第三十一話:誓い

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 塗料のはげた屋根が弱々しい日の光に静かに揺れる。古い一戸建てを軸に何度も何度も建て増しをした結果、不格好な階層式長屋のような風貌になってしまった薄汚れた建物の、貧しい屋根であった。それらがいくつも密集して、冬を前に太陽の恩恵を受けようと、必死になって甲羅干しをしているようにも見えた。
 壁に柱を渡し、無理矢理いびつな屋根をかぶせる、そんなことを何度も繰り返してきたおかげで、重みで全体が傾いで今にも轟音を立てて倒れそうである。
 そんなあばら屋でも、我が家こそ楽園と住み続ける人々がいる。巨大長屋と化したこの集落には、今では何十世帯もの家族が狭くても肩を寄せ合って慎ましやかに暮らしているのだった。
 もちろん素人の突貫工事でできた即席屋根のこと、雨漏りするくせに日中は満足に日の光を部屋に通すことさえできない。だから人々は太陽の匂いを忘れないようにか、いつも思い切り窓を開けて、多少寒くても日の当たる外の風景を眺めているのだった。
 そんな薄暗い部屋の中、けほんけほんと乾いたような咳をする老婆がベッドに身体を横たえ、隣で椅子に腰掛ける青年の話に耳を傾けていた。時折また乾いた咳を返すので、少し冷える風が病んだ身体に障ると思ったのか、青年は粗末な造りの窓を閉めようとする。立て付けが悪いためにいやな音を立てて閉まる窓に、老婆はいつも愉快そうに笑った。困惑して文句を言っているように聞こえるのだと、老婆はその窓を生き物のように例えて笑っていたのだった。
「だいぶ楽になったようですね。引き続き様子を見ましょう。薬草は来週にならないと手に入らないそうですから、とりあえずいまはゆっくりと養生するのがいい」
 青年は老婆が笑うのを見届けると、そう言って長い黒髪を束ねていたリボンを結び直し、老婆に布団をかけ直してやる。青年の口調は少しぶっきらぼうだが、その影に見え隠れする優しい気遣いが、病に伏せる老婆の気持ちを和らげるのだった。
「息子があんたくらいできた人間だったなら、あたしもこんなところで生きながら腐っていくことなんてなかったのにねぇ」
 老婆は黒髪の青年をじっと見つめながら、自分の右手を布団から出してため息をついた。老婆の右手の一部は皮膚が硬化して緑色に変色していた。この辺りでまれに見られる風土病なのだそうだ。この環境の悪さと食生活の偏り、それから疲労を圧して働きづめていたと思われる生活習慣が、余計にこの老婆の病を加速させていったに違いない。
 親不孝な息子に対する恨みではなく、どこにいるか分からない愛しい息子への思いのほうが募るのだろう。老婆は目を閉じ、もう一度ため息をついた。年のせいかもしれないが、目尻には涙が浮かんでいるのが見えた。
 青年はその手を優しく取り、布団の中に入れてやると、「また来ます」と言って立ち上がり、老婆の部屋を後にした。
 いたたまれなくなる思いに心が締め付けられるような感覚を覚えながら、黒髪の青年はギシギシと鳴る脆い階段を下りていく。
 階段の脇にはすぐに別の世帯の扉が並んでいた。大昔の城塞都市のようだと青年はいつも思う。家を出て狭い廊下に出れば、すぐに誰かの顔があるのだ。他人との一体感があると言えば聞こえはいいが、気の休まる場所でないのは確かだ。
「もう終わったのかい? 主治医さん」
 階段の脇のベンチで煙草を吹かしていた女が、青年が降りてくるのに気付いて声をかけた。
「しつこいようだが……私は医者ではない」
 青年は女を無愛想に睨みつけ、通り過ぎようとする。
「ちょっとからかってみただけだってば。ホントにあんたっていっつも無愛想ね。あんなくたびれた婆さんにはずいぶん優しいのにさ」
 女はそう言って髪をかき上げ、しなを作って見せた。見れば、女の服は胸元まで大胆に開いていて、スカートは股の上までスリットが割れており、悩ましげで形のきれいな脚が覗いている。この集落に住む商売女であった。確かに美人ではあるのだが、年はといえばおそらく塔の立ったほうに入るのだろう。
 青年は仏頂面に少し憤慨したような表情を見せ、再びジロリと女を睨みつけた。
「病人に辛く当たる方がどうかと思うがな」
 黒髪の青年──フライスはそう冷たく言い放つと、そのまま女の脇をすり抜け、突き当たりの粗末な扉を開けて部屋に入っていった。後ろで女が悔し紛れに舌打ちをしたのにも気付く様子はないようだった。
 フライスがこの集落にたどり着いたのは、数週間ほど前のことであった。ラインハット寺院を飛び出し、ロクランの包囲網を突破した当初は、復讐に燃えたぎる思いを抱いたまま、すぐにでもアートハルクにいるガートルードの元へ向かうつもりだった。
 ガートルードの前に立ちはだかり、どうするつもりだったのか。あのときは確かにあの女を八つ裂きにするつもりだったはずだ。サーシェスの前で自分の過去を暴き、二度と思い出すこともないだろうと思っていた過去の過ちを再び呼び起こして自分の罪を糾弾したアートハルクの女帝。一時は彼女を殺して自分も果てようと思ったこともあった。
 だが。
 頭を冷やせばそれがどんなに愚かしいことだったか、フライスは思うのだった。母を殺して生き延びた自分の罪を、最愛の少女の前で晒されたのを恥じ、大僧正が自分の中に親友の影だけを追い求めていた事実を認めたくなくて、ガートルードに八つ当たりをしているようではないか。
 もう済んだことだ。誰も自分を見てはいない。誰も自分を真に必要としていたわけではない──。そんな心の空隙など、時間がすぐに埋めてくれる。すぐに埋まってなんともなくなるはずだ。今までがそうであったように。
 そうして心を落ち着けながら、フライスは時期を見計らっていた。
 アートハルクの動きを単独で追うには限界がある。最初に鉢合わせをしたアートハルク帝国軍小隊の隊長によれば、彼らは本隊とはまったく別の指揮系統で動いているとのことだし、ましてや彼らは門《ゲート》を使ってあちこちを自由に行き来できるのだという。ゲートが中央諸世界連合内でもわずかしか発見されておらず、そのほとんどが封印されているいまとあっては、彼らの足取りを正確に追うことなど不可能に近い。
 また先日、ロクランの占領と彼らアートハルク帝国の三つの要求が大々的に新聞で発表されてからは、中央の動きも活発になっているし、それに反してアートハルクはぱったりと動きを止めた。正式に中央に協力を申し出て彼らと行動すべきか、それとも今回の件はすっぱり忘れてしまうか、もう少し様子を見て身の振り方を考えなければ。自分の力を過信するのは、身を滅ぼす元でしかないのだ。自分が愚か者でないことくらいは、フライスも分かっていたつもりだった。
 すっぱり忘れて生きて行ければいいのだが……な。フライスはそうひとりごち、自虐的に笑った。
 忘れられるわけなどあるまいに。
 辺境のどこかで、自分のように虐待を受けて苦しむ子どもたちがいる。子どもたちだけでなく、つまらない因習に囚われて苦しむ数多くの救われない魂がいる。それに反して空虚な繁栄を誇る中央の矛盾を、声に出さずとも長年感じてきた。それをこれほどまでに意識させたのはまぎれもなく、真紅の甲冑に身を包んだアートハルク女帝、「中央に生きる者の欺瞞だ」と自分の生き方を真っ向から否定してかかったガートルード本人だ。
 彼女はなんと言ったか。「死だけがすべての人間に平等に訪れるものだ」。それはある意味正しく、ある意味で間違いでもある。生と死のふたつがすべての人間に平等に与えられたもので、それらはどちらも表裏一体。ふたつでひとつなのだから。
 彼女が死を平等に与えられる自身を「救世主」の再来だと言うのであれば、彼女にとって生きることとはなんなのだろうか。生きることに言及しないのは、生を否定しているのか、それとも生に焦がれて本質を知らぬだけなのか。
 知りたい。火焔帝が、全世界を敵に回してまで何をしようと考えているのか。中央の矛盾を、彼女が正してあるべき姿に戻すことができるのなら。
 そこでフライスは我に返る。なんと危険なことを考えているのだろう。自分は今あの占領者を、世界的犯罪者を擁護しようとしてはいなかったか。
 ここ最近、自分の中でこうした葛藤がしばしば頭をもたげる。だから、フライスはしばらく一所に腰を落ち着けようと思ったのだ。自然とガートルードの姿を追い求めようと脚が動いてしまうのを、なんとか阻止するために。
 幸い、この辺りの集落にはアートハルクの軍隊の片鱗も見られなかったし、ロクランの勢力からもずいぶん離れている。しばらく隠者のふりをして身を隠すにはもってこいだ。いわゆる市民権のない者、剥奪された者が集うここには、誰も寄りつこうなどとは思わなかったらしい。
 そんな中で必要とされたのが、たまたま自分の医学の知識だった。そこでフライスは、ここで世話になる代わりにけが人や病人の治療を買って出ることにした。貧しい人々が医者にかかる金などあるわけがなく、おかげでフライスはたいへん重宝されている。自分の過去についてあれこれ根ほり葉ほり聞くような者もいないのも気楽でいい。それに。
 ここでまた誰かに必要とされるのもうれしかった。
 すべて忘れてここで生きていくのも悪くない。だが、それに反して日に日に心が急くのは否めなかった。
 あの日ガートルードに出会ってから、自分の中で何かが大きく変わったのだとフライスは思った。あの真紅の瞳の奥底で、彼女は自分に何を感じたのか、それを知りたかった。
 そのときだった。
 唐突にその衝撃は建物全体を揺るがした。地震のように余震があったわけでもなく、すさまじい地鳴りは突如始まり、大地は寝返りを打つかのように身体をよじる。
 フライスは自室の机の角にしがみつき、身体を支えた。棚板の歪んだ戸棚の中で、残り少ない薬草の入った小さなガラス瓶がガチャガチャと跳ね上がる。ボロ屋の壁といい床といい、少しの衝撃でもたいそう揺れるのであったが、この揺れ方は尋常ではない。
 ほどなくして揺れが収まったかと思うと、すぐにまた爆音のような激しい音を伴って建物が揺れる。ロクランの城下町でよく聞かれた花火の音にも似ているが、不規則に聞こえる炸裂音は、空気そのものを脅かし、震わせている。地震や土砂崩れのような天災が引き起こす音でもないのは明らかだった。
 フライスはいまだきしみ続ける壁を伝い、何とか廊下に出てみる。周りの大人たちは子どもたちを抱きしめながら不安そうに扉を開け、建物から出て避難するべきか留まるべきか考えあぐねているようだった。
「おい! フライスさんよ! こりゃいってぇ何が起こってんだ!? 地割れでも起こったのかい!?」
 隣に住む大柄な男が、大きな調理用鍋を頭にかぶって扉から顔を出す。落下物から身を守っているつもりなのか、その大きな体には不釣り合いなほどに臆病なのだろう。
「分からない。だがこれは」
 フライスは瞼を閉じ、空気を揺るがすその源に精神を集中させた。
 アートハルクの術者軍団のような強力な結界の気配はしないが、術法が発動される瞬間の独特の波動が、衝撃波に混じってかすかに感じられる。とすれば、これは術者同士の術法戦なのかもしれない。
 だが、こんな辺境に近いところで術法戦が展開されるなど。ましてや、その地点とおぼしき場所からここは、ずいぶんな距離があるはず。これほど広範囲に渡って影響を及ぼすほどの術者が、エルメネス大陸にそう何人もいるとは思えなかった。
 胃の辺りが重く痛むような感覚。いやな予感がする。アートハルクの軍隊でないにしろ、何か厄介なことに巻き込まれはしないか。フライスは建物から飛び出し、集落から遠く離れた荒野を見つめた。
 ポツポツと粗末な建物が密集する集落の周りには、辺境に近い不毛の荒野が広がる。その遙か先には、断崖絶壁が待ち受ける中央と辺境の最後の境目、絶壁から数十メートル下ですべてを飲み込もうと手を広げる、荒ぶる〈海〉があるはずだった。
 土気色と灰色の水平が混ざり合うその一点で、かすかに光が明滅しているのが見えた。確かに激しい術法がぶつかり合っている証拠に違いなかった。
「こんなところで」
 フライスは顔をしかめて舌打ちをした。これほどの能力を持つ術者同士の術法戦が拡大した場合、自分ひとりでここの集落を守るための結界を築くことができるとは思えなかった。最悪の事態は想定しておいたほうがいい。
 そのときだった。
 爆音に混ざる波動の中に何かを感じたフライスは、突然顔を上げる。背後の建物を振り返るが、不安そうにこちらを見つめる見知った顔たちが曇った窓からいっせいに覗いているだけで、誰かが自分を呼んだわけではなさそうだった。みな、それどころの騒ぎではないといった表情だ。
 空耳だったのかと、フライスが背を向けたそのとき。
 ──フライス──!!
 聞き覚えのあるその声は、フライスの耳を激しく貫いた。同時に、体の中を何かがすり抜けていくような感覚。
 心が躍る。フライスは無意識のうちに拳を握り締め、彼方で明滅する光に向かってある名前をつぶやいていた。呼んでいるのは自分が愛した銀髪の少女の、鈴のように透き通る声ではなかったか。
 フライスの荒涼とした心の中に芽生えたおぼろげな不安と期待が、次第に確実なものになっていく。彼女が、この近くにいるのではないか。でもなぜ──?






 あちこち擦り切れ、泥だらけの小汚いマントを羽織ったその人影は、まるで夢遊病者のようにフラフラと彷徨っていた。フードを目深にかぶり、顔を隠すように歩いているが、膝丈のマントの裾からは擦り傷だらけの華奢な脚が覗いている。ぷっくりした膝頭とか細い脛から察するに、まだ年端の行かない少年かもしれない。
 マントの少年は、荒野の集落を遠巻きに、人のいるところをわざと回避するように歩いていた。
 やがて廃屋を見つけると、少年は恐る恐る近づき、浸食した木の扉を細い腕で押してみる。風雨に晒されて脆くなっていた扉はメキメキと不快な音をたてて崩れ落ちていった。舞い上がる埃に少しむせたのか、力なく咳をすると少年は、中を覗いて人の気配がないことを確認する。
「周囲にもほとんど何もない。ここなら……」
 ──ここならようやく眠れる。
 少年は廃屋の中に足を踏み入れ、壁際の古いタンスの脇を目指して重い身体を引きずる。壁とタンスの交わる直角の空間に滑り込むように腰を下ろすと、少年はマントの裾を掴み、身体に巻きつけた。ほどなくして、ずっとかみ殺していたあくびがため息のようにこぼれる。すぐに意識は朦朧として、深い眠りについたようだった。
 しばらくして少年の寝息が聞こえ始めると、その身体は不思議な緑色の光に包まれた。始めは煙のように揺らめき、その華奢な身体にまとわりつくように明滅していた光は、やがて輝きを増して大きく膨れ上がる。
 廃屋を包み込むまでに膨張した緑色の光は、一瞬戸惑いを隠すようなため息をついたあと、一気に上空に向かって一直線に伸びていく。光の奔流でなければ、地面から噴出す溶岩を彷彿させるほどのすさまじい勢いであった。
 だがそれもすぐに掻き消え、辺りは再び荒野を駆ける風の音だけが聞こえる静けさを取り戻した。少年の華奢な体がピクリと動き、意識を取り戻したのだった。
 人の気配を察知して、少年は疲れた身体に鞭打ち跳ね起きる。廃屋を飛び出すのが早いか、少年の身体は大きく跳ね、その直後に彼がそれまで仮眠を取っていた廃屋は、飛来してきた幾筋もの光の矢に貫かれ、見る間に爆発したのだった。
 少年は衝撃波で地面にたたきつけられ、うめいた。その拍子にフードがはだけ、そこから銀色の長い髪が顔を覗かせる。少年ではなかった。薄汚れ、擦り傷をこしらえて憔悴しきった様子のサーシェスであった。
 姿の見えない追跡者の気配は確実に近づいてきていた。サーシェスは新しくできた擦り傷から血が滲むのにもかまわず立ち上げると、やつれた手足に力を込めて全速力で走り出した。
 遠くへ。できるだけ遠くへ。人のいないところへ行かなければ。
 走り出すサーシェスの両脇を光の矢がかすめる。マントを切り裂くが、サーシェスは気にもとめず、辺境との境界を目指して走り続けた。無数に飛来する術法は、まるでサーシェスをいたぶっているかのように見えた。その証拠に、サーシェスの体のすぐ脇をかすめるだけで、その身体を傷つけることは決してなかった。足止めをしようとしているのか、それとも単にからかっているだけなのか、ここ数週間ずっと姿の見えない追跡者たちは、こうしてサーシェスを追い立て続けているのであった。
 崩れた廃屋からもずいぶんと距離が離れた頃、サーシェスは意を決したように立ち止まり、くるりと振り返る。
「もうやめて! いったい私をどうしようっていうの!?」
 サーシェスは灰色の空に向かって叫んだ。無論、返事などあるわけがなく、姿なき追跡者は再びサーシェスの周囲に術法の火花を散らし、それを返事としたようだった。
 まるでネズミを捕まえた猫が、獲物を弄ぶがごとく──追い詰められたネズミはサーシェス自身だ。
 全身の血流が狂ったように勢いを増し、こめかみの血管がドクドクと脈打つ。サーシェスの忍耐もそろそろ限界であった。
 〈風の一族〉との一件の後、光都オレリア・ルアーノに単身向かう決意をした直後から、サーシェスの身には不可思議な現象が起きていた。少しウトウトすれば無意識のうちに術法が発動し、周囲を巻き込んでしまう。ふとした感情の高ぶりで術法が勝手に暴発し、人を傷つける。なぜこのような事態に陥っているのか理解はできなかったが、できるだけサーシェスは人のいない場所を経由し、できるだけ眠らないように心がけた。眠るときには人のいない広大な原野を探し、仮眠を取った。
 謎の追跡者は、サーシェスがオレリア・ルアーノへ向かう馬車の途中、最初に術法を暴発させてからしばらくして彼女を狙うようになった。彼らはどこからともなく術を投げかけてサーシェスを追い立てる。相手の狙いがなんであるかは理解できなかったが、その挑発に乗ったら負けであることをサーシェスは知っていた。
 どうやら自分を傷つけることが追跡者たちの目的ではないから、できるだけ冷静にやり過ごせばいい。だが、眠れば知らぬ間に術法が暴発してしまうかもしれないという恐ろしい不安から、睡眠時間を削って逃げるように移動するサーシェスの理性の糸も、それほど長くは持ちそうにもなかった。
「いい加減に……!」
 サーシェスの表情が一瞬、凶悪なまでに歪む。悪鬼のような顔つきになった少女は右手を差し出し、見えない敵をなぎ払うように大きく横に動かした。たったそれだけの仕草であったにも関わらず、その手から簡単に術法が発動し、暴発するかのような勢いを伴って四散していく。光の玉は熱と音を伴って地面をえぐり、大地を揺るがせた。もちろん追跡者の姿はいまだない。
「だめ。出てこないで!」
 サーシェスは両腕を身体に回し、きつく抱きしめながら、自分を説き伏せるようにつぶやいた。だがすぐにそれを自分で振り払い、再び凶悪な表情に戻る。
「虫ケラの分際で私を挑発するとは、百万年早いわ! 地獄の業火に焼かれて苦しむがいい!」
 同時に激しい術法の展開。サーシェスの体から迸る緑色の光は強烈な輝きを増し、巨大な光の槍となって見えない敵に向かっていく。地面は大きく揺らいだが、姿を見せない敵にはまったく効果はないようだった。
「やめて。お願いだからもう出てこないで」
 打って変わって懇願するようなサーシェスの声。端から見ていれば滑稽な一人芝居にしか見えない。だが、自分以外の何者かが主導権を握ろうと躍起になっているのを、サーシェスが懇親の力をこめて押さえつけようとしているのなど、他の誰にも分かることではない。サーシェスの体の変化は、その「何者かが身体を支配しようとする」異常事態に根ざしているのだった。
 とうとうサーシェスは膝を付き、うずくまる。これまでの数週間、緊張の連続と旅の疲労とで弱っていた身体が、暴発する術法に耐えられなくなったのであろう。だがそれすらも予測していたかのように、それすらもからかうように、見えない敵は容赦なくサーシェスの周囲を狙い、執拗に術法を発動して彼女を苦しめる。うずくまったサーシェスの身体は、術法がかすったことでバランスを崩し、大げさに許しを請うかのように地面にひれ伏す。そこへ思いもかけず放たれた光の矢が、サーシェスの頭上に襲いかかろうとしていた。
 硬質な金属がぶつかりあうような小気味のよい音とともに、襲いかかろうとしていた術法はサーシェスの頭数十センチ離れたところではじき返され、霧散していった。意識のないサーシェスは、自分が強力な魔法障壁《シールド》によって防御されていることなど知るよしもない。彼女の目の前で、何者かの裾の長いローブが翻り、漆黒の巻き毛が揺れる。サーシェスの身体をかばうように立ちはだかるのは、ラインハット寺院の黒髪の修行僧、フライスその人であった。
「いい加減姿を現したらどうだ。かくれんぼにも飽きた頃だろう」
 フライスは中空を睨みそう言うと、ある一点を目がけて軽く術法を投げかける。フライスにとっては軽い攻撃術法のつもりだったのだろうが、その衝撃波は空中で息を潜めていた何者かの脇をすさまじい勢いで駆け抜けていき、悲鳴を上げさせる。突如として中空から男の姿が現れ、そいつは悲鳴を上げながら落下したかと思うと地面に激しく叩きつけられ、動かなくなった。落下して息絶えた男は、黒地に赤の線の入った特徴のある戦闘服を着ていた。
「おっと。王子様の登場といったところですかな」
 ひょうひょうとした男の声が頭上から降り注ぐので、フライスは姿の見えない相手を忌々しげに見つめる。フライスの目には、姿なき相手でも鮮やかに見えているに違いなかった。軽い衣擦れの音の直後、ふわりと軽い布が舞う気配がした。長靴《ちょうか》に裾の長い黒の戦闘服を着た男が、舞台挨拶のようなもったいぶった仕草で一礼をし、姿を現した。男は細い板に十字の操縦桿を備え付けた宙を舞う不思議な乗り物に乗って、優雅に空中でグルリと円を描いてみせた。次いで、周りの者たちも男に倣って何かを脱ぎ捨てる。数名ほどの軍勢が同じく宙を舞う乗り物に乗って姿を現したのだった。脱いだ、というのは「それ」がマントのようにかぶるものらしいということが分かったまでで、不思議なことにその布地は背後の風景を透き通らせる目に見えない透明ななにかでできているのだ。これをかぶることで姿を隠すことができる、まるで古代のおとぎ話に出てきた透明マントのようなものであった。
「まぁ、あなたの目には旧世界《ロイギル》の光学迷彩《オプティカル・カモフラージュ》なんて意味ないでしょうね」
「またお前か」
 フライスの眉間のしわがいっそう深くなり、強い不快感をあらわにする。二、三カ月ほど前、フライスがロクランの国境付近でアートハルクの小隊とかち合った際、意味不明な言葉を残して去っていったアートハルクの術者のひとりであった。
「ランデールです。以後お見知りおきを」
 男はひょうひょうとした口調で自己紹介をする。フライスはそれには目もくれずに、意識を失い傷だらけの少女の身体を抱え起こした。
少女の身体はひどくやつれ、一回りも小さく感じた。フライスは眉をしかめると、怒りをあらわにしたブルーグレイの瞳でランデールというアートハルクの術者を睨みつけた。
「なぜ彼女をつけ狙う」
「おっと、彼女を殺そうだなんて、我々はこれっぽっちも思っていませんよ。ただ彼女を極限まで疲弊させ追い立てよ、というご命令でね」
「火焔帝か」
「ご明察」
 男がそう答えるのが早いか、フライスは少女を小脇に抱えた腕とは反対の腕を差し出し、攻撃術法を高速言語で紡ぎ出していた。短い神聖語が完結するや否や巨大な氷の刃が出現し、中空にいるランデール一派を切り裂こうと襲いかかる。あわやまっぷたつというところで、ランデールの巨大魔法障壁がそれを阻んだ。激しく氷の砕ける音とともに、衝撃波があたりを覆う。フライスとしては少し威力を落としてはいても、水属性最上級系の攻撃術法を放ったつもりだった。それを易々と跳ね返すこのランデールという男の腕前も、なかなか侮れたものではない。
「まったく、あなたはホントに血の気が多い。ご自分で思っているほど、あなたは冷静でも冷徹でもないということを自覚なさるべきだ」
 ランデールは呆れたようにそう言った。
「それはさておき。彼女を社会的に抹殺せよ、との仰せでね。追い立てて極限まで追いつめ、術法を暴発させれば、彼女のこの世界での居場所は確実になくなる。危険な術者ということで中央の監視下に置かれ、ロボトミーを受けるよりは、火焔帝の元に来たほうがずっと安心していられる。我々は彼女がこちらに来やすいよう、お膳立てをしているまでです」
「安心とは笑わせる。彼女はそれを望むどころか、激しく拒絶をしているはずだ」
「いまの彼女ならね」
 ランデールは咬んで含んだような言い草で肩をすくめた。
 フライスは我が腕に抱きしめた愛しい少女の顔を不安げに見やる。「いまの彼女」という表現がなぜか空恐ろしく感じた。彼女が望んでガートルードの元に行くようなことが、この先あるというのだろうか。そのときの彼女は、自分が知っている少女のままではいられない、なぜかそんな気がしたのだ。
「彼女は……何者なんだ」
 自分に言い聞かせるように、絞り出すような声でフライスは問うた。自分の感じた漠然とした不安が、アートハルクの手先の男たちに気取られることのないよう、細心の注意を払ったつもりだった。
「それはあなたも薄々ご存じなのでは?」
 からかうような言い草に、フライスは眉をひそめた。
「……救世主《メシア》……なのか」
 彼女が。これほどまでに小さくやつれ、無力なままに傷ついたこの少女が。だからこそガートルードが彼女を欲しているのか。サーシェスがレオンハルトの面影を覚えているのも、彼女が聖賢五大守護神《ファイブ・ガーディアンズ》とともに汎大陸戦争を鎮め、黄金の聖騎士と深く愛し合っていたからか──。
「さあ? いまの彼女はなんでもない、ただの非力な少女ですよ。少なくとも、いまはね。だけど」ランデールは愉快そうに笑った。これまでとは違う、少し凶悪な表情で。
「元来、偉大なる一族《イーシュ・ラミナ》が多重人格なのはご存じですか」
 問われたフライスは、無言のままその先を待った。フライスが知らなかったことに気をよくしたのか、ランデールはまたニヤリと笑う。
「平均寿命二百三十年、長い者では四百年近くを生きる長命種の彼らイーシュ・ラミナは、生きている間に様々な強力な術法を使い続けることで、精神をたいそう疲弊させてしまう。肉体は頑丈なのに精神のほうが先に参ってしまうんです。彼らがたいへん好戦的で戦闘に長けていることは最近になって知られたことですが、実は彼らは一様にしてたいそう繊細で優しい。それを克服するために、戦うときにもうひとり本来の自分とは異なる好戦的な人格を形成しなければならなかった。そうしなければ精神の均衡が崩れて生きていけなくなるほど、か弱く優しすぎるんです。彼らが戦場を駆けめぐる際、狂戦士《ベルセルク》のように凶暴で、勇敢でおそれを知らないのは、戦闘用の別人格が彼らを支配しているからです。そうして別人格で戦っているうちに、彼らはどんどん自分の中にいくつもの別人格を形成し、最後にはどれが本当の自分なのか分からなくなってしまう。戦っていなくたって、我々人間には想像もつかない長い人生の中で、ふつうの人生の何十倍もの辛いことや悲しいことに立ち会うわけですから、別人格を自発的に作って自分を守ろうとする。中には、最後に人格崩壊を引き起こして発狂し、死に至るイーシュ・ラミナもいたとか」
 ここでいったんランデールは言葉を切り、フライスに抱きかかえられているサーシェスを哀れみを含んだ視線で見下ろした。無意識のうちに、フライスはサーシェスの身体を強く抱きしめていた。
「心優しき水の魔導師だったガートルードが、冷徹で無慈悲な火焔帝になったのも、それが原因だと言いたいんだな」
「それとこれとは話は別です。火焔帝の場合は……おっと。これは関係のない話ですよ。その別人格を、彼らは〈アヴァターラ〉と呼んでいた。古い言葉で『分身』とか『化身』とか、どうやらそういう意味を持つらしい。多重人格のイーシュ・ラミナのうち、その最たる者が救世主《メシア》だという話です。彼女はゆうに二十、三十もの〈アヴァターラ〉をその身に宿していたとか」
「だからそれがなんだというんだ。言いたいことがあるなら……」
「サーシェス嬢、彼女もそのイーシュ・ラミナですからね。あなたを愛したのは、さて、どの〈アヴァターラ〉なのでしょうね」
「ふざけるな!!」
 フライスが激昂する。彼のいらだちを表すように、冷気がフライスの周囲から空へ吹き抜けていった。
「まぁまぁ。そう怒りをあらわにしてばかりでは彼女を守ることなどできやしませんよ。あの黄金の聖騎士だって、救世主《メシア》にはほとほと手を焼いていたみたいですからね。ま、おしゃべりはここまで。我々の舞台はあなたの登場で幕引きだ。多少筋書きは変わってしまったが、運命の輪は確実にあなた方を捕らえて離さないでしょう。特に、あなたを……ね」
「くだらない予言になど惑わされることもない。いまここで私をつぶしておけば、火焔帝の脅威がひとつ減ってお前の株もあがるのではないか?」
「どうしてそう戦いたがるんです。私とあなたが戦う必要などこれっぽっちもないでしょうに。それに、確実な予言や予知など、この世界でできる人間なんざひとりもおりませんよ。すべては『神々の黄昏』の中にあり、『神の黙示録』のみぞ知る」
 ランデールの不可解な言葉に、フライスはいっそういらだつ。そんな様子が手に取るように分かるのか、アートハルクの術者は大げさに肩をすくめてみせると、
「火焔帝にお会いになりたいのでしょう。彼女は逃げも隠れもしません。いつまでも待つと申しております。あなたと、その少女をね」
 心の中を見透かされているようで、フライスの身体がびくりと震えた。ランデールは愉快そうに目を細めると、
「火焔帝にお会いになりたいのでしたらいつでもどうぞ。我が主は、すべてが終わり、すべてが始まった場所でいつまでもあなたをお待ちです」
 アートハルクの狡猾な術者はそう言うと、周囲の者たちに目配せをした。ふいに彼らの姿が中空から消える。強い転移術法の気配が、風のように彼らを連れ去っていったのだった。術法の気配は完全に消え、どんよりと曇った灰色の空に広がる雲の隙間から、少しだけ太陽の光がカーテンのように差し込んできていた。辺りは再び、なにもない荒野の姿を取り戻したようだった。
 すべてが終わり、すべてが始まった場所で──待つ──。
 フライスは腕の中の少女を強く抱きしめたまま、アートハルクの男たちが消えた中空を見つめ、独り言のようにそうつぶやいた。






 叩きつける無粋なノックの音に、女は「満足に鍵もかかってない扉なんだからノックなんかせずに勝手に入ってくればいいのに」と毒づき、いい気分で飲んでいたワインの入ったグラスを名残惜しそうにテーブルに戻すと難儀そうに立ち上がった。
 扉を開けた女は飛び上がらんばかりに驚いた。戸口には、小汚いボロボロのマントに身を包んだ少年を抱きかかえる黒髪の青年が立っていたのだ。
「すまない。他に頼む者がいなかったので」
 珍しく青年は少し取り乱した様子でそう言った。
「なあに、この子。きったない、浮浪児? しばらく満足に風呂も入ってないんじゃない? すっごい臭いよ」
 女はフライスが抱えている人物を見るなり顔をしかめ、悪臭に鼻をつまんだ。この貧しい集落であっても、これほどの薄汚れた小坊主は見あたらないので、女が悪態をつくのももっともなことであった。
「すまないがこの子を洗ってやってくれないか?」
「へえ、あんたにそういう趣味があったとはね。道理でなびかないと思ったら」
 女は忌々しげにフライスに抱きかかえられている少年のフードを引っ張った。少年だと思っていた頭から長い豊かな銀髪がふわりと舞ったので、女はさらに驚いたようだった。
「女の子!? どこで拾ったのさ」
 フライスは答えない。
「いやよ。なんでこんな小汚い子、あたしが洗ってあげなきゃいけないのよ」
「ケガをしている。たいしたケガではないのであとで私が手当をする。手間を掛けて申し訳ないが、手伝ってほしい」
 殊勝にも頭を下げるカタブツの言い草にただならぬ気配を感じたこの商売女は、少しの間のあと小さく頷き、自室のタオルやら着替えやらをまとめにかかった。
 人形のように意識のない少女を洗うのはたいそう根気と体力が必要だったらしく、きれいに着替えさせてベッドに横たわらせたときには、女は完全に疲労困憊していた。フライスのベッドの脇の椅子に「よっこらしょ」と年寄り臭く腰掛けると、胸元から煙草を一本取り出して火を点けた。うまそうに一服してから、ベッドの傍らで少女を心配そうに見つめる黒髪の青年を忌々しげに見つめた。青年は手際よく癒しの術法で少女の身体の傷跡を治したものの、意識がいまだに戻らないので焦っているようであった。
 少女の顔はたいそうやつれ、生気がないのだが、それでも目鼻立ちの整った美しい顔をしているのだろうというのが見てとれた。商売女はそれがよく分かっていたので、同性として彼女をあまり気に入ることができないようだった。
 ほんの少し、眠る少女がうめいた。青年はまるで我が子を見やる父親のようにベッドに張り付き、少女の華奢な手を握りしめる。すると、少女はわずかに瞳を開け、焦点の合わない目で周囲のものを物色し始める。ようやく目の前のものが焦点を結んだとき、彼女の目は驚愕のあまりに大きく見開かれた。
「フライス……?」
 呼ばれた青年は黙って少女の手を両手で握りしめた。その手のぬくもりがやっと伝わってきたかのように、少女は大きく身を震わせ、もう一度青年の名を呼んだ。黒髪の青年はそれに答えるかわりに、少女を優しく抱きしめる。
 女は窓の外に吸いかけの煙草を飛ばすと立ち上がり、小さく肩をすくめた。さっきまでは、少女に貸した自分の寝間着のことや、風呂に入れてやったことなどを含めて、嫌みのひとつでも言ってやろうかとも思っていた。何度言い寄っても袖にしてきたこのカタブツの青年を、これほどまでに取り乱させた少女が憎かったが、だがふたりが言葉少なに抱き合うのを見て、もうどうでもよくなってしまっていた。かつて、自分もこんな商売をしていなかった娘時代、こんな静かで情熱的な恋をしたことがあるのだと、胸の奥が少しだけ痛んだ。
 静かに扉を開けて失礼しようと思ったのだが、気配を察知した青年が振り返り、申し訳なさそうな顔をした。
「すまなかった、アイリーン、本当に助かった。礼を言う」
 ぶっきらぼうに、だが照れたような口調で青年がそう言ったので、女は悔しげに笑った。
「いいわよ。気にしないで。あたしは……。あんたが、あたしを名前で呼んでくれたそれだけで満足だわ」
 そう言って女は部屋を後にした。
 アイリーンが出て行ってからもしばらく、サーシェスとフライスは無言のままお互いを強く抱きしめ合ったままだった。サーシェスは声を殺し、フライスの胸の中でずっと泣いている。フライスは、そんなサーシェスの背中といわず髪といわず、すべてを慈しむようになで続けた。
「どうして……助けてくれなかったの……私……ずっと待ってたのに……」
 サーシェスは涙声でそう言い、フライスを抱きしめた。彼女の伸びた爪が背中にきゅっと刺さるようだった。
「……すまない……」
 フライスはそう詫びることしかできなかった。だが、それ以上の言葉が見つからないのではなく、それだけで十分だとフライスは思った。自分が出て行った後のことは、アートハルクの術者ランデールから聞いたこと以外にも知っていた。サーシェスの心の中は相変わらず霞がかかったように読むことはできなかったが、意識を失ったサーシェスの身体に触れたその瞬間、見えたのだ。彼女がなぜ光都を目指していたのか。
 サーシェスが便りにしていた大僧正は、サーシェスの術の暴走を食い止めるために力を使い果たし、命を落とした。彼女がリムトダールを殺したのだ、などとは微塵も思わなかった。師を見殺しにしたのは紛れもなく自分だ。そうして〈開封の儀〉にかけられ、術を暴発させ、牢に幽閉されることとなった彼女の心も体も守れなかったのは自分だ。ロクランを見捨てて私怨に走った自分が、いまのこの状況を作り出した元凶といえないわけがない。すまない、と詫びる以外に、どんな謝罪の仕方があるというのだろうか。
「大僧正様が死んだの……わた……し……私のせいで……」
「君のせいじゃない」
「多くの人を巻き込んで、殺してしまった……これまでも何度も、術が暴発して関係ない人を巻き添えにしてしまった……」
「君のせいじゃない。サーシェス、もういい」
「何度も、自分なんか死んでしまえばいいと思った……でも、できなかった……自分がこんなに命汚い人間だなんて思わなかった……人を……人をたくさん殺したのに……死にたくないって思った……!」
「もういいサーシェス。やめるんだ」
「やめない……! わた……私……、もうすぐ自分が自分でなくなってしまいそうな気がする……私の中で誰かが暴れようとするたびに、私がどんどん遠のいてしまう……!」
 あの術者が言っていた〈アヴァターラ〉の影響か──。フライスは胃の奥がぐっと痛むようないやな気分に顔をしかめる。サーシェスは知らないのだ。自分の身に何が起きているのか。フライスも、なぜ彼女の力が制御不能に陥っているのかは理解できなかったが、イーシュ・ラミナであるサーシェスの失われた記憶の中に、その秘密が隠されているらしいことだけはうっすらと分かったような気がした。記憶が戻らないことで、〈アヴァターラ〉の分裂が活性化しているのかもしれなかった。
 彼女の記憶を取り戻すにはどうしたらいい。記憶が戻らないことで、ますます別人格が形成されていくのではないか。その前に、いや、それを食い止めるために、自分たちはどうすればいい。ふと、光都にいる女賢者のことが頭に浮かんだ。伝説の預言者、最後の賢者と呼ばれるヴィヴァーチェ、聖賢五大守護神《ファイブ・ガーディアンズ》にも縁があったと言われる彼女なら、あるいは──。
「止められないの……私ひとりの力じゃ、私の中の誰かを止められないの……どうしたらいいの? 私は……私は……!」
「サーシェス。もういい。私が君を守ってみせる。たとえ……」
 たとえ、いまのサーシェスが自分の知るサーシェスでなくなったとしても。それが、きっと自分の役目なのだ。救世主《メシア》を守り続けたレオンハルトがかつてそうしたように。自分はもう、安穏とふつうの暮らしをここで続けることなどできないのだ。運命の輪が自分を捕らえているというのなら、喜んで宿命に身を捧げよう。フライスはそう思いながら愛する少女の身体を強く抱きしめた。それがせめてもの──。いや、償いなどという言葉は好きではない、とフライスはその言葉を心の中で打ち消した。ロクランを出るときに一瞬でもサーシェスの愛を疑った自分への、これは試練のひとつなのだ。なにものにも脅かされることのない思いを、いまこそ彼女に注いでやろう。
 そんな思いが通じたのか、ふとサーシェスは憔悴しきった顔を上げ、フライスの顔を見つめた。
「フライス……お願いがあるの」
 やつれてはいたが、サーシェスのグリーンの瞳は力強い信念の光を灯しているようだった。
「もし私が私でなくなったら、そのときは私を殺してほしい。もし私の魂が闇に飲み込まれてしまったそのときは……」
 フライスは息を飲んだ。救世主《メシア》も、かつてこんなふうにレオンハルトと抱き合いながら、自分の死を愛する聖騎士にゆだねたのだろうか。だが、レオンハルトはその約束は果たせなかったはずだ。もう迷うことなどありはしないはずだ。
「約束しよう。蒼天我が上に落ち来たらん限り」
 永遠の誓いの言葉だった。──誓おう。名もなき神々と、精霊の御名において。
「だがその前に、私たちにはやることがあるはずだ。だからふたりで光都オレリア・ルアーノに行こう。中央諸世界連合に協力を要請して、君の身柄を保護してもらえるように。賢者に助言を求めれば、君の力の暴発を制御する術が見つかるかもしれない」
「光都……」
「そう、光都だ。君が目指していたオレリア・ルアーノへ、一緒に行こう。そうしたらふたりで」
 フライスはサーシェスをベッドに横たえさせると、覆い被さるようにして華奢な身体を抱き、彼女の細く柔らかな銀髪をなで上げてやった。気持ちよさそうに瞳を閉じたサーシェスのその小さな唇に、フライスはありったけの愛しさを込めて口づけを与えた。サーシェスのやつれた腕ははじめは弱々しく、だが次第に熱くなるフライスの口づけに合わせて、強く強く、広いその背中を抱きしめた。
 ──ふたりで暮らせるようになれたらいいのに──。
 うわごとのようにこぼれる熱い吐息の中で、サーシェスがそうぽつりとつぶやいた。

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