第十八話:深淵

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 朝食を済ませた後、レトはコーヒーを一杯飲んで一服しようとリフレッシュルームに向かった。その途中、中央玄関の掲示板に人だかりができているのを見つけ、後ろから背伸びをしてそれをのぞいてみた。今月末付けで昇格や昇級、転属する騎士たちの名簿がそこに張り出されていた。何気なくレトはそれに目を走らせていたが、昇級者名簿の中にセテの名前を見つけてたいへん驚いた。
 アジェンタス騎士団に入団直後の騎士は、通常四等級である。七つに分けられた等級のなかでもっとも低く、当然給料も安い。ところが、セテは四等級からいきなり二等級に昇級されていた。ある一定の期間になると上司の判断により等級があがるのだが、セテの今回の昇級は異例の早さであり、異例の飛び級でもあった。セテだけでなく、ほかにも自分たちと同期で昇級している者も何人か張り出されていた。どれも、スナイプスが目をかけて個人的に剣の指導をしていた者ばかりで、なるほど彼は見込みのありそうな者を見抜く力があったのだろうとレトは思った。
 セテはそれだけでなく、転属者のところにも名前を連ねていた。セテの転属先は第二特別治安維持隊、通称第二特治隊で、ガラハド提督直属の隊であった。特別治安維持隊はいわば前衛隊で、第一と第二の二個中隊からなる。通常グリーン隊やレッド隊のような色の名前の付いた小隊にはそれぞれ指揮官がおり、それらを束ねるのがスナイプス統括隊長の役割であったが、特治隊にはそういった指揮官がいない。スナイプスが直接指揮を執るか、任務や作戦によってはガラハドが指揮をすることもある。つまりそういう危険かつ重要な任務が多いというわけだ。
 掲示板を見ていた騎士たちの一部からどよめきが起こっている。おそらくセテの異例の昇級と転属への不平や中傷をもらしているのだろう。どうせあの顔で取り入ったんだろうと口さがないことを言う騎士もいるが、実際にセテと同じ隊で任務をこなした者は、同僚であれ、先輩であれ、その実力に押し黙ってしまうのだった。現に、このあいだセテをからかった三人の先輩たちは、そのあとにセテと同じ任務につくことになったが、実際にセテが剣を振るうのを見て驚いたらしく、それ以来ああいった暴言を吐くことは二度となかった。
 レトは掲示板の前を静かに離れ、リフレッシュルームに向かった。喜ぶべきなのだろうが、なぜか心の中にもやもやしたものがあって、今セテに会っても素直におめでとうと言えないような気がした。
 何を考えているんだ、俺は。レトは軽く首を振るとコーヒーメーカーの脇に添えてあるカップを手に取った。ここのコーヒーの味はサイアクなのだが、それでも一日一杯は飲まないと落ち着かない。
 コーヒーを注ぎ、空いている席を探していると、幼なじみのオラリーがひとりでコーヒーを飲んでいるのを見つけた。レトは一瞬ためらったが、とりあえず声をかけた。
 オラリーは、先日の集団自殺の一件でクルトが死んだのが相当ショックだったらしく、ひどく無口になった。成績が振るわないため、最近は任務からはずされることも多い。外見もひどく陰鬱に見えた。
 オラリーはレトが向かいの席に座ることを許したが、あまり口を開こうという意志はないようだった。レトは密かにため息をつき、まずいコーヒーをすすった。優男風のやわらかい印象はもうオラリーにはなく、どこかとげとげしい、傷つき疲れたような雰囲気が彼を包んでいた。
「……掲示板、見たろ?」
 オラリーはぼそりと言った。
「ああ」
 レトは顔を上げてオラリーを見つめ、返事をした。オラリーはレトの目を見ようとしない。生気のない目で、自分のコーヒーカップの中を見つめていた。
「セテ、昇級だってな」抑揚のない声でオラリーは続けた。
「セテは……本当にすごいよ。あいつは本当に剣を振るうために生まれてきたんじゃないかって思うときがある。俺たちなんか足下にも及ばないくらい、全然レベルが違うんだ。うらやましいよ」
 オラリーはそう言って冷えたコーヒーを飲み干した。
「俺は……クルトが死んだあのとき、正直言ってびびって足腰立たなかった。怖くて死にたくなくて……。それなのにセテは正面からあの化け物に突っ込んでいったんだ。あんときのあいつ、冗談じゃなくかっこよかったよ……」
 レトは後から別の同僚にそのときの様子を聞かされた。あの化け物を両断した腕を見て、誰もが言葉を失ったという。スナイプスが自分の直下にセテを引き入れる決意をしたのは、きっとあの瞬間だったのかもしれない。それに、一週間前の未明に起きたガラハド提督暗殺未遂も、セテが大いに活躍したと聞いた。ただでさえ中央特務執行庁から来たということで他とは一線を画している存在なのに、これでまた大きく差をつけられた感がある。
「……レト……! お前は俺を軽蔑するか? 俺はあいつがうらやましい……恨めしいんだよ……!」
 オラリーは突然手で顔を覆い、絞り出すような声でそう言った。
「俺はあいつの能力に嫉妬しているんだ……! あいつを見ていると、だめな自分を見せつけられて、いても立ってもいられなくなっちまうんだ……!」
 オラリーの魂の叫びを聞いたような気がして、レトは胸が苦しくなるほどのめまいを覚えた。しばらく沈黙があって、レトはオラリーが覆った手の中で泣いているのかもしれないと思い、そのまま静かに彼を見守った。やがて、オラリーは自嘲するように鼻を鳴らし、顔を上げてレトを見つめた。だが、その目はレトを見ているのではなく、どこか遠くの景色でも見ているような焦点の定まらないものだった。
「……レト……お前はどうなんだ? セテのそばにいて、ずっとあいつを見ていることになんの苦痛も感じないのか……?」
 レトは息を飲んだ。オラリーの目が自分を捕らえて離さない。自分を見ているのではないと確信しているのに、視線をはずすことができなかった。
「自分がどんどんおいていかれるような気がして、焦燥感を感じたことはないのか? セテがうらやましくて夜も眠れなくなったり、セテが笑ったり話したりするのを聞いてイライラしたり、そんなことはないのか?」
「よせよ」
 レトは低い声でそうたしなめた。オラリーの言葉に、なぜか全身の肌が泡立つような恐怖を覚えるのはなぜだろう。オラリーはそんなレトの様子を知ってか知らずしてか、口の端にいびつな笑い皺をよせて話し続ける。
「あいつの自尊心をめちゃめちゃに引き裂いてやりたいとか、あいつを自分の支配下におきたいとか、あいつを引きずりおろしてやりたいとか」
「もうよせって」
 冷たい汗が背中を流れ落ちていく。額からも流れる汗が目に流れ落ちてくるのに、レトは金縛りにあったように動けなかった。本能が何かを告げている。こいつは危険だ、と。
「あいつを自分だけのものにしたいとか? あいつをずたずたに犯してやりたいとか? あいつを殺して……」
「黙れよ!!」
 気がつくとレトは叫んでいた。まわりにいる人間が驚いてレトをいっせいに見つめた。レトは深いため息をつき、額の汗を拭う。まるで自分の声で呪縛が解けたようだ。だがそれでも、目の前のオラリーの表情から、レトは目をそらすことができなかった。口元に浮かべた、あの薄気味悪い微笑み……。
「あれっ なんだよ、オラリーとレトもこっちきてたんだ」
 明るい金の髪がひょっこりと扉から現れた。セテの姿を見るやいなや、オラリーははじかれたように席を立ち上がり、そのまま目も合わせずにセテの横をすり抜けていった。
「……なんだよ、あいつ……喧嘩でもしたのか?」
 セテはコーヒーを注ぎながらレトに尋ねた。レトは脱力したようにイスに体を預け、頭を軽く振った。セテの問いかけに答えることもできないほど疲労しているのに気づき、全身の筋肉がいっせいにゆるんだような開放感を感じていた。
「いやー、寝過ぎた寝過ぎた。あやうく朝食食いっぱぐれるところだったよー」
 セテはまだ寝癖の残る髪を掻き上げながら、先ほどまでオラリーの座っていたレトの向かいの席に腰掛け、熱いコーヒーをすすった。
 レトはセテの顔を見て深いため息をつくが、すぐにさきほどのオラリーの顔つきを思い出し、吐き気を催す。まだ膝から下ががくがく震えて、嫌な悪寒が背筋を走っている。オラリーのあの目。あれは正常な人間の目じゃない。
「……どうしたんだよ、顔、真っ青だぞ?」
 セテが不思議そうな顔をして見つめていた。レトはとりあえず「なんでもない」と首を振り、冷めてしまったコーヒーの残りを飲み干した。だいぶ落ち着いてきた。たぶんオラリーの毒気に当てられただけだ。レトはそう自分に言い聞かせた。それから新鮮な空気を思い切り吸い込み、酸素が脳に回っていくのにまかせる。もう大丈夫だ。
「掲示板、見たよ。昇級おめでとう」
 レトは言った。ほら、大丈夫、ちゃんと言えるじゃないか。
「あ、ああ、ありがとう」
 セテは急に照れたように顔を伏せ、寝癖のついた髪をなでながらコーヒーを飲んだ。
「なんかあんまり実感がわかなくてさ、昇級っていったって、やることが変わるもんじゃないし」
 セテは寝癖のついた髪がいうことをきかないのに腹を立て、悪態をついた。
「でもさ、なんで統括隊長は俺なんかを引き抜いたのかな。あの人に言わせれば俺なんか役立たずの単細胞らしいのにさ」
 髪の毛と格闘しながらセテは独り言のようにつぶやいた。自信がないとき、いつもセテは誰に言うとなく、こういったことを口にする。「どうして俺なんか」といった具合に。
 ようやく手櫛で髪の毛が落ち着いてきたので、セテはとりあえず格好がついたと頷いたが、なんとなくうかない顔をしている。レトはそんなセテをぼんやりと見つめながら、いつもこういったときに彼にかけてやっていた言葉が、すんなり出てこないのはどうしてだろうと考えていた。「お前、本当に自分のこと分かってないんだな。もっと自信を持てよ」と言ってやるべきなのに。
 何を動揺しているんだ、俺は。俺がこいつに嫉妬している? ばかばかしい。セテを恨めしく思ったことなど一度もない。俺は……こいつが自信をなくしたときに側にいてやればいい。子どもみたいに無鉄砲なこいつの心が、俺の目の前で壊れちまわないように。
「お前、本当に自分のこと分かってないんだな。もっと自信を持てよ。学生の頃はもっと自信たっぷりだったろ?」
 ようやく言えた。もう何ともない。
「……ありがとう……いつだってお前はそうやって言ってくれるんだな」
 セテは驚いたような顔をして、それから照れくさそうに笑いながらそう言った。
 レトは、柄にもなくその笑顔に自分の心臓が高鳴るのを感じた。なぜか胸が締め付けられる。そうだよ。お前はそうやって笑ったり怒ったりしているほうがいい。お前はいつだって自信たっぷりに行動して……。
「あれ? 忘れ物だ。これ、オラリーの手帳じゃないか?」
 セテが隣のイスに置いてあった手帳を持ち上げて見せたので、レトは物思いから現実に引き戻された。間違いない。レトが座る前に、オラリーはこの手帳を開いていた。さっきあわてて去っていったときに忘れていったのだ。
「俺、後で返しに行ってくるよ。これがないと困るだろうから」
 セテは手帳をつかんで席を立とうとした。
「だ、ダメだ、セテ!」
 レトがセテの腕をつかんで怒鳴った。
 なぜか今、セテをオラリーに会わせてはいけないと思った。単純にオラリーはノイローゼ気味になっているだけのことだろう。だが、直感がそうは言っていない。セテをオラリーに近寄らせるのは危険だ。
 セテは驚いてレトの顔を見つめ、困ったような顔をして首を傾げてみせた。
「あ……いや、……いいよ、後で俺が返しに行く。その……仲直りもしたいしさ」
 レトはなんとかそう言うことができた。当然、セテはオラリーと自分が言い争いをしたと思っているから、難なく信じたようだ。内心ホッとため息をつく。自分の今の態度はおかしいと思ったかもしれないが。
 それからセテは、次の講義の準備を始めるために一足先に戻っていった。リフレッシュルームから出ていくあの金の髪が、いつもよりまぶしく輝いて見えるのは気のせいじゃない。
 レトはオラリーの手帳を制服のポケットに入れて席を立とうとした。その拍子に、何かふたつ折りにしたような紙が手帳の間からひらりと舞い、テーブルの下に落ちた。
 レトはそれを何気なく拾い、手帳の間に挟んでやろうとポケットに手をやる。が、レトは手を止め、その落ちた紙をまじまじと見つめた。再び全身を嫌な悪寒が駆けめぐるのを感じる。見る必要はないと頭の中で何かが告げているのに、どうしてもその誘惑にあらがうことができない。
 レトは震える指でそのふたつ折りの紙を広げた。そこには、救世主の紋章が金粉でくっきりと描かれていた。






 こんなことをしていったい何が分かるっていうんだ。
 レトは心の中でずっとそうつぶやいていた。アルダスと呼ばれる繁華街。昼間こそ閑散としているが、夜になれば街の女やたちの悪い酔っぱらいが通りにあふれ出てくる。レトはその裏道を歩きながら、通りを覆い尽くすほどの残飯が放つ悪臭に耐えていた。まるまると太ったねずみが、たまに側溝ををちょろちょろと動き回り、ごみのたまった下水道から汚水があふれてくる。壁の下にあけられた小さな排水溝から汚水が流れてくるのを、レトは悪態をつきながらよけて歩かなければならなかった。
 昨日、オラリーが除隊された。理由は「心神喪失のため」。誰の目にも、オラリーが「正常でない」のはあきらかだった。実際、彼は狂っていたのだ。レトは自分の左手のひらについた切り傷を見ながらため息をついた。
 このごろはオラリーは誰と会っても一言も口をきかなかった。それどころか、ひとりでいるときには何かわけの分からないことをブツブツとつぶやいていた。レトはセテがオラリーに会わないように細心の注意を払っていたが、偶然セテは任務で忙しかったため、宿舎に戻ってきても疲れてすぐに眠ってしまうことが多かったようなので、レトはほっと胸をなで下ろしたのだった。知っていたら、セテは任務そっちのけでオラリーの側にいると言い張ったに違いない。そして……レトはオラリーの狂気が宿った瞳を思い出し、身震いする。そう、オラリーはセテを殺そうとしたかもしれない。
 セテに対する劣等感、コンプレックスでねじれてしまった心。狂気と正気の間を、まるで綱渡りをしているかのように危なげに行ったり来たりしていた彼の心は、あのときに完全に闇に閉ざされてしまったのだろう。それほどまでに根深いセテへの嫉妬や劣等感。セテには罪はないが、あえて罪というならば自分の能力を隠すことを知らないことだ。
「お前だってあいつがうらやましいんだろ?」
 一昨日の夜、オラリーは突然、食事をしながら談笑していたレトたちのテーブルに近寄るなりそう言った。気配をみじんも感じさせず、自分の背後に幼なじみが立っていたのにレトはぎょっとさせられた。このごろはレトもオラリーに近寄らないようにしていたし、もちろんオラリーのほうもレトには近寄ってくることはなかった。レトの側にセテがいるので避けていたのだろうか。その日はセテはちょっとした遠征に出ており、レトは仲のいい先輩や友人たちと食事をしていたのだった。
「……そうなんだろ? うらやましいんだろ?」
 レトが嫌悪感もあらわに口をつぐんでいると、オラリーはイライラした様子でそう言った。
「よせよ。お前なに言ってるんだよ。誰の話をしてるんだよ」
 レトは気のないフリをしてそう言い放つのが精一杯だった。オラリーのやせこけて生気のない土気色の顔と、それとは正反対にギラギラして生気に満ちあふれたような瞳のアンバランスさに、レトは心なしか膝が震えるのを感じた。オラリーの目をまともに見てはいけない。見たら自分も暗黒の深淵に引きずり込まれてしまうだろうから。
「しらばっくれるなよ。お前だってそう思ってるくせに」
 オラリーの声がまるで催眠術にかかったかのような脱力感を誘う。口の端にいびつな笑い皺を寄せた彼の顔は、さながら賢者を誘惑する悪魔だ。レトは首を振り、心の中で叫ぶ。うるさい。俺が何を思っているっていうんだ。
「お前は卑怯者だよ、レト。そうやって自分をだましていつまであいつの側にいるつもりだ?」
 卑怯者だって? 俺が? 自分をだましているってどういうことだよ。あいつってセテのことか? どうしてそこまでセテを目の敵にするんだよ。
「親友のフリしてセテの側にいて、あいつの失脚を誰よりも願っているのはお前だろ?」
 セテの失脚? 俺がそれを望んでいるって? どうしてそう思うんだ。俺があいつの側にいるのは……
「ほら、顔が青ざめてきた。図星だろ? 所詮お前も俺と同じ、セテの引き立て役に過ぎないんだ」
「いい加減にしろ!!」
 レトはオラリーの胸ぐらをつかみ、拳を固めた。なぜこんなにイライラするのか自分でも分からない。それはもしかしたら、自分のなかでわだかまっていたものをオラリーに言い当てられたからなのか。
 胸ぐらをつかまれたオラリーの黒目が急に小さくなって、驚いたような顔になった。レトはすぐに我に返って手を離したが、オラリーは激しく首を振り、髪をかきむしりながら小さくうめいた。一緒のテーブルについていた先輩や友人たちは、気味が悪そうな表情をして、薄情にも静かにテーブルを離れていってしまった。
 オラリーはレトの両腕をつかみ、うずくまるようにして床に膝をついた。彼の両肩はまるで痙攣しているかのように小刻みに震えていた。
「……具合が悪いのか……?」
 レトはおそるおそるオラリーに尋ねた。オラリーは歯を食いしばって何かに耐えているようだった。歯ぎしりの音が聞こえてきそうなほどだ。
「……違う……違うんだ、レト……!」
 オラリーは震える声で、絞り出すようにそう言った。まるで子どもの背中のように丸くなって、涙声で。しかしその声には狂気の片鱗は見られない。
「違うんだ……! あいつのことを考えるたびに、俺が俺でなくなってしまう……! 違う誰かが俺を支配しているみたいに。レト、助けてくれ。俺は別にセテのことを嫌っているわけでも憎んでいるわけでもないんだ。ただあいつがうらやましくて……俺が何もできない人間だと思わされるのが怖くて……!」
 レトが分かってるというようにオラリーに手を差しのべ、彼もその手をとろうと震える手を差し出した。だが、それは突然オラリー自身にたたき返された。次の瞬間には、オラリーはまたあの狂気の宿るうつろな眼孔でレトを見つめ、狂ったような笑い声をあげた。もちろんレトをまっすぐ見ているわけではない。その後ろに続く、遙か彼方の景色でも見ているかのようだ。
 そしてオラリーはレトに目を向けたままテーブルの上にあったフォークをつかむと、自分の太股にいきなり突き立てたのだった。鮮血が飛び散り、それでもオラリーは笑いながら自分の膝や太股に何度も何度も凶器を突き立てた。まわりにいた先輩や友人ははじめ呆然としていたが、やがて事態を悟ると急いでオラリーを押さえつけた。レトの左手の傷は、暴れるオラリーからフォークを引き剥がそうとしたときについたものだった。
 レトはそのとき、かつての幼なじみが目の前で狂っていくのに何もできない自分を呪った。知らぬ 間に涙があふれてきて、膝ががくがくと震え、まともに立っているすらできなかった。駆けつけた医療班に連れていかれる間も、オラリーはずっとヒステリックな笑い声をあげていた。レトはその姿を見送ることができず、そのあと不覚にも食べたものをすべて吐き出してしまった。
 幸いといっていいのか、セテは遠征に出ており、おとといの夜の事件も昨日の除隊の件も知らない。でも、もしオラリーが狂ってしまったのが自分のせいだと知ったら? 自分を責め続けてアジェンタス騎士団をやめてしまうだろう。そうして、セテも壊れてしまうのだろうか。また、もし知らずにオラリーの側にいたら殺されてしまったかもしれないし、それよりももっとひどいことになったかもしれない。オラリーが、コンプレックスの対象であるセテを狂気の限り蹂躙するさまを、レトは吐き気を感じながらも思い浮かべずにはいられなかった。
 いつでも自信たっぷりのセテが俺の目の前で壊れて……。
 ふとレトは我に返り、頭を振る。何を考えているんだ、俺は。
 いやな汗が額からあふれ出てきて、レトは手でそれを拭う。その手には、オラリーの手帳から落ちた救世主の紋章の描かれた紙切れをしっかりと握っていた。
 レトは握っていた紙をもう一度広げ、端に印刷された住所を確認する。少なくとも、オラリーはそんなに神経質なタイプではなかった。心の強い人間のたぐいでもなかったが、何が彼をあそこまで追いつめたのか、心当たりは彼の手帳の間に挟まっていたこの紙切れだけだ。
 オカルトや術法に興味があるわけでもない彼が、救世主の紋章を描いた紙を後生大事にとっておくなんて考えられない。だからここに来れば何かが分かるとレトは感じた。直感だ。そして久しぶりの休暇の今日、レトは思い出したようにこの繁華街へやってきたのだった。
 昼間から酔っぱらった商売女が、薄汚れたアパートの二階の窓からレトに声をかける。レトは愛想良く誘いを断って、足早に目的地を目指した。
 尋ねながらたどっていくと、目的地はそこから一ブロックも離れていないところだった。しかし、このあいだの狂信的な宗教集団のようなアナクロニズム的建物があることをなかば予想していたのに、そこには周りと同じような薄汚れたアパートの壁が続いているだけだった。なににせよ、幼なじみを追いつめた原因が、オカルティックなものでなかったのにほっとしたが、内心ひどく落胆している自分がいることにレトは驚いた。そして絶対に突き止めてやりたい。それではいったい、この紙切れに書かれた住所は何なのかを。
「強くなりたくはないかね?」
 しわがれた声がして、レトはとっさに腰の剣に手をかけた。声のする方を見ると、薄汚い天幕がアパートの階段の脇に張られており、その中に黒いずきんをかぶった老婆が座っていた。
「ほっほ。ただの婆に剣を向けるほど驚くこともあるまいに」
 ぼさぼさの白髪には汚れがこびりついて脂ぎっており、歯はほとんどなく、顔には見にくい皺が深々と刻まれている。天幕に負けず劣らず不潔な装いの老婆の白くよどんだ瞳がレトを見つめていた。レトは老婆の手元にある水晶玉に目をとめ、ため息をつく。
「占い師……か」
「そうとも。わしにはお前さんの心が手に取るように分かる。どうじゃ、商売抜きにお前さんの捜し物とやらを見つけてやろうかの」
 老婆は痩せさらばえた汚い手でレトを招き寄せた。レトは不安に思いながらもなぜかその言葉にあらがう気もおこらず、不潔な臭いに顔をしかめながら老婆の天幕に近寄った。老婆は小声で何か呪文のようなものを唱え始め、節くれ立った汚い指で水晶玉をなで回し始めた。
 レトはもちろんこういった占いの類は信じてはいない。迷信じみたものも嫌いだったが、急いで帰る理由もないので、年寄りのおしゃべりにつきあうつもりでその様子をうかがった。
「どれ、この水晶玉をよくごらん」
 老婆は呪文の詠唱を終えると、手元の水晶玉を指さしてそう言った。レトは半信半疑に水晶の中を覗き込んでみた。何か黒い影のようなものが見え始め、それはやがて人の形になっていった。そしてレトは息を飲む。水晶の中に浮かび上がったのは、いま遠征中のセテの姿だった。
 水晶玉の中のセテは、何かと戦っている最中だった。遠征の目的は、アジェンタスの国境近くに現れた炎の属性を持つモンスターの退治だったが、スナイプス率いる第二特別治安維持隊は意外にも苦戦しているようだった。炎をまとったコウモリのような生き物が、おそらくは第二レベル程度の火の術法で反撃をしている最中であった。コウモリといっても、通常の五倍はありそうな代物だ。セテは攻撃をよけながら愛刀を振り回し、確実にモンスターを倒している。いま一匹を両断したが、その真後ろで、別のモンスターが鋭い鉤爪でセテを狙っていた。
「危ない!」
 レトは思わず声を上げた。が、そこで水晶玉の中の映像はとぎれ、再び透明な輝きに戻ってしまった。レトは水晶玉に見入っていた自分が急に恥ずかしくなり、咳払いをしてごまかしたが、そんなレトを見上げ、老婆は声もなく笑っていた。薄汚い黄色い歯が見え隠れして、よりいっそう醜悪に見える。
「お前さんの心の中は、どうやらこの青年が占めているようじゃの」
 レトはぎょっとする。この年寄りはいったい何を言っているんだ。
「残念だな、婆さん。探しものってのはこいつのことじゃないよ」
 レトはなんとか平静を装ってそう言うことができた。なぜ水晶玉にセテが見えたのかは分からないが、あたらずとも遠からずといったところで内心ひどく動揺していた。
「おや、そうかい。じゃが不思議なこともあるもんじゃのう。この間ここへきたお前さんくらいの子を占ったときも、水晶玉にこの青年が映し出されたのじゃがな」
 その言葉を聞くのが早いか、レトは老婆の天幕の奥に救世主の紋章が描かれたタペストリーを見つけていた。そして、棚の上にはオラリーが持っていたのと同じ、救世主の紋章を金で描いた紙の束。
「貴様! オラリーに何かしやがったのか!!」
 レトは腰の剣を抜き、老婆に突きつけた。老婆は驚きもせず、ただ白く濁った瞳をレトに向けているだけだった。
「……剣を収めるがいい、お若いの。何をそんなに恐れておる? わしはなんの力もないただの老婆だというのに?」
 老婆は剣の切っ先をまったく意に介する様子もなく平然と、だが威厳に満ちた声でそう言った。
「強くなりたい。それがお前さんの望みであろう? 剣を収めよ。さすればわしがお前さんの疑問も不安も、すべて解決してやろうぞ」
 レトは剣をつきつけたまましばらく老婆を睨み付けていたが、しばらくして観念したように剣を収めた。
「そう、それでいい。ではお前さんの疑問を解決し、その不安を取り除いてやろう」
 老婆は再び水晶玉をなで、それを見るように身振りで促した。
「お前さんが強く思えば思うほど、それはお前さん自身を苦しめるのじゃから」
 レトが不敵に笑う老婆の声を聞いたのは、白い光の中で意識を失う直前だった。






「実は俺さ、聖騎士になりたいんだ」
 明るい金の髪の少年が、恥ずかしそうにそうやって自分の夢を打ち明けてくれたのは、中学に入ってすぐのことだった。たいていの子どもたちがそうするように、俺もその少年もそれくらいの年にはもう剣を習い始めていた。
 金髪のお人形みたいな顔をした少年がぎこちない手つきで剣を振るうのを、内心小馬鹿にしていたこともある。俺は元剣士だった叔父に仕込まれたことがあったから、街の子どもたちよりは多少剣の心得があったつもりだったからだ。少年は勇気はあったけど、とても小柄だった。いつも年上の子どもたちに剣でこづかれては悔しそうな顔をしていた。
 それが、いつの間にか自分を追い抜いて、今では手の届かないくらい実力の差があって。

 少年の名はセテ・トスキ。俺の幼なじみで心の友……

 口の中に苦い味が広がっていた。何かを飲まされたのか、薬品のような味が残っていた。
 自分はどうやら気を失っていたらしい。変な老婆に話しかけられて、何か重要な会話をしたような気がするが、あまり覚えていない。そして今自分はどこにいるのかさえうまく把握できなかった。
 とにかく、真っ暗な部屋でイスに座らされていることだけは理解できた。
 しかし、レトは足下を見て愕然とする。自分のイスの周りには、救世主の紋章が魔法陣のように大きく描かれていた。すぐさま記憶を取り戻す。あのインチキくさい老婆に水晶玉を見せられて、鋭い閃光を見た直後に意識を失ったのだった。
「ふざけんな、クソババァ! 俺を……!」
 ふと体を動かそうとして、うまく四肢が動かないのに気づく。とくに手足を縛られているわけでもない。そうだ、口の中に残る味、何か弛緩剤のようなものでも飲まされたに違いない。狙いはなんだ。
 どこからか呪文を詠唱している老婆のしわがれた声がする。言葉の意味は分からないが、それが偉大なる一族《イーシュ・ラミナ》が使っていた言葉であることは分かる。苦痛はないのに、その呪文に自分の心の中を蹂躙されるような気分だ。
 自分がなんらかの術法に使われることを察知したレトは身をよじって抵抗しようとするが、薬のために体が動かず、恐怖が全身を駆けめぐった。
 呪文を詠唱する声が止むと、再びレトの目の前で強烈な光が炸裂した。何千ものアブが耳元でうなるような音が聞こえ、やがてレトの意識は、大きく口を開けた暗黒の深淵に引きずり込まれていった。

 そうだ、さらけ出すがいい。自分の心の中を。






 顔を腫れ上がらせた金の髪の青年が、むくれて学食のテラスに座っていた。レトが近づくと、青年は顔を隠すようにそっぽを向き、コーヒーをすすった。
「なんだよ、また喧嘩したのか」
 レトはあきれたようにそう言った。セテはまだ痛々しく腫れ上がった顔で振り返り、レトを思い切り睨み付けた。
「お前には関係ないだろ」
 セテが怒ったように言うので、レトはため息をついてしばらく黙って隣で食事をした。
 セテが自分と一緒に中央騎士大学に進学した頃、彼はいつも誰かと喧嘩をしていた。ほとんどがセテのことを、その顔つきからいいところのお坊ちゃんだと信じて疑わなかったから、彼の喧嘩好きの性格はちょっとした話題になっていた。自分より少しでも強そうなヤツを見つけては、剣の決闘を申し込んだり、そうでなければ殴り合いの喧嘩をして帰ってくるのだった。あのきれいな顔にあちこち痣やら傷やらをこしらえて。
 実際、セテは強かった。素手でも剣でも負けたことはなかった。その頃は、「誰よりも強くなりたい」というのが彼の口癖だった。そのうち彼の口振りから、自分が母親そっくりの顔をしているのがひどく気に入らないらしいことが分かった。セテは、自分が女みたいな顔してるから強く見えないと思っているようだった。決して女みたいな顔をしているわけではないし、どちらかというと「いい男」の部類に入るのに、ほとんど男ばかりの騎士大学では「きれいな顔した坊ちゃん」的な扱いを受けていた。それが相当頭に来ていたらしい。馬鹿なヤツもいたもんで、酔った席でセテに冗談で言い寄った同期の連中が、あとでセテにぼこぼこに殴られたということもあった。
 それでも不思議なことに、彼と喧嘩をした学生たちはみな、なぜかセテと仲良くなってしまう。セテが喧嘩したことを翌日にはすっかり忘れて、いつもどおりに相手に話しかけているのをよく見かけたことがある。たぶん、直情的なところとか、さばさばして誰にでも気さくに話しかけるところがみんなに気に入られているんだろうと思う。見かけとは裏腹のまぬけな台詞もずいぶん聞いてきたし、そういえば年下の連中にセテがえらく人気があったことも思い出した。ただ、セテの揚げ足取りにやっきになっているビヨルンだけは例外で、一度負かされてから彼をずいぶん憎むようになっていたみたいだが。
 アジェンタス山への冒険のときと同じ、セテは恐れを知らないだけだ。少年のまま大人になったように。そんな風に後先も考えずに振る舞っていれば、いつかきっと手痛いしっぺ返しをくらうことがあると思った。だから、そんなことがあっても大丈夫なように、俺はこいつを見守ってやりたいと思ったんだ。

「もっと強いヤツに会いたいんだよ。俺なんか歯が立たないくらいの」

 レイザークに負けるまでは、セテはいつもそんなことを言っていた。確かに、このあたりではもうセテにかなうような男はいなかった。
 自分がどれだけ強いかを知って満足したか? 誰よりも強くなったと思いこんで、さぞ愉快だったろう。

「彼女はサーシェスっ! 俺が剣を教えてやることになったんだよっ」

 ここらじゃ滅多に見られないとびっきりのかわいい娘を連れてきたときには本当に驚かされた。あのオクテで有名なセテが、まさかそんな大胆な行動に出るとは思っても見なかったけど、美男美女のカップルって感じで、本当にお似合いだ。
 でもさ、お前だって本当は自慢したかったんだろ? 自分がどれだけ注目を浴びているか、確かめたかったんだろ?
 サーシェスに振られたって? いい気味だよ。そうそううまくいってばかりでたまるもんか。

「でもさ、なんで統括隊長は俺なんかを引き抜いたのかな。あの人に言わせれば俺なんか役立たずの単細胞らしいのにさ」

 ウソだ。そんなことこれっぽっちも思っていないくせに。スナイプスがお前を引き込んだのはお前が本当に実力があるからだ。それを本当は知っているくせに。カマトトぶって俺に自慢するのはやめてくれ。
 いつだったか、民家の裏山でちょっとしたモンスター騒ぎが起こったことがある。グリーン隊とブラック隊が、半ば実習のようなかたちで狩り出されたのだった。そのときはまだセテはグリーン隊で、ブラック隊に所属している俺もその作戦に参加していた。
 モンスターといっても本当に雑魚クラスのものだった。汎大陸戦争後、イーシュ・ラミナが封じた魔物たちの結界がここへきてゆるみ始めたらしく、こっちの世界で実体化してたまに世間を騒がせることがあった。雑魚クラスのくせにやけにこざかしく、術法攻撃はしてこないものの、束になってかかってこられるとやっかいな代物だった。
 めいめい剣を手に攻撃していたが最初の突撃でやられたバカがいて、多少体勢が乱れ、後ろのやつは完全にびびってしまっていた。俺はちょうどセテの左隣を固めていた。モンスターが牙をむいて襲いかかってきたとき、俺は不覚にも肩をやられた。利き腕ではなかったからあわてて体勢を整えて剣を構え直したが、頭上から迫るもう一群の牙から身を守るまで気が回らなかった。
 そのとき、隣にいたセテの剣が閃いて、俺はまさに九死に一生を得た。助かったと思った。そのときセテは振り返って俺に何か言ったんだ。何を言ったのかは覚えていないけど、セテは俺を見下したような笑いを浮かべたんだ。

「お前らが束になってかかってきたって俺にかなうわけないだろ。負け犬は黙って俺たち第二特治隊の後ろにいりゃいいんだよ」

 ウソだ。セテがそんなことを言うわけない。

「俺はもう第二特治隊の人間だからな。お前ら四等級と一緒にしないでくれ。任務の内容だって雲泥の差だし」

 ウソだ。ウソだ。ウソだ。

「そうだ、これからは気安く俺に話しかけないでくれよな。お前は負け犬なんだからな」

「うるさい! 黙れ!」
 これ以上俺をみじめな気分にさせるのはやめてくれ!

 ……本当はお前が俺から離れていくのがたまらなく嫌なだけなんだ……!






「いい夢だったか?」
 男の声がして、レトは我に返った。額から滝のような汗が流れて、肩で息をしていた。今のは幻覚だったのだろうか。それにしてもなんて悪趣味な……。
 気がつくと、暗くて顔はよく見えないが、がっしりとした体つきの男が目の前に立っていた。
「お前の心の中は見せてもらった」
 レトは自分の心を暴かれたことにカッとなり、男を睨み付けた。隠しておきたい本心だってあるのに、それをこんな風に蹂躙されて、まるで陵辱されたような気分だ。
「自分よりも強い人間に対するコンプレックスは誰にでもある。恥ずべきことではない」
 男の声は威厳に満ちていた。暗くて顔まではよく見えないが、雰囲気からガラハド提督によく似ているような気がする。
「……俺をどうする気だ。ふざけたマネしやがって……!」
 レトは吐き出すように言った。まだ呼吸が整わない。さっきの自分の叫びに対する嫌悪感が背筋を流れる汗となって落ちる。
 あれが自分の本心だとは思いたくない。自分の心の汚さを認めたくなんかない。そんなふうにセテに嫉妬しているなんて考えたくもない。
「君を誰よりも強い人間にしてやるといっただろう」
 男は愉快そうに鼻を鳴らしてそう言った。男の後ろには、あの薄汚い老婆が控えていた。鈍い光を放つ水晶玉を持って。
「あの青年は君にとって親友以上のものであるようだな。君は彼に嫉妬している。彼の能力に対してだけでなく、彼が自分から離れて行ってしまうことに。幼い頃から自分の側にいた彼が、手の届かぬ 自分のあずかり知らぬところに行ってしまうのではないか。君はそれをひどく恐れているようだな」
「だったらどうだって言うんだ」
「まぁ聞きたまえ。君の本心を言い当ててやろう。君はあの青年を自分だけのものにしたいと思っている。だから彼が自分の側を離れていくのが許せないんだ。違うかね」
 レトの顔が瞬時に朱に染まる。違う。俺はただあいつを見守ってやりたかっただけだ。そんな馬鹿なことがあるわけがない。それじゃまるで……!
 男は愉快でたまらないというようにくぐもった笑いを浮かべた。
「恥ずべきことではない。素直に彼を愛していたことを自分で認めるのが、そんなに恥ずかしいことかね? 誰しも強い人間にあこがれる時期がある。そう、ちょうどあの青年がレオンハルトにあこがれたように」
 なぜだ。こいつはセテを知っている!
 レトは男の顔を睨み付けたが、やはり顔は見えない。自分の顔が見えない絶妙な位 置に立って優位性を保っているつもりなのか。
「イーシュ・ラミナを知っているかね?」
 男は尋ねた。レトは返事をせずに黙って次の言葉を待った。しばらく男はレトの反応をうかがっていたが、しびれを切らしたように言葉を続けた。
「遙か昔、この地上を支配していたすばらしい民だ。人間よりも遙かに優れた知能を持ち、神秘的な力を操る美しき一族。彼らはそれぞれが理想的な戦士の資質を備えていた。強靱な肉体と恐れを知らぬ心、そして何より、不死に近い命。今はもうその血筋は人間と混ざり合い、薄れてしまったが、もし仮に彼らのような強い人間になれるとしたら、君はどうする?」
 この男はいったい何を言っているんだ? イーシュ・ラミナだって? あの失われた一族の話を持ち出すなんて、こいつ頭がおかしいに違いない。
「君は信じられないかも知れない。現にいまも私を疑っている。だが」
 こいつ、俺の心を読んでいる? まさか。
「我々は手に入れたのだよ。不死に近い生命力と飛び抜けた戦闘能力を手に入れる秘宝を」
 男の声が上気したように上擦っていた。その声は催眠効果でもあるかのように、レトの心をかき乱し、思考を麻痺させていく。
「恐れることは何もない。君は不死の戦士に生まれ変われるのだ。自分の弱さに苦しむことも、死を恐れることもない。あの青年以上の能力を手に入れることができるのだ」
 男はレトが首をうなだれて黙っているのを見届けると、その顔を覗き込むような仕草で腰をかがめた。とたんにレトは顔を上げ、男の顔にツバを吐きかけた。男は驚いて顔を袖で拭い、やがて愉快でたまらないといったように大声で笑った。
「たいした精神力だ! この間のオラリーとかいう若者はすぐに私の術に陥ったというのに!」
 レトの全身に怒りのエネルギーが駆けめぐる。
「この下司ヤロ……!!」
 しかし、男の手がレトの首を締め上げ、その先を遮った。レトは苦しげに顔をゆがませながらも、目だけはひたと男の顔に当てたまま抵抗の意志を示す。
「……そうだとも。君のお友達はたいへんな失敗作だった。自分の中の新しい力に耐えきれずに狂ってしまったのは彼の弱さだよ。だが君は強い精神力の持ち主だ。十分役に立ってくれることを期待しているよ」
「……何が……目的だ……!」
 レトの絞り出す声に、男は端で見ても気味が悪いくらいの笑みを浮かべた。ああ、そうだ。レトは思った。子どもの頃本で見た悪魔が、ちょうどこんな笑い方をしていた。
「誰よりも強い戦士を作ることだ。イーシュ・ラミナのような完璧な戦士をな。人間は誰でも心の中に弱さを持っている。その弱さを増幅してやることで、それはやがて力に変わる。イーシュ・ラミナの偉大さは、そのすべてを克服したところにあるのだ。だが、知っているかね。根本的にイーシュ・ラミナには精神構造に問題があったということを」
 男はレトの首から手を離し、魔法陣の後ろに下がった。レトは激しくせき込みながら、老婆が気味の悪い声で呪文を詠唱し始めたのを聞いていた。体が動かない。レトの頭の中でさまざまな色とりどりの魔物が、狂気のごとく渦巻き始めていた。
「イーシュ・ラミナは好戦的で、ひどく残虐だったという。それゆえ、彼らは最強の戦士たりえたのだ」
 男の声がやまびこのようになってレトの頭の中にうつろに響き渡る。レトは自分の心が支配されていくのを感じながら、それでも必死の抵抗を試みた。だが、心の声が恐るべき奔流となって彼をさいなんでいることに、誰が気づくだろうか。
「お前は血を呼び、魂を狩る悪夢となるのだ」
 そのとき男の顔がはっきりと見えた。ガラハド提督の書斎に飾ってあった写真立ての中で、提督と並んで写っていた男。そうだ、その昔、ガラハド提督と並んで次期提督にと目されていた男だったはずだ。
 もう抵抗は必要なくなっていた。レトは目を閉じ、自分の中で狂気が膨らんでいくのを感じていた。

 俺が俺でなくなったら、お前は悲しんでくれるのだろうか……。
 俺のためにあいつが悲しむ姿は見たくない。
 もしあいつを傷つけてしまうのなら、狂ってしまった方がいい。
 そうでなければ、俺を殺してくれ。
 そうだよ、お前はいつだって……

 レトが精神を手放したときに最後に脳裏をかすめたのは、金髪の青年の空色の瞳だった。

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