Home > 小説『神々の黄昏』 > 第一章:黒き悪夢の呪縛 > 第四話:聖騎士と大僧正
サーシェスが剣の稽古を始めた。幸か不幸か、ラインハット寺院の下男の中に剣の心得のある者がいて、サーシェスは彼を相手に剣の練習を始めたのだった。
サーシェスに付き添ってフライスが大僧正のところへ行き、ことの事情を話したときは、彼はてっきり猛反対されるだろうと思っていたのだが、意外なことに大僧正はすんなりとそれを許可し、下男にサーシェスの面倒を見るように言い渡したのだった。
刃をつぶしてあるダミーの剣を使って練習を始めたのだが、一日目、サーシェスは下男にこてんぱんにやられていた。
午前中に剣の稽古をしたあと、昼食後にフライスの個人授業に臨むのだったが、剣の稽古を始めた初日、服も髪もぼろぼろで顔に派手な青あざをつけて部屋に現れたサーシェスに、フライスは大笑いをしたものだった。
「今日はずいぶんと派手な化粧をしたものだ」
むっとするサーシェスをよそに笑い続けるフライスに、サーシェスは皮肉たっぷりにこう言った。
「なによ。 今日くらいは見えないフリをしてくれたっていいでしょ」
「あいにく私の目は人の醜い部分を敏感に察知するものでね」
「こ……のヘロヘロ術者!!」
サーシェスは手近にあった分厚い本をフライスめがけて投げつけるフリをして脅かしたが、フライスはいっこうに笑い止まない。怒るのも呆れて、サーシェスは大きな音を立ててイスを引き、腰を下ろす。
フライスとサーシェスの間では、こんな風に禁忌であったフライスの目のことについて軽口を交わすことができるようになっていた。まったく自然に。一日のなかで誰よりも長くサーシェスと時間をともにするようになって、自分の態度が軟化してきたからだろうか。それとも、彼女の方が、自分の壁を乗り越えて侵入してきているのだろうか。誰にも拒むことのできないグリーンの瞳という武器を使って、巧妙なやり口で。
フライスはサーシェスの体に手をかざし、癒しの技をかけてやった。サーシェスはフライスの手当を甘んじて受けてはいたが、その間、覚えたばかりのありったけの悪態をついて、自分をこてんぱんにしてくれた下男のことをしゃべりまくった。
「サーシェス、そんな汚い言葉を使うのはやめなさい」
フライスがそうたしなめると、サーシェスは憤慨したようにため息をつき、フライスを睨み付けた。ハイファミリーの若者とのあの大立ち回り事件以後、幼少部の子どもたちはもちろん、小・中等部、高等部の若者までとりこにしてしまった彼女は、これまで以上に彼らにつき合うことが多くなったようだ。中等部の修行僧たちの年齢になると汚い言葉を使いたがるものだから、彼らと長い時間接している間に、どうやら彼らが「かっこいい」と思っているところの悪態のつきかたを覚えてしまったらしい。
「そんなにつらいならやめておきなさい。一日か二日で剣士になれるなら誰も苦労はしないのだから」
フライスが挑発するように言うと、サーシェスは目を大きく見開き、さらに憤慨した様子でフライスに食ってかかった。
「自分で決めことよ! これは私のプライドの問題なの! そんなに簡単に諦めたりするもんですか!」
実のところ、サーシェスは下男に対して怒っているのではなく、自分の未熟さに腹を立てているらしかった。思い立ったことはすぐにやる、自分で言い出したことは最後までやり遂げるというのが彼女のモットーであり、それは彼女が幼少部の子どもたちに常に言って聞かせていることでもあった。
なるほどね……とフライスは思った。
サーシェスは寺院の中でも憧れの的な存在であった。女っ気のないラインハット寺院では、どんな女の子でもなれそうであったが、彼女はいわゆる「お人形さん」的存在ではない。自分の考えがはっきりしていて、それに基づいた言動をとることができる。気も強いが曲がったことは嫌い。それでも誰にでも愛想が良く、また人を引きつけずにはいられない雰囲気を持っている。それが、サーシェスという少女の魅力であるのは寺院の誰もが認めるところであった。
サーシェスが剣を習いはじめてから一週間。フライスが大僧正の部屋への道すがら廊下から中庭を覗くと、下男相手に立ち回りをしているサーシェスの姿があった。
大僧正の部屋のドアをノックして中に入ると、大僧正もまた窓からサーシェスの姿を眺めているところだった。フライスが注意を引きつけるために咳払いをすると、大僧正はあわてて書物に目を引き戻し、ややあってからフライスの用件を尋ねたのだった。
「あの娘が剣の練習を始めてから、お寂しそうですね」
フライスはからかい気味にそう訊ねる。いつもの仕返しだ、とフライスは意地悪そうに笑った。うん、まぁ、と大僧正は素直な返事を返し、それからごまかすように咳払いをした。
実際、サーシェスが剣の稽古を始めると言い出したときは、どうせ三日坊主で終わるだろうと思っていたのだが、意外にも長続きしたことに寺院の誰もが驚いていた。ところが、午前中彼女が剣の稽古で不在になってしまうことから、寺院中がすっかり気の抜けたような状態になってしまっていた。そして、大僧正リムトダールもそのうちのひとりであった。
「最初は長続きしないと思っていたのですがね。こてんぱんにやられてたし。どうやら彼女は体を動かしている方が好きらしいですね」
「あれには水の巫女の修行をさせようと思っていたのだがなぁ」
大僧正があんまり残念そうにため息をつきながら言ったので、フライスは気の毒に思った。まぁしかし、人には得手不得手というものがあるし、彼女の好きにさせてやるのが彼女の生き方にあっているだろうと率直な意見を述べた。
「それに下男に聞くところ、彼女はものすごく敏捷なのだそうですよ。無駄な動きさえ削っていけば、ものになっていくだろうということです。過去に優秀な剣士の手ほどきを受けたことがあるのではないかと下男が申していました」
「……優秀な剣士の手ほどきとはのう」
大僧正はそう言いながら自虐的に鼻を鳴らすと、立ち上がって窓の方へ歩いていき、中庭で稽古をしているサーシェスと下男を見下ろした。
ふたりは切り結んでいた剣を離し、弾む息で剣を構え直そうとしているところだった。サーシェスがゆっくりと剣を構え直し、その切っ先をまっすぐ下男に向けてぴたりと止める。その瞬間、大僧正の脳裏に、かつての戦友であったひとりの剣士の姿が思い出されたのだった。挑発的で内なる憎悪を静かにたたえたエメラルドグリーンの瞳を持つ伝説の剣士……。そして次の瞬間には、大僧正の口から誰に言うとでもない言葉がこぼれ落ちていた。
「……レオン……」
「は……?」
フライスにはよく聞き取れなかったらしく、彼は大僧正の背中に向かって聞き直そうとした。が、ふと大僧正は我に返ると、忘れてくれとでも言うようにフライスに向かって首を振った。そのとき、部屋をノックする音が聞こえたので、フライスは大僧正の言葉を聞き返すチャンスを失ってしまった。
「大僧正様。聖騎士レイザーク様のおなりでございます」
「おお、レイザークが!? すぐに参る!」
聖騎士がラインハット寺院を訪れることなどめったにない。パラディン・レイザークは大僧正の古くからの知り合いであるとは聞いていたが、フライスでさえ一度もお目にかかったことはなかった。フライスは大僧正に軽く礼をして書斎を後にした。中庭ではサーシェスたちが振り回す剣と剣の激しくぶつかり合う音が響いていた。
銀の甲冑を身につけ、巨大な剣を担いだ大男は、ラインハット寺院の入り口で大僧正を待ちかまえていた。大僧正が近寄ってくるのを見ると、レイザークの表情が自然とほころんだ。
「おお、レイザーク、いつロクランへ?」
大僧正は両手を広げてレイザークを歓迎した。
「長旅より帰ったところであなたのお顔を拝見しておこうと思いましてな。久しぶりですな、大僧正リムトダール」
レイザークは胸に手を当て、敬意を表しながら大僧正に軽く頭を下げた。
「本当に久しいの、三年ぶりくらいか? まだあちこちを歩き回っていると聞くが……」
「ええ。旅もそうそう悪いもんではないですよ。あちこちの都でさまざまな情報を得られるようなときもありますしな」
ふたりは中庭へと続く回廊を歩き始めた。レイザークの甲冑が歩くたびにガシャガシャ鳴って、ラインハット寺院に静かな緊張感をもたらしているようだった。
「どうじゃ、辺境の暮らしは? いくらかはよくなっておるのじゃろうか?」
「相も変わらず、といった感じでしょうな。豊かな民はみな中央の暮らしに憧れて村々を捨て、貧しい者たちだけが残される。貧しい者たちは貧しいが故に、いつでもその日を生きることに一生懸命にならざるを得ない」
「そうか……」
大僧正はレイザークの言葉に深いため息をもらす。
「お主のいうとおり、悪しき風習や迷信に囚われた辺境の生活を救ってやることは、やはり中央諸世界連合には無理なのかも知れぬな」
「さらに最近耳にしたところでは」
レイザークは続けた。
「辺境の小さな部族の間では、中央諸世界連合からの離反を考えているところも少なくないようですな」
「反旗を翻す、ということか?」
大僧正は思わず身を固くしたが、レイザークは安心させるように肩をすくめて見せた。
「そういう過激なものではありませんがね。中央の支援がなくても自分たちだけでやっていけるだけの自信があるのでしょう。しかし、中央への不満を募らせているうちに、いずれは反旗を翻すような事態が起こらないとは言い切れませんから」
レイザークがさも愉快そうに話をするので、大僧正は彼が本当にこういった現状を楽しんでいるのではないかと思うときがある。実際に、何年も前から彼が主張してきたいくつかの問題点が、中央諸世界連合の弱点そのものであることが、彼には愉快でしょうがないのだろう。
「やはり中央諸世界連合だけではなくて、もっと実効力、即断力のある組織を作っておくべきだったのかも知れん。お主の言うとおりにな」
そう言う大僧正の言葉に、レイザークはにやりとした。まるで自分には切り札があるとでもいいたげに。
中庭までくると、ふとレイザークは足を止め、下男と剣の打ち合いをしているサーシェスを見止めた。
「ほぉ……あの娘……」
大僧正も見やると、つい一週間前まではこてんぱんにやられていたサーシェスが、今度は下男を追い込んでいるようだった。大僧正は自分の孫娘を自慢するかのように、レイザークに向かってにっこりと微笑んだ。
「どうじゃ、レイザーク。あの娘はものになりそうか?」
レイザークはしばらくサーシェスの動きを追っているようだった。フライスの言うように、サーシェスの動きは確かに敏捷であった。
「動きは早いですな。それにあの構えは……」
「お主も気がついたか」
レイザークがその先を言い渋っているように見えたので、大僧正はちらりとレイザークの横顔をうかがった。
「あの太刀さばき、構え……あの男に似ていると思わんか? 忘れもしない、あの……」
「大僧正!!」
レイザークの鋭い声が大僧正の言葉を遮った。
「あなたはまだあの男が生きていると信じたいだけではないのか! あの娘がレオンハルトから剣の手ほどきを受けたとでも!? あなたはあの娘の動きにレオンハルトの幻影を見ているだけにすぎない! あなたがフライスとかいう修行僧に執着なさるのも、彼がレオンハルトの……!」
そう言いかけて、大僧正の後ろに心配そうな顔をして立っている少女の姿を見たレイザークは、最後の言葉を激情とともに飲み込んだ。自嘲気味にため息をつき、レイザークは首を振る。
「……あなたをも侮辱するつもりはなかった……リムトダール殿。だが、あなたのような賢明なお方が過去に縛られているのは、俺にとっては理解しかねたのだ」
彼なりに謝罪をするレイザークに向かって、大僧正は無言のまま首を振り、傍らに寄り添うサーシェスの頭を優しくなでた。
「そうだったな……彼は、レオンハルトは死んだのだったな。五年前のあの事件で……」
サーシェスは大僧正の手に自分の手を重ねた。冷たく、かすかに震えている大僧正の手。その手から、大僧正の悲しみや後悔の念が伝わってくるようで、サーシェスはいたたまれない気持ちになった。伝説の聖騎士レオンハルトの名前がどうしてこんなところで出てくるのか、サーシェスには知る由もないことであった。そして『彼がレオンハルトの……』? レオンハルトの何だというのだろう。フライスとレオンハルトにいったい何の関係があるのだろうか。
「サーシェス、ご挨拶なさい。聖騎士レイザーク殿だ」
サーシェスはおずおずとレイザークに頭を下げた。レイザークはサーシェスの腰に下がっている剣に目をやり、まじまじとサーシェスの顔を検分した。それから出し抜けに、
「将来は剣士にでもなるつもりなのか?」
「ええ」
サーシェスは胸を張ってレイザークに向き直った。が、次の彼の言葉は、サーシェスが期待していたようなものではなかった。
「今のうちに諦めることだ」
サーシェスは侮辱されたと思い、顔を真っ赤にしてレイザークを睨み付けた。レイザークは気にとめる様子もなく、淡々とした口調で先を続けた。
「体も柔らかく、動きも敏捷な若いうちはまだいい。しかし、後何年もすれば腕力では男にかなわなくなる。それがどういうことかは分かっているだろうな。つまり負けた女戦士はたいがい犯られちまうってわけだ。それよりは、大僧正について祈りを捧げていた方がずっとよいだろう?」
「勝手に決めないで欲しいわ」
サーシェスも負けじと言い返す。しかし、レイザークにしてみれば、ふくれっ面をして睨み付けるところが先日手合わせした青年を彷彿とさせて、ついつい頬がゆるみそうになるのだったが。
「およそお主らしからぬ台詞じゃな、レイザーク?」
「戦列離れてヤキが回ったのかもしれませぬな」
レイザークは自嘲するように肩をすくめて見せた。
「剣士はいざというときに、自分や自分の大切なものを守るために戦わなければならない。だが、今の平和な時代に、それが必要とされることはあまりない。平時には剣士なんて所詮人殺しだからな。それに、こう平和が続けば、いい剣士なんてのはなかなか育たんもんさ」
レイザークはサーシェスにウインクしていたずらっぽく笑ってみせるが、サーシェスの方は表情を固くしたまま、レイザークを睨み付けている。
「そんなこと、私には関係のない話だわ。私は強くなりたいだけなの」
そんなサーシェスの言葉を聞いて、レイザークは大笑いをする。
「なるほど、さすがはリムトダール殿が目をかけただけはある! いい剣士になるかもしれんな。どうだ、お嬢ちゃん、一回真剣で人を斬ってみるってのは。どばっと血が出るのを見ると、案外肝が据わるもんだぞ」
そんなえぐい話をしながらも、レイザークはそんな彼女が気に入った様子で、大きな手でサーシェスの頭をぽんぽんとたたいた。当のサーシェスは、レイザークの下劣な冷やかしが気に入らなかったようで、むっつりとしているだけではあったが。
「……また放浪を続けるのか? レイザークよ」
大僧正に軽く会釈をしてきびすを返したレイザークに、大僧正が声をかけた。レイザークは無言のまま大僧正の言葉を背中で受け止めていた。
「レイザーク。ロクランのためにここにとどまってはくれぬか? レオンハルト亡き今、この国には守り刀が必要なのじゃ」
「……性分でしてね、こればかりは。君主に仕えるような柄でないことは、あなたもよくご存じのはず。それに俺は、レオンハルトのように理想のためだけに生きることはできない」
レイザークはそう言い残して、ラインハット寺院を後にした。急にラインハット寺院の緊張がほどけたような感じがして、寺院の中のあらゆるものがため息をついたようにも感じられた。
サーシェスは、この口の悪い聖騎士に不思議な魅力を感じながら、いつまでもその後ろ姿を見つめていた。
「口はあのとおりだが悪い男ではない。根無し草のようにあちこち放浪の旅を続けておる。今いる聖騎士の中でももっとも腕の立つ男なのじゃが……」
聖騎士。その言葉を聞いたサーシェスは、なんだか懐かしいような悲しいような不思議な想いがこみ上げてきて、大僧正の手をぎゅっと握りしめた。
「大僧正様……パラディン・レオンハルトについて詳しく教えていただけませんか?」
大僧正は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに気を取り直したようで、サーシェスに微笑み返した。
「うむ、少し歩こうかの」
大僧正はサーシェスを連れて寺院の外へ続く回廊を歩き出した。寺院の門をくぐると道は二手に分かれており、一方は王宮と街に続き、もう一方は守護神廟に続いている。
大僧正とサーシェスは、木々の間から優しい日差しがこぼれてくる、守護神廟へと続く小道を歩いていた。二百年前フレイムタイラントから世界を救った聖賢五大守護神《ファイブ・ガーディアンズ》を讃え、建造された廟。言い伝えでは、汎大陸戦争の際に倒れた救世主《メシア》の魂が祀られているという。
「汎大陸戦争については、大陸史で教わったね?」
「はい、フライスからみっちりと。母星のほとんどを巻き込んだ最大の戦争で、とても凄まじい戦いだったとか。この大戦で、主だった大陸はすべて水の底に沈んでしまったのでしたね」
「そう。愚かな独裁者の始めた戦争の火から、炎をまとった巨大な竜、伝説の神獣フレイムタイラントが甦った。もはや敵味方の区別なく、人類を滅ぼさんとして母星を焼き尽くしたフレイムタイラントの攻撃力は、凄まじいものだったと聞く。その炎の前に立ちはだかったのが、救世主《メシア》と五人の術者、聖賢五大守護神《ファイブ・ガーディアンズ》じゃった」
大僧正は、守護神廟の周りに配置されている聖賢五大守護神を表す五体の像を見上げてそう言った。
「それは見ている者を魅了するほど美しく、凄まじい闘いだったと聞く。聖剣エクスカリバーの守護者レオンハルトと、その妹の水の魔導師ガートルード、氷の魔導師ディウルナハ、気の力を操るテオドラキス、未来を知る預言者グウェンフィヴァハ、そして、五人の力を合わせてもまだ足りないほどの強大な力を自在に操る、救世主《メシア》と呼ばれたイーシュ・ラミナの少女。彼らとフレイムタイラントの闘いは、五週間にも及んだという。やがて、五人の力を借りて救世主は最後の禁呪を施し、フレイムタイラントを封じたのだ」
ふたりはいつのまにか守護神廟の前まで歩いてきていた。祭壇の周りにはいくつもの松明が、昼となく夜となく燃えさかっている。
「こうして汎大陸戦争は終わったが、母星は未曾有の大混乱に陥った。その大戦後の混乱を鎮圧して新しい国を作り上げていったのがレオンハルトじゃった。彼は初代ロクラン王デミル・ロクラン将軍と協力して新しい秩序を作り上げ、人々に希望をもたらした。彼が英雄と呼ばれるのは、何も汎大陸戦争の際の働きだけではない。レオンハルトはわしの盟友のひとりでな、若い頃はわしも彼とともに、さまざまな内乱や混乱から世界を救うために各地を奔走したもんじゃよ」
大僧正が歴戦の勇士であったとは、サーシェスには意外中の意外であった。普段のおっとりした言動からは想像もつかないことである。
「ここ守護神廟は、聖賢五大守護神《ファイブ・ガーディアンズ》を讃え、命を賭して世界を救った救世主の魂を守る神殿。当初はここに救世主の遺体を安置する予定だったのだが、レオンハルトがそれを許さなかったという。だが、ここは我らにとって心のよりどころとなる安息の地。多くの人が平和を祈願しにここへ訪れる」
守護神廟の祭壇にはいつも大勢の人々が礼拝に来て、救世主の彫像の前に跪いている。人々の心の中には、二百年経った今でも、世界を救った聖賢五大守護神《ファイブ・ガーディアンズ》の神話は息づいているのだ。
「後に、レオンハルトは聖騎士の始祖となった。彼の持つ聖剣エクスカリバーは、真の英雄にしか扱うことができない。その優れた剣術と術法で、彼は文字どおり『英雄』となったのじゃ。そして何よりも、彼のパーソナリティが人々に英雄と言わしめたのだろう。彼は本当にすばらしい男じゃった。あれほど美しい心を持った騎士は、彼をおいて他にはいないじゃろうな」
サーシェスは、大僧正がそこまで賞賛するレオンハルトという騎士について、もっと知りたいと思った。それに、さっきレイザークと大僧正の会話の内容も気になる。
「……レオンハルトは……なぜ死んだのですか……?」
大僧正は守護神廟の前面に掘られている救世主の彫像を見上げ、静かに答えた。
「……アートハルク帝国。中央諸世界連合の中でももっとも辺境に位置し、一年中氷に閉ざされた山々を背にした窪地に、かつて優れた技術力を持つ国家があった。その国は、銀嶺王と呼ばれる若き聡明な皇帝ダフニスが治めていた。レオンハルトはダフニスに仕え、その妹ガートルードも影のように付き添っておった。アートハルクの前皇帝サーディックは残忍で、ひどい悪政を強いてきたが、後継者たるダフニスは人望も厚く、その政治手腕も諸外国から高く評価されていた。しかし、ある時を境にアートハルクは急激に武装し始め、強力な軍事国家となり、他の国々を侵略し始めたのじゃ。近隣諸国は一丸となって戦ったが、帝国の強力な軍隊と術者軍団に圧されておった。じゃが、ある日突然、帝国でクーデターが起こった。銀嶺王ダフニスは殺され、帝国は壊滅状態に陥った。そのクーデターを始め、一連の異常事態の首謀格とされているのが、レオンハルトとガートルードなのじゃ」
その事実にサーシェスは愕然とする。王に仕え、正義を守るはずの聖騎士《パラディン》が、しかも、メシアとともに前大戦を戦い抜いた英雄が?
王殺し、それは騎士にとって最も重罪であった。
「アートハルク城は跡形もなく吹き飛ばされておった。こうして帝国は崩壊し、侵略戦争も終わった。レオンハルトは死亡したと伝えられているし、妹のガートルードも行方不明。真実を語る者のいない今となっては……聖賢五大守護神《ファイブ・ガーディアンズ》、聖騎士団の名誉は汚されたままとなってしまった。じゃが、わしはレオンハルトを信じておる。あの男は私利私欲で動くような人間ではない。決して……!」
大僧正は目を閉じたまま、自分に言い聞かせているかのようだった。
「わしは彼に聞いてみたかった。なぜ侵略戦争を止めることができなかったのか、なぜ皇帝を殺したのか、なぜ……ひと言わしに話してくれなかったのか……と……」
サーシェスはレオンハルトを信じ続ける大僧正の姿に心を打たれ、自分でも分からないが涙が後から後からこぼれてくるのを止めることができなかった。ぽろぽろと涙をこぼすサーシェスを見て、大僧正は優しく彼女の頭をなでながら微笑んだ。
「優しい娘だな、そなたが泣くことはない、サーシェス。もう五年も前の話だ。真実など、誰にも分からないものなのだよ」
サーシェスはうつむきながら涙を拭った。大僧正はまたサーシェスの頭をなでて言う。
「汎大陸戦争が終わり、紀元が神世代となって新しい秩序が作られた。だが、いつまた封印されたフレイムタイラントが復活するとも知れぬ」
「フレイムタイラントは消滅したのではないのですね!?」
サーシェスは驚きの声をあげた。大陸史では、聖賢五大守護神《ファイブ・ガーディアンズ》がフレイムタイラントを永遠に封じたはずだった。
「消滅か……。一般の大陸史ではそのように教えられているが、わしらのような聖職者の間で伝えられる伝承《サガ》は真実を語る。サーシェス、神々の黄昏についてどのくらい知っておる?」
「伝承《サガ》をすべて覚えているわけではありませんが、断片的に……。確か、遙か昔、まだ私たち人間が文明を築く前の旧世界で栄華を誇っていたイーシュ・ラミナの愚考を嘆き、愛想を尽かした神々が、母星を見捨ててこの世界から姿を消して……それから母星に神無き時代が訪れた……と……」
「そのとおり。神無き時代、すなわち神々の黄昏。すべては神々が姿をお隠しになってから、この地上に大混乱が訪れるようになったのだよ。今となっては神々以外に人類を護れる者などいない。先の大戦において、フレイムタイラントを封じる強力な術の反動で救世主《メシア》は深手を負い、倒れた。必ず復活するという救世主の言葉を信じ、レオンハルトは二百年もの間彼女を待ち続けた。だが……レオンハルトは死に、救世主《メシア》もいない。他のガーディアンの所在も分からない今となっては、我々以外に誰が自分を護れるというのじゃ? 我々人間が、自分たちの力で自分たちの世界を護らなくてはいけないのじゃ」
「……救世主の力が必要になるほどの大混乱が再び訪れる……ということですか? フレイムタイラントが復活すると……?」
「それは分からん。だが……平和がそう長く続くわけもない。いつの世にも戦乱は付き物、そして人間の持つ暗黒の心が戦を呼び、剣が憎しみを呼ぶ……」
サーシェスは返す言葉が見つからなかった。さっきレイザークが言ってたようなことを、大僧正の口から聞くことになるとは思わなかったからだ。
守護神廟の救世主の彫像が、太陽に照らされて表情を変える。サーシェスは像を見上げながら次の言葉を探そうとするが、見つからない。
「……人々の不安を和らげるために祈りを捧げる……水の巫女については知っておるかな?」
「はい、フライスから聞きました」
「フライスか……あれもそなたが来てから少し変わったようじゃの。街の女どもにきゃあきゃあ騒がれておるのに見向きもせん。わしと違って、あれは筋金入りの女嫌いでな。じゃが、そなたが来てからフライスの態度も軟化してきたようじゃぞ?」
大僧正の言葉が少し含みを持っているのに、サーシェスはきょとんとした顔で首を傾ける。まったく、意識をしておらなんだのならしかたのないことじゃが……と大僧正は思う。
「豊かな水と大地の精霊の言葉に耳を傾け、平和を願い、わしが死んだら代わりに人々のために祈る。不服か? サーシェス?」
「いえ、大僧正様。でもなぜ、私なんかを弟子にするおつもりなのですか? 術の心得はまったくないし、体を動かしている方が好きだし、それに、記憶もない。巫女にはなれないけれど、フライスのような優秀な術者が他にたくさんいるではありませんか」
大僧正は深くため息をついてサーシェスを見つめ直した。大僧正はいつも輝きを絶やさない深いグリーンの瞳が、まっすぐに自分を見つめているのに満足感を覚えた。
「……かつて……レオンハルトが心から愛した救世主《メシア》は、いつも変わらぬ少女の姿であったという。彼女はそなたと同じ透き通るようなグリーンの瞳をしていたそうじゃ。そなたがここへ運ばれてきたとき、わしはそなたの印象的な瞳から目を離すことができなかった。そしてこう思ったのじゃ。もしやこの娘が伝説の救世主の復活した姿なのではないか、などとな。伝説を追いかけてきた者の……流行病のようなものじゃが……な」
ああ、この人も……サーシェスは思った。レオンハルトだけでなく、伝説を追いかけてきた者は皆、あの誇り高い救世主《メシア》に想いを抱いているのだ、きっと……。
「そなたの名、サーシェスという言葉は、イーシュ・ラミナの言葉で力と叡知を意味する。そなたの両親は、神が力と叡知をもたらさんことを願ってその名をつけたのじゃろ。だが、剣をとって力とするか、術を身につけ叡知とするか、それはそなたが考えることじゃ」
サーシェスは腰に携えた剣を見つめた。手をかけると剣帯に結びつけた小さな鈴がちりりと鳴った。
「……考えてみます……。私にはまだ、自分が何をすべきなのかが分からない……」
サーシェスは軽く礼をして守護神廟から走っていった。大僧正はその後ろ姿を見つめながら独り言のようにつぶやいた。
「……力と叡知か……。そういえば、あの娘が倒れていたのは、誰にも入ることのできない守護神廟の祭壇の中じゃったな……」
その日の夜更け、フライスは自分の部屋で術法に関する古い書物を読んでいた。ドアをノックする音が聞こえたので、こんな時間に誰だろうといぶかしく思いながら本を閉じ、ドアを開ける。そこにはサーシェスが立っていた。
「ごめんなさい、お勉強中に……。ちょっといいかしら……?」
珍しくサーシェスの元気がないのでフライスは驚いた。フライスは彼女を招き入れ、熱い飲み物を差し出した。
「ありがと……」
サーシェスは少し微笑んでカップに口を付けた。
「……元気がないようだが……?」
「ん……」
サーシェスはうなだれたまま気のない返事をする。やがて、
「……フライスはどうして術者になろうと思ったの……?」
「え?」
あまり漠然とした質問なので、フライスは首をひねる。サーシェスはフライスを顔を見ようとしない。
「あの……ね。大僧正様に、剣をとって力とするか、術を身につけ叡知とするか、自分で考えろって言われたの。でも、私にはまだ自分が何をすべきかなんて分からないし……生まれてきたからには自分が生きてきた証みたいなもの欲しいけど……私の場合は自分が過去にどんなことに興味があって何を夢見ていたのかさえ分からないもの……」
フライスは黙ってサーシェスの言葉を聞いている。サーシェスは顔を上げると、もう一度同じ質問を投げかけた。
「どうして術者になろうと思ったの?」
一瞬フライスの顔が曇った。サーシェスはまずったと思い、あわてて取り繕わんとした。
「ごめんなさい! 話したくなかったら別にいいの!」
「いや、いいよ」
フライスは少しぎこちなく微笑んでから深く息を吸い込んで言葉を選ぶ。
「私は……小さい頃から目が不自由だったのに、普通の人間の目に映るもの以上に真実を見ることができた。それゆえにつらい思いもさんざんしてきたけど……そんなとき、大僧正様が私に光を与えてくださった。私の力を必要としてくれる人がいることを教えてくれたんだ」
フライスの、いつもは閉じている瞼が開いて、ブルーグレイの瞳がサーシェスを見つめていた。
「大僧正様は次に私を大僧正に推すつもりらしいが、それよりも私は傷ついた人をいやしたり、苦しんでいる人の心を救いたい。そしてそうすることが……私にとっての償いになっているのかもしれない……取り返しのつかない過去への……ね」
取り返しのつかない過去……。フライスは確かにそう言った。彼は新しい術法を開発して、多くの人の心を癒すためにここにいるのだ。そしてそうすることで、自分も救われたいと願っているのかも知れない。
「前にも言ったことがあるよね? サーシェス。過去よりもこれから生きていく未来の方が大切なのだと。今はまだ自分の行くべき道が分からなくても、常に前を向いていれば、道は自ずと開けてくるかも知れないよ。決めるのは誰でもない、自分なのだから」
「そっか……うん、そうだよね」
サーシェスは大きく頷き、元気よくイスから立ち上がると、満面の笑顔でフライスに言った。
「ありがと! フライス、私がんばってみる! まだよく分からないことだらけでとっても不安だけど、前に進まなきゃ意味がないもんね!」
いつもの笑顔を取り戻したサーシェスは、フライスに礼を言って部屋を出ていった。廊下からぱたぱたと元気に駆けていくサーシェスの足音が響いていた。
フライスは読みかけの本を開きながら軽くため息をつく。
「……あの娘にあんな不安を抱かせるなんて……大僧正様は何を考えておいでか……」