第二十四話:戒厳令の夜

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 男はでっぷりとしたその巨体を揺すりながら走り、途中目に入ったゴミ集積所の横に駆け込むと、まだ荒い息をぐっとがまんして呼吸を止めた。バケツからはみ出した生ゴミのすえた臭いが鼻を突くが、そんなことにはもはやかまっていられなかった。そう、命がかかっているのだから。
 彼は口を閉じて鼻だけで息をするが、粘膜の乾いた鼻から出る空気がぴゅーぴゅーいってしまうので、その巨体すべてに酸素を行き渡らせることはできない。しかたなく口を開き、呼吸が漏れないようにしっかりと口を手で覆う。そのとき、彼は自分の手に着いた血糊に驚き、小さく悲鳴をあげた。
 自分のものではないことは分かっていた。自分はどこもケガをしていない。返り血だった。全身朱にまみれた悪魔のような殺人鬼が、目の前で人を斬り殺していたときの。
 恐ろしい光景だった。男は平凡な街の商人だったから、目の前で人が斬り殺されるところなどむろん見たことはない。あの赤い髪をした殺人鬼は、彼の目の前で四人もの騎士を平然と斬り殺したばかりか、あろうことか彼女の仲間と見て取れる数人の術者を平然と斬って捨て、全身に返り血を浴びながら高らかに笑い声を上げた。あれは正気じゃない。血に染まった指をなめ上げてうれしそうに笑うなど、人間のすることではない。地獄からの使者に違いないと男は身震いする。
 商人は命からがら逃げおおせることができた。どうやらあの殺人鬼は追っては来なかったようだ。それにしても、このあたりに人っ子ひとりいないのはどういうわけだ。みんなあの殺人鬼に殺されてしまったのだろうか。
 男は難儀そうに大きな体を起こし、ゴミ集積所から頭を出して周りの様子をうかがう。そろそろと這い出たところで、背後に駆け寄ってくる足音に気付き、商人は顔を引きつらせた。振り向いたときには、駆け寄ってきた人物はすぐ自分の目の前におり、制動が利かなかったのか思いきり突っ込んできた。かの人物は踏みとどまったが、男は卵よろしく豪快に道に倒れ込んだ。だぶついた腹の肉もいっしょに波打つ。
「おい! おっさん! こんなところでなにしてんだよ!」
 威勢の良い声に、商人は我が耳を疑う。男の声だ。派手に打ち付けた大きな尻をさすりながらその声の主を見上げると、目の前には剣を携えた金髪の青年が、怒ったような顔をして彼を見下ろしていた。
「ここはすでに一般市民の避難勧告が出されていたはずだぞ! なにやってんだよ!」
 はるかに年下である若造の威張った態度に内心腹を立てたものの、男はこの青年が中央特務執行庁の紋章入りの戦闘服を着ていることに気づくと、いまにも泣き出さんばかりの情けない顔で青年の足下にすがりつく。
「けがをしたのか!?」
 青年が商人の身体に着いた血を見てしゃがみ込む。横柄な態度とは裏腹の、わりと美形の好青年ではあった。男が返り血を浴びたことを震え声で説明すると、青年は舌打ちをして立ち上がった。
「戒厳令と避難勧告を聞いてなかったのか? まったく! とにかく、一刻も早くここから離れるんだな。そのうち人様の返り血じゃすまなくなるぜ」
 青年はいまいましげに目にかかる金色の前髪をかきあげながらそう言うと、まるで道中誰にも会わなかったようなそぶりで再び走り出した。
「くそ! 俺だって逃げたいぜ。これで死んだらぜってぇ化けて出てやるからな、ラファエラ将軍!」
 商人は、青年が去り際にそう言ったのを聞き届け、しばしポカンとその後ろ姿を見送っていたが、すぐに我に返って横道に駆け込んだ。
 青年が走り去ったあとしばらくしてから、屋根を飛び越えるような音とともに黒い人影が頭上をかすめていった。人影が彼の上を飛び越えていったときにぱたぱたと水しぶきのようなものが頭に降りかかった。それが血であることに気づいて驚いた彼は、再び青年の去った方向を見つめる。あの赤い髪をした少女が血に濡れた黒い剣を手に、まるで軽業師のような身軽さで次々と屋根を飛び移っていくのが見えた。
「待て! トスキ!」
 少女の声で殺人鬼は叫んだ。どうやらさきほどの金髪の青年を追いかけているようだった。
 助かった。あの殺人鬼が青年に気を取られている間に逃げる隙ができたと思い、商人はすぐさま横道をかけだした。ぶるぶると震える腹の肉を難儀そうに抱えながら。途中、背後で緑色に輝く強烈な光が炸裂したが、彼は振り返ることもせずにそのまま走り続けた。
 緑色の光は、周囲の家々をまるでカーテンで遮ったかのように取り囲み、やがてそれは暗闇の中に吸い込まれて見えなくなった。






「そんなに腫れて。いい男が台無しですよ」
 アジェンタス騎士団領総督府へ向かう馬車の中、シュトロハイムの用心棒に散々殴られた顔が急に腫れだして呻いているセテを見ながら、ラファエラがため息混じりにそう言った。セテは看護人の長エルディラ・コルマンから渡された氷嚢を頬に当てながら、目の前で優雅に足を組む上司を見やった。
 ここ二十数年間、伝説的な武勲をうち立ててきた鋼鉄の女将軍ラファエラ・フォリスター・イ・ワルトハイム。辺境での取るに足らない部族間の紛争では、双方に勝利を確信させるだけの絶妙な条件を提示することで希代の調停者として名を馳せたかと思えば、中央諸世界連合内での反乱には容赦なく立ち向かい、完膚無きまでに敵を叩きのめす。
 彼女は四年前、ハイ・ファミリー出身で史上最悪の無能長官といわれた前中央特務執行庁長官が、アートハルク侵略戦争の引責で解任された後、中央諸世界連合評議会の満場一致によってその後任についた。前長官と同じくハイファミリーであったにもかかわらず、実戦で培ってきた経験と将軍の称号にふさわしいその冷静かつ客観的判断力で、脆弱だった中央特務執行庁をまとめあげ、再建してきた。中央特使の存在も、就任直後の彼女の提案によるものだ。「鉄の淑女」とは彼女の政治的手腕に敬意を払ってのあだ名であり、本人もその異名にまんざらではないようだった。
 中央特務執行庁長官、しかも将軍の身でありながら、この女史は本当に現役で活躍しているのだ。入庁する前の試験会場で、また入庁当日、そして、アジェンタスへの出向を命じられた運命の日をあわせてまだ三回しか顔を合わせておらず、しかも、直接話をしたのはそのうち一回だけであるにもかかわらず、このパワフルな女将軍の前にあってはさすがのセテも萎縮してしまっていた。
「なにか?」
 ワルトハイム将軍が尋ねる。セテはもう一度ラファエラを見つめ、それから切れた唇を難儀そうに開いた。
「あなたのような地位にある人が……どうしていまだに現場で、しかもこんな汚れ仕事を?」
 女将軍は痛々しく腫れ上がったセテの顔をじっと見つめて、それからため息混じりに微笑んだ。
「……そう言えば、あなたとお話したのはアジェンタスへの出向を命じたあのときだけでしたね」
 そう言ってラファエラは短く刈り込んだ髪に手をやった。白髪頭の変装を解いたものの、まだ髪に顔料が残ってごわごわするのが気になるらしかった。
「……私たちの仕事はなんですか? トスキ?」
 唐突にワルトハイム将軍が尋ねた。いきなり何を言い出すのか。セテは分かり切った答えを言わせる気かと思い口を開きかけたが、ふと考えてみるとそれがうまく言葉に表せないことに気がついた。
「……人々の暮らしを守ること……です」
 おそるおそる言葉を選びながら答える。ラファエラは満足そうに頷き、
「そのとおり。では人々の暮らしを守るために私たちが具体的にしなければならないことは?」
 その問いにセテは頭を巡らせた。自分たちがしなければならないこと。それは法を遵守し、正義を貫き、悪と戦うこと?
 セテが考え込んでいるのを見て、ラファエラは微笑んだ。
「私たちのすべきことは、戦うことです。正義を貫き、悪と戦うこと。戦うことのできない弱い人々のために、命を懸け、そしてかわりに血を流す。私たちの仕事はいわば『汚れ仕事』そのものなのですよ。人を殺し、自らも血を流す、粗野で野蛮きわまりない」
 ラファエラがそう言ったのに対し、セテは少し勘に障ったのか口を開きかけたが、それをラファエラが即座に遮る。
「勘違いしてはいけません。自分を崇高な使命を持った高潔な人物だと思いこんでいるならそれは間違いです。いいですか、私たちのいう正義とは私たちの正義でしかない。私たちの敵は、私たちにとっての悪でありながら、自分たちの正義を持っている。双方の利害が衝突したときには、お互いの正義を持って力ずくで戦うわけです。互いの信じる正義のためにね」
 口調は優しいが、明らかに自分の一言をラファエラに叱責されているのを感じ取ったセテは、小さくため息をはき、それから弁解するように手を広げたが、またもや将軍に遮られてしまう。
「私は二十数年間、その正義とやらを守るためにさまざまな戦場を駆けめぐりました。多くの優秀な部下が人々の信じる正義のために、斬られた腹からはみ出る腸を引きずりながらのたうち回り、死んでいきました。彼らの顔を忘れたことは一度たりともありません。将軍の称号をいただき、中央特使の頂点に立ついまでも。私がなぜ現場にとどまるか、彼らと同じ目をしたあなたたちを、今度は私の正義のために顎で使うようなまねをしたくないだけです」女将軍はセテに小さく微笑んだ。
「私が作戦に参加したことで、あなたたちは勘違いをしているかも知れませんね。ガラハド提督が無能であると判断されたのではないか、なんてね。それは違いますよ。トスキ。ガラハドはとても優秀な騎士です。私たちは昔からの友人でね、私はガラハドを尊敬しているし、彼も私を尊敬してくれている。違うのはね、ガラハドは性善説に基づいて行動しているということだけですよ」
「性善説……?」
 ラファエラは頷いた。
「人は生まれながらにして善であるという価値観のことですよ。彼は人を信用し、悪人であっても最後まで更生すると信じてやまない人なのですよ。でも私は違う。人は生まれながらにして悪であるからこそ、私たちのような『汚れ仕事』をする人間が必要なのです。彼ができないことを、私が代行する。ただそれだけのことです」
 女将軍はさも平然とそう言い放った。性善説ではないとすれば、性悪説に基づいてこの鉄の淑女は行動しているというわけか。
「指揮官はときに冷酷でなければいけないときもあるということですよ。我々にとっての悪を、完膚無きまでに叩きつぶすためにね。ガラハドは優秀な指揮官ですが、まだ彼は何かを渋っている」
 渋っている。確かにガラハドは何かを決断しかねていたような感じだった。あのこまっしゃくれた中央の臨時顧問官、フィリップ・ハートマンに辱められても黙っていたくらいだ。
 それにしても、この女将軍はどこまで人の心を見透かすつもりなんだろう。自分の言いたいことや考えていることを即座に言い当て、そしてその答えをすぐに返してくるなんて。そう思いながら、セテはラファエラの顔をじっと見返した。女将軍はセテに見つめられると、少し困ったような顔をした。馬車はそろそろアジェンタス総督府に近づいていた。
「中央諸世界連合も、性善説に基づいて行動する部分があります。それは、伝説の剣士の理想とする部分でもあったのですがね。それはそのまま、中央の弱点でもあるということは否めません」
 馬車は総督府のガラハド公邸に到着し、衛兵によって扉が開けられたのを合図に、ラファエラは腰を上げた。セテは体制批判とでも取られかねないことを平気で言う女将軍の顔を見つめ、彼女がその先を口にするのを待ちかまえた。ラファエラはそんなセテを振り返り、意味ありげな微笑みを返してやった。

「聖騎士レオンハルトですよ。彼が中央諸世界連合を作ったのは、性善説を信じてやまない人間だったからです」






 ラファエラの声が聞こえたような気がして、セテは身体を震わせてから目を覚ます。夢を見ていたのか。セテは首を振って意識を呼び起こす。
 頭が重い。それに口の中に苦い味が広がっている。吐いたのかと思ったが、胃液の味とも違う。なにかを飲まされたのか。喉を通して鼻を伝うこの臭いは、どこかで嗅いだことがあったはずだ。そうだ、確かに慈善病院の地下通路で嗅いだ臭いではなかったか。
 まさか。背筋に悪寒が走る。動きにくい腕を少しだけ動かして、その手首に金属の鎖が触れ合う感触を感じた。セテは床に横たえられ、手首はご丁寧にも頑丈な手かせによって戒められていた。瞬時に彼は悟る。あろうことか、コルネリオの手に落ちることになろうとは。
 朦朧とする意識の中で、セテはせいいっぱい目を凝らして周りの様子をうかがう。暗闇のなかで、自分が横たえられている床に描かれた魔法陣が不気味な緑色の光を放ち、彼を囲んでいるのに気がつくと、セテは激しく身をよじった。
「ちくしょう! コルネリオ! 顔を見せやがれ! ぶった斬ってやる!」
 セテは思いつく限りの悪口雑言を叫び、両腕を戒める鎖を引きちぎらんとばかりに暴れた。当然人間の力だけで鎖を引きちぎることなどできるはずもなく、手首の皮が裂けて血がにじみ出た。
「威勢のいいことだ。称賛に値するよ」
 低く落ち着いた声にセテは顔を巡らし、声の主を睨み付けた。ガラハドの盟友でもあった元アジェンタス騎士団長候補、カート・コルネリオの姿がそこにあった。だがコルネリオの服の右袖は、わずかな空気の動きにゆらゆらと揺れている。心なしか苦痛に歪んだ面もちであった。
「いいかっこうじゃねぇか、コルネリオ。どうだった? 飛影(とびかげ)の味はよ」
 セテは嫌みたっぷりに尋ねる。コルネリオの顔が一瞬怒りに引きつって見えた。
「さすがに効いたよ。まさかあの体勢で私の右腕を切り落としてくれるとは、予想だにしなかった」
 コルネリオはいまいましげに唸ると、床に縛り付けられているセテの横に立ち、満足げに彼の顔を見下ろした。セテも負けじと憎しみたっぷりの瞳で彼を睨み付けてやる。コルネリオはセテの剣帯に結びつけられた愛刀・飛影をしげしげと眺めると、
「さすがは名刀・飛影と謳われるだけはある。君のお父上もさぞかし喜んでいるだろう」
「父を……! 知っているのか!?」
 セテの問いに、コルネリオは目を細めて頷く。
「立派な剣士だったとも。勇気があり、実力もあり、平和を愛し、常に前向きにものごとを考えるところなど、君にそっくりだ、セテ・トスキ君」
 コルネリオはセテの顔を覗き込むようにかがみ込み、左手でセテの顎を掴んだ。セテは乱暴に頭を振り、その手をはねのける。目だけはコルネリオをずっと睨み付けたまま。
「……なぜ俺を知っている。なぜ俺の父を……」
 驚愕の思いを表に出さないよう必死で努めながら、セテはコルネリオを見返す。企業秘密だよ、とコルネリオは冗談ぽく笑った。
「君のその目はお父上にそっくりだな。顔は母上によく似ている」
 それからコルネリオは立ち上がり、部屋の隅にしつらえた壇上にあがる。それまで気がつかなかったが、その壇上には薄汚いローブをまとった老婆が、おそろしくやせ細った手で水晶玉をなで回しているのが見えた。
「俺を狂戦士《ベルセルク》にしちまおうってわけか。レトやオラリーや……あの……赤毛の娘みたいに」
 セテがそう言うと、コルネリオは大袈裟に驚いたような顔つきをしてみせた。
「ほう、あの娘がそんなに気になるのか。惚れたか」
 そのおどけぶりが勘に障り、セテは舌打ちをする。だが、カマをかけてみたつもりが、あの少女もやはりコルネリオの手に落ちた被害者であったという真実を入手できたので、セテはひそかに安心した。なぜか、あの少女がもともと彼の手の者でなかったことに喜んでいる自分がいた。
「安心しろ。あの娘はいずれ前頭葉手術を施して扱いやすくなったところで君にくれてやる。シュトロハイムのばかがむやみに強い薬を開発しおったおかげで、あの娘はどうにも手が着けられん。主人の命令も聞かず、敵も味方も区別なく殺し回るとは完全な失敗作だよ」
 前頭葉手術。脳の前頭葉の一部を切除することにより、完全な廃人にしてしまう非人道的な手術であった。もちろん、中央諸世界連合では全面的に禁止されている。だが、コルネリオはそれすらも慈善病院とシュトロハイム院長を巻き込んで可能にしていたとは。
「もっとも、今君に飲ませた薬は、死ぬ間際にシュトロハイムが完成させた新しいものだから安心するがいい」
 やはりあの苦い味はそうだったか。シュトロハイムがコルネリオに依頼されて開発していたという、超人を作り出す秘薬。俺もレトやあの娘のように、平気で人を殺し回る人間に生まれ変わってしまうのか。いやだ。心までこいつの支配下におかれてたまるものか。
「それほど深刻に思い煩う必要はない。人間誰しも残虐な心を持って生まれている。ふだんは理性でそれを必死に押さえ込んでいるが、それは偽善だ。ちょっとだけ引き出してやれば簡単にタガははずれる。そのときこそ、ただの人間であっても隠された真の能力が発揮されるすばらしい瞬間なのだ」
「ふざけるな。お前みたいなカス野郎と一緒にするな! 人間が残虐だと? お前ほどの腐れた脳味噌を持ち合わせるヤツが他にいるわけねぇだろ」
 負け惜しみにも近いセテの言葉にコルネリオは高らかに笑いだし、そして壇上から身を乗り出してセテを満足そうに眺める。
「あきれた無知ぶりだな。君の敬愛するレオンハルトが、イーシュ・ラミナがどれほど恐ろしい人種かもしらないくせに」
「なん……だと……?」
 なぜレオンハルトの名前がこの男の口から出てくる。レオンハルトが恐ろしい人間だと? そんなことがあるわけがない。彼は平和を愛し、戦争を憎み、そして……。
 コルネリオは隣にいる老婆を手で促す。老婆はよぼよぼの口元を細かくうち振るわせて、小声で呪文を詠唱しはじめた。術法が展開されるのを知ったセテは、再び激しく身をよじりながら抵抗を試みる。手首に手かせが食い込んで血が流れるも、その痛みさえ彼は気づかない。
「ふざけるな! 絶対ぶっ殺してやる!」
 目の前で白い光が激しく炸裂し、恐ろしい勢いで全身の血が逆流していくのが感じられた。まるで強い酒に悪酔いしたような感覚。それよりもひどいのは、どす黒い負の感情が、理性で押さえつけていたむきだしの感情が、暗い深淵から鎌首をもたげて自分を飲み込もうとしているイメージとして鮮明に頭の中に描き出されることだ。
「う……あ……っ! あっ!!」
 セテは身をのけぞらせて叫ぶ。痛みは感じない。それなのに、これほど苦しいのは薬によるものか、それともあの老婆の紡ぎ出す古代の呪文によるものか。
 強烈な吐き気とめまいが襲ってくる。横たえられているのに、その身体の下にある床の感触さえ感じることができない。そのうちに硬い床がぐにゃりと柔らかくたわむような幻覚にさいなまれ、そしてセテはくぼんだ床の中に身体が吸い込まれていくのを感じた。どす黒く口を開けた床の下で、黄色く光る無数の瞳が彼を狙っている。敵意をむきだしにしたそれらの目が、彼が落ちてくるのを今か今かと待ちかまえているようだった。セテはこれまで感じたことのない極上の恐怖にさらされ、声にならない叫びを上げながら、必死に深淵の渦に巻き込まれまいとむなしい抵抗を続けた。
──見せてみろ! 正義感に凝り固まったお前の心の中とやらをとくと拝見してやる──
 コルネリオの声が破鐘のようにこだましていた。






 アジェンタス騎士団領総督府にあるガラハドの公邸では、重苦しい面もちのガラハドとラファエラ、そしてハートマン臨時顧問官が顔をつきあわせていた。ハートマンはいまにも舌打ちせんばかりの勢いでガラハドを睨み付けている。
「だから言ったんです。我々が彼を欲するのと同じように、コルネリオも欲しているはずだと。何度もご忠告申し上げたはずです」
 ハートマンは苦虫をかみつぶしたような顔でそう言った。たまにずり落ちそうになる眼鏡を指で直しながら、ラファエラの顔色をうかがう。女将軍は無言のままハートマンを睨み付けていた。
「この作戦はあきらかに失敗です。トスキ特使が敵に回ったら、我々に勝ち目はないと思ってもいいでしょう」
 ハートマンが言い終わるか終わらないうちに、作戦司令室の廊下で怒鳴り合う声が聞こえ、それからしばらくして乱暴に扉が開くと、上半身を包帯で武装したスナイプスがのしのしと司令室に入ってきた。
「トスキが捕まったって?」
 スナイプスはものすごい形相でハートマンに詰め寄る。心なしかハートマンはその形相におそれをなしたのか、少しだけ後ずさった。ええ、という無味乾燥な返事が返ってくると、スナイプスはありったけの悪口雑言で悪態をつきまくる。
「どういうことだか説明していただけますね、閣下?」
 スナイプスは沈痛な面もちで何かを考え込むガラハドに尋ねた。語調が荒くなるのも隠すことはできなかった。
 ガラハドが指定した地域の住民には避難勧告が出され、彼らがしかるべき場所に避難させられた後、ゴーストタウンと化したその街には、セテを筆頭とする特使の精鋭部隊とアジェンタス騎士団の中隊がかり出された。なにゆえか赤毛の殺人鬼はその街に現れ、そして再び惨劇が繰り返されるかと思ったが、セテたちに課せられた任務は赤毛の剣士を捕らえることではなく、指定の場所まで彼女をおびき寄せることであった。
 まんまと作戦に成功したものの、まさかそこにコルネリオとその術者たちが現れるとは計算外であった。報告によれば、突然地下から強烈な緑色の光がわき出たという。その光にさらされたコルネリオの術者たちはみないっせいに体が溶け、かき消えてしまったとということであった。セテは逃げようとしたコルネリオの転移に巻き込まれ、赤毛の剣士もろとも姿を消した。
「コルネリオを捕らえるどころか、赤毛の女剣士まで取り逃がし、トスキ特使はミイラ取りに。もう考えている余地はありません。コルネリオを捕らえるよりも早い手段はなんだとお思いです?」
 ハートマンがそう言ったのに対し、スナイプスは彼を振り返る。
「それはつまり、トスキが寝返ったらその場で殺せということか?」
「そのとおり。あなたは察しがいい人だ」
 バカにしたような台詞にスナイプスは青年の胸ぐらを掴もうと腕を伸ばすが、ラファエラに引き留められて思いとどまる。ハートマンははずれた詰め襟のホックをただすと、厳しい口調でガラハドに詰め寄る。
「私の独断で部隊を召集しておきました。あなたのやり方では決してコルネリオに勝つことはできない」
「ここは私の国だ! 勝手なマネはするな!」
 突然ガラハドが声を荒げたので、ハートマンはもちろん、その場にいた誰もが驚き、我が耳を疑った。ふだん冷静沈着なガラハドがこれほど正気を失うところなど、スナイプスでさえ見たことはなかったのだ。
 ガラハドは少し疲れたようなため息をつき、それから近くにいた騎士に手振りで何かを指示する。しばらくするとアジェンタス騎士団によく似た緑色の制服を着た男たちが作戦司令室にやってきた。スナイプスはこの制服に見覚えがあった。
「霊子力レベルを百二十パーセントまであげられるか」
 ガラハドは男たちに尋ねると、なかでも高い地位にいるであろう壮年の男が可能であることを告げた。
「では頼む。戒厳令を敷いて総督府の住民には避難勧告を発令しておく。では準備にかかれ」
 ガラハドの命を受けて男たちは敬礼をし、すぐさま部屋を出ていった。スナイプスは彼らの後ろ姿を見送りながら、あの制服をどこで見たのか正確に思い出すと、驚愕に見開かれた眼でガラハドを振り返った。それを受けて、ガラハドは苦笑混じりに大きくため息をついてみせた。
「我々アジェンタスの最後の頼みの綱だ。本来なら騎士団長以外の人間に知らされることはなかった。だが……」
「……あの緑の光の正体について……話していただけますね、ガラハド?」
 ラファエラは古い友人の肩に優しく手をおき、その顔を覗き込むような仕草で尋ねた。

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