Home > 小説『神々の黄昏』 > 第三章:死せる夢見の大地 > 第十九話:楽園の終焉
それはおよそ見たことのない建築様式の建物であった。天を突くかのように高く背を伸ばし、空をも掴もうとするその様は、古代聖典に描かれる禁断の塔のごとしである。表面はほぼガラスが敷き詰められ、照りつける太陽を激しく反射する。
この巨大な建物はいくつも林立し、建物の森となって群生しながらそれぞれが天を目指している。そしてその足下では、土や煉瓦とはまったく異なるねずみ色した平らな道が縦横無尽に走り、祭でも催されているのではと思わせるほどの人の大群が、往来を行き来しているのが見える。
轟音に耳を傾ければ、建造物の森の上空から巨大な黒い鳥のような影が、空を我が物顔で横切っていくのが見えたが、往来を歩く人々はとくにそれになんの注意を払うことなく歩いていた。
気がつけば一行は、その不可思議な光景の中空に浮かび、建物を見上げたり眼下に見下ろす幅広い道を眺めたり、あちらこちらに頭を巡らせて周囲を見回すばかりであった。
「うわわっ! なんだこりゃっ! 落ちるう〜っ!」
ベゼルが悲鳴にも近い声をあげ、すぐ隣のレイザークの服の裾にぶら下がって脚をばたつかせていた。セテ、レイザーク、アスターシャ、ジョーイたちも同様に空中をふわふわと浮かんでおり、自分たちが落下もせずに中空にいることに驚くばかり。サーシェスとテオドラキスが、落ち着き払った様子で一行の前に姿を現した。
「これは二百年以上前、いま私たちが旧世界《ロイギル》と呼んでいる世界の姿です。大丈夫、落ちるようなことはありませんからご心配は無用です」
テオドラキスが無邪気な笑顔でそう言ったので、一行はほっと胸をなでおろした。
「──遙かな昔、神々がこの地に降り立ったことで世界は始まった。神々はその分身として偉大なる一族《イーシュ・ラミナ》を生みだし、彼らに神々自身が持っていたあらゆる叡知を授け、後に人間たちとこの地上を支配させた。地上は神々とイーシュ・ラミナの叡知であふれ、豊かになっていった。これは大陸史における『降臨と楽園の日々』時代の〈映像〉。かつて旧世界《ロイギル》はこのように、いまの私たちの世界とはまったく異なる文明を築き上げ、発展していった」
サーシェスが周りを見るように一行に促し、そう言った。
「この巨大な建物は〈ビル〉や〈高層マンション〉などと呼ばれる建造物で、地下を含め最上階までは数十階にのぼり、居住や企業活動の目的で実に数千人もの人間を収容できた」
「数千人……」
誰言うとなく、感嘆の言葉が漏れる。
「そう、数千人もの規模でこの建物や周囲に人々があふれかえっていた。偉大なる一族《イーシュ・ラミナ》も人間も、この世の春を謳歌していたというわけだ」
「あそこで歩いているのがすべて、イーシュ・ラミナや人間というわけか……ものすごい数だな……。ロクランや光都の祭日でも見られる規模ではない」
レイザークがうなるようにそう言った。
「地上には〈アスファルト〉という物質で作られた道路が整備されており、いまのような土や煉瓦作りの道は一部の環境保全目的地域以外には滅多に見られるものではなかった。味気ないといえばそれまでだが、このように平でなめらかな道は人々が快適に生活を行ううえで重要な設備でもあったわけだ」
「へえ……これなら馬のひづめや馬車の車輪の消耗も激しくなくて便利かもね」
ジョーイがそう言うと、サーシェスはクスリとかすかに笑い、
「この時代、人々は馬車や馬などで移動することはなかった。あれを見て」
サーシェスは地上のある部分を指さし、一行はそれにならって視線を移した。地上の道路の脇に地下へと降りる階段があり、その脇に備えられた編み目のような空気孔から、またしても轟音が鳴り響く。人がそこを通り過ぎるときには、すさまじい風がその編み目から吹き出してくるのが見えた。
「〈電車〉というものがこの時代には存在していた。鉄ででき、電気の力で動く列車をいう。馬車のようにどこへでも移動できるわけではなかったが、一定の場所を通る線の上に車輪をつけた列車〈鉄道〉を移動させ、人々を収容して運ぶ。これが、地下を走っていて人々が遠出をするのを助けていた。これを〈地下鉄道〉といった」
「鉄道……うーん、なんかもう、初めて聞く言葉ばかりでよくわからないけど、地下に車が走ってると思えばいいのかな?」
セテが頭をかきながらそう尋ねると、
「そう、地上は美観を損ねるため、地下にこのような設備が作られたというわけだ。いまでも地下が穴だらけな箇所があるかと思うが」
「あ、そういえばロクランにも……。地下に人が出入りできるような空間があったわ」
アスターシャは、ロクラン城の地下にあった地下洞窟を思い出して声をあげた。
「うん、そういえばアジェンタスの地下も、蜘蛛の巣のような地下洞窟がずいぶん長距離に渡ってあった。あれもそうなのかな」
セテもアジェンタスの地下道のことを思い出してそう言った。サーシェスが軽く頷き、
「すべてがそうとはいえないが、おおよそ地下鉄の名残の一部であると思ってもらってもいいかもしれない。とくにアジェンタスの場合は大戦後に地下鉄のあとを一部、下水処理施設に作り替えたりしている」
そして再び一行の上空を、轟音をたてて飛び去っていく黒い巨大な鳥の影が現れた。ベゼルなどはそれに耳を塞いで顔をしかめている。
「えっと、じゃあ、あれ、あれはなに? ものすごくうるさくて大きいんだけど。鳥じゃないよねぇ?」
「あれは〈飛行機〉という乗り物だ」
「えっ!? あれも人が乗ってるの!?」
ベゼルが驚きの声をあげた。
「詳しく話してもなかなか理解できないと思うので省略するが、鉄でできていて、巨大な翼がついている。空気の流れや燃料で空を飛び、人々や貨物を運ぶことができた」
「ふぇ〜。なんかもう、よくわからないけど、旧世界《ロイギル》がすごい文明だったことだけはなんとなく分かったかも」
ベゼルは混乱する頭で分かったような分からないような顔をしながらそうつぶやいたので、サーシェスはまたかすかに笑った。
「飛行機が運ぶのは人や貨物だけではなかった。それこそ大量破壊兵器を運ぶことだってたやすかった」
そうサーシェスが言い終わるのが早いか、一行のすぐ近くで大きな閃光が炸裂した。遅れて先ほどの飛行機の轟音とは比べものにならないほどの爆発音が鳴り響く。次いで、ビルの合間から火の手が上がるのが見えたが、それは一度では終わらなかった。次々と閃光をまき散らし、爆発しながら炎が周囲を巻き込んでいく。眼下では人々が逃げ惑うのが見えた。
「大陸史ではこのように教えられているはず。楽園にも近いこのような文明を築き上げたあと、イーシュ・ラミナの内に慢心がはびこるようになる。知ってのとおり、イーシュ・ラミナはたいへん長寿であり、さまざまな術法を──この術法というのはイーシュ・ラミナが開発したものであるが、これを使いこなす。手を動かさずにものを移動させるばかりか、人の命を左右するような強大な力を持っていた。このため、人間たちにうとまれるようにもなってきた。凝り固まっていた確執はやがて大きく膨れあがっていき、人間たちとイーシュ・ラミナとの間で戦が始まる」
今度は先ほどの飛行機よりもずっと小さいが、速度や機動性においてはるかにそれを上回る飛行機が数十機、隊列をなして空を滑空していくのが見えた。それらが上空を飛行しているとき、腹の部分が少し開くのだが、そこから黒く永細い物体がバラバラと落とされていくのが見てとれる。それが見えなくなるころ、再び大きな爆発音とともにあちこちから火の手があがっていくのだった。
「あれはいったいなんだ。なにを落としてるんだ?」
セテがサーシェスに詰問するように尋ねる。火の手にまかれ、眼下では多くの逃げ惑う人々が、破壊されたビルの破片の下敷きになったり火の手にまかれたり、爆発に巻き込まれて消し炭になっていく。その様子に一行は呆然とするだけだったが、セテはこみあげる怒りに体を震わせていた。
「あれは〈戦略爆撃機〉、一般に〈戦闘機〉と呼ばれる飛行機の一種で、主に爆弾を搭載し、このような破壊活動を行うことを目的に開発された虐殺兵器だ」
サーシェスがさらりと言ってのけるのに対し、セテは反射的に体を翻す。
「虐殺だと!? くそ! サーシェス! 俺を下ろしてくれ! 彼らを助けてやれないのか!?」
「無駄ですよ、セテ。これは過去の映像です。過去に干渉はできません。我々はいま、過去のできごとを反芻しているに過ぎないのですから」
テオドラキスに言われ、セテはぐっと拳を握り唇をかみしめた。偽者のヴィヴァーチェ──正体はガートルードの側近である術者ネフレテリであったが──に自分の過去を見せられたときにも、父の行動に干渉できなかったことを思い出す。
──過去に干渉はできない。分かってはいても、過去を見ることができるのならなぜ未来を変えられないのか。そんな思いで胸が締め付けられる。
「これは、後に汎大陸戦争の幕開けとなる戦いが始まった頃のことだ。初めの頃こそ、一般的な紛争のようなものだった。戦闘機による爆撃で主要都市が破壊され、それに対する報復として相手方にも爆撃行為を返す。その繰り返しで、それでも一般人は都市部から離れていれば爆撃機の攻撃に直接さらされることは少なかった」
「少なかった……? 一般的な紛争だって……? 爆弾を使って殺し合いをするのが一般的だったっていうのか? 剣を使うこともなく!?」
セテが憤りを隠せないまま、叫ぶように、だが声は絞り出すようにそう言った。サーシェスは小さくため息をつくと、
「セテ、あなたの憤りは分かる。いまの私たちの時代では、グランディエ条約によって大量破壊兵器は使用を禁じられている。だがこの時代は違った。それに武器そのものが違う。このときには剣など……そう、剣という前時代的な武器など、爆撃の前には何の役にもたたなかった」
「術法があったはずではないか? 防御や攻撃のための術法も、すでにこの時代にはある程度確立されていたはずだが」
セテの憤りを収めるためか、レイザークが割って入った。サーシェスはそれに対して軽く頷くと、
「結界のように広範囲を防御するための術法は、戦争が始まってから研究されたもので、研究段階の術法では爆撃に太刀打ちできるほどではなかった。また攻撃術法といっても、戦闘機を操縦する人間に干渉したり、戦闘機自体に干渉して墜落させる程度のものだった。この当時のイーシュ・ラミナの術法では、対抗する術がなかったのが実際のところだ」
「ふむ、戦略目的で高度な術法が開発されるというのはもっともな話だが……」
レイザークはうなり、顎に手を当てた。
「大陸史の話に戻そう」
サーシェスは先を急ぐかのようにそう言い放った。
「永い永い間、この戦は続くことになる。人間とイーシュ・ラミナだけでなく、人間同士、イーシュ・ラミナ同士が争う泥沼の戦いが続き、地上はもはや滅亡を待つばかりとなった。大陸史にならって言えば、これを嘆いた神々が戦争を終結させるべく遣わしたのが……」
突如、人の雄叫びとも悲鳴とも、断末魔ともとれるような声が大地を揺るがし、一行の耳を引き裂かんばかりに響きわたった。爆撃を受けたビル群が再び体を震わせ、がらがらと轟音をたてて崩れたその身を重力にまかせる。ついで、アスターシャとベゼルが悲鳴をあげた。セテとレイザークはふたりの様子に驚き、倒れんばかりのふたりを抱きかかえるのだが、まるで熱病にでもかかったかのようにふたりの体は震え、それに反して血の気がひいて冷たい。
そしてすぐにセテも。吐き気ともめまいともつかないような奇妙な嫌悪感に包まれ、金縛りにあったかのように体がすくんで動かない。そして心の中に侵入してくる、誰に対するものか判別のつかない憎悪と怒り、あふれんばかりの狂気。
この感覚には覚えがあった。遙か昔のことだったが、どこかで感じたはずだった。
見れば、レイザークやジョーイも同様に、それを感じて体をすくめているに違いなかった。
「過去のものといえ、ここまで生身の人間に干渉できるとは恐ろしいものです。特に女性は繊細なので、そのふたりには余計に悪影響が出るのでしょう」
テオドラキスが平然とそう言ってのける。
やがて轟音は地響きに代わり、間断なく大地を揺るがせる。もう一度、雄叫びが周囲の空気を蹂躙し炎の柱が吹き上がった。ひとつ、ふたつ、それらは生きているかのようにのたうちまわり、分裂していく。その炎の柱の中心から、ひときわ大きな炎が火山の爆発を彷彿させる勢いでほとばしり、天を引き裂いた。
テオドラキスが仇を見るような視線をそちらに向けた。幼い顔に嫌悪感と憎悪をみなぎらせる様は尋常ではなかった。
「あれが、世界を破滅に導かんとした神獣フレイムタイラントの本体です」
みたびあがったフレイムタイラントの雄叫びが、旧世界《ロイギル》の空気を真紅に塗り替えた。炎の中で何かが頭をもたげる。伝説の竜の姿に似たフレイムタイラントの頭部が、いよいよ姿を現したのだった。
フレイムタイラントの鋭角の目は暗黒の光にをまとい、どこを見つめているのかすら判別のつかない瞳は燃えさかる炎に包まれて、大都市を満足そうに見下ろしている。体は渦巻く炎に彩られ、霊子力に包まれた強靱な防御壁からは緑色に光を放つ稲光がはぜては消え、その体がまとう高温で周囲の建物はあっというまに溶解していくのが見てとれる。その巨体は、天に届こうとする高層ビルの高さなどものともせず、地上から見上げれば空全体を覆い尽くしてしまうほどのものだ。
「なんだ……この感覚……ただの炎の竜だってのに、なんだってこんなに気色悪い感覚にさらされるんだ、くそっ!」
セテがうずくまり、とうとう膝をついた。胸を押さえ、圧迫してくる嫌悪感に懸命に耐えるその顔には、脂汗がにじんできていた。
「あまり気持ちのよい話ではないと思いますが、話しておいたほうがいいでしょう。〈あれ〉を作り出すためにどんなことが行われたのか」
「やだ! 聞きたくない! もうやめてよ! 気が狂っちゃう!」
ベゼルが泣き声に近い声でそう叫んだ。テオドラキスは肩を少々すくめ、
「では耳を閉じておいてください。聞かないほうがいいこともありますし」
即座にベゼルは耳を塞ぎ、背を向けた。
「あれは、大勢の偉大なる一族《イーシュ・ラミナ》を生きたまま炎で焼き、彼らの霊子力を吸い上げて作り上げられた、この世でもっとも唾棄すべき混沌たる憎悪の源です」
一同に声はなかった。ただ、過去の映像の中でフレイムタイラントが炎を吐き、周囲を焼き尽くしていく様子だけが淡々と繰り広げられていた。
「……人間を……生きたまま……焼いた……?」
セテはうわごとのようにそう言った。
そこでセテは理解した。この嫌悪感と同じものを、かつてどこで感じたのかを。
十年前の浮遊大陸でレオンハルトとともに遭遇した、ゴーストやレイス、あれと同じ性質を持つ〈モノ〉──。かつて人間だった、救われない魂の複合体──。
「あれは……フレイムタイラントに取り込まれた人間の……イーシュ・ラミナのなれの果てだってのか……!? 生きながら焼かれて、死んでも憎しみを忘れずに怨念に姿を変えて……!」
セテは吐き気をおさえるためか、罵詈雑言が飛び出すのを防ぐためか、口元を手のひらで覆った。知らずにえずいてしまうので涙目でぐっと腹に力を入れるのだが、何度も胃液だけがせりあがってくるような感覚が続く。
「そう、旧世界《ロイギル》もこの世界も、病んでいるのよ」
サーシェスがぽつりとそう言った。
「あるいは旧世界《ロイギル》は、遅かれ早かれ滅ぶべき文明であったのかもしれない。フレイムタイラントは確かにどんな兵器も役には立たなかった。解き放たれてすぐに敵も味方も見境いなく焼き尽くし、地上は再び滅亡の危機にさらされることとなる。『楽園の終焉』の一幕だ。そして本格的に汎大陸戦争が幕を開けた」
爆撃機から無数の爆弾が投下されるも、フレイムタイラントはまったく意に介さない様子だった。それどころか、下手に近づいた戦闘機はその熱で融解するか、誘爆させられた爆弾とともに塵と化すばかりであった。爆撃機から投下される爆弾よりもずっと大きくて長い、サーシェスによれば〈弾道弾〉と呼ばれる威力の大きな爆弾がフレイムタイラントを直撃したものの、それはさらにフレイムタイラントの炎を活性化させる燃料にしか過ぎないようだった。加えて伝説の竜がはき出す炎は、編隊飛行中の戦闘機を見事に捕らえ、すぐさま蒸発させてしまっていた。
打つ手がない。これは過去を見ているセテたちにもひと目で分かる状況であった。
そのとき。
突如、空の一辺が白く輝いた。
光は長く尾を引きながらすばやく降下し、フレイムタイラントを目前とする建物の崩れた頂上に舞い降りる。続いて、同じように尾を引く光が五つ、最初の光を囲むように降下してくるのが見えた。
それは人の姿をした光であった。いや、それは正確な表現ではない。光をまとった人の姿に違いなかった。髪の長い女性の姿を中心に、悠然とフレイムタイラントに対峙する六つの人影。フレイムタイラントの発する驚異的な高温などものともせずに、毅然とした様子で化け物を睨みつけている。
「あれは……!」
セテが声を上げた。
唐突に戦闘は始まった。強力な結界が六人全員と各人を覆っており、おそらく瞬時に鉄鋼をも溶かす高温から外気を遮断しているのだろう。先頭に立つ女性の長い髪は銀。踊るように、舞うように強烈な術法を展開し、周囲の五人はそれを補ったり援護する形でさまざまな術法が展開され、フレイムタイラントを縛り付けていく。はじめのうちこそ足止めなど食らわない勢いで前進を続けるフレイムタイラントであったが、術はどんどん強化されていき、次第に歩みがのろくなっていった。
「そう、後の世で聖賢五大守護神《ファイブ・ガーディアンズ》と呼ばれることになる、我々五人と救世主《メシア》であるサーシェスの決戦の記録です」
とうとうフレイムタイラントは聖賢五大守護神《ファイブ・ガーディアンズ》と救世主《メシア》の呪縛により、動けなくなった。咆吼し、身をよじるのだが、縛める術は炎の竜をさらに縛り上げ、食い込んでいくようだった。
そこで救世主が巨大な魔法陣を両手で中空に描く。見たことのない、何重にも積み重ねて描写される長い数式のような神聖語が踊り、広がっていく。高度な術法を身につけた術者のみが操れる、積層型立体魔法陣である。むろん、呪文の詠唱は最大限に圧縮されているか、救世主であれば詠唱なしに展開できるのやもしれない。大きく膨れあがった魔法陣に包まれた救世主は、猛禽類が獲物を上空から狙いうちするかのごとく跳躍し、体ごと魔法陣をフレイムタイラント目がけて投げ打った。
フレイムタイラントがまとう炎の霊子力と、救世主や聖賢五大守護神《ファイブ・ガーディアンズ》たちの紡ぐ術法による霊子力がまっこうから衝突した! 稲光のような緑色の光がふたつの霊子力の間で弾かれたり交わったりしてうなり声を上げた。
救世主の差し出した右手とフレイムタイラントの体は、触れるか触れないかの距離であったが、やがて救世主の手がフレイムタイラント側に押し込められていく。正確には、フレイムタイラントの体が萎縮し始めているのだ。歯を食いしばり、耐えるような人の声は、フレイムタイラントの咆吼である。この炎の竜が人を焼き殺して作られたシロモノであるとすれば、先ほどからの咆吼は、生きながらに焼かれ、怨念と化した人々の憎悪の声だ。
そしてついに救世主の右手はフレイムタイラントの結界を突き破り、その体にめり込んだ。炎は大波の間を行く船に割かれた海のごとく左右に分かれ、救世主の体がフレイムタイラントにどんどん吸い込まれていく。サーシェスの体が炎に包まれて見えなくなったそのとき、目を覆うような鋭い閃光と、数秒遅れた爆発の轟きが周囲をあおり、すさまじい勢いで周りの瓦礫や土砂を巻き上げていた。そうして再度閃光が一行の目を直撃したあと、唐突に闇が訪れた──。
気がつけば、セテをはじめとした一行は、上座に座るテオドラキスを囲み、宴席の座についていた。
辺境の民たちが食事の用意をし始めてから、いまはもう食事がみなの前に運ばれてきており、それもすでに冷めかかっている。大沈下の影響で気温が上昇しているとはいえ、それでも辺境の季節は冬にさしかかっている。夜も更けていけば、ますます気温は下がっていくのだろう。
少しの寒気か、それともいま垣間見た過去の事柄に対してか、セテだけでなく、各々の身体は震えを感じていた。
喧噪はまるで高い塀を隔てて聞こえる街の外のようだ。テオドラキスとサーシェスたちを囲む周囲を、薪の燃えさかる音と、わずかに木の表面がはぜる音だけが取り囲む。
サーシェスはセテの隣に腰を下ろしており、握った拳を膝頭に当てたまま動かない。よく見れば、その拳は肘の下からかすかに震えていた。
「これがいまから二百年前、現実にこの世界で起きたことの、いわばあらすじとでもいうべき事象です。汎大陸戦争は我々の働きだけではなく多くの人々の研究や協力があってこそ終結しましたが、すでに大陸史でいうところでは神々はこの世界を見捨て、『楽園の終焉』を迎えます。そして、神々を失ったこの世界では、新しい時代『神世代』とともに『神々の黄昏』の時代が始まるのです」
テオドラキスがそう言ったことで呪縛が解けたのか、一行の体はようやくこわばりから解放された。
サーシェスは一度、静かにまぶたを閉じた。かわいらしいその唇にほんのわずかなため息を乗せた後、サーシェスはゆっくりとそのまぶたを開いた。そして隣にいるセテを仰ぎ見る。深いグリーンの瞳が、かつてロクランにいた頃、セテを魅了して止まなかったあの大きな瞳がセテを捕らえていた。
そうしてサーシェスはおずおずとその小さな手を恥ずかしげにセテに差し出した。
「セテ。手を」
セテは一瞬驚いて体をびくつかせたが、サーシェスの差し出した手のひらに自分の手を重ね、しっかりと指をからめた。まるで高熱にうかされたような彼女の体温が手のひらから伝わってくる。そしてわずかな震え。
「この世界が真実であると、疑ったことは?」
サーシェスは周りの面々の顔を見つめながら、ゆっくりとそう言った。むろん、面々からは返事はない。
「もし、自分たちが教わってきたこの世界の歴史が、嘘であると……捏造であると言われたら、どうする?」
サーシェスはもう一度問う。テオドラキスは瞑想をしているかのようにまぶたを閉じ、サーシェスの言葉を聞いている。
「どうって……さっぱりどういうことだか……」
セテはうめくようにそう答えた。サーシェスはそれに軽くうなずくと、
「大陸史では、いまのような記録はすべて抹消されている。一部、旧世界《ロイギル》時代の言葉や観念は残っているものの、それもウワサ以上のものではない。その代わり、さっきも言ったように非常にあいまいで謎めいた言葉で歴史を語っている。そして、みなそれについて疑問を持つこともない。きわめて不自然な状況で、いまの世界は成り立っている」
「ふむ、確かにな。たとえば大昔の〈警察〉なんてのはいまや騎士団がその仕事を担っているわけだし、門《ゲート》なんてのは一般人は聞いてもあまりピンとこないだろうが、魔法剣士や術法使いにとっては当たり前のもの。昔は文字どおり正面玄関の入り口にある門を差してる言葉だったらしいしな」
レイザークが腕を組みながらそう言うと、サーシェスも頷く。
「旧世界《ロイギル》の魔法というのは本当は魔法でもなんでもなく、偉大なる一族《イーシュ・ラミナ》が残した科学的遺産を差す。一般には公開されていないものの、兵器としてはかなりの数が現存していて中央の監視下に置かれているが、ガートルード率いるアートハルクではそれを引っ張り出してきて実際に運用しているのが確認されている。ドラゴン・フライというひとり乗り用の飛行器具や、術者殲滅のために開発されたサイ・エリミネータなどが挙げられる。要人の寝室や執務室などに設置されているビーム・アンカーなども、いま現在一部の国家でも運用されているし、サイボーグのウワサなども聞いたことがあるだろう」
「なに、そのサイボーグって?」
ジョーイが興味津々に口を挟んだ。
「旧世界《ロイギル》よりずっと以前に開発され、研究段階で終わってしまったが、人間の臓器や組織を人工物に置き換え、筋力や骨格、内臓機能を強化した、いわば全身強化人間のことだ。実戦で投入される目的だったが、あいつぐ事故によって研究はとりやめになった。しかし汎大陸戦争で人員を投入する際、一部は徴用されたことがあるらしい。剣や銃などでは傷を負わせることも困難だ」
「うへぇ、もし女サイボーグなんてのがいたら、そいつに惚れられた奴は死ぬな、抱きしめられただけで全身粉砕骨折だ」
ジョーイが間抜けなことを言うのだが、顔はへの字なので心底薄気味悪いと思っているのだろう。
「ごめん、その〈銃〉ってのは?」
武器のことになると興味がわくのは職業病だろう。それに、さきほど剣が前時代的な武器と言われたことに対する憤りも感じたのかもしれない。今度はセテが口を挟んだ。
「いまの世界では禁じられている、手に収まるくらいのものから担ぐくらいのものまで形状はさまざまだが、小さな弾丸を筒状の先から火薬の威力で発射し、人を殺傷する武器のことだ。至近距離から急所を撃たれれば死に至るし、弾丸の速度は剣士の反射速度をもってしても避けることは難しいだろう」
セテは大きなため息をついた。
「とにかく……旧世界《ロイギル》がいろいろと禁断の文明を持っていたことは分かったよ……。正直、まだ理解できていないことのほうが多いけど……」
それからセテは長い前髪をかきあげ、サーシェスに向き直った。
「さっきのフレイムタイラントも汎大陸戦争もだけれども、なんで過去を隠す必要があったんだろう。それに、いまだっていろいろな紛争があちこちで起きているけれども、汎大陸戦争前といまのように大きな文明的な変革をさせて復興することはないし、過去を振り返るという意味では、汎大陸戦争は確かに悲劇だったけれども、それを伝えていくことのほうが重要なんじゃないかと思うんだ」
セテの言うことはもっともである。辺境ではわりと小さな小競り合いが続くことがまれにあるし、大戦終結後のさなかも、国家が成立するまでの間にさまざまな紛争はあった。最近でいえばアートハルク戦争が挙げられるが、それについては──アートハルク戦争の真相についてはすべてが明らかにされているわけではないが──中央がきちんとした形で、戦争の介入の是非も含めて検証を行い、記録を採っている。同じ轍を踏まないようにするためだ。
「そこが、この世界が病んでいるとされる大きな要因のひとつでもある」
サーシェスが周囲の面々を見つめながらそう言った。
「どうしても、過去と現在を切り話さなければならない理由があった。そして、全世界的に過去を捏造し、歴史について疑問を持たないように人々を教育して新しい価値観を植え付けなければならなかった」
「そんなことができる……のか? 世界規模の過去の抹殺なんて?」
レイザークがうなる。
「できる、のではなく、しなければならなかった。この世界を守り、秩序を保つために先人が選んだ道だ。だが、それが本当に正しかったのかどうか、いまは誰も答えを持たない」
「その……理由というのは……? ここまで来ておあずけなんて俺はいやだ。俺は、この世界のことをちゃんと知りたい」
セテはかみしめるようにそう言った。サーシェスが小さく頷いた。
「話の大本は、私の惑星防御壁についてだったな」
周囲のメンツを見回しながら、サーシェスが言った。言葉にはしなかったが、全員が首を縦に振った。
「この世界……いや、正確には惑星と言おう。この惑星は、遠く、はるか遠く宇宙を隔てたある惑星からの移民の歴史から始まっている」
「うーん、もうダメ。俺もう寝ていい? もう頭限界、理解できないわ〜」
ジョーイが泣きそうな声でそう言ったので、一瞬場がなごむ。話の腰を折ることもままあるが、緊張した場をほぐす能力については、ジョーイは重宝される存在でもある。
「大陸史や伝承では、遙か昔、この地に神々が光臨して最初の文明が築かれ、そして神々の子ら偉大なる一族《イーシュ・ラミナ》が生まれたと教えられているだろう。だが実際には違う。神々など存在しないし、イーシュ・ラミナが神々の子孫であるわけでもない。この惑星は私たちが遙か昔、母星と呼んだ〈地球〉からの移民が入植し開拓した、新しい母星〈ネオ・アース〉という名の植民惑星なのだ」
一同、声を発することができなかった。およそ想像の範囲を超えた話であった。惑星、宇宙、移民、ネオ・アース──。何がどう分からないのかすら分からないというのが本音である。
「そして、地球とネオ・アースはいまなお、汎大陸戦争から続く確執によって紛争状態にある。この惑星を守るための防御壁は、紛争を回避するためのもの。でもそれは」
サーシェスはそこまで言うといったん言葉を切り、小さくため息をついた。こうしているだけなら、か弱くて幼い少女にしか見えないのだが、その芯にある力強い意志は、発せられる言葉からにじみ出て隠すことはできない。
「再び同じ過ちを繰り返すことになるだけなのだと……いまはそうとしか思えなくなっている自分がいる。そんな自分にも嫌気が差してきているし、何度同じことを繰り返せば気が済むんだろう、いつ終わるんだろう、そんな憤りが自分を支配していて、本当は何も考えたくない。何も知らないサーシェスのままでいたい……」
そう言って、サーシェスは顔を覆った。
森の木々で羽根を休めるために集まっていた鳥たちが、サーシェスの嘆きに呼応するかのように小さく鳴き声をあげた。