて逃げたんだから、お咎めナシはありえんだろうがな。潮時だ。ヴィンス、あんたにも迷惑はかけられん」
「分かった。ではそのように伝え、乗船を許可しよう」
「待て! これはアートハルクの罠だ!」
 セテが叫び、旗手に指示を出そうとしていたヴィンスの腕を掴んで振り下ろさせる。
「何を言ってやがる。なんでこんなところにアートハルクの船がいる必要がある」
 ヴィンスはかまわず旗手に指示を出させ、旗手が相手に信号を送り始める。相手の捜索を受け入れる内容だ。中型艇の船首にいた旗手が甲板からいなくなると、すぐに船はゆっくりと〈蒼海の淑女〉号に向かって推進し始めた。
「だめだ! これは大がかりな罠なんだよ! 警告を受けた! アートハルクは王女の安否をエサにロクランをそそのかし、ロクランが懸賞金を掛けて俺たちを捜し回ってるってな! ロクランは王女を、アートハルクはサーシェスを手に入れるつもりで世界中に手配書を回してるんだ!」
「おい! いつ誰からそんな警告を受けた!」
 レイザークがセテの胸ぐらを掴み、体をガクガクと揺さぶる。セテはレイザークにもみくちゃにされたが、
「なんだっていいだろ! だけどあいつらに乗船を許したら、救世主はアートハルクに奪われるんだぞ! ちゃんと確かめなくていいのか!?」
「お前、まさか……」
 レイザークがひときわ険しい表情でセテを睨みつけ、胸ぐらを引っ張り上げる。セテは覚悟を決めて身構えた。潮時はセテのほうであった。
 そのときである。
「待て! やつらを乗船させるな! 全速でこの場から離脱しろ!」
 ヴィンスの鋭い声が響き渡る。港湾局の船はもう目の前であった。全速力で推進すれば、この船より小型の連絡艇は大型商船が起こす波に煽られて横倒しになる危険性が高い。戸惑う船員たちに、伝声管を通して再びヴィンスの檄が飛ぶ。
「取り舵で全速離脱せよ! 黒砂漠商会の偽装船だ! 必要なら全砲門を開いて威嚇しろ!!」
 船員たちは慌てて散開し、緊急事態における自らの持ち場に向かった。操舵室の航海士が船長の代理で船を発進させ、舵輪を大きく回転させる。甲板にいた連中は急な加速と方向転換に、踊るように体をのけぞらせた。ヴィンスは甲板の上のロープに器用に掴まって体を固定させるが、セテはといえば大げさなくらいにもんどり打って床に転げ回っている。
「な、なんだ急に! 黒砂漠……なんだって!?」
 船のへりに掴まってなんとか体勢を保つことのできているレイザークが、ヴィンスに問い詰める。
「黒砂漠商会、聞こえはいいがあんたら聖騎士の大好きな、正真正銘の海賊連中だよ」
「どうして分かった!?」
「さっき試しにカマをかけて信号を送らせてみた。それが決め手だ」
「カマだと?」
「まったくあんたら中央の剣士の物を知らないところには驚きだよ。手旗信号には国際的に定められた決まりがあるんだが、それ以外にもある水域で特別に使用されているものがあるんだ。いわば軍用信号とでもいうべきか。やつらはそれに返答できなかった。その信号ってのが」
「オルレーヌ海軍のもの……か」
「ご名答」
 ヴィンスはおどけたようにそう返した。
「海軍の信号を港湾局の人間が知らないわけがない。社旗も国旗もないのにオルレーヌの人間だと言い張るには、お粗末すぎだ。おまけに」
 ヴィンスは顎で港湾局を詐称する船を示し、
「あの連絡艇の喫水線が異様に下がっているのが気になっていた。連絡艇のわりには重量が重すぎる。見かけよりもずっと重いのは、船の底に武器を抱えた悪い連中が大勢、息を潜めているからだろうよ」
 急に発進した大型帆船が巻き起こす波によってもまれている連絡艇だったが、彼らも慌ててエンジンをかけ、推力を上げることにしたようだ。そして先ほどの船首に立っていた男が、なにやら大声で船の中に向かって叫んでいるのが見えた。それを合図に、まるで堰を切ったかのように、船の中から武装した男たちが飛び出してきたのだった。
 だが、速度を増した〈蒼海の淑女〉はぐんぐん連絡艇を引き離していき、武装した男たちは手に持った武器を振り上げながら悔しそうに叫び声を上げている。
「ふん、あんな小さな船で俺の船に追いつけるわけがないだろうが。俺の船はこの海域でもっとも速いんだぜ」
 ヴィンスが得意げにそう言った。なんとか体勢を起こすことに成功した船の上の面々から、安堵のため息が漏れる。
「ヴィンス、お前さん、海軍の出だな」
 レイザークが尋ねると、
「まあな。十年ほどお仕え申し上げた次第よ。海のことも船のことも、戦い方も、海で商売するのに必要なことはすべて学ばせてもらった。だが、俺には軍は窮屈すぎてな」
 ヴィンスが肩をすくめて見せる。
「同感だ」
 レイザークも納得したように肩をすくめて返した。
「黒砂漠商会とやらは、金になることならなんでもやるタチの悪い連中でな。この数年は海ではなりを潜めて陸路で経済ヤクザを気取っていたんだが、おおかた今回の懸賞金に釣られてきたんだろう」
「ロクラン王家があいつらと手を組むなんて思いたくもないがな」
「あんたら聖騎士のほうがよほど分かってるんじゃないのか? 聖騎士団だって金さえやればなんでもする連中を、いくぶん飼ってるだろうに」
「ふん」
 ヴィンスに貶められているにも関わらず、レイザークは鼻を鳴らすだけでそれ以上はなにも言わなかった。
 唐突に思い出したように、レイザークはロープに掴まって立ち上がることのできたセテを振り返り、つかつかと近づいていくと、乱暴に彼の胸ぐらを掴み挙げて引き寄せる。
「さっきの続きだ。いったいその警告とやらは、いつ、誰から、どうやって発せられたものだ」
 久しぶりにすごみのある声で締め上げられたセテが、苦しそうにうめき声をあげる。
「くそ……離せよ……しゃべれねえだろ……!」
「嬉ションしながらベラベラしゃべるようにしてやってもいいんだぞ」
 聖騎士は優れた魔法剣士である。以前にもレイザークは逆上したセテに幻覚を見せたことがあり、そのときも幻覚だけで人を殺すことが可能だと豪語したものだった。
「ちょっと待て! 待てって! あれ見ろって!」
「小学生かお前は。イマドキそんな使い古された手に乗るかド阿呆が」
「違うって! 後ろ! 空!!」
 セテが絞り出すようにそう叫んだので、レイザークが後ろを振り返る。船上が再び騒然としていた。巨大な鉄球が甲板目がけて飛来してきていたのだった。
「砲弾か!!」
 レイザークがセテの胸ぐらから手を離し、デュランダルに手を掛けたが間に合わない。鉄球とおぼしきものは巨大な銛であった。弧を描いて落下すると、甲板の板のいくつかをえぐり、跳ね返って船のへりにひっかかった。銛の後ろには大人の太もももありそうな鎖がついており、その先は連絡艇に繋がっている。
「クソ! 掴まったか!」
 鎖が不愉快な金属音を立ててこすり合い、ビンと張って連絡艇を〈蒼海の淑女〉に引き寄せる。
「ヨナス! 手伝え! 鎖を術法で吹き飛ばせるか!?」
 レイザークがヨナスを怒鳴りつける。
「酸化のほうが早い」
 ヨナスが飛び出してきて、へりに引っかかっている銛に手を当てた。小声で念じると銛の先端がわずかに赤銅色に変化した。だが、
「なんだこの鉄。というかこれ、鉄じゃ……」
「ヨナス! よけろ!」
 セテかジョーイか、あるいはそのふたりが同時だったか。その叫び声とともに二発、三発と連絡艇から発射された銛が降り注ぐ。ヨナスとレイザークは身を翻して運良くそれらを避けたが、甲板に落下した銛と鎖が金切り声をあげながら船のへりを捉えていた。
「戦闘準備だ! やつらの乗船を許すな!!」
 ヴィンスは伝声管に向かってありったけの声で叫び、自分も腰から剣を抜いた。セテとジョーイも船の後方に駆けだした。
〈蒼海の淑女〉号は昔ながらの帆船を模した商船のため、いまだに左右の舷側に砲門を配している。おそらくこれはヴィンスの独特の美学によるものだろうが、船の側面からしか敵を砲撃することができない。中央の軍艦が可動式の主砲や中間砲、補助砲など複数の砲を備えているのに比べ、船長の独特の美意識を具現化した商船であるがゆえに、本格的な海戦には向いていないのだ。黒砂漠商会の連絡艇はそこをつき、船の真後ろから銛──銛と呼ぶよりは目的から見ればもはや錨《アンカー》であろう──を発射し、自らを船に近づけるというわけだ。
「間抜けどもが。鎖が災いしたな。取り舵だ!」
 ヴィンスが伝声管に叫ぶ。船は大きく揺れ、鎖の先で揺さぶられる連絡艇からは、何人かの男たちが水面に落下していくのが見えた。続いて面舵。急展開する〈蒼海の淑女〉に引きずられる連絡艇は、波にもまれていまにも転覆しそうなほどに横倒しになる。弧を描いた〈蒼海の淑女〉の右舷側の砲門が連絡艇を捉えられるギリギリの角度になったところで、ヴィンスが伝声管に叫んだ。
「右舷砲門開け!」
 右舷の砲門が一斉に開いて砲身が伸びる。
「てえーッ!!」
 威勢のよい号令とともに砲弾が発射される。この距離であれば連絡艇は木っ端みじんであろう。
 砲弾は連絡艇を捉え、まっすぐに打ち出された。すぐに着弾。いや、着弾するはずであった砲弾は、連絡艇の直前で爆煙をあげたのだ。二隻の船が巻き起こす高い波にさらに砲弾の破片が降り注ぎ、水柱が上がる。暴発か。
「物理障壁だ。あんなボロ船にバリア・ジェネレータなんぞ搭載してやがるのか」
 ヨナスが苦々しげにそう言ったので一行が目をこらすと、確かに連絡艇の前面は薄い皮膜で覆われたような状態であり、そこから奥には砲弾の破片も爆風も届いていないのだ。
 そして連絡艇側にさらに新しい動きが見られた。甲板から巨大な黒い鳥が翼を広げ、飛び立ったのだ。ひとつ飛び上がったあとにふたつ、みっつと、次々に中空に舞い上がっていく。
「なんだ、ありゃあ」
 翼を広げた巨大な怪鳥は風を切ると勢いよく中空を滑り出した。よく見れば前方に十字型の杭があり、それに掴まって人間が立っている。人間を乗せて空を飛ぶ、操縦型の飛行物体である。
「旧世界《ロイギル》の〈ドラゴンフライ〉だ。これまたすごいのを持ち出してきたな」
 ヨナスが愉快そうにそう言った。
 ヨナスによれば、〈ドラゴンフライ〉とは汎大陸戦争で使われた飛行用器具である。トンボのような四枚の羽がついた板の上に人間が方向を操るための操縦桿がついており、自在に速度や高度、角度を調整しながら空を滑空することができる。もとは娯楽のために開発されたものであったが、汎大陸戦争の勃発前から軍事用に開発が進み、速度や操縦性、重量、堅牢度などを向上させたうえ、かなりの長距離、高高度も滑空できるようになっているのだという。
 物理障壁を構築するバリア・ジェネレータなるものを、黒砂漠商会のようなヤクザな連中が入手できるはずもないのだが、あんな巨大な銛やら〈ドラゴンフライ〉やらバリア・ジェネレータやら、さらにそれらを操作・操縦する戦闘員を乗せていたのであれば、喫水線が異常に下がるのも無理もないことである。
「いやあ、久々に見たわ。あんな遺物をいまだに活用できるのは、中央か元・聖賢五大守護神《ファイブ・ガーディアンズ》のよわっちい水の魔導師くらいだと思ってたが」
 ヨナスが自慢げにそう解説する。呑気なものだ。
「中央はあり得ない。火焔帝だ。アートハルクがあの海賊連中に武器を提供しているはず」
 セテがそう言い切るのに対し、レイザークが怒鳴りつける。
「なぜそう言い切れる! お前、本当に何を知ってやがる!」
「仲間割れもそろそろいい加減にしてくれ。戦闘準備だ。きっちり働いてもらうぞ。正直、この速度ではもう燃料がもたん」
 ヴィンスがレイザークとセテの間に割って入ったので、仕方なくレイザークはセテから手を離した。
 ヴィンスが伝声管に向かって辺境の言葉でまくし立てると船内がいっそう慌ただしくなり、船員たちの怒鳴り声や足音で騒然とする。ヴィンスの命令で二十人ほどの屈強な船員たちが甲板に駆け上がってきたのだった。彼らの手にはボウガンや剣のほか、砂をたっぷり詰めた麻の砂袋やロープ、はしご、甲板の掃除に使うモップまでもが持ち出されていた。そしてすぐに船の砲門は、迫り来る〈ドラゴンフライ〉の一群に狙いが定められた。
「取りつかれるぞ! 一匹残らず叩き落としてやる!」
 レイザークがデュランダルに高速言語で術法を載せ、振り払う。ヨナスも加勢し、術法で撃退する。船員たちが構えたボウガンからも無数の強弓が放たれた。何人も海に叩きつけることには成功したのだが、高速で機動力を活かして移動する〈ドラゴンフライ〉に対し自らも波にもまれて航海している状態では、なかなか狙いが定まらずに取り逃がすことも多くなってきていた。
 そうこうしているうちに、術法やボウガンの合間を器用にすり抜けることに成功した〈ドラゴンフライ〉が、船の上空に差し迫る。彼らは中空で跳躍し〈ドラゴンフライ〉を乗り捨てると、真下の甲板に次々と舞い降りてきたのだった。もはや白兵戦、近接戦である。
「セテ! ジョーイ! やつらを船内に侵入させるな!!」
 レイザークはデュランダルを振り上げ、甲板に押し寄せてくる敵目がけて走りながら叫んだ。デュランダルの間合いに入った連中は、その刃に触れることなく風圧でなぎ倒された。しかし、敵は次々と飛来してくるうえに着地点もうまい具合にバラバラで、押し寄せてくる一群をレイザークだけで払いのけるのはとうてい無理である。
「近接戦なら任せとけ」
 セテは両手のひらに唾を吐いて両手を叩くと、軽やかに応えた。
 ジョーイとセテは船室へと続く入り口の前で左右に展開し、バラバラと駆け寄ってくる男たちを迎え撃つ体制に入る。
 剣を振り上げた男が突進してきたがセテはそれをなんなくかわし、かがんだ状態から脚を引っかけて相手を倒すと、男の頸動脈に強烈な拳をたたき込んだ。一瞬で失神する急所である。
 ジョーイはというと、船員たちが持ってきたはしごを掴み上げ、水平に構えて前面に押し出した。正面からジョーイに迫ってきた男がはしごに突っかかって押し戻され、その男を中心にはしごを左右に振り回すと、次々と駆け寄ってきた男たちが見事にはしごの両端ではじき飛ばされた。正面の男の額にはしごのへりをお見舞いすると、男は白目を向いて後ろに倒れたので、ジョーイが愉快そうに笑った。
「はしごってのはこうやって使うんだよ!」
 甲板は大乱闘である。体の小さなヨナスは術法で相手をなぎ払う合間にマストの上に転移し、一緒に引き上げた砂袋を次々に落とした。たっぷり砂の入った麻袋は、すぐ下の男たちの頭上に降り注ぎ、その重量と自由落下だけでなんなく敵を撃沈させる。しかし、倒れた男たちや砂袋に突っかかって、敵も味方も大混乱の足場となった。レイザークなどは、あの巨大な剣を振り回したり極太の腕を振り回して敵の顎を粉砕したりと忙しなくしているが、ヨナスの落とす砂袋にやられそうになって悪態をつきまくっている。
 そこへ少女の悲鳴。船底からである。
 勢いよく敵を殴り倒し、その体を盾にしながらセテは入り口まで後退して階下を覗き見る。ベゼルである。左右の砲門の窓に取りついて船内に侵入した敵であろう、ベゼルを追う男たちの姿が見えた。
 セテは砂袋を抱え上げると、階下に向かって放り投げた。ベゼルを捕まえようとしていた男の頭上に砂袋がどっさり降り注ぎ、無様に床に伸びる。セテは階下へ向かって飛び降り、倒れた男の上に着地した。
「セテ!」
 涙目のベゼルがセテに飛びついてきた。セテはベゼルの小さな銀髪の頭をくしゃくしゃなでてやると、
「サーシェスは!?」
「分からない! 大砲の窓からあいつらが飛び込んできて……!」
「セテ! 俺もそっちに行く! 持ちこたえてくれ!」
 階上からジョーイの声がした。ジョーイははしごをふたつ抱えて入り口の内側に入ると、それらとモップを縦と横に器用に組み合わせてロープでくくりつけ、入り口を塞ぐ。味方もこちらに入ってくるのが困難になるが、ここからの敵の侵入を一時しのぎでも遅れさせることができる。
 セテはベゼルを部屋に押し込み、鍵を掛けさせてからサーシェスの部屋を目指す。アートハルクの狙いは救世主であるサーシェスだ。術法を封じられ、意識がほとんどない状態では、幼女の姿をした彼女の拉致など黒砂漠商会の連中でなくとも朝飯前である。
 前方の階段から黒砂漠商会の連中が駆け上がってくる。船底に取りついて侵入に成功した一群だろう。そのすぐ後ろから船員たちが追ってくるのだが、運悪くサーシェスの部屋がすぐ目の前だ。男たちは廊下に面した船室の扉を次々と開けて中を確認している。船員たちが追いついてそこでも乱闘となるのだが、敵の数人が乱闘を逃れてサーシェスの部屋の扉に手を掛ける。
「させるかッ!!」
 セテが駆けつけ、男の顎下に拳を突き出した。見事に男は仰け反り、後ろにいた仲間も一緒に倒れる。そのすぐ後ろからまた別の男たちが飛びかかってきてセテに体当たりをする。セテは廊下に仰向けに倒れる姿勢となり、すぐに起き上がろうとしたところに男たちが覆い被さってきたため、彼らの下敷きになってしまう。
 膝を繰り出して敵の腹などに当てるが、さらにその上から敵がセテの動きを封じるべく覆い被さってくるので身動きが取れない。すぐ真後ろで船員たちと黒砂漠商会の手下たちが殴り合い、蹴り合いを展開しているのだが、セテが動きを封じられていることまで手が回りそうにもない様子だ。
「ここか」
 敵のひとりがサーシェスの部屋の扉を開ける。術法封じ独特の鈍い光がしみ出してきたので、男はセテがわざわざ場所を教えてくれたことに感謝したのだった。しかし。
 激しい衝撃と光が炸裂し、廊下でもみ合っていた男たちもろとも扉が吹き飛ぶ。当然セテも敵味方入り乱れて廊下にたたき伏せられていた。サーシェスの術の暴走か。こんなときに我を忘れたサーシェスがつい先日のように術法を暴発させ、愉快そうに暴れ回るとしたら、最悪の事態である。テオドラキスの船のように、沖合でまっぷたつだ。
「サーシェ……」
 セテがそう絞り出した直後、部屋の中から何者かが躍り出てくるのが見えた。そこでセテは目を見張る。
 つり上がり気味の大きなアーモンド型の瞳を持つ小柄で華奢な体が、セテに気付いて彼を見下ろしていた。短く刈り上げた見事な赤毛が炎のように揺らめいている。革のパンツを履いたすらりとした脚、女性らしい体の線を強調したぴったりとした上着を着たその人物の右手には、まがまがしい暗闇を放つ妖しい剣が握られていた。
「なにやってるのよセテ。運動不足じゃない?」

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